「私、海が見たいの。それも、太平洋みたいな穏やかなやつじゃなくて、 荒々しい冬の日本海がいいな。今まで私は生きている時間の大半を、この ベッドの中で過ごしてきたでしょ。でもね、世界中の全てを知っているの よ。だって、この細い右手で薄っぺらのページをめくっていくとね、どこ へだって旅立つことが出来るのよ。お父さんみたいにビルの中で毎日を過 ごしている人には分からないでしょうけど、本の中ってものすごく冒険で きるのよ。アフリカの大草原を駆け回ることもできるし、お父さんが毎日 毎日通っているビルの中でじっと息を殺して殺人者になることもできる。 いろいろな体験をしたわ。でもね、それが本当は嘘だって、自分では気づ いてるわ。現実に私が体験したことでもないし、実際の動物の匂いなんか 全く知らないんですもの。だからね、私、死んでしまう前に、海が見たい の。それも、何もかもをうち破っていくような、地球を感じさせる荒々し い海をね。」

     実の言葉に信二は衝撃を受けた。『死んでしまう前に』? 確かにこの子 はそう言った。この子は直感的に自分の寿命を感じ取っているのか。それ とも、この時期の少女独特の悲観主義が、この言葉を口にさせているだけ なのか。どちらかは分からないが、確かにこの子は死という言葉を口にし た。これは初めての言葉だ。もちろん今までに死という言葉を口にしたこ とは幾度かあった。しかしそれは、たとえば、203号室の熊谷のおばあ ちゃんが昨日亡くなったそうだ、とか、206号室の徹ちゃんの買ってい た金魚が二匹とも死んじゃった、とかいう他人に向けての言葉であった。 自分に向けての言葉というと、退院したら水族館へ連れていってね、とか、 誰それのライブを見に行きたいから一緒にいってね、などという生へのベ クトルを持ったものだった。しかし今日、初めて死という言葉を自分へ向 けて発したのだ。

     信二は嫌な思い出が頭をよぎった。 「実」という名前は、じつは彼女の母親と同じ名前である。一体何故母親 と同じ名前であるかには、悲しい理由があった。

     一五年前の夏のある日だ った。出産予定日を一週間後にひかえた実と信二は、二人とものファンで ある広島カープの試合を、テレビ中継で見ていた。この日はカープの大量 リードで終盤を迎えていた。少しアルコールの入った信二は特にご機嫌で、 いつもよりテンションが高くなっていた。
「ねえ、信ちゃん。赤ちゃんの名前考えた?私はいろんな姓名判断の本を 読み漁ったけど、どうもしっくりくる名前がないのよね。それに男の子か 女の子かまだ分からないじゃない。だからどうも決めづらいのよね。お父 さん達に相談したけど、おまえ達の子供なんだからおまえ達で決めなさい って言われたし。ねえ、信ちゃん、聞いてるの?」
信二は小早川の打席に釘付けで、実の話を聞いていないように見えた。
「えっ、ああ、名前ね。大丈夫、決めてあるさ。」
信二はさらりとした口調で、いつもよりも楽しそうに答えた。
「本当?いつ決めたの。そんなこと全然言ってなかったじゃない。」
「俺を誰だと思ってんだい?信ちゃんだぞ。実が思ってる以上にパパの自 覚がでてきてるんだ。名前なんてとっくに決めてあるよ。」
「本当?だったら、ねえ、教えてよ。早く。」
「おっ、これは、はいったな。十八号だ。小早川、今年はいいねえ。」
「ちょっと、信ちゃん。何言ってるの。野球は今はいいの。早く赤ちゃん の名前教えてよ。」
「よっしゃ、これでカープは単独首位だな。なあ、実。」
ピーン。ソファーの後ろに座っていた実が少し怒ったような顔をして、 テレビのリモコンのボタンを押すと、ブラウン管にひかりが真一文字に縮 み、テレビの電源が切れた。
「信二君、きちんと人の問いかけには答えるようにしましょう。さあ、で は信二君が考えた、赤ちゃんの名前を発表してください。」
大量リードのせいか、いきなり野球の試合を中断させられても、信二は不 機嫌になることはなかった。逆にそれを楽しんでいるようで、さっきより にやけ顔になっていた。そして、いつになく楽しそうな口振りで言った。
「実、さ。かじつのじつと書いて実。これだったら男でも女でも、どっち でも使える名前だろ。」
実はぽかんと口を開けたまま。
「もちろん、これが君の名前と同じってことは分かってる。だけど、母親 と同じ名前ってものは、欧米では良くある話さ。しかも、僕はなぜだか分 からないが、実って名前の人しか愛せない男なんだ。それは君が一番良く 知っているだろう。だから愛する女性から生まれてくる僕たちの愛の結晶 も、同じ名前である必要があるわけさ。」
夫の上機嫌な口振りからそれが冗談であることはすぐに分かったが、それ でも自分のことを本当に愛してくれているからいえる冗談だと感じた実 は、とても嬉しく思った。心から愛おしいと思った。この気分の高まりを 彼女も軽口を叩くことで、夫に伝えた。
「そうね、それは嬉しいわ。でもね、私の方を愛していて欲しいわ。産ま れてくる子供をかわいがるのもいいけど、それでも私の方を愛して欲しい わ。もし産まれてくる赤ちゃんに私と同じ名前をつけてしまうと、その子 を私と同じくら愛してしまうわよね。信二君は実って名前だけですごくそ の人を愛してしまう男の子らしいから。でもそれは嫌なのよ。少しでも私 の方を愛していて欲しいの。だから同じ名前はダメ。一生、一番は私でい て欲しいの。まあ、私が死んじゃったら許してあげるけどね。」
「くそっ、やっぱりダメか。いい考えだと思ったのになぁ。やっぱりちゃ んと考えるか。」
信二がそう言うと、二人は今まで付き合ってきた中で一番笑ったというく らいに笑った。そして、その夜は久しぶりに愛し合った。  しかし、本当に産まれてくる子供に「実」と名付けなければならないこ とになるとは思ってもいなかった。そう、妻である実は、娘である実を生 んだときに天国へ逝ってしまったのである。