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あとがき
震災後五年目を迎えた。一度使ったキャンバスのうえに絵の具をかさねるように、被災地はあの日の情景を塗り替えてきたが、画面には元の絵の具の消えがたい痕跡がのこる。心の傷痕もまた年月を経てふかまるばかりである。 交通機関が途絶し、芦屋から元町まで、電車では十五分程の距離を数時間かかって歩き、バスを乗り次いで通勤したが、乗車の順番を待つ数百メートルの人の列は、寒風の中でも冷たい雨の中でも整然と言葉もなく葬列のように続いた。身動きもならぬ程押し込められた車内でも、人々の虚脱の表情に声はなかった。日中は悲惨な被災地のパノラマを否応なく視界に残し、夜は明かりのない街を、まうで亡霊を満載して冥界をめざす霊柩車のように、バスは破壊した建物をさけ、暗い亀裂の道を綴って走った。 日常生活の残骸はそのまま崩れ落ちた家屋の中にあった。大きく角度を変えただけで、きちんと積み上げられたままの押入れの布団、梁をうけとめたピアノ、土を被った人形、巨大な攪拌機で振り回されたとしか思えない無残な民家の被災状況は、破壊された高速道路やビルの惨状にもまして悲痛なものがあった。そこは優しく平凡な日々が営まれていた筈であったから。 半世紀前の戦争の記憶は、体験した年齢の故もあって、突然もたらされた震災の非日常は避けることも可能な筈である。何故これ程多くの殺戮や破壊が行われるのかと、間断なく続けられている紛争を世界地図のうえにたどって、悲しさと悼みが実感としてこみあがってくる。これも震災を体験し、人を失い、公費解体の名のもとに住居を壊され、避難所と仮設住宅を、またささやかな期間でも飢えを体験したせいかもしれない。 この震災をそのまま記録することは、創作表現活動を行うものの当然の債務であると当初は考えた。けれども被災地の現状を冷静な目で写し取ることなど私には不可能であった。リアルに惨状を作品にするのも不可能であった。網膜に刻印された被災地は、容を替えて表現するほかなかったのである。 |
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