焚き火の海
〜第一章〜
柿田明彦
月が咲いている。明け方の空を見つめながら少年は呟いた。少し薄明るくなってきたが、それでも闇に近い光だ。三百六十度をぐるりと見回してみても、そこには完全なる円があるだけ。岳は大海原にぽつねんとただ一人、浮かんでいた。盆が過ぎ、夏休みがあと一週間で終わろうかという時期であったが、まだまだ秋の気配は遠く、夜中舟の上で一人過ごすにも、ほどよい気温はあった。
海は一体いつ眠りに就くのだろうか。見た目には穏やかである海中も、その透き通った水の中に目を凝らすと、魚たちが活動しているのが見える。月が昇り始めた頃には、自分たちの寝床へ帰っていく途中なんだな、と思っていたが、その一群が去ると新たな一群がどこからともなく泳いできて通り過ぎ、それが一段落するとさらに別の群が次々とやってくる。羊を数える代わりに魚の数を数えていた岳は、結局一睡もできないで夜明けを迎えた。月は黄金から白銀へ変わっていく。
画用紙を藍で染めて、その真ん中で小さな茶色の芋虫を押しつぶした感じ。ふらりふらりと浮かぶ少年の舟は、海上ではエイよりも存在感がなかった。
朝日が見えだした頃に、岳はズボンのポケットからチョコレートを取り出し、口の中で味わった。初めて海に放り出されたときには食べるものをもっていなくて、ひもじい思いをした。何度かそれを体験するうちに岳も学習し、海へ放り出されそうだと思ったときは、いつもポケットに食べ物をしのばせるようになっていた。そう、岳が何か悪いことをしたときには、岳の父親は彼を海に放り出すのであった。父親が飼っていた亀を海に放したとき。家にあるお酒を一人で飲み干したとき。隣の家の壁に悪戯書きをしたとき。いつもいつも父親は岳を口で叱りつける代わりに、無言で彼を海へ放り投げるのであった。
今日も彼は父親に叱られるであろうことをやってしまった。その町には大きな鉄塔がある。昔は大量の電気を送る役目を果たしていたのだが、今は使われてはいない。その漁村が寂れてゆくのを象徴するかのように、その大きな鉄塔もだんだんと赤黒く錆びてゆき、今では古い十円玉のような色をしていた。電線の切られた大きな鉄の塊は、呼吸の遅い老婆のように、ひっそりとその町に覆い被さっていた。
岳は手先が器用だったので、折り紙が得意だった。だから学校で紙飛行機が流行ると、誰よりも遠くへ飛んでゆく紙飛行機を作ることが出来た。
「岳ちゃんのって、海のむこうの国まで飛んでいくかも知れないね。」何気ない友人の言葉が、岳の心を揺さぶった。海のむこう。見たこともない大陸。こんなちっぽけな漁村なんて存在していることさえ思いつかないであろう大きな国。岳は錆び付いた鉄塔を見上げながら、海のむこうへ思いを馳せた。もしかしたら届くかも知れない。あの鉄塔の上からだったら…。
岳が我に返ったときは既に鉄塔の頂上に登ってしまった後だった。眼下にはちっぽけな漁村が必死になって、活動していた。そこで自分の家の小ささにも初めて気がついた。よし、ここからならこの飛行機が海のむこうまで飛んでゆくかも知れない。そう思うやいないや、岳は思いっきり紙飛行機を投げ飛ばした。
ブーン。そう音がした気がした。遠くへ飛んでゆく気がした。しかしその白い裸体はあろうことか、小さくうずくまっている自分の家の庭へ落ちた。風だ。変わりやすい漁村の天気が、岳へ悪笑した。その時ちょうど庭で作業をしていた父と目があった。ちっぽけな父に見えたが、確かに目があった。
岳は現実へ引き戻されると、急いで鉄塔を降り、急いで駄菓子屋で買えるだけの食べ物を買い、俯きながら家へ帰っていった。