〜第二章

 

作:蔦史人

 水平線の彼方から漏れだした陽の光は,少しずつ海面に彩りを加えた。ちいさな舟は,今は輝きを増した波の間だった。

 

 舟の中で岳は立ち上がると,半ズボンのチャックを下ろした。舟のへりから突き出すと,やがて波間には音もなく小便が吸い込まれていった。岳はふわりと身体が浮かぶような感覚を味わった。

 

 足場の定まらない舟の上で自分のものを揺すりながら岳は,それから,学校のでのことを突然思い出した。隣の席の女の子は海の神様について新しいことを知っていた。

 

 すってんしゃいにぃ

 

 何の呪文なの,という質問に,女の子は充分に応えなかった。ただ海の上でこれを唱えるときっと何かが起こるのだと,真面目な顔をして教えた。

 

 小便を終えて,舟の底に寝転がっていた岳は,ポケットを探った。駄菓子はとうにきれていて,残されているのは空のビニール袋ばかりだった。岳は,明るくなってきた空を見上げたまま,つぶやいた

 

 すってんしゃいにぃ

 

 夜の海は白い牙のようなしぶきをあげて,砂浜を激しく噛んでいた。くだけちった海水と砂は風に激しく捲き上げられ,岳の身体に激しく叩きつけられた。岳は口の中に飛び込んでくる砂と海水に激しく咳き込み涙した。

 

 砂浜の上に独つ置かれた古い舟の綱をゆるめると,岳は暗くどう猛な波へ押し出した。早く,背後にいる父から逃れたかった。このとき既に,海の神様のことを学校で聞いたことが頭によぎっていた。

 

 すってんしゃいにぃ

 

 今寝転がっている舟の上を,明るくなってきた空を,大群の蝶が横切ってゆくのはどうだろう。黄色い蝶が,自分のいる海を渡ってきたら,どんなに素敵だろうか。

 

 岳は再びポケットの中のビニール袋を探っていた。突然,岳は呪文の意味を思いついた。捨てなさいという意味だ。

 

 捨てる!

 

 ふと,風が強まったように感じた。舟から起きあがった岳は,海面を見つめた。海草が浮かんでいる。

 

 岳は空を見上げた。空には青白く色あせた月が流れていた。父の迎えは見えなかった。岳は,頭の片隅で父の漁船を考えた。高い波を超えられるような船では無かった。

 

 波を測った。小便をしたときの波と現在の波を比較した。わずかに,波の高さが低い。むしろ波は静まっている。しかし岳は身体中に寒気を覚えた。叫びたい衝動を,唇を噛んでこらえた。

 

 

 

「ちょっとスピードを上げるよ。ったく,失敗した」

 Tシャツの老人は,不機嫌に顔を歪めると,ハンドルを慌ただしく切り出した。傍らの信二は理由も分からず,態度の豹変した船長を見守るだけだった。

 船を操作しながら老人は方々の海を見渡すと,何事かつぶやき,

「その前に,うまく滑り込めるかどうかだ。あんた,ちょっと揺れるからな。心配はいらんが,その,寝込んじまっている女の子だよ,気をつけてください」

 信二はその言葉で我に返り,慌てて船底に仰向けに寝ている娘を見やった。青い顔に戻っていた。呼吸が荒い。一通り嘔吐を繰り返し後は落ち着いていたはずなのに。信二は声にならない声をあげた。

「何」と操作で忙しい船長がそれに応えたように,

「子供の身体の方が高波が近いことを先に知るんだ。とにかく,今は吐きつくした。今度は,吐かないように飲ませなさい,水だよ」

 父は娘の横にしゃがみこんだ。娘は既に声をあげて苦しみはじめていた。水瓶を持った父は,

「実。」優しく声をかけたつもりだった。

 が,薄目を開けたた実は,すぐに目を閉じた。

「ちぅ,海が引いていやがる」

 船長がハンドル越しに声を上げた。

 嵐の前の静けさ,だろうか。潮風の届かぬ八王子で暮らしてきた信二には,何も分からなかった。今は漁師の力を疑うよりも,実を看ることが先だと考えた。信二は水瓶を持ち上げると中で波立つ水を量った。八王子での暮らしと同じだった。知らない間に,実と目を合わさないようにしている。