
安全確保を確実にする感覚の基礎となるヒラメキ・直感・右脳などについて
右脳左脳について、幾つかの意見
1 左脳右脳について
ノーベル賞受賞のスペリーは、左脳は理論・分析・計算・言語といった機能を役割分担しており、右脳は視覚的判断(パターン認識)・直感力・全体把握能力・感覚・感性といった機能を役割分担していると結論づけた。また、左脳は理性と、右脳は創造性と深くかかわっていると示唆した。
2 右脳偏重の誤りについて(千葉康則「創造脳開発法」から)
「日本人が特に右半球を使っていないという話は、認めるわけにゆかない。おそらく、角田氏の研究結果とスペリー氏らの研究結果を単純に重ねあわせて、誰ともなくいい始めたのでしょうか。よく知られているように、角田氏の実験は音の受け止め方についてのもので、日本人は左半球が優位に受けとめている音がおおいということで、それで右半球を全体として使っていないということにはなりません。ごく一般的にかんがえるならば、音との関係が薄いならば、その分だけ別の機能と関係が深いと考えるべきです」
3 脳と俳句(品川嘉也「右脳俳句」から)
わたしたちがモノを考えるときの仕方は、右脳のイメージと左脳の言語情報のやりとりとして見ることができる。つまり右脳からイメージとして提出されてくる情報に、言語的な解説をしたり、意味付けたり、名称をつけてやるのが左脳の役割である。イメージにいったん名称が与えられると、その関連情報が再び取り出されてくる。そこに新しいイメージとイメージの結合が行われて、新しいイメージができ上がる。そういうかたちで思考や創造が開発される。なにもないところに全く新しい情報が生まれることは決してない。創造とは外界から入ってきた情報を加工してできあがるものなのである。だからこそ情報の収集の大切さもそこにある。脳は、無から有を生み出すという意味での新しい創造をおこなわない。創造とは根本的に、情報処理のことである。従来とはちがった情報処理の仕方、それが創造である。芸術の創造もこれとまったくおなじことである。極端に言えば、ありふれたモノ(情報)とモノ(情報)の間に新しい関係をみつけだすのが創造なのである。俳句で言えばコトバとコトバの新鮮な結びつけ、これが創造と言うことになる。その結合が、いままで誰も気がつかないものであれば当然、名句として称賛されるにちがいない。
箒木(ははきぎ)に影(かげ)というものありにけり 虚子
俳句の実作からいえば、これは、よく見るということにつきる。見る=視線は、感覚の中心である。新しいコトバとコトバの結合といっても、それは当然外界からいかに新しい情報を入力するかということに左右される。いままで人が見ていなかった関係を見つけつけるのである。同じモノを見ても見る人によって当然ちがうモノになる。それを見つけることが大切である。
ユング心理学の河合隼人先生(京大)のところに精神分析を受けに来た人の話である。その人はある日突然机そのものが見えて来たという。そしてそれを人に伝えようと思ったら、そのとたん、狂ったんじゃないかと周囲から言われたそうである。河合先生がおっしゃらるには、私たちはふだん机という<概念>のおかげで、机を日常生活の有用性とういう点からしか見られないようになっている。机とは勉強したり、書き物をしたり、仕事をしたりするために存在している。机そのものというのは誰も見ることができない。持つの木を見ても<松>という漢字やイメージが浮かんでくるために、ホンモノの松が見えなくなっている。ところがその患者さんは本物が見えた。そして見えたとたん周囲が「こいつはオカシイ」といいだした。ふだんわたしたちはモノの概念ばかり見ていてホンモノー−一章の例で言えばセミ殻の中身ーーを見ることができなくなっていいる。こんなお話をされたことがある。
これとよく似た話がフランスの哲学者サルトルの『嘔吐』にもある。モノの有用性ではなく「物自体」が見えるという話。そしてサルトルはそれこそが芸術だという。すると、これまで展開してきた俳句論は、サルトルの芸術論と同じものなのだろうか。サルトルは、言葉を単なる素材として扱う。単語の持っている日常的な意味を捨ててしまう。そしてえのぐで絵を描くようにコトバで詩を書く、たとえば、「バター」という単語と「馬」という単語があると、その二つをつなげて「バターの馬」とする。これはバターでつくった馬でもなければ、バターを食べた馬でもない。日常的な意味では解読できない。これは、実は、黒い魔術の世界であって、俳句の目指す、概念を離れるという意味とはちがう。すぐれた芸術は、たしかに日常性を拒否しているが、意味をまったく拒絶しているわけではない。サルトル流の芸術論が「物自体」との出会いなら、芭蕉流の芸術論(老荘思想)は「無為自然」ということになろう。無為自然とは、モノと自分、自然と人間の合一ということであって、これは一元論の世界である。これに対して、「物自体」を見るというのは、明らかに<見る−見られる>という関係だから主観−客観の二元論を脱していない。サルトルの哲学も、デカルトの流れを引く二元論であることは間違いない。近代日本で、体系的な芸術論を展開したのは夏目漱石であるが、かれの芸術論を一言でいえば「則天去私」ということであって、やはり東洋哲学の流れを引いている。東洋の哲学は一元論であり、そこには唯物論も観念論もない。芸術もそのような哲学の反映として存在しているのである。」
たとえば、 柿食えば鐘がなるなり法隆寺 子規
という句がある。日常的にもなにも不思議でない光景である。だがよくよく見ると、ここには日常性がないのである。「食えば」というコトバを媒介にして柿と鐘がつながっているが、柿を食ったらなぜ鐘がなるのか?よくみるとそこがわからない。柿を食うこととと鐘がなることの間にはなんの日常的な因果関係もないが、そこには新しい構造が生まれて、宇宙論的な時の流れを感じさせるのである。これは「物自体」が見えることとは明らかにちがう世界である。俳句の世界は概念を取り払うが、その奥に「物自体」を見るものでなく、自分自身を含んだ一元論的なモノと人の関係、自然と一体っとなった人を見るのである。それは新しい構造である。
4 洞察力はどこから生まれるのか(中山正和「洞察力」から)
「踏切のばあいと同じことですね。人間はいままでいつもそうだったから今回もそうである、という法則をいつのまにかアタマの中に作ってしまいますが、ネズミはそれをしないのです。いつでもそうだったというイメージを基準にはしていますが、そのイメージとくいちがっているデータ(いまこの目で見、この鼻で嗅いでいる真実のデータ)を感知して行動を抑制してしまいます。私のいわんとするところは、洞穴の奥に盗賊が潜んでいることを洞察するためには、この目で見、この手で触れた真実のデータを十分イメージとして持っている上に、これらのイメージが[イメージ記憶
]の上に「自在」になくてはならないこと、そして、これらのイメージを基にして自らの知識を活用しなければならないのだということです。」
5 「左脳と右脳」(コリン・ウィルソン「世界残酷物語」下訳者(関口篤)あとがき、人類のキーワード)から。遠富士:決定的な内容です。
人間の頭頂部の大脳が「クルミの実」状に左右半球に分かれていて、その間を「脳梁」という部分がブリッジし、左脳は言語、ロジックなどを管理、右脳は直感、パターン認識などをつかさどることはかなり以前から解明されている。医学者ロジャー・スペリーはこの分野の研究でノーベル賞を授与された。左脳は科学者、右脳は芸術家である。ところで、人間が「自分」とか「私」とか意識するのは左脳である。人間はその生活行動のほとんどを左脳の指示に依存している。当然のことながら左脳は「虫の目」で目的意識にとらわれる。行きづまり、思いつめ、悲憤慷慨するのも左脳である。一方、右脳はゆっくりと「鳥の目」で上から眺める。右脳は常に数センチお隣の左脳に「援助」のシグナルを送っているが、左脳はめったにこれに気がつかない。じれったい話だ。この分野の度合いが人間の在り方を決定するらしい。ウィルソンは、日本人を秩序志向の民族と見ている。隣の中国人に比較すると、脳分割の程度が小さいのではないかと示唆する。つまり、左脳と右脳の連絡が比較的良好ということだ。興味深い観察である。ウィルソンは近年のさまざまな著作でこの「右脳」の活用を倦むことなく力説する。マスローは最終レベルの「自己実現」に「至高体験」の表現を与えているが、これを推進し可能にするのも、疑いもなく右脳である。荒廃の砂浜を清めてきたのも右脳の営為だった。