| 覚醒・至高体験の事例集
あえて分類せずの場合 |
様々な至高体験(1)
| この事例集にいくつかの覚醒体験・至高体験を紹介してくださった方が、また投稿をしてくださった。それぞれがそれほど長いものではないので、ここにまとめて紹介したい。いずれも短い記述の中に体験の質が凝縮されているような文章だ。 『水の味わい―東洋思想と神 Cさんの『見性記』から
Sさんの『私の見性体験』から 何もかも、一つに溶けて行った。そして私も、氷が水に溶けて行くように、すべての中に溶け込んで行った。もはや怖れはなかった。怖れるものは何もなかったからだ。生と死の区別もなかった。私は生れてはじめての幸福感で感謝の念に満たされていた。……もう淋しさというようなものもなかった。 Lさんの『私の悟りへの道』から ある日の午後、私は窓の外の一本の古木の頂きに見入りながら、私の思考は強烈に、自分自身の人生についての瞑想から、螺旋状にダルマ(仏教語のダルマは、端的に実在を意味する)の本質の内部に入って行った。私は私の「自己」が、それよりも無限に大きなものに溶け込んで行くにつれ、そこにはただ、温かみのある愛と光の大きな波が一つあるのみとなった。遂に二つでなく、ただ大いなる一者のみとなった。ダルマ以外は何もなかった。何もなし。私は私自身である。これだけであった。 後で自分の自己認識についての疑問が起こったが、私は一人の人間でありつつ、<L(私の名)なりに>現れているダルマなのだという真理を、大いなる明晰さと歓びをもってはっきりと悟ったのである。これこそ私の<真の本性>である。それは私に属するのではない(それが何かに所属しているという主体もなく、それに何かが所属しているという客体もない)。それは無常なる、<ここ・今>である。<L(私)の道>は、<この瞬間>の実在性から不可分である。それは実相を持たない。それは実体がないから、縛ることもできない。 だが<それはそれなのだ>。これはあたかも、一滴の水で滝を説明し、滝の意味を明らかにしようとするようなものである。しかし、一方、滝はまさしく<落下する水>なのであり、それだけである。 そして、その後、外を歩いていた。万物が信じ難い実在の単純さに輝いており、私もまたその実在の不可欠の部分(an integral part)であった。それを何と言い表してよいか、まったくわからない。そこにはこれを経験したり考えたりするような私はもはやなかったからである。ただただ、まったく平安そのものであり、それ以外の何ものでもなかった。 02・05・03 追加 |