臨死体験・気功・瞑想
| 覚醒・至高体験の事例集
あえて分類せずの場合 |
地橋秀雄氏
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以下は、グリーンヒル瞑想研究所長でヴィパッサナー瞑想の指導者・地橋秀雄氏の文章である。もとは『瞑想ネットサーフィン』という小冊子に掲載されたものである。 ちなみにグリーンヒル瞑想研究のサイトは、以下である。 瞑想エッセー特集:≪サマーディとは?≫ 1 『モンキーマインド』―…お猿の心で灰かぐら…( 特集@ ) 2 『たこ壺にフタをしないで…』 ( 特集A ) 3 『56億7千万光年のサマ−ディ…』 ( 特集B ) サマーディを構成しているものは? どうしたらサマーディを高めることができるだろうか? 「…集中が弱いのでどうしても雑念が鎮まらないんです。なにかサマタの集中瞑想をやるべきでしょうか?」 ヴィパッサナーの瞑想者なら一度は浮かぶ質問である。 『尋』の力が弱ければ、私たちの心は、次々と六門(眼耳鼻舌身意)に飛び込んでくる情報に飛びつき、散乱状態になる。 猿が飛び回ってはキョロキョロするのに喩えられ「モンキ−・マインド」とか「心根は猿猴の如し」などともいう。 他の対象を必死で除外しながら、心を一点に集中させようとする努力が『尋』を確立するといってもよい。 その結果、灰かぐらのような心の散乱状態が静まっていくのは当然であり、なぜ瞑想修行が集中力や記憶力を飛躍的に向上させ、能力開発になるかの根拠の一つがここにある。 まず、瞑想修行の大前提として、五戒をしっかり守ることは必ずクリア−しなければならない。 「そんなことより、瞑想中の集中をどうやって高めるかを知りたいのです…」 と言いたい方も多いだろうが、これがサマーディ確立の第一番目の秘訣なのである。 五戒が守れないことと心の混乱状態は、完全にイコ−ルなのである。 心の散乱を鎮めていく作業が、そのままサマーディを確立することになる。 『共一切不善心所』とか『全悪心共通心所』と呼ばれるもので、その一つが『掉挙(じょうこ:Uddhacca:ウダッチャ)』、すなわち心の散乱状態なのである。 程度の差はあれ、煩悩が出るときには必ず「想いの乱れ、昂奮、浮動、落ち着きのなさetc.」が含まれている。 「ボクはテレビを見ながらでも、カタトキもサティの修行を忘れないんです」 なんていうのはウソに決まっているから、当然サティが入らない。入らなければ画像が眼に入った瞬間、パッと灰かぐらが立つように、極めて短い一瞬の間にさまざまなものが舞い上がり、妄想され、欲望が生まれて、胸がドキドキするかもしれない。 『掉挙』の一瞬である。 不正確に対象を認知するのだから,必然的に心は善行為や善念から逸脱し、煩悩が暴れ出すのである。 『掉挙』の灰かぐら状態が強まれば、行動や言葉のレベルにまで表出してしまう。 言動の威儀が乱れている者に、より微妙な想念レベルでの乱れを統一することはできるわけがない。 悪をすれば、意識するしないにかかわらず、必ず後悔が伴ない、隠蔽しようと戦々恐々になるだろう。 このときに事実上の瞑想がスタートしているといえる。 悪を避ける努力とは、つまり心に不善心所が現れるのを阻止する努力である。貪り、怒り、高慢、嫉妬、物惜しみ、後悔…など14の不善心所が一つでも浮上したならばただちにサティ(Sati;気づき)を入れて見送ってしまわなければならない。 放置すれば、その瞬間に心は汚れ、禅定は不可能になるからである。 サマタ瞑想とサマ−ディについてさらに詳しく検討していきたい。 2. 『 たこ壺にフタをしないで… 』 ( 特集A ) No.1で触れたように、他の対象を振り払い、除外しながら、瞑想対象の一点に心を据えつけていく能力である。いわゆる集中力の根拠である。 すると、瞑想者とその対象とが一つに融けあい、合一したかのように、主体と客体とが未分化の状態になってしまう瞬間が訪れる。 観想し、瞑想している自分の意識が突然、脱落し、瞑想対象だけが意識野に独存し、照り映えているかのように…。 自分からコントロールする感じは全くなく、いきなり<それ>が襲来したかのような印象を受けるのが普通である。 これが「三昧」や「禅定」ともいわれる<サマーディ>の意識状態である。 形のある対象なら『有想三昧』、無念無想の無が対象なら『無想三昧』とヨーガ・ス−トラなどは分類する。 テーラワーダでは、有形の瞑想対象なら「色界禅」、無形の瞑想対象にサマーディが成立すれば、「無色界禅」と呼ばれる。 次の心も、その次の心も等しく同一の対象を持つが故に、サマーディを昔は『等持』とも訳した。 ちなみにヴィパッサナ−瞑想の『瞬間定』とは、このサマ−ディの力をいわば分散し、生滅変化する事象と一瞬の合一を矢つぎ早にくりかえしている状態といえるだろう。 心が形成した瞑想対象との合一を持続するか…。 それとも、刹那々々に生起し、存在し、滅していく、あるがままの事象を対象にするか…。 この違いがサマタとヴィパッサナ−をわける分水嶺でもある。 サマ−ディの定力は絶対に不可欠である。 しかしそのサマ−ディにも落とし穴がある。 その性格上サマタの三昧にハマると、現実の知覚世界にフタをして、たこ壺や繭玉に入ったような閉鎖した内的世界に没入してしまう危険性があるのだ。 この世の現場である事実の世界からシャットアウトされれば、必ずイメージや思考が作り出す内的世界が現れ、自分の心が産み出した偽せものの悟り体験になってしまうだろう。 悟りに必要なサマ−ディの構成因子を、正確に理解しておかなければならない所以である。 『尋』が「狙い定めた対象に注意を向ける最初の粗大な働き」だとすると、『伺』(Vicara:ヴィチャーラ)は「その安定した継続的な働き」である。 『尋』が確立されると他の対象を除外しようとするエネルギーは必要なくなり、その結果、フォーカスされた対象がよく伺察されるのである。 修行実感としては多様多彩に経験されるが、総じてこれを『喜』(Piti:ピィティ)という。 欲しい物が手に入った瞬間の激しい喜びを『喜』とするなら、一段落してその物の味わいをゆっくり吟味して楽しむような幸せが『楽』に譬えられる。 もしくは、対象に突き刺さり没入するような合一感が、『一境性』(Ekaggata:エカガター)である。 サマ−ディが成立する瞬間ともいえる。
サティ(気づき)が安定し、揺るぎなく確立することが、ヴィパッサナ−修行者の第一の目標である。 しかし、たとえサティが完全なものになっても、正しいサマ−ディが確立されない限り、解脱の智慧には到達しないだろう。 サマ−ディがあるレベルに達してから、ヴィパッサナ−に移行すると修行内容が格段によくなるのは誰もが経験する。 つまり歩行感覚や、坐禅瞑想の腹部感覚の実感に、揺るぎなく注意が集中し、逸れなくなれば、対象がよく観えてくるのは当然であり、気づきから洞察へと、ヴィパッサナ−はひとりでに成長する。 私がヴィパッサナ−瞑想を本格的に始めたのは、今から12年前だが、それまでの11年間は、サマタ・サマ−ディの瞑想に専念していた。 死にかかるほど激しい断食をなんどもくり返したり、滝行や真冬の水行などさまざまな苦行を10余年に渡って続けたのも、ただ一つ、瞑想のため、完全なサマ−ディに入定するためであった。 毎日「強力タムシチンキ」という薬液を患部に塗り、ウチワでパタパタあおぐのだが、10日たっても一向になおらない。 そこで、はたして瞑想で治療が可能なのか、まず、サマ−ディに没入してから、水虫の完治したイメ−ジを観想し、実感し、主客未分の合一感のなかで、全快イメージと融け合い、成りきって、キリストが奇跡の癒しを行ったように、一気に病気治しをやってのけようとしたのだ。 空間を静かにながめ、すべてを空間にゆだねたリラックス状態をかぎりなく自分に許していくと、いつのまにか、自分をつつむ空気が、海のように、ゆるやかなたゆたいをはじめ、私は、空間の海に漂っており、その海が、全宇宙であることに気づきはじめる。 頭骨の内部、自我の内側にしがみついていた私の意識は、いつのまにか空間に放射され、ひろがり、宇宙の果てから果てまで満々とみなぎりみちわたる全宇宙意識(ブラフマン)と連続し、つながり、一体化しようとしている。 宇宙を、銀河を、生命を発生させた力は、私の骨をつくり、血液をつくり、脳細胞をつくった力と同じチカラであり、それはいま、この瞬間にも、目の前の空間にみなぎり、私の身体を貫通し、天地一切のものを貫いて全宇宙に遍満している。 その全宇宙意識と私の意識が、すでにはるか昔から連続し、つながっていたという事実に、私は、目覚めようとしている…………。 そのような、トロリとした半覚醒の時間が流れているうちに、なぜだろうか、地球の奥深い中心部で、ドロドロに溶解し、煮えたぎっているマグマの海が、焼けただれた闇のように、意識に浮かび上ってきた。 しかし、それが自分の意識になのか、空間の意識になのか、もはやわからなくなっている。 さるほどに、ドロドロのマグマの核から、金色の一本の直線が、地軸に沿って突きぬけ、地表に達し、床をぬけ、カーペットをぬけ、半跏に組んだ私の尾柢骨から、脊髄をとおり、頭頂部を貫通して、無限の宇宙のかなたにぬけていく……。 その、私をつらぬく金色の直線にそって、地球の全エネルギ−が、私の中に限りなく収束され、私は、遠くはるかな私の生の起源である地球と、とけあい、合体し、一つのものになってしまった……! 私の中には、宇宙の全歴史が刻まれ、封印されている。 私が、まだ胎児だったころ、私は、あたたかい母の羊水のなかで、30数億年におよぶ進化の夢をみながら、私の祖先の姿をすべて追認し、生きてきた。 北京原人も、ヒツジも、トリも、ワニも、サカナも、ナマコも、ミドリムシも…、すべて、私であった。 今、このときの記憶が、ゆくりなくも、鮮やかによみがえる。 私は、アメーバ。 私は、原始の海。 遠い、なつかしい、帰郷の感覚のなかで、私は、さらに深く沈んでいく……。 私が地球と合体し、合一しうるのは、私のなかに地球の痕跡が存在し、地球と私は同じものからできているからだ。 私のなかには、塩がある。 マグネシュウムがある。 リンがある。 強い引き潮で海流が流れていくように、私のなかでも、真っ赤な海が循環し、ドクドクと流れていく。 冬の朝、田畑のしめった土の表面が、朝陽の光のなかで、白い湯気をたてるように、私の一本の髪の毛の中から、土の香りがたちこめる。 私の骨のなかで火山が爆発し、溶岩が流れ出す。 私は地球だ………… さるほどに、 透明な意識の波が、 どこかで微かに、ゆらいだように思われた。 五十六億七千万光年のかなたの宇宙空間に、非常に微細な、チリのような星間物質が浮遊している。 全宇宙に放射された私の意識は、そのチリの一粒の中にまで達し、<チリの中の私の意識>が、ピクピクと波動を伝えながら、ほの暖かい微光をなげかけていた。 その光は、急速に明るさをまし、もはや上なのか下なのかわからない虚空の中、空一面にヒカリカガヤク無数の銀河が、星の海となって、キラメキながら、降りそそぎ、落ちてくるのが、感じられる。 それは、にわかに強い現実感をおびはじめ、私の体を貫通し、天球をつらぬく直線にそい、燦然と光る銀河の海が、私のなかに、ふりそそぎ、流れこみ、私は、マバユイばかりに光り輝きながら、無限の宇宙と合一し、同体となっていた。 いや、私は、生れる以前から、すでに銀河であり、光であり、宇宙そのものであったことを、ついに憶い出したのだ! 失われていた記憶の究極…………。 この、無限の宇宙の空間と光こそ、ブラフマンであり、久遠実成の仏であり、私と仏とは、もはや帯のように連続して、ーつのものになり、自他の分別も、「私」という意識もなく、ただわき上る恍惚とともに、光り輝いている……。 なにもかもが、ただ光であり、 光であることの意識も、 時が移りゆく意識もない、ただの、マバユサ…………! 】 **☆** まだヴィパッサナ−瞑想の存在すら知らなかった23年前には、自分の心が作り出すこんな有想三昧の法悦に浸っていたのだ。 苦笑を禁じ得ない。 さまざまなイメージが氾濫しているにもかかわらず、すべて、地球や宇宙との合一感という一点に絞られているのは、『尋』の力が働いているからだ。 同心円が輪を拡げるように、中心のテーマから、さらに詳細なイメ−ジや想念がのび拡がっていくのは、『伺』や、ヨーガでいう『静慮』の働きである。 全編にわたって、『喜』『楽』が溢れているのはいうまでもない。 本人が深々と体験しているサマ−ディの実感は、とても文字情報では表現しきれないとも痛感される。 夜9時頃だった。 完治していたのである。 |