臨死体験・気功・瞑想
| 覚醒・至高体験とは? |
■覚醒・至高体験とは(1) ◆事例集に入れる基準は?
ところで「覚醒・至高体験」というときの覚醒と至高体験の違いは何でしょうか。この点については私自身の中では明確な区別があります。最初にこの違いを明らかにしながら、それぞれの意味を考えます。 ◆自己実現した人間
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的傾向を持っています。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達 しうる最高の状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼び ました。 しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が 「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについてまわります。そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循環的方法を採用しました。 循環的方法とは何でしょうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた 「人間性」を意味するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の上でも矛盾するところがあればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」のデータを集め、それによってもとの定義をもう一度検討する。 こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。このよう にラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。 このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的なものにしながら研究を深めていくのです。 こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブ ーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということでした。 平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 はB認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。 ◆至高体験
「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験のことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで体験されるかも知れません。 ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも 深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気がついたというのです。 ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、ある程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある 者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示すのです。つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。 こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。 以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけたでしょう。至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。 ■覚醒・至高体験とは(2) ◆普遍的な体験 体験者が「存在する全てのものに、神のエッセンスが内在している」、「神は我々すべての中にいる」と言うときの「神」とは、それを「神」と呼ぼうと「大いなる命」と 呼ぼうと「仏性」と呼ぼうと、もとになる体験の基盤は同じなのです。だからこそ、 「全てはまったく一つなのです。個別的な宗教のドグマ(各種宗教・宗派が信奉するそ れぞれの独特の教義・教理。独断。独断的な説)に固執することは意味がないことです。 ドグマは人間が作ったものです」と断言しうるのでしょう。 「自分のうちなる大いなる命を実感すれば、
これは、本サイトのトップページに掲げている言葉ですが、 おそらく臨死体験者の多くが言おうとすることと同じでしょう。と同時に多くの覚醒・ 至高体験者たちが語る言葉とも同じはずです。 最近読む機会があった『悟りと解脱―宗教と科学の真理について それは、「日常的な小さな自己に滅んで、自己を超えた大いなる存在に目覚める」とでもいうべき体験です。宗教の根源にはこうした体験があって、こうした圧倒的な覚醒体験を前にしたなら、個々の宗教の教義体系などは、空しく色あせた言葉の羅列に過ぎないのかもしれません。 どのような既存の宗教やその教義とも無関係なところで、深い覚醒を体験する人々が数多く存在するのは事実です。臨死体験者の中にもそうした人がいることをこれまでに確認してきました。「小さな自己に死んで、大いなる命に目覚める」という体験は、宗教の根源をなしながら、個々の宗教の枠を超えた普遍的な体験なのです。 心理学者マズローは、至高体験と呼ばれる状態の心理的な特性や、自己実現ないし自己超越したと思われる現代の多くの人々の心理的、人間的特性を緻密に検討しました。 そうした精神のあり様を、たとえば大乗仏教が長い歴史の中で繰り返し説き、発展させて来た「悟り」の理論、無分別智(般若の智恵)の理論が示す人間のあり方と比較してみるなら、そこに驚くべき共通性があることに気づきます。あるいは、キリスト教やイ スラム教の聖者たちが示す深い宗教体験の中にも、大乗仏教が示す無分別の智恵、般若の智恵とまったく同質の英知への目覚めを示すと思われる体験が数多く発見されるでし ょう。 こうした覚醒体験は、個々の宗教のどのような教義とも無関係に成立しうる人間の心理的な体験なのです。それは、すべての真実の宗教の根底をなしながら、しかも個々の宗教の枠を超えた普遍的な体験なのです。 ◆「これまで花を見ていなかった」 あらかじめ列挙します。 以下で詳しく見ていきます。 (1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められ ず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる傾向があり ます。自然がそのまま、それ自体のために存在するように見られ、世界は、人間の目的 のための手段の寄せ集めではなく、それぞれのあるがままがで尊厳をもって実感される のです。 逆にD認識においては、世界の中の物や人は「用いられるべきもの」、「恐ろしいも の」、あるいは「自己」が世界の中で生きていくための手段の連鎖として見られます。 ある臨死体験者が、「病院で気がついたとき、最初に目に入ったのは一輪の花 でした。私は涙を流しました。こんなことを言っても信じていただけないかもしれませ んが、実はそれまで実際に花というものを見たことがなかったんです。」と言いました。 この「それまで実際に花というものを見たことがなかった」という不思議な表現は、マ ズローのいうB認識とD認識の違いを念頭において考えると分かりやすいです。 つまり、この臨死体験者は、認識がD認識(手段―目的の連鎖として見る)からB認識(それ自体の尊厳性において見る)に激変したことの驚きを、「これまで花を見てい なかった」、はじめて花を見たという表現で表したのです。彼は、一輪の花を「それ自 体の生命において」見直し、「なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、 謙虚、敬服などの趣き」(マズロー)をもって接した感動を語ったのです。 (2)B認識は無我の認識であるともいえます。自己実現した人間の正常な知覚や、ふ つうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自 己忘却的で、無我」という傾向をおびるといいます。それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられるでしょう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に なったということです。(1)で見たような違いを別の観点から表現したのだともいえ ます。 至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というの は、まさにB認識の核心をすばりと表現しているでしょうし、逆に同じ至道無難の「我 ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を 表現しているといってよいでしょう。 「稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものがすべて、
素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、 そうして燃えている」(『神は人を何処へ導くのか
(知的生きかた文庫) 覚醒・至高体験とは(3) ◆「愚人の見るはおそろし」 それに対してB認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつのです。それは経 験を前にして「謙虚で、無干渉的」であり、認識の対象を「その本然の姿にとどまらせ ること」です。そうした特徴をクリシュナムルティは、「無選択意識」と呼び、マズロ ーは「無欲意識」と名づけました。 まさに「愚人の見るはおそろし」なのかも知れません。自分に利欲があれば、それを 投影して人も同じようなものだと見てしまいますし、色情が強い人は、それを投影して すべての人を同様に見てしまいます。「聖賢の人にあらざれば、見る事あやふし」なの です。 フランスの科学的犯罪捜査法を教える学校は、教室に次のスローガンを掲げているそ うです。「眼は、それが探し求めているもの以外は見ることができない。探し求めているものは、もともと心のなかにあったものでしかない」 1520年、世界周航をめざすマゼランとその一行が、南米最南端のフエゴ島に到達 したときのことです。マゼラン一行は上陸のために、自分たちの大型船四隻を島の湾内一時停泊させました。何世紀もカヌーだけで生活してきた島民たちは驚きの目で上陸してきた彼らを見ました。 しかし、マゼラン一行がどのようにしてやって来たのか、島民たちはまったくわかりませんでした。なぜなら、フエゴ島の人々の目には湾に錨をおろしている大型のスペイ
ン帆船の船団が映らなかったからです。島民の目には、大型船団に視界を遮られることなく、いつもと同じように、湾の向こうにのびる水平線が見えていたのです。 これは
その後、何度目かのフエゴ島再訪の際、島民たちがマゼラン一行に語ったことからわかったといいます。彼らの頭のなかの枠組に大型帆船のイメージがなかったため、目には
映っていても、その映像を脳が拒否し、見れども見えなかったのです。(濱野恵一著 『インナー・ブレイン―あなたの脳の精神世界 菊池寛に『忠直卿行状記』という作品があります。江戸時代、越前の大名に忠直卿と いう人がいました。29才のときに乱心乱行のため島流しにあってしまいました。家来 に暴力をふるったり、切腹においこんだり、めちゃくちゃ暴れたのです。そのきっかけ というのが家来が信じられなくなったことでした。 ある剣道の試合で家来を負かして得意になっていましたが、そのあとふとしたことか ら、家来たちの内緒話を聞いてしまったのです。家来たちは、「以前ほど、勝ちをお譲 りするのに、骨がおれなくなったわ」などと言い合っていたのです。忠直は、子供のこ ろから剣道の腕前には自信があって、実際の戦で活躍し、自分の強さに誇りをもってい ました。その誇りが一挙に吹き飛んだのです。 翌日、忠直は、その家来に真剣勝負をいどみます。相手は、わざとすきをつくって傷 を負い、切腹してしまいます。 それ以来、忠直は家来のことがすべて信じられなくなりました。みんな自分を欺いている。心配するまじめな家来のアドバイスさえ、自分へのごますり・へつらいとしか思えず、暴れ狂います。酒や女におぼれ、苦しむがどうすることもできません。ただ、そ うとしか目にうつらないのです。しかし、島に流されたのち56才で死ぬまでは、人が変わったように穏やかであったといいます。 この作品を私は、太田久紀著『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』(大法輪閣)という本で知り、読みました。以来しばしば講話などで使っています。(ちなみに、フランスの科学的犯罪捜査法を教える学校のスローガンの話もこの本からの引用です。) フエゴ島の住民の話と忠直卿の話に共通していること何でしょうか。人間は、自分の心のなか「思い」・「思い込み」でものを見てしまうということでしょう。フエゴ島の人達は、カヌーより大きい船があるなどと思ってもみなかったから、巨大な帆船はみえなかったのです。忠直卿も、一度家来が嘘をついていると思うと、みんな嘘をついてい るとしか思えなくなりました。私たちは、多かれ少なかれ自分の心のなかの欲求や恐れや利害関心で歪めて見ていながら、真実を見ていると誤解しているのです。認識の対象 を「その本然の姿にとどまらせること」(B認識)は、かくも困難なことなのです。 ◆D認識はラベル貼り これに対してD認識では、「自己」のその時々の都合と必要に合わせて言葉というラ ベルが貼られ、そのラベルを通してしか見られません。わたしたちはふだん、この世の すべてに自分の整理の都合に合わせて言葉というラベルをぺたぺたと貼りつづけている のです。ラベルを貼ることで、全体(ワンネス)を分類し、分割してしまい、分類・分割することでそれを把握できたと勘違いしているのでしょう。 しかし実は、ラベルの貼られた整理箱の中味については何も見ていないことが多いの です。対象はそのまま見られるというよりも、むしろ「類の一員として、大きな範疇の 一例として」整理箱に入れられただけなのです。 たとえばわたしたちは、道ばたの雑草に「雑草」というラベルを貼り付けてしまえば それで終わりでそれ以上には進みません。このようなラベル貼りによる認知をマズロー は「概括」と呼びました。もしかしたら桜を美しいと感じるのも、「桜は美しいもの」 という「概括」的な認知のレベルを超えていないのかも知れません。私たちのなかに 染み付いた固定化された美意識は、「美しい桜」というラベルを貼ることで、世間一般 と美意識を共有し、安心するための道具にすぎないともいえます。 しかし、雑草が咲かせた一輪の花に生命の神秘、宇宙の神秘を感じ取る人もいるのです。自己実現した人々は、ほとんどの人々が現実界と混同している言語化された概念、 抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルで整理された世界)よりも、はるかに自然 な生々とした世界のうちに生きるのです。いま・ここで出逢うひとつひとつの対象が、 そのつど宇宙のすべててであり、宇宙のいのちの一体のものとして感じられるのがB認 識なのでしょう。 ■覚醒・至高体験とは(4) ◆架空の観念を握りしめていた (5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的であるという特徴があります。 ふつうの人々の日常的な認識の大部分は、具体的というよりむしろ抽象的という傾向を もっています。ごく普通の日常的な認識は多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、 ラベルを貼り、抽象化して見ているのです。雑草を「雑草」とラベル貼りして、そうと しか見ないのは、それ以上の必要がないからです。園芸家は必要に応じて雑草の個々の 種類まで分類するでしょう。しかしそれも自分の必要からするラベル貼りにすぎません。 いずれにせよわたしたちは日常、自分の必要のレベルに合わせて概念化された世界を 見ているのです。そして、そのラベルによる抽象を現実と取り違えているのです。ラベ ルを貼られてきれいに並んだ整理箱が現実だと勘違いしているのです。 抽象化(ラベル化)とは要するに、対象の一面を選択すること、わたしたちに必要な側面を言葉(ラベル)によって際立たせることです。問題はそれが固定化して生きた現実、なまの豊かな世界が見えなくなることです。駅で隣に立った怖そうなオニイサンを 「やーさんだ」とラベル貼りしてそっと遠ざかる時、私たちは固定化した「やーさん」 のイメージで現実を凍らせているのです。一瞬ののち、その「やーさん」が線路に落ち た子供を助けたなら、そこに生きた現実が蘇るのです。「やーさん」は、一人の生き生 きとした人間として姿を現すのです。 自己実現した人々は、「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力」とが同時に見出されるといいます。B認識とは、ラベルの向こうに生き生きとした現実が同時に透けて見えることだと言えるでしょう。もしかしたら「やー さん」かも知れない青年を最初から同時に一人の生き生きとした人間としても見ている のです。偏見や固定観念だけで人を見てはいないのです。それが「具体性を失わないで 抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的に見る能力」ということの意味です。 自然農法家・福岡正信氏の覚醒体験を思い起こしてみましょう。 ≪そのとき思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」とい
うことだったんです。"ない"ということがわかったような気がしたんです。 今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくな ってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかった
のだ、ということがわかったような気がしたんです。≫(『自然農法
わら一本の革命 福岡氏が「ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたもの」とは何だったので しょうか。「自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ」というときの、 「架空の観念」とは何だったのでしょうか。その根本は、おそらく「自己」という観念でしょう。そして、我と汝、自と他、主体と客体、個と全体などという二分法的分類に代表される、概念的思考(ラベル貼り)の一切だったのでしょう。 福岡氏には、恐らくラベルがラベルでしかないことが実感されたのです。ラベルや言葉がけっきょくは虚像だということが分かったのです。それらが「架空の観念」だとい うことがわかり、「大多数の人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期 待、信条、固定観念の世界(ラベルの世界)よりも、はるかに自然の生々とした世界」、 自己を超えた「大いなる命の世界」が見えてきたのです。そこから見るとき、一切の概 念的思考は「架空の観念」としか見えないのでしょう。 ともあれ、ラベルが吹っ飛んだあとに開けた世界から振り返ると、「自分の今までの ものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ」と実感されるのです。マズローの言葉で言えば、福岡氏の世界認識は、D認識からB認識へと転回したのです。 ◆喜びと驚きと感謝の念に満たされる
一方、「自己実現」や「至高体験」の状態とは、「自己」から限りなく解放された状態でです。だからこそ、その認識は「自我超越的、自己忘却的で、無我、無欲、無私、対象中心的、没価値的、没判断的」などの特徴を示すのでしょう。平均人の認識は、 「自己」にあわせて対象を編集したり、選択したりする能動的なプロセスなのですが、 B認識は、はるかに「受動的、受容的」でありのままを受け取る傾向をもつのです。 B認識が、「具体的であると同時に抽象的である」とはどういうことでしょうか。日常的な平均人は、言語によって「分類し、抽象し」たりすることで「自己」に都合よく 世界を切り取って見ています。一方、B認識では、「自己」からも言語からも自由に、 世界や対象そのものに即して「無選択的」に具体的に見ることができるのです。 「自己」超越者は、言語に埋没しておらず、言語を超えておりながら、しかもそれを使 うことができるのでしょう。だからこそ、その認識は必要に応じて言語的、それゆれ抽 象的であることもありますが、同時にまた、言語の制約を超えて具体的でありえあるの です。つまり「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である 能力」とが同時に見出されるのです。 以上、マズローの研究をロジャーズの「自己」理論とをごく簡単に比較しながら検討 してみました。これまで何度か触れたように、ロジャーズは「自己」という硬直化した 枠組が限りなく解きほぐされて受容性を増していくところに人間の心理的成長を見てい ました。だとすれば、マズローのいう「自己実現」や「至高体験」とは、「自己」が最高度に解きほぐされ、無「自己」化された状態をいうのではないでしょうか。だからこ そ「すべて愛し、赦し、受け容れ、賛美する」という最高度の受容性も実現されるので しょう。そしてそうした状態は、「自己実現した人々」というよりは、「自己」超越し た人々と呼んだほうがふさわしいあり方を示しているのではないでしょうか。 これまでB認識の主な特徴を見てきましたが、B認識のこれ以外の特徴には次のよう なものがあります。 ☆「認識の対象にすっかり没入してしまう」、 このような体験が人格にとってどのような意味をもつかをまとめると、
☆「対象や世界と渾然一体と深くつながるようになり、以前には自己でなかったものと も融合する。創造者は作品と一つになり、愛する人とは一体となる」、
これらの特徴が、臨死体験者の体験内容の報告や体験後のありかたについての報告とどんなに類似しているかは、だれもが気づくことでしょう。 ここでもう一度、強調したいのは、ロジャーズの「自己」理論やマズローの研究、さ らにはトランスパーソナル心理学の成果、そして宗教的な覚醒体験のいくつかの事例を 臨死体験者の心理的変化と比較して何が明らになるかということです。 宗教的な覚醒体験の場合にも臨死体験の場合にも見られる「自己」からの解放、「自
己」超越とは、人間の内的な成長が最高度に達した段階であるという結論でしょう。 「自己」超越は、ブラックモアの理論のように人間の内的成長のプロセスを度外視した機械論的な「自己モデル」崩壊理論によっては、説明できるものではないのです。
(『生と死の境界―「臨死体験」を科学する 以上4回に渡って見てきたB認識の特徴、これが「覚醒・至高体験の事例集」にどの体験を載せ、どの体験を載せないかと判断するときの、おおよその基準となっていると思います。これまで見てきたような特徴をすべて頭に浮かべながら判断するわけではないのですが、無意識のうちには、参考にしていると思います。 もちろん、これらのすべての特徴がすべて出ている場合だけではなく、これらの中の いくつかの面が印象的に語られている場合も、選んでいます。いや、そうした場合のケー スがほとんどでしょう。しかし、どんな場合も、おそらく全体としてB認識のあり方を 示しているなと感じられるからこそ、選ぶのですが。 ≪参考文献≫ ※以上はメルマガ「精神世界の旅」に4回にわたって連載したものを、編集しなおしたものです。 追加 02・9・15 |