「イチロー物語」(佐藤健)から
「河村コーチのイチロー評で面白いのは『イチローはピッチャ−投球を点でとらえずに線でとらえている』ということだ。『ピッチャーが投げる球の軌跡が目に見えている』『イチローは線で入ってくる球を線で迎えているんです。だからイチローの打球はカーンという音ではなくバシッという音がしています
「ここでもう一つの仮説ができる。イチローはゲームセンター世代のプロ野球のスーパースターなのではないか。イチローが相手投手に対してむきだしの闘志を見せないのは本物の野球のなかでも、どこかゲーム感覚があるからではないか。イチローはあがらない選手だといわれる。プレッシャーに強い選手だとともいわれる。・・・。日本の野球は『武士野球』ともいわれ、投手と打者がまるで真剣勝負でもするかのように深刻になり、ファンもそれを期待する。しかしイチローはそんな深刻さとは無縁の、新しい時代の新しいタイプのプロ野球選手であることは確かだ。『動体視力』という言葉がある。動いているものを見る視力のことだ。『静止視力』の反対である。ゴルフを除く球技は、いずれもこの『動体視力』がものをいう。イチローは小学三年からのバッティングセンター通いで、この『動体視力』も訓練したものと思われる。のちにイチローに『ピッチャーが投げた球をどう打つか、どの瞬間に判断するのか』と聞いてみた。ピッチャーから本塁ベースまでの距離は18m44。その間を球は約0.3秒の速さで投げ込まれてくる。バッターはそれを瞬間に判断し、バットを振るのである。『ピッチャーの手から球が離れたその瞬間ならば、いつでもその球に対応できると思います』とイチローはこたえた。ということは、ピッチャーが『どんな球を投げようか』と考えても、イチローにはあまり関係ない、ということになる。球が投げられたら、自分の前にくるまでカーブならカーブの、直球なら直球の打法で対応すればよいからである。その『目』の確かさと、身体の対応の訓練は、宣之さんによれば『小学六年までに終えていた』という。その相手がピッチングマシーンだったわけだ。」
(参考)「瞬間情報処理の心理学(海保博之)から」「眼球運動の精密な測定が可能となって、バッターの眼球運動の測定の研究も見られるようになった。1984年のアリゾナ大学ベイヒルたの研究は「バッターは投手の手元を離れたボールをずっと見続けているわけでなく、飛び飛びに追視しており、プロの優れたバッターはホームプレート170センチ先まで追視することができた」と報告している」

武蔵の「五輪書」から
「目くばりには”観””見”ふたつあり、観は心眼でもって物事の本質を、見は肉眼でもって現象を見る。戦いの場においては、目の玉を動かさず、敵の両脇に目を据えることが肝要である。急を要する闘いの中で、にわかにこの目付けを身につけることは不可能だから、平素から研究を怠ってはならない」
 以上の短い文章の中で、武蔵はふたつの注目すべき事項を挙げている。ひとつは”観の目”と“見の目”の違い、もうひとつは「目の玉を動かさず、敵の両脇に据える」という、およそ肉体的には不可能に近い注文を出していることである。
川上哲治「常勝の発想」から
 武蔵の言葉を借りれば、“観”とは「遠き所を近く見、ちかき所を遠く見」ることであるが、いまの言葉でいえば“心眼”とでもいうことになろうか。もともと”観”とは仏教からきた言葉で、内観法とか空観などと使われていたものらしい。
 おそらく禅にも深く通じていたに違いない武蔵のことだから、この”観”の目というのも理論を超越した目くばりのこと、つまり、禅の心で見よ、ということに違いない。気持を静めて自分の心を観ずれば、そこに映らぬものはない、というのが武蔵の真意にほかならないだろう。(川上哲治「常勝の発想」から)

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川上哲治「勝つために必要な5つの方法」から
 禅に「三昧」という言葉がある。ごく簡単に言えば、精神を集中させる、なりきる、という意味である。「読書三昧」とか、「練習三昧」といったふうに使われる。ビジネスマンが仕事である境地に達するには、やはり「仕事三昧」にならなければいけないということだ。三昧の境地は、無我、無心に通じる。そうなって初めてなにかを会得できる。初めて正眼寺の梶浦老師をお尋ねしたとき、私が打撃のコツについて話し出すと、老師は笑っておっしゃった。「あなたの技術は、山岡鉄舟の五剣でいえば、絶妙剣の段階まではきているようです。修行をして、無刀の域にまで達するように努力しなさい」 山岡鉄舟の五剣とは、真剣、妙剣、絶妙剣、金鳥王剣、無刀の五段階を指している。ごく簡単に解説すると、まず、真剣にならなくてはいけない。真剣に打ち込んでいるうちに、妙の域に達する。すでにこの段階では、理屈・理論を超越した自分になっている。さらに修行を続けると、絶妙剣を会得する。もはや天下に敵無しなのだが、まだ完全ではない。その上に金王剣がある。金鳥は、羽交のなかに宇宙全体をおさめてしまうと、中国でいい伝えられているという。禅宇宙を体現した剣というくらいの意味だろう。ここまでくれば、あとは自然に剣(刀)はなくなってしまう。剣と心が一体となった、無刀の境地に達しなければ、剣の道を究めたいはいえないという教えだ。さて、あなたはいま、どの段階にいるだろうか。」


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