幸治家の歴史
第1章 近世向原幸治本家の歩み
幸治家の祖先が文書に出て来るのは江戸時代である。現在も実家やその田畑、航風館等のある。睦沢町上市場部落と密接な関係があります。上市場という地名が最初に登場するのも江戸時代である。すなわち睦沢町史の上市場村(注1)の項に・・・・・村名を尋ねるに寛永5年(1665年)田畑高辻小百姓銘々名寄帖に上市場村とあり、同12年(1672年)の古書には上総国上市場村とあり、代官吉田次郎兵衛、高547石、田22町歩3反4畝1歩、畑29町2反7畝10分、此内屋敷1町7反17歩で他に新田8町7反3畝2分、に北網田尻り上市場地、追々荒の所4反5畝歩ニおこし可被申候、此外新田ニ開仕間敷事」と享保4年(1698年)の古書に見ることが出来る。
明和元年(1764年)9月の文書には「川嶋上市場両村名主五郎左衛門」とあって兼任したと思われる。組頭に4人を置き、惣右衛門、弥惣右衛門、新右衛門、惣兵衛、新平(寛永4年、源次左衛門(安永2年)であった。・・・・・としるされている。
この源次左衛門(安永2年)こそ我が祖先なのである。我が実家は屋号が「げっぜんどん」と呼ばれ、代々源次左衛門と名乗っていたのである。近くに同じく屋号で「しょうべどん」「やそえんどん」等もあり「そうべえどの」「やそうえもんどの」の訛ったものと推測できる。重要なのは少なくとも安永2年には組頭として村の指導的立場の家として上市場の向原に存在したということである。
更に天保7年(1836年)10月の森覚蔵なる者への御尋之苴囂曹緕s場村の石高は547石で古城の址やご朱印地もないこと、馬の継場がある事、元禄の調査(注2)から変わっていない事等を記しており、上市場村の百姓代として組頭、名主と3名連名の最右翼に名を連ねている。脇坂氏は幕府の重臣であり、赤穂の城の明渡しの責任者としても有名な旗本であり、547石という数値が1672年と154年後の1836年と全く同じというのも当時の支配の程度が推測されて興味深い。1698には北網田それ以降向原部落が開墾されたのは定免の事情により報告されていないと推測される。現在幸治姓の家が集中している千葉県長生郡睦沢町上市場字「向原」の開拓は江戸時代中期である(注3)本家の位牌の一つに過去帖内容を短冊にしたものがあり、私が小学校の時に絵日記に書くことがなくて、その短冊を引っ張り出して元禄というのが最もふるいと書いて、討ち入りの絵まで書いた記憶がある。これは郷土氏姓録(昭和63年ー日本氏姓出版))によると元禄14年(1701年)11月11日に没した湖泊浄観信居士霊位の事である。さて幸治家にはいくつかの伝承があり、子孫の方々にとっての重人の教訓ともいう含蓄深い内容なので以下しるす。
1 幸治家は凄い財産家である。といううわさが今も近郷にある。
後述の私の祖父幸治清の文章によれば、菜種油を採集して、遠く市原市の牛久まで馬で運んで現金に変えて、土地を買い戻した。とある。すなわち、常に安定した階層だったわけではなく、苦労した中興の祖先も存在し、更にそれを後世の子孫に教訓として文章に残した方もおられたのである。
一方で子供の成長のお祝いを連続1週間実施して財を散逸したり、遺産相続により田畑が減少して生活基盤が脅かされ窮乏の危機もあったのである。破格のお祝いの豪勢さが、お金持ちの噂として残っているのかと思うとまた、愉快ではないか。更に良く云われるが、隣の部落に行くのに他人の土地を踏まないで行けた。という伝承も事実、聞いている。(一宮陣屋奥田家伝承等)
祖父の幸治清は文章を後世に残しただけでなく、自らも実行の人であった。67年の生涯の内、教職を半分残りの半分を役場の収入役等の仕事にあたり、個人融資も教職在職中から行っていたと聞く。更にその借財の返済を子供達にも教育上の見地から実行させるという徹底振りであった。(元睦沢町長鵜沢鼎氏談)これらが、渾然一体となって、財産家の噂となっているものであろう。私も「ペリーの白旗200万で買います」とテレビで出たので、一助になって子孫から笑われるのも愉快である。
2 身の引き締まる鼠坂道祖神の伝承
以下の伝承は祖父幸治清の義母(後妻)の子供にあたる大多喜の好士家に嫁いだ叔母から直接伺った話である。当時義母は叔母達に清さんは神様だと尊敬し、叔母達も本当にそう思っていたと懐かしそうに言っておられたのが印象的である。
油を売っての帰路の鼠坂は危険な場所だった。盗賊が待ち構えていたのである。油の代金を牛久で酒や女に使った人も多い中で、祖先は一切の誘惑に負けず帰路に着いた。重い使命感がそうさせたのかもしれない。その使命感だけで金がたまるものではない。むしろ危険でさえある。鼠坂は無法地帯だったからだ。
情報をどこで得たのか、道祖神のお堂の中に盗賊が時間まで休息しており、お金をどっさり懐にした者の心理として、安全な帰路を祈願する無意識のお参りパターンを利用して効率良くいただいているらしいという情報を知っていたらしい。
我が祖先はその前を知らん顔で通過して難を逃れたと思いきや、道祖神前をわらじを脱いで、這って通過したという。すなわち、何とか無事通過させてくれという祈りと、仮眠待機中なのかもしれない盗賊に気づかれない配慮を同時に考えた苦慮の一策だったのである。けだし、幸治本家にこの伝承はすでになく、当時六本木の防衛庁に勤務の折、国立の好士歯科医院にて伺った話である。
3 学ぶべし、幸治清の子孫の方々への熱いメッセージを
以下の文章は本家のアルバムの裏表紙の直筆を私が読み息子がパソコンに入れたものである。(1999年夏)
注1・・睦沢町史第3章近世ー第1節江戸時代における支配ー1ー郷土支配への変遷−(1村々の遠隔)・・・P−225
注2・・元禄12年(1699年)正月検地を行い、元禄14年からは5年間定免(新田奨励策として開墾地を加算報告させず別に開墾した広さに応じて年貢米を納めさせた)と決定し、この定免が永く継承されたのであろう。幕府の旗本でも今の感覚で言えば脱税行為を行っていたのであろうか。
注3・・睦沢町史第3章近世ー第2節検地と村ー3新田の開発(P−271)
第2章 近代における幸治本家の歩み
前述郷土氏姓録のP−449に以下の記述がある。父の幸治勤、母の幸治千代が口述したものを基本にしている。
幸治勤 写真あり (大正2年1月18日生まれ、上市場1041番地)
「家暦」家名を「源司左衛門」(筆者注司でなく次の誤記と思われる)と敬称される草創の旧家で、祖霊を辿り墓碑や位牌を精査するところ湖泊浄観信居士霊位の事である。元禄14年(1701年)11月11日没と、現存の墓碑に一翁浄無信士明和8年9月29日没(1771年)が判明され翻る。*幸治姓出自・・・別項(P−144)(筆者注・・次項で記述)幸治源司左衛門家中興系譜
卯太郎─源治―清─勤─孝明の中興系譜。曽祖父の卯太郎氏。夫人はせつ子は金田の小林茂右衛門家より嫁。祖父源司左衛門氏は村役場に奉職した収入役に就任精励確勤。等覚院源智宥宗居士と号され明治33年8月17日53才にて逝去、先妻佐多女は上之郷の中村治左衛門家より嫁するも明治29年2月4日43才にて逝去、貞操院梅月妙室大姉。後妻つよ女は東浪見の渡辺市郎右衛門家より嫁、温厚院照山智証大姉と名して大正14年4月10日67才の生涯を逝かれる。
尊父清氏は佐多女の長男、千葉師範に学び教職に在ること30ヵ年余、芝原分校長を退職後は収入役として村政に一意専心、寛容内明の資性を敬愛され精進院静観宝清居士と 号して昭和21年3月20日67才で逝去。夫人りえ女は川嶋の鵜沢床五家より嫁され2男1女を訓育され、昭和52年9月10日天寿92才の生涯を永眠され、寿宝院静観妙恵大姉と号される。
現主勤氏は学業を修了されると、長男として農業を継承され、鋭意精励。今次大戦下は勤労奉仕や食料増産に尽力され銃後を守られている。戦中戦後の幾多苦難を営農一筋に確勤され、家産を興し、昭和39年には現家屋の完成を見られている。多忙の業余に村議、農業理事、農業委員、寺総代と地元公職に貢献されること大である。
夫人の千代女は芝原の中村家(新屋敷)から嫁、2男1女の母、・・とある。蛇足をくわえると卯太郎氏が養子で散財、苦労したのが源司左衛門氏が奮闘して田畑を買い戻し、祖父を教育したが、53才で死亡したため(田の草取りで熱謝病と聞いているが、長年の労苦が祟ったのであろう。)祖父清はお嬢サン育ちの祖母とバツイチの姉、異母兄弟を抱え、先頭にたって奮闘されたのである。義母が出来た人であったことは間違いない。
私が子供の頃、年1度大多喜の好士家に嫁いだ叔母が甘薯の苗を買うという名目で來家すると一族が集まって一日を過ごしていた。その中には睦沢町長鵜沢鼎氏もおられた。(鼎氏は2代続いた村長の家鵜沢家に幸治本家から養子に入り、3代連続村長の記録を樹立した。)父が長男となっているのは間違いで、2男であったが、長男肇氏(神奈川師範を鼎氏と同期で卒業教師となる)が結婚後間もなく早世されたため、リリーフされたのである。お嬢サン育ちの義母の失望は大変なものであったろう。
第3章 幸治家のルーツは南か北か
さて、江戸時代以前の事すなわち私が「幸治家のルーツを求めての記録」を以下記す。
結論 幸治家は紀州から江戸時代に房総半島に移住した。
結論に至る二つの仮説
仮説ー1:幸治家は紀州から江戸時代に房総半島に移住した。
証拠ー1:三重県黒部に幸治家あり。
私が奈良の幹部候補生学校の売店でおばサンに呼び止められた23才の春の事貴方は三重の方ですかと私の名札を見ていったのだ。その人は早速住所を聞いて手紙を出したら2通同時に来た。父親と22才のお嬢サンからだった。父親は近畿鉄道に勤め、大台ケ原の開発や桃山城の復元をやったという。
証拠ー2:私が自衛隊に勤務の際、それとなく調査し、旅行先では電話帳をめくったりしたが、北には全くその影を見なかった。
浜名湖畔三ケ日町に幸治家あり、九州三池炭鉱の炭鉱節に歌われた煙突を立てた家系という。又、明治維新の益田口の大村益次郎の砲兵陣地となった家系と聞く。以前に上市場まで父がきているとの事白子町関なる所に幸治家1軒あり。高知の奇祭「どろめまつり」の優勝者に幸治氏あり、沖縄最大の門柱(お墓)は「幸地」門柱、沖縄戦で背面陣地で有名な幸地台地の激戦地で有名。沖縄での調査では元々「幸(こう)」といっていたのが、本土復帰で幸地とかえて役場に登録したという人もいた。・・面白い流れである。
証拠ー3:1700年前後に2度にわたり、房総地方は大津波に教われた。(睦沢ゆうあい館特別企画展)これによって、幸治海岸も大被害が出たことは創造できる。幸治一族は漁業に見きりをつけたか、その地に留まることが出来ない別の理由があったのか、ともかく、一旦上陸して名前までつけた、ついた場所を主力が放棄して、睦沢上市場向原地域の開墾に参加したのではないだろうか。
仮説ー2:幸治家は垣武平氏千葉氏族の嫡流であろうか。・・・郷土氏姓録(昭和63年日本氏姓出版)
幸治、幸治橋及び幸治納屋等の地名が実在するのは、千葉県長生郡白子町字幸治なる場所で、幸治大村公民館(白子町幸治840:電話0475−33−6258)と幸治東区公民館(白子町幸治3104:電話0475−33−2022)が公共施設としてハローページにも登録されている。この町は房総半島の海岸線に沿って隆起した新しい土地で少なくとも江戸時代以前は海であったと思われ、垣武平氏まで遡るのは無理があろう。この地域は紀州からの優れた漁労技術を江戸幕府も推奨して住民を移住させ、江戸周辺の発展を意図したと思われる。もし、平氏の流れをくむなら、千葉氏の発展とともに北にその影を全く見ないはずがない。