| 2002/01/28にアリさんという人が、本サイトの掲示板(「談話室」)に書き込みをしてくれました。それは、ご本人の「至高体験」についてでしたが、彼はその体験の負の側面を強調して書かれていました。至高体験の負の側面という視点は、重要だと思いますし、また至高体験とは何かを問う上でもたいへん参考になります。
アリさんの承諾を得て、その後の私(Noboru)とのやりとりも含めてここに再録します。 はじめまして、アリと申します。
実は至高体験には負の側面もある事を私の体験を通してお話ししたくなりました。 私の至高体験は今を去ること30年ほど前の中学校時代に遡ります。
当時、私は勉強もスポーツもできないただの落ちこぼれでした。 そのことも起こったことに非常に関係していると思います。 一回目は中学一年の三学期の終業式の日に起こりました。
私は自転車通学をしていたのですが、帰り道、春の陽気の中で道路の左側のドブ川の脇をのほほんと自転車をこいでいたとき頭の中で何かがやってくるような感じがし始めたのです。それは不思議なことに懐かしい感じを伴い、渚にうち寄せるさざ波のようにやってきたのです。
なんだろう?と思いつつ走っていると、それはいきなり巨大な光となって私を包み込みました。 「うわっ!こ、恐い!」それが最初の気持ちでした。
ところがその恐怖には得も言われぬ甘美な喜びも一緒だったのです。 これまで一度として体験したことのない喜び。 まさしく歓喜というものでした。
そして真っ暗闇の中でいきなりものすごい光量のサーチライトに照らされたような眩しさ。 太陽の中心に入ったような強烈さと喜び。 しかし臆病な私は僅かに残る理性で必死になって抵抗しました。
「目が見えない!すぐ横はドブだ!このままでは落ちるぞ! こ、恐いあっち行けっ!」 喜びと恐怖で心は大混乱していました。 その抵抗が功を奏したのかそれは来たときと同じように静かに去っていきました。
2度目は中学三年の三学期、梅の花が咲く頃です。 今度は技術の授業中にそれはやってきました。 お昼休みの後の最初の授業でした。
教科書から中庭に咲く梅の花に目を移した時、なんだか懐かしい感覚にとらわれました。 以前経験した感じだなあ、と思ったとたんそれは例のさざ波であったことに気が付きました。
それからは人知れずパニックです。 「うわっ、今授業中だぞっ!」と心の中で叫んでいました。 しかし光はそんな抵抗など構わず強烈な喜びを伴ってやって来たのです。
暫しの間、自分の席で得体の知れない強烈な喜びと恐怖に包まれていました。(笑) そしてそれは一回目と同様静かに去っていきました。 どちらの体験も数秒足らずのことだったと思います。
そして二回とも三学期であることが面白いと我ながら感じます。 今にして思えば光の中で抵抗さえしなければもっと長い時間そこに留まっていられたかも知れません。そうすれば或いは違う印象として残ったかも知れないと思います。
さて、ここからが書きたかったことなんですが、実はその体験をしてからの私はとてつもなくイヤな奴になって行ったのです。 実はその二度の体験以来どんな批判や誹謗中傷を受けても凹まなくなってしまったのです。(笑)
事が誹謗中傷だけならそれで良いでしょうが、相手がこちらのためと思いいろいろ与えてくれる助言ですら、表向き素直に聞いていたのですが心の中では「フンッ!」っていう感じで小馬鹿にしていたのです。
私はその体験以来真理と言うモノにアクセスできたのだ、と信じるようになっていたのです。 そしてそれは選ばれたモノだけが到達できる境地であると信じていたのです。
つまり「悟った」と14〜5歳で確信するようになってしまったのです。 奇妙な自信でした・・・。 そしてそれが発言や行動と出るとき、自我肥大や万能感として表現されていました。
つまり「私は正しい、間違っているのはおまえだ。」とか、 或いは色々な状況での「自分は天才である」という確信のもとでの滑稽な行動・・・。
確かにそれらはその体験をした後しばらくの間は自分で言うのも変ですがそれなりに 根拠があったのも事実です。例えば勉強してないのにテストで驚くほどの高得点がとれるとか、人に対する説得力がこれまた驚くほどのモノになるとか他にも自分でも驚愕するような出来事が多々ありました。
ところが時間が経つにつれそれらの能力は雲散霧消して、また以前の劣等生に戻ってしまう。 ところがその時の輝かしい栄光のみが印象として強烈に心に残っており、何時如何なる時もその姿勢で行動し、生きていこうとする・・・、そしてそれが出来ると言う錯覚・・・。
振り返ってみると奇妙で滑稽な青春を送ったモノでした。 そして必然的に訪れる現実との食い違いによる自我の破綻と言うか崩壊のような感覚。
私はそれから抜け出るためにセラピーやら、色々な心理トレーニングを受けました。 そして数年前四十を目前にして、やっとそこから抜け出ることが出来たように思います。
至高体験は禅で言うところの魔境(幻境)ではないかと思います。 陶酔禅と言う種類の禅ではどうも至高体験を目的としているような感じがします。
だとするならばそれは野狐禅と糾弾されてもしようが無いような気もします。 至高体験の起こった年齢やその時の精神的成熟度・自我の成熟度みたいなものはその体験を人生でどのように生かしていくかという時とても大切な要素ではないでしょうか。
最近になってやっと平凡な日常の中に腰を据えて生活できるようになりました。 あの体験の功罪を振り返る余裕もやっと出てきた感じですね。
長い道のりでした。 それでは。 上の書き込みの後(2002/01/29〜)に
「談話室」で続いたアリさんと私のやりとりを掲載します。 ここでは、読みやすくするため、一つの問いに対して一つの答を対応させています。
Noboru アリさん、書き込みをいただきありがとうございます。
非常に興味深く読ませていただきました。 そして何よりもまず思ったのは、 類型化の危険性を避けなければならないということでした。 このサイトでは「至高体験」と呼べるようないくつかの体験を集めていますが
それはこういうものだという風に類型化してしまうと視野が狭くなる。 仮に「至高体験」と呼べるにしても、 それぞれがみな類型化をはみ出す独自性や個別性をもっているということを改めて認識しました。
アリさん 私があれは至高体験である、と思ったのは実はテレビの立花隆とコリン・ウィルソンの対談を見てからなのです。
タイトルは至高体験でした。 トランスパーソナル心理学と言うモノを知ったのもその時が初めてでした。 で、色々調べたりワークショップに参加している内に、
私が体験したことは、その世界では割と普通の体験なんだと知ったのです。 それまではただ単にとんでもない体験をしたと思っていただけでした。(笑) Noboru
アリさんの場合のように、その後の生き方に「マイナス」と思われる影響を及ぼすこともあるということ。 そしてこうした体験を見る場合の、まったく別の視点も提供していただいたと思います。
アリさん 全ての現象は太極図のようなモノだと思うんですね。
良いところもあるし悪いところもある、そんな感じですね。 Noboru
> そして真っ暗闇の中でいきなりものすごい光量のサーチライトに照らされたような眩しさ。 > 太陽の中心に入ったような強烈さと喜び。 ここでの表現から見る限り、周囲が見えなくなってしまうほどの、眩しさをともなう現実的な光に近い印象を受けますが、
そのように理解して よろしいでしょうか。 アリさん ええ、その通りです。ただ、あんなに眩しさを感じたのは後にも先にもあの時の二回だけです。
Noboru 恐怖とは、何に対する恐怖でしたでしょうか。
もし説明できるようでしたらお教えください。 アリさん 発狂したのかも知れないとか、思春期に特にありがちな人と違う経験に対する強烈な抵抗感から来るモノだと思います。
人にもよるでしょうが若いときは孤独感に対してより敏感だと思うのです。 でも、もっとも大きな恐怖感は自我が無くなってしまいそうだとか、消えてしまいそうな感じだったと思います。
Noboru
> そしてそれは選ばれたモノだけが到達できる境地であると信じていたのです。 > つまり「悟った」と14〜5歳で確信するようになってしまったのです。
> 奇妙な自信でした・・・。 こう確信させるに至ったいちばん大きな要因は、体験のどのような側面でしたでしょうか。
アリさん やはり巨大な光に包まれたこと、そして圧倒的な喜びに触れたことだと思います。
その時の生々しい感じはもう忘れてしまった所もあるのですが、聖なるモノにつながったような感じはありました。 何といっても当時中学生ですから宗教なんかには興味は無いわけです。
持っている知識と言えば悟りと言う言葉ぐらいなモノなんですね。 後は家にあった東洋・西洋美術の中の宗教画ぐらいでした。 多分その中に描かれてある神の降臨を示す絵だとか、或いは仏を包む光臨を
見ていて それでそれが悟りの世界だと連想したのかも知れませんね。(笑) Noboru
> 至高体験は禅で言うところの魔境(幻境)ではないかと思います。 > 陶酔禅と言う種類の禅ではどうも至高体験を目的としているような感じがします。
> だとするならばそれは野狐禅と糾弾されてもしようが無いような気もします。 「至高体験」という言葉で何を指すかにもよりますが、
「至高体験」という言葉でくくれる体験のすべてが「魔境(幻境)」ともいえないと思います。 魔境といってしまえば、それも一つの類型化なのではないでしょうか。
アリさん おっしゃることは分かります。
至高体験は魔境ではないかと書いたことが色々疑問を呼ぶだろうとは思ってました。 魔境というのはそこに留まってしまう意識状態のこととして捉えているんです。
至高体験は良しにつれ悪しきにつれ(後者は私のことですが) その一瞬の体験から全てを見ようとするところがあるように思うのです。 人生のある時期、至高体験をしてしまうと、
何時如何なる時もその体験から人生や世界を見たり図ったりしてしまうような気がするのです。 ところが万物は流転します。一カ所に留まっては居ないのです。人の心もそうですよね。
世界は自分も含め動いている。 しかし体験者はずっとそこに留まろうとしている、そんな印象を受けてしまうのです。 何か至高体験という現象に縛られているような窮屈さを感じてしまうのですよ。
禅を学生時代からしている友人がいるんですが、 私が自分の体験を話したとき彼にも同じような体験があると話してくれました。 彼はその体験後、早速、そのことを老師に話したところ
「それは幻境だから気を付けるように、そして流しなさい」と言われたそうです。 私はその時「ああ矢っ張りそうだったのか」と思いました。
その時から至高体験は魔境なのではないかと思うようになったのですね。 もちろんこれは私だけの思いなのかも知れませんが・・・。 Noboru
> 私はそれから抜け出るためにセラピーやら、色々な心理トレーニングを受けました。 > そして数年前四十を目前にして、やっとそこから抜け出ることが出来たように思います。
この言葉の中に、強烈な体験から受けた影響の圧倒的な大きさを感じます。 アリさん
考えてみればそこから抜け出すためにお金と時間を一杯使ってしまいましたよ。(笑) でも、そのおかげで心はとても自由になった感じですね。 Noboru
> 至高体験の起こった年齢やその時の精神的成熟度・自我の成熟度みたいなものはその体験を人生でどのように生かしていくかという時とても大切な要素ではないでしょうか。
この辺の問題が、至高体験をこれまでと全く違った視点から考える視点を提供してくれていると思います。
ところで、ここでは功罪のうち罪を中心に書かれたと思うのですが、 アリさんにとっての功の方はどんなものだったのでしょうか。 アリさん
そうですね、この世は分からないことだらけだと言うことかも知れませんね。 だから人とこうやって関わろうとするし関われる。 そしてなによりも自分が自分らしく生きるきっかけを作ってくれた、と言うことかも知れません。
今はあの体験に感謝しています。 ※以上は、掲示板の通し番号2007と2009より構成
アリさん(2)へ 02・2・10 追加
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