1 ベテラン(剣の師範クラス)になると、危険のポイントを絞り込んでいるます(優先順位までつけている)。そこを集中して見ること、途中で終わらずに最後まで見切ることです。(この手段として、遠冨士の私は、一声・一動作を加えるべきと主張しています)。その余の部分(ポイント以外の部分)は、外見からはベテランの省略に解されがちですが、集中が解けて眼の筋肉もゆるみリラックスが広く観る感覚をあたえますが、ベテランなら一定の緊張を持続していることとなり、万一の予測しない危険が進入してきても、予防は取れます(新人のリラックスとは質が違う)。
遠富士=私は、この上に、「安全の達人」(剣の達人)をランクしています、ベテランの、細かいところはちゃんと見る、その他は広く観ることに、プラスアルファーの能力を要求します。それは、予知能力だと思います。見えてないけど、細かいとことの奥の奥や、全体を観て、危険を感ずることと、これに無意識に対応(予防)できる能力です。我々かろは、しばしば、止まって、遠回りをしているとしかおもえません(「一よりはじめて十を知り、再び戻る元のその一」をこう理解しています)。
2 名人武蔵の息子を心配するあまり心ここにあらずの、結果の受傷か(職長が仲間に配慮する余り自身が怪我をすることがあります)。「島原の乱」で、武蔵は投石で脛を怪我しました.。(どのように考えているかの解釈です)。
これは兵法での戦いでありません。老いた武蔵と脛の負傷について考えます。投石は農民の主たる戦法である筈です。
吉川英治著「随筆宮本武蔵」島原役における彼の書簡・・・終戦後世に出た有馬家文書中の一資料から
「文面で見ると、これは明らかに、武蔵が、島原在陣中の、しかも島原陥落激戦直後に認めたものだといふことが察しられる。従来、彼が島原の乱に参陣したということは、碑文や後伝の書には記されているが、彼自身の足跡として、証拠立て得る資料は何一つなかったのだが、この一書簡に依って、確実に、かれの島原参陣が明らかにされていることは、この書簡の持つ、もっとも大きな文献価値といってさしつかえない。殊に又、彼の直筆として、「・・・せがれ伊織儀」と、伊織のことに言及している点など、親子の情も見るべく、歴々として、当年の武蔵の心境を想到するに足るものがある。文意の大体を、解説するならば…まづこうも言おうか。
さきには、お心づけの御尊書をいただいて、誠に有難うございました。くだって、せがれの伊織も、御成りの事に(何か随身の列に立つことでもあろうか?なお後考を要する)立つそうで、よろこばしく思っております。また、わたくし事は、どうも老人の足の事とて、これはどうか、お察しねがいたいものです。
あなた様、御旗下様、御家中たちへも(手先にて申置候・・・こゝ、意味不明、原城乗り入れの事かもしれない)殊に、御父子におかれては、本丸までも、早々にお立ち入りになったそうで、まことに、目ざましい心地に打たれた事でございました。私は、あいにくと、石にあったって、脛も立ちかねて居ります。そのため、お目見得にもまだ伺えませんが、なお、かさねてお目にかかれるものと存じております。
…文辞はかたいようだが、含味してみると、用語、また前後の関係など、彼と有馬直純とが、決して、一朝一夕の知人という間がらでは無いことが自ずから頷けてくる。元々、武蔵が遊歴中に、何かの事から縁故や恩顧を受けた藩としては、出雲の松平家、姫路の本多家、尾州徳川家、榊原家、小笠原家、またこの有馬家などが、挙げられている。中には、その当時にはあった事として、一種の蔭扶持というものを送っていた藩もあったというような説もある。
それはとこかく、この書簡は、武蔵と有馬家との関係を知る上にも、唯一の文献といってよく、すでに、彼ばかりでなく、伊織もまた、有馬直純に、辱知を得、従前からすでに、浅からぬ間であったことが窺い得られる。…でなければ、文中にあるように、貴人へ宛てる戦陣の中の手紙に、自分の足のことなどは、書くはずがない。その足のことでは、武蔵はしきりに、自分の”老い”をかこっているからおもしろう。若い逞しい武者たちに伍して、いや先陣をも争って、彼も、原城の石垣を、城乗りにかかったと見るべきである。そこで、老足と自嘲したり、また、敵の落とした石に当たって、脛も立てないでいると述べている。
注:小倉の小笠原藩の家老に養子の伊織はなっている。小笠原忠真の軍監として56歳の武蔵も出陣していた。
トップのページへ 武蔵の詳述のページへ