あの人は今!

オリビア・ニュートンジョン

この写真は70年代の写真ですな。さすがに80年代以降は目じりにしわが目立ちます(^ ^;

 

日本人にとって音楽以外でのオリビアの印象といえばやっぱ「イルカ殺すなぁ〜!」ですよね(笑)。ま、イルカといいクジラといい、なかなか欧米人には理解しがたい問題ではありますが。

で、90年代、オリビアに危機が訪れます!

ますます「知ってる○もり」みたいになってきたなぁ(^ ^:


1998年「グリース」20周年記念パーティにてonjgrs20.jpg (6999 バイト)


ゲフィンレーベルからは「バック・トゥ・ベーシックス、ザ・エッセンシャル・コレクション」を92年にリリース。これは彼女がベストだった時への回帰であり、内容も回顧的であるが新曲も4曲も収めらる。オリビアは積極的にプロモーションを行い、その年の夏の終わりに行われるツアーのためにリハーサルを続けていた。

ところが7月2日、大きな爆弾が落ちた。オリビア・ニュートンジョンが乳がんを患ったのだ。彼女は入院し、手術を受け、化学療法を受け続けることを余儀なくされた。翌年の2月、彼女は退院し、療養の為オーストラリアへ向かう。


「ガイア、ワン・ウーマンズ・ジャーニー」非常に情熱的でビートのきいたアルバムは、あまり注目を浴びていなかったオーストラリア時代の成果のひとつであった。このアルバムはアメリカではリリースされなかったが、各国のインデペンデントレーベルより発売される。オリビアは乳癌についての自身の経験を語り、同じ境遇にいる多くの女性に、生き延びることは可能であり、初期発見が非常に大事だということを感じさせた。



彼女の復活後、オリビアの結婚における難事に関する多くのレポートがあった。それは、オリビアと彼女の夫、マット・ラッタンジーが、別居生活を始め、ついには離婚に至るという95年の初頭に明らかになったのである。次の2年間、オリビアのキャリアは様々な方向へ歩むことになる。「ホームショッピング」用の宣伝への参加、アメリカでホームコメディ番組への出演、「ヒューマン・ネイチャー」という野生生活に関するオーストラリアのTV番組への出演、TV番組「スノーウィ・リバー」への出演、そして「グリース」のランダル・クライザー監督の映画「イッツ・マイ・パーティー」への出演などである。
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そういった2年間の放浪の後、オリビアは再び音楽の道を進もうと考え始める。そしてアメリカのクリスマス映画「スノゥドン・オン・アイス」で数曲、素晴らしい歌を披露する。また、チャリティー目的のCHECのイベントでプライベートなイベントをいくつかこなした。97年7月、MCAナッシュビルがオリビアと契約、そのレーベルでの彼女のデビュートラックはレイボーン・ブラザースとのデュエット「フォーリング」と同名のアルバムであった。
bwah1.jpg (10111 バイト)98年5月、「バック・ウィズ・ア・ハート」リリース、ポップとカントリーの絶妙なミックスがオリビアの新しい魅力を醸し出している。


彼女の最初のライブパフォーマンス以来、クリフ・リチャードとは長年に渡って関係を保っており、98年の2月と3月、二人のライブがオーストラリアで行われる。98年の終わり、二人のオーストラリア人ミュージシャンと共にメインイベントツアーを行い、コンサートは全てソールドアウト、追加公演まで行った。

99年にアメリカへと戻る。98年の大晦日からミニツアーを開始し、一連のヒット曲を披露する。そして夏にはさらに大きなツアーがアメリカで行われた。

一方、デルショアーズプロダクション製作による演劇「ソルディッド・ライブス」にも出演、新たな道も同時に模索しはじめる。

ラスベガス99ライブ

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vegas10s.jpg (18595 バイト)ライブ・イン・ラスベガス2000


2000年の春から初夏にかけて、ヒット曲に新曲も加え、アメリカツアーを行い、彼女のオトナの雰囲気をオーディエンスは楽しんだ。

 

 

 

彼女の音楽性について(上記ヒストリーに続いて原文和訳)


ほとんどの人はオリビアのことを説明的な歌い手と思っている。それは、デリケートな感度と優しさを組み合わせたクリアで明るい声で歌っている為である。これは、「アイ・オネストリィ・ラブ・ユー」や「ハブ・ユー・ビーン・メロウ」などの曲で70年代半ば、いかに彼女がアメリカ人のハートをつかんだか、を意味する。


しかしながら、オリビアは、決してその場にいることにハッピーだったわけではなく、継続的に自分の音楽の幅を広げていき、多芸なシンガーであることを自分自身に示していったのである。それは彼女が優しいフォークソングや初期のレパートリーを形成していたバラードなどと同様に、ロックの曲もカバーしていたことにも現れている。実際、81年にリリースされた彼女の最も成功したシングル「フィジカル」は、彼女がそれまで築いてきたアメリカでのイメージのタイプの曲からかけ離れたアップビートのナンバーである。また彼女の曲はほとんど本人によって作られたものではないが、彼女のセカンドアルバムには彼女自身の手による曲「チェインジズ」が収められており、彼女のソングライターとしてのポテンシャルを感じさせるものであった。その後も彼女は、自身を深く見つめた事柄に関する非常に特別な曲を書きつづけている。「ガイア」では、全ての曲が彼女によって書かれたものであり、「バック・ウィズ・ア・ハート」はポップ感溢れる新しいタイプのカントリーソングとなっている。


他の興味について (同上)


オリビアは常に自然と住環境に対する意識を持っている。また、動物保護に対する情熱も持ち続けでおり、また乗馬の腕前のなかなかのものである。彼女のマリブの自宅では、本当にたくさんの犬や馬やその他の動物を飼っている。


この環境に対する親近感はまた彼女の仕事にも反映していて、それは76年のアルバム「カモン・オーバー」の「ワイルド・ホーシズ・ランニング・フリー」や81年のアルバム「フィジカル」に収められた「ドルフィン・ソング」などからも伺える。国連の環境プログラムであるUNEPにも国連大使として任命され、80年代初めのコラボレーション「スピリット・オブ・フォレスト」でも歌っている。彼女の94年に発表されたアルバム「ガイア」は、強く環境をテーマとしている。

クローの到着で、オリビアが子供に関連するプロジェクトにおいて自分自身をも含めた通り、そのことはそのような繊細な人間を驚かせはしなかった。オリビアは環境をテーマとした子供向けの本「ア・ピッグ・テイル」を共著する。また「コレット・チューダ環境基金(現・子供の健康と環境連合)」にも積極的に関与する。コレット・チューダは、オリビアの親友であるナンシー・チューダ(コレット自身は癌で亡くなっている)の娘である。この基金の活動は、癌の原因となる環境調査である。様々な発ガン性のある物質が成人の体に影響が見定められており、急速に成長し、なおかつ小さい子供の体は、毒素に対する抗力が小さいと予想されている。基金の活動のいくつかは、そういった成人が、子供を十分に保護することが十分にできるかどうかの調査を行っている。

 

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