見切る
新説宮本武蔵
から(司馬遼太郎の武蔵に係る中篇2本の一つ。)
もっとも武蔵は、三十をすぎてから仕合を避けている。三十前でも、仕合の相手を選ぶときに、かならずおのれよりも弱いと見切ってからでなければ、立ち合わなかった。武蔵の才能の中で、最も卓越したものは、その『見切り』という計算力であった。」
司馬の「風神の門」という霧隠才蔵主人公の中で、大阪城の武蔵を描いた部分から。
が、武蔵は乗らなかった。かれの頭脳のなかに、兵法者としての精緻な計算があった。かれの計算によれば、間合は十分である。斬れると、武蔵は『見切って』いる。見切る、とは武蔵が独創した技術で、相手との距離、相手の腕と自分のそれとの『たけくらべ』(武蔵の造語)、相手のくせ、位置、心理、などを計算しきった境地をいう。見切れば、武蔵のばあい、もはや太刀をふりおろすまでもなく勝ちであった。

巌流島
鳥羽亮
の「覇剣」から(吉川の武蔵ではなく、中堅作家の最近の力作から巌流島の部分を抜粋しました)
「武蔵を切る。その一念に小次郎の意識は集中した。小次郎もまた多くの殺戮の中で生きてきた兵法者だった。獲物を追う猛獣のように、小次郎は砂を蹴って武蔵の方に駆け寄った。走りながら小次郎は、武蔵が両腕で木刀を握り、切っ先を背後に向けた八相に構えているのを見た。・・・・あやつ、二刀ではない。そう察知したが、そのことに小次郎は動揺しなかった。二刀であろうと一刀であろうと、虎切刀は無敵だという自信があったのである。だが、小次郎は武蔵がその構えのまま走り寄るのは、己の長大な木剣を隠すためであることを知らない。しかも、小次郎は己の激情を鎮めることに心をとられ、武蔵が素足であることも見逃していた。小次郎は武蔵の思いどおり、鏡面のように平らな濡れた砂地に立たされていたあのである。「遅かりし、武蔵!」小次郎は大喝するような声を発した。虎切刀は、間合が大事だった。小次郎は一気に疾り寄る武蔵の足をとめ、間合いを測ろうとしたのである。はたと、武蔵の足がとまった。間合はおよそ五間、虎切剣の間合からは遠い。武蔵は無言だった。八相に構えたまま琥珀色の双眸が火を吐くように睨んでいる。「何故の遅参ぞ!」小次郎は呼びざま、手にした備前長光を抜き放ち、寄せてきた波間にその鞘を投じた。一瞬、武蔵はその鞘に目を光らせ、口元にかすかな嗤いを浮かべた。「なにを、嗤うか!」小次郎の喉から甲走った声が出た。だが、小次郎は感情に己を失ってはいなかった。顔はこわばっていたが、双眸は鋭い兵法者の光をたたえていた。武蔵は無言のまま小次郎を見つめていた。そのとき、両者の足元まで伸びてきた波が両者の足裏の砂を掬い、足を砂地にめり込ませると同時に、小次郎の投じた鞘を海上へと運んだ。武蔵は一歩間合をつめ、平らな砂地に足を移した。小次郎も、同じように両足を動かす。そのとき、小次郎の武者草鞋は濡れた砂をべっとりと付着させていたが、小次郎は足場をそれほど気にしてはいなかった。虎切刀は中条流が大事とする体捌きや寄り身の剣でない。・・・長剣で斬り返す迅さの剣だ。との自覚と自負があったからである。小次郎は右拳を額にあてる上段に構えながら、武蔵との間を読んでいた。ジリッ、武蔵が間合を詰めながら、「小次郎、破れたり・・・。勝つつもりならば、鞘は捨てまいに」と呟くように言った。低い嘲弄するような超えだった。一瞬、その言葉に、小次郎の胸に憤怒の感情がおこり、こわばった顔に朱がさした。仕合いに臨み、己の鞘を捨てることは兵法者としてあるまじき平静さを失った行為であり、それを嘲弄されたことに対する狼狽と憤怒だった。小次郎の顔に朱が浮いた、その一瞬だった。ダッ、と武蔵が身を寄せ、切っ先で天空を突き刺すように高くかざした。・・・長い!と小次郎が感知した刹那、武蔵は地を蹴った。ヤアッ!トオッ!ふたりの裂帛の気合が響き、小次郎の初太刀が跳躍した武蔵の顔面に刃唸りをたてて斬り落とされ、同時に武蔵の木剣が半弧を描いて小次郎の頭上を襲う。武蔵の額の鉢巻が切れ飛び、小次郎の頭蓋の割れる鈍い音がした。体勢をくずしながら片膝をついた小次郎は。オオオッ!獣の咆哮のような気合いを発しざま、二の太刀を斬り上げた。体が覚えた虎切刀の反応だった。その切っ先が、着地した武蔵のたっつけ袴の股のあたりをななめに斜めに裂いたがあ、皮膚まではとどかなかった。武蔵の意表をついた長剣一拍子の太刀が、小次郎の二拍子の太刀に勝ったのである。」

遠富士が補足します。小次郎の燕返しとは、長剣の振り下ろしで、相手の体勢を崩した後、切り返しで前進し、相手を倒すものです。相手としては、小次郎の長剣の振り下ろしと同時かそれに近く切りかかりますが、切っ先は届きません。逆に、長剣をかわすのがやっとです。そこにもっと鋭い燕返しの横切りが身近な間合になって飛び込んで来るので避けられません。武蔵は小次郎の振り下ろし剣をギリギリで避けた直後、渾身の振り下ろしをして勝てたわけです。

武蔵が高さについて述べています
赤壁屋道斎には道意という息子がいた。いまだ戦国の世風を残していた江戸時代はじめのことであるから、道意は商人でありながら、剣術にも興味を持ち、武蔵が赤壁屋にやって来るたびに、とくに願って剣術の稽古をつけてもらっていた。何度目に尋ねたときのことかわからぬが、こんな話が残っている。あるとき、道意が武蔵に、「剣の修行で、最も大切なことは何でございましょうか」と、尋ねた。すると武蔵は、「そなたは部屋のあいだの敷居の上を歩くことができるか」と、逆に聞き返してきた。そのくらい何でもないことだと、道意が笑うと、「それなら、その敷居を頭の高さまで引き上げたらどうだ。そなたはその上を簡単に歩くことができるか」「それはいささか、むずかしゅうございます」「そうであろう。たいていの者は、高ところから落ちて怪我をしてはならぬと、恐怖心で足がすくんでしまう。しかし、たとえ同じ高さでも、敷居の幅が二倍、三倍になれば、そこを渡ることができるだろう」「はい」「ところが、その幅の広い敷居でも、さらに高さをずっと引き上げると、またまた恐怖心が頭をもたげ、渡れなくなる」。武蔵は言葉をつづけ、「剣術もそれと同じだ。恐怖心に慣れることが、何より肝心。剣の道を志す者は、その慣れによってのみ、心に余裕が生まれ、敵の剣を見切ることができる」と、、自らの剣術理論を述べたという。 
遠富士が解釈します。敵の剣の下で恐れて足がすくまないように鍛錬する例として、高所が持ち出されました。現代はビル・プラントなど沢山あり、高所作業と墜落防止についての武蔵の一言として解釈します。「それぞれの高さを頭に入れた上で、安全対策を伴った作業をすること」が結論と思います。姫路城は高さ31mですが、他に1.5m、2.5m、5m、10mなどの作業を想定します。1.5mと2.5mの高所作業でも、法の規定が異なりますし、墜落を自分で事前に予測できているか、後方に落ちるのか、床の状態は、保護帽着用かなど、落ちない対策兼落ちた後の緊急避難まで現実には安全対策内にはいってます。5mでの死亡災害が多いのは、一番設備対策で手抜きされる高さだからです。だから最も確実な安全確認行動が要求されます。10mなら対策はなされているので、抜けを見つけるチェックです、

武蔵の「見る」と「観る」について
武蔵「五輪書」から
「目くばりは、大きく、広くせよ。目くばりには“観”と”見”の二通りがあるが、”観”を強く、”見”を弱く、というように目くばりせよ。遠いところのものごとを近くに見、近いところは遠くに見るようにするのが兵法の大事なところである。同じように、敵の太刀の動きを知ることが必用なのであり、太刀を見てはならない」

五輪書入門」
奈良本辰也から
”観”と”見”
「目といっても、それは抽象的な意味でいう目のことではなく、顔面についている目の玉のことである。この目の玉をどうするか。武蔵の教え方はいかにも兵法者でなくてはいえぬものであろう。『目の玉を動かしてはいけない。そして相手の両脇を見るのだ」(兵法の目付けということ)。目の玉を動かさないで――ということは相手の体の中心、おそらく腰に視線をあて――しかも相手の両脇を見るということができるものかどうか、わたくしにはなんともいえない。
しかし彼のいうことはよく理解できるのである。つまり、『観』と『見』の目くばりだ。ここぞ、と思うところ、そこを見なければいけないというところ、それに目を据えるのが『観』である。『観』は、主体的な目的があってする目のはたらきだ。これに対し『見』は、観るつもりがなくとも映ってくる、受動的な、いわば鏡のような目のはたらきのことである。注意しなければならないのは、『観』だけが大事で『見』はどうでもいい、とはいっていないということである。」
(遠富士の注:とてもわかりやすい解釈ですが、直ぐ下の解釈では逆です。私は”観”も”見”もどちらも肉眼でみるのは変わらず、見を集中すると、観となり、それは、心眼も加わり、近くを観ていながら全体も把握できる状態のことと思っています


武蔵の「五輪書」から
目くばりには”観””見”ふたつあり、観は心眼でもって物事の本質を、見は肉眼でもって現象を見る。戦いの場においては、目の玉を動かさず、敵の両脇に目を据えることが肝要である。急を要する闘いの中で、にわかにこの目付けを身につけることは不可能だから、平素から研究を怠ってはならない」
 以上の短い文章の中で、武蔵はふたつの注目すべき事項を挙げている。ひとつは”観の目”と“見の目”の違い、もうひとつは「目の玉を動かさず、敵の両脇に据える」という、およそ肉体的には不可能に近い注文を出していることである。

川上哲治「常勝の発想」から
 武蔵の言葉を借りれば、“観”とは「遠き所を近く見、ちかき所を遠く見」ることであるが、いまの言葉でいえば“心眼”とでもいうことになろうか。もともと”観”とは仏教からきた言葉で、内観法とか空観などと使われていたものらしい。
 おそらく禅にも深く通じていたに違いない武蔵のことだから、この”観”の目というのも理論を超越した目くばりのこと、つまり、禅の心で見よ、ということに違いない。気持を静めて自分の心を観ずれば、そこに映らぬものはない、というのが武蔵の真意にほかならないだろう。(川上哲治「常勝の発想」から)

柳生新陰流「兵法家伝書」から
 目に見るるを見と言ひ、心に見るるを観と言ふ。

武蔵と茨城との関係
1 1623年武蔵は常陸をとおり出羽へといわれる。また、笹沢佐保の小説宮本武蔵第13巻目は、笠間や上野が舞台です。
2 塚原卜伝との関係については、武蔵の師は卜伝かの次ぎのぺージにおいて説明します。

武蔵など勝ち続ける侍のページへ戻る

武蔵が描いた達磨などの図