ニューエイジをめぐる対話(7)
「新霊性運動」の歴史的な意味
| NOBORU:第三の道
それに対し私は、今まで宗教が担っていた働きを、もっと新しい形で持ちはじめたのが新霊性運動ではないかと考えるわけです。新しい形というのは、閉ざされた組織や閉ざされた知識(教義)、閉ざされた人間関係(師弟関係)から自由にということです。 すべてを物資に還元して説明する近代科学は、「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」(中村雄二郎)を満たしてくれません。その欲求を、既存の宗教の閉ざされた在り方とは別の仕方で追求しはじめたのが、新霊性運動ではないかとという捉え方(作業仮説)から、さまざまな側面を考えてみたいのです。 Paratorapa: NOBORU: 文明の発生以来、ほとんどの大衆は閉ざされた宗教の中で、自己の人生の意味を位置付けて来た。近代科学の成立以降は、閉ざされた宗教とともに精神世界そのものが否定される傾向が増していった。 現在われわれは、閉ざされた宗教の拡大されたエゴイズムからも、近代科学の説く、暴力的なまでのニヒリズムからも自由に、ひとりひとりが精神世界を探求できる時代へと歩んでいるのではないか。その方向にしか歩むべき道はないのではないか。ニューエイジ運動や新霊性運動のもっとも良質の部分は、そういう歩みのさきがけとして見ることができるのではないか。 「歴史的な視点」とは、だいたいそんな意味でした。 Paratorapa: 閉鎖的な組織と教義から自由にという意味は私も同意します。しかし、半面「潜在的な組織」、「暗黙裡の教義」も存在します。基本的に個人が単独で活動することはほとんどないと思います。何らかのグループが基本単位であり、そのグループの後ろに幾重にも上位グループが関与しています。集団の境界線は曖昧ですが、階層構造をもっており、国際的な広がりもあるのです。末端の人は知らないでしょうが、この業界にも裏はあります。 NOBORU: Paratorapa: 暗黙裡の教義ですが、これはニューエイジ的な世界観を正しいものとして信じるかどうかに関わる問題です。宗教団体のように教義を前面に出して教え込むと言うことは少ない代わりに、専門化された言葉や技法の習得を通じて、自然と信念の刷り込みが行われます。共有される知識、情報がなければ「運動」にはなりません。また、自由な分だけ、識別眼、本物を見分ける力が要求されます。 私はこうした背景的な部分について、ある程度見聞がありますので、支障のない範囲で述べてみました。きわめて微妙なものがありますので、具体的に言えないことをお詫びします。 NOBORU: Paratorapa: Noboruさんは以前に「裸のサイババ」で、彼らの組織で行われているとされる数々の問題点をご存じになったですね。事の真偽は私には判断できませんが、ああいう情報が出てくる自体、その背景には裏の世界での政治的、経済的、派閥闘争があることの現れなのです。ですから、私は「裸のサイババ」が出てきても特に驚くことはありませんでした。 NOBORU: Paratorapa: NOBORU: ともあれ、パラトラパさんが指摘するような現実の様々な問題は、指摘して、し過ぎることはないと思います。それは「警鐘」としても必要です。ニューエイジ的思考が、「自己慰撫や現実逃避的な作用しかもたらさない場合も」あるでしょう。「死を美化して、現世からの逃避につながる可能性」や「自分の身の回りので起こる出来事をすべて「過去生のカルマ」のせいにして、現実否認を起こす可能性」もあるでしょう。すべてが必要必然ベストであるとする考え方や、没我ないし“和”による集団への埋没などが、管理にとって好都合という面もあるかも知れません。 にもかかわらず私は、生の「意味」に沈黙する物質科学や、宗教的な知の閉ざされ在り方とは別の道がニューエイジ運動や新霊性運動によって示唆されているのではないかと考えます。生の「意味」の問題を、知の在り方としても、組織や集団という場面においても常に「開かれた」かかわりにおいて追求していく、そういう肯定的な側面をこの潮流に読み取りたいのです。また、そういう方向しかないのではないか。だからこそ逆に、現実にある問題点は厳しく批判する必要があるのかも知れません。 もうひとつ言えば、人々の「意味」への渇きが、閉ざされた宗教に飲み込まれるかわりに、今は商業主義や管理主義に利用されているという側面がかなりあるのかも知れませんが。 最近のパラトラパさんとのやりとりでは、もうひとつふたつ論点を整理しなければならないのですが、長くなりますので、ひとまずここまでとします。 あと一・二論点を整理して考えるべき点は、ニューエイジ運動や新霊性運動の中の修行実践に係わる側面と世界観にかかわる側面についてです。この点の理解の仕方にパラトラパさんと私の間で若干の認識のずれがあるようですので、その点の違いを明確にする必要があるとおもっています。
Paratorapa: NOBORU:霊的な世界観を支えに
第一には、霊性の開発の困難さの問題。つまり霊性開発はエリートにのみ許され、一方で思想・世界観としての新霊性運動はもともと大衆性をもっているとうこと。 私は、ニューエイジや新霊性運動を
パラトラパさんは、先に自分の心の内側の開発の道のりを次のように分けました。
そして私のいう(2)思想・世界観としての側面は、「ステップ0の入り口の手前に位置づけられるわけであり、そこから先に進むには何らかの実践を伴う体験的理解が必要となる」とのことでした。 確かに霊性の開発のための修行という面から言えば、思想・世界観にとどまっているレベルは、ステッ0に違いないと思います。しかし、行としては0でも、思想・世界観として果たしている役割は、大きいと思うのです。 閉ざされた教義としてではなく、もっと開かれた世界観、ある意味での検証(限定はありましょうが)の努力にも充分開かれたものとしてこうした世界観が広がっていくこと自体に重要な意味を読み取っています。 長い修行に打ち込んで霊性の開放を果たしていく人は、いつの時代にもごくわずかだったでしょう。その点、現代は変化しつつあるという説もありますが、今はそれには触れません。 Paratorapa: NOBORU: Paratorapa: NOBORU: Paratorapa: NOBORU: Paratorapa: http://homepage1.nifty.com/paratorapa/mihokiyou.htm では死生観とハピネス、自己超越傾向との関係が以下のようにみられました。 *** 死生観における死後存続概念を持つことと自己中心的生き方意識は負の相関を持ち、その自己中心的生き方意識は、あらゆる満足感を低下させ、自己超越傾向においても低い結果となった。 また、死生観における宗教性(霊性)の否定は、生き方意識に影響を与えていた。つまり、霊性を否定することは、幸福感に正の相関がある努力的、協同的、多彩的生き方意識を遠ざける要因となっていたわけである。 そして、その死後存続概念を持つかどうか、霊性を否定するかどうかは死に関連する経験頻度と有意な相関を見せた。つまり、経験が多いほど死後存続概念を持ち、少ないほど霊性を否定していた。また、その死に対する経験頻度は自己超越傾向と正の関連性があることがわかった。 さらに、死後存続概念、霊性の否定に関連する要因として、生に対するイメージが見出された。すなわち、生に対して肯定的イメージを持つことと死後存続概念とは正の相関を持ち、霊性を否定することと負の相関を持っていたのである。ここに生と死のつながりが浮かび上がってくる。つまり、生を肯定的に捉えることが死生観にもポジティブな影響を与え、開かれた死生観を形成しているのではないかと推測されるのである。 *** 以上をまとめると ゆえに、「生」を受容、肯定し、ハピネスを感じることが、超越傾向の強化につながるとデータからもいえます。 ただし、「死生観」というワンセットの観念形で、生と死の受容ができていることもハピネスの要件の1つです。 私は、個人的な見聞、体験から、またこうした心理学的実証データの両面に基づいて、前のように語りました。 NOBORU:凡夫と霊性 問題は、だから大部分の人間は最初からそれをあきらめて、それと無関係なところで生きていくほかないという風潮が蔓延することです。 私は、「凡夫」が少しずつ精神的に成長していくことと、覚醒に至ることとは連続的なものだと考えています。 普通の人間の精神的な成長のいきつく先に悟りがあると思うのです。 ですから、普通の人間が「この世界には深い精神的・霊的な次元がある、そして私たちは、学び成長し、少しでも高い霊性に近づくために生きている」という世界観に支えられて、普通の生活の中で成長を目指して生きていくことにも意味があると思います。 新霊性運動は、大衆が普通の生活の中で、悟りや覚醒に至る手前の道を歩んでいく生き方をも指示しているとは言えないでしょうか。私は、そうしたものとしてこの運動のそういう部分に注目したいと思います。 もちろん、成長から覚醒への道程には断絶もあります。禅語の「百尺竿頭一歩を進む(ひゃくしゃくかんどういっぽをすすむ)」(五灯会元)のように、最後のところで大いなる飛躍が必然なのかも知れません。そのためには世俗の生活を一度捨てることも必要なのでしょう。しかし、それはやはり現実にごく限られたものにのみ許されます。 新霊性運動に大衆的な意味があるとすれば、それは、世俗の生活を送る「凡夫」にとっても、霊性の次元を支えにしながら日常生活そのものを意味あるものとして生きていけるところではないでしょうか。 大衆のレベルに、精神的・霊的な次元を意識した生き方が拡がっていくことに、新霊性運動の意味を見いだしたいのです。 Paratorapa:凡夫と霊性 霊的なプロやそれをめざす人の場合、修行やら訓練やらという、前に書いたようなステップを踏み込んで、上り詰めていく必要があるかもしれませんが、たとえプロでない「凡夫」であっても、すでに一度くらいは「悟っている」はずです。これは別に難しく考えるものではなく、本やメディアから知識を得るものでもなく、単に生活の中で「感動」していることです。 生きていること自体が楽しい、ワクワクする、嬉しい、すなわちハピネスを感じている瞬間であり、それはどのような活動、文脈の中で経験されてもいいわけで、大上段に振りかぶるものではありません。 「生」の受容、肯定の体得こそが基本的に「悟り」であると思います。 マスローの言うようなB価値の実現やB認識も、このイメージに近いと思います。 しかし、人間は生まれてから常にそういうハピネスの状態を維持することができません。罪悪感、辛い、悲しいと嘆くことも多くあります。これは、心の曇りであり、否定から来るとらわれです。ですから、多くの場合、「悟り」も瞬間風速で終わってしまいます。 私は「慈悲」という言葉が好きですが、生きとし生けるものを、そのまま自然な状態で生かしている大いなる力、慈悲の作用がわれわれの内と外にあるのだろうと思います。その働きを純真無垢にそのまま享受することが「悟り」なのだろうと。 無邪気に遊んでいる子どものような心でしょうか。 そう言う状態には素人も玄人も区別がないわけで、確かに霊的なプロはその使命から、これを純化して一層高めてくための特別な訓練を続けることになるのでしょうが、「俗」の世界に生きている凡夫であっても、おいしいものを食べながら、おいしいお酒を飲みながら、楽しい旅行先で、日常生活の至る所にも、そのきっかけは転がっている。 さしあたり、物理的世界に生まれてきて、有限の肉体を使って生活しているわけですから、その中でもいっぱいハピネスを感じられる素材はあるのです。 神秘体験や超常体験をするだけが悟りへの道ではない、とはっきり思えるようになりました。(繰り返しますが霊的プロは別。彼らには彼らの役割があります) みんな同じである必要は最初からありません。個性的な顕れ方がありますから。 この辺の話は、学問的云々の問題ではなく、あくまで私個人の見聞や体験に基づいた見解に過ぎないもので、まだ上手に伝えることができません。自分でもこれまで難しく考えすぎてきたことが馬鹿馬鹿しく思われるくらいです。 もうちょっと咀嚼できるには時間がかかりそうです。 Paratorapa: *霊性の定義 ・・・ドナルド・ロスバーグ 「自己や共同体が『聖なるもの』に十分に加担し表現する方向に向かっ て、生きた変容が促されるのを助ける教義や実践に関わるもの」 *宗教の定義 ・・・同上 「宗教は『聖なる』とみなされるものと関連する教義・儀式・神話・体 験・倫理・社会構造などの組織化された形を意味する」 以上のことから 霊性=宗教−(組織+制度) ととらえることができる。 特に集団に縛られず、制度からもフリーな立場で「聖なるもの」に関与していくというスタイルが、今世紀の宗教意識のトレンドであることは間違いないでしょう。 しかし、既存の宗教団体からはフリーでありますが、「教義と実践」は 備わっているわけで、基本的には霊性も宗教と同様に「信」の世界であり、スキーマの影響を受けることには留意したいです。 NOBORU:霊性とは
霊性=宗教−(組織+制度) ととらえることができるとのことですが、 私は、ここからさらに一歩踏み込んで 霊性=宗教−(組織+制度+教義) ととらえたいと思います。それは教義への単なる信ではなく、直接的に聖なるものに触れている状態です。これは狭義の霊性です。 狭義の霊性の次元は、別の視点から云えば、自己中心的な認識や、特定の個人的スキーマ(外界からの情報を処理するために使われる知識の基本的なまとまり。シェーマ)や、特定言語や文化の枠組みから、かぎりなく自由に「あるがままの現実」、真如に触れていくことを意味すると思います。 ですから、もしスキーマの影響を受ているのであれば、それは真如に触れていない、つまり本当の意味で霊性の次元に触れているとは言えないと思うのですが、いかがでしょうか。 これに対し広義の霊性は、既存の宗教団体の組織や制度、またその閉ざされた教義からは自由ですが、物質的な次元を超えた精神的・霊的な次元への信をもつ状態と定義したいと思います。なんらかの信があり、それに囚われていれば、その信が何かしらスキーマとして、真如に触れることをさまたげることはあると思います。信も何かしらの判断を含む以上、スキーマ・分別知であり、分別知への囚われは、霊性からの離反です。 Paratorapa: これで、かなり霊性なるもののイメージが明確化できたと思います。 黙想的な智慧を得ている場合はともかく、表層的な「信」のレベルではそうなるのだろうと思います。 NOBORU 今述べた狭義の霊性は、どちらかと言えば(1)に関係が深く、広義の霊性は、(2)に関係が深いと言えるかも知れません。(1)で使われている「霊性」は、もちろん狭義の霊性です。 「信」は、深い内省や絶望、その徹底性を経ることによって本当の意味での霊性・宗教性への超え出るという側面があると思います。 しかし多くの場合、それのみが唯一正しいという自己中心的な分別知になってしまい、盲信となって、他との争いを引き起こす原因ともなるのでしょう。特定集団の教義への盲信はその典型です。 特定集団の組織・教義から自由であったとしても、自分自身の霊的次元への信を、「多重なスキーマ、複数の情報源等、複眼思考による批判力」でたチェックしていくことが必要なのでしょう。 同時に、これまでみて来たようなチェックをつねに忘れないこと。つまり、権威主義的な師弟関係でないか、実証性を失っていないか、閉ざされた組織・教義になっていないか、エゴイズムに陥っていないか、ということなどの確認が大切なのでしょう。 Paratorapa: NOBORU
: Paratorapa: 02・1・14 追加 続く |