◇臨死体験・気功・瞑想
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唯識仏教は、心の深層の利己心を徹底的に分析・記述し、さらにそれが利他心へと変貌していく可能性を展望した。ここでは心を見つめる唯識に特有な構造を、シュッツの日常世界論と比較しながら論ずる。 1 唯識仏教の深層心理学 仏教は元来、六つの識をあげる。まずは眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(臭覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)の五感のは働き(前五識)である。つづいて第六識意識は、推理・判断などことばを用いた思考作用あり、感情・意志なども含めたいわゆる「心」の働きである。しかし唯識は、さらにその深層に働く第七識の「マナ識」と第八識の「アーラヤ識」とを発見した。マナ識は潜在的な自己我執着心であり、アーラヤ識は、さらにその深層にあって以上のすべての識を生み出す根源的な識である。 ◆アーラヤ識 こうした唯識の主張は現代科学の枠組から判断すれば受け入れがたいだろう。しかしそれを頭から否定することは謹むべきだ。ユングは、人間の身体が長い進化の歴史を背景にもっているように、心も同様の背景を持っていて、非常に古い心が、我々の心の基層をなすという。たとえば近代人の夢のイメージと原始人の神話的なモチーフとの間に歴史的・文化的関連性が一切ないにもかかわらず、細部の具体的な類似性も含めた驚くべき類似性を示すことが多いという。ユングは、こうした現象を生み出す「古代の残存物」を「元型」と呼んだが、近代科学は、こうした心的現象を説明する原理を一切もっていない。 ◆マナ識 次に以上を「能変」という考え方から捉えなおそう。我々の心は、認識の対象をあるがままに受け取っているのではなく、それを取捨選択し、歪曲し、能動的に変形している。こうした働きを「能変」という。その基盤をなすのがアーラヤ識とマナ識とである。我々は、過去の一切の経験の蓄積(アーラヤ識=初能変)と深層の自己執着心(マナ識=第二能変)とによって、無自覚的に歪められたものとしての現実に出会うのである。さらに第六意識と前五識が第三能変としてこれに加わる。要するに我々は全八識によって色づけられ、変現され、歪曲された現実を見ているのだ。 2 シュッツの「日常生活の世界」 ◆手許の知識の貯え ところで日常生活において我々は、つねに蓄積された「手許の知識」を持っており、それを枠組として現在の経験を解釈し、未来の予測を行っている。この「知識の貯え」は過去の一切の経験のなかで構成されており、その経験の結果が「習慣的な所有物」になったものである。それは、これまでの経験が沈殿して蓄積されて形成された「生活史的状況」の一要素であり、それが類型化され習慣的に保持されるようになったものである。過去の経験は、習慣化され類型化された「手許の知識の貯え」という形態をとることで、この世界を解釈するときの類型的な準拠図式として機能する。 ところで「手許の知識の貯え」といっても、私が直接に生きてきた経験だけで成り立っているのではない。むしろその大部分は社会に由来し、両親や先生や仲間から我々に伝えられた経験や知識の集積に基づいている。それゆえ同一の文化的集団内の他の人々の持っている手許の知識は、ある程度は私の持っているものと一致する。たとえば日常言語は社会に共有された「諸類型と諸特性の宝庫」である。言語を獲得する過程で我々は、その社会が経験をどのような類型によって整序し、対象化するかを学ぶ。つまり事物を経験する仕方を学ぶ。経験の対象をある名前で把握することは、それを社会が公認した類型性にもとづいて経験することである。いずれにせよ「手許の知識の貯え」は様々な類型によって構造化されて成り立っている。そのなかには、たとえば類型的な生活様式、環境に対処する類型的な方法、「類型的な状況のなかで類型的な目的を実現するために類型的な手段を使用する効果的な方法」などが含まれる。 ◆状況の定義と「手許の知識の貯え」 さて、様々な事物や状況を類型的に把握することは、その事物や状況の一定の局面、ある特徴だけに光りを当てるということである。多くの特徴をもった限りなく具体的な個々の事物をある一つの類型の下に捉えるということは、その事物が他の事物と共有している一定の側面だけを強調し、他の側面を無視するということである。通り過ぎた犬は、たとえば「単なる犬」、「野良犬」、「怖そうな野良犬」、「立派な柴犬」、「隣のタロー」等々とさまざまな類型によって捉え得る。どの類型が選ばれ、どの類型が無視されるかは、その時点での私の利害関心と知識の貯えの構造に依存する。つまり私の当面の利害関心に「関連性」の高い類型が選ばれるのである。こうして、私の利害関心との「関連性」にしたがって構造化された「手許の知識の貯え」のなかから、私の関心と「関連性」の高い類型が呼び起こされることによって日常的世界の一切が解釈されていく。 では、私の当面の利害関心や問題や目的を決定しているものは何か。それは私の「生活史的状況」をなしている過去の一切の経験である。私は、私だけに独自な生活史を担い、そこからのみ自分独自の当面の利害関心や目的を紡ぎ出す。利害関心との「関連性」において「手許の知識の貯え」が構造化され、そのなかから「関連性」の高い一連の類型が呼び起こされ、その類型によって現実は解釈される。すなわち私独自の「生活史的状況」と「手許の知識の貯え」とによって状況が定義されて経験される。さらにその経験は沈殿化して「手許の知識の貯え」の一部となり、それがふたたび現実を解釈して経験する準拠図式となる。こうしたプロセスが一瞬毎に繰り返されて行くのである。 3 シュッツ思想と唯識説 ◆一切の経験や知識が沈殿化して生活史を形成=熏習? では唯識におけるアーラヤ識とマナ識の区別は、シュッツ思想の文脈のなかではどのように理解できるか。もちろんシュッツは、始めなき永遠の過去からの経験が蓄積されているという意味での「アーラヤ識」のようなものを想定してはいず、またたとえ誕生以来という意味でにせよ、これまでの一切の経験の蓄積を唯識派の「アーラヤ識」に対応するような概念を用いて自覚的に説明してはいない。しかし個人が生まれて以来の一切の経験や知識が沈殿化して生活史を形成していることを前提として議論を進めており、その意味でシュッツの発想は、一部分で「アーラヤ識」の思想に重なる。 ◆マナ識と状況 ところで「手許の知識の貯え」は、私の利害関心や特定の問題との「関連性」に応じて階層化された類型化の体系をなしていた。そして日常生活の世界の一切の事物や状況は、こうした「手許の知識の貯え」のなかから、私の利害関心と「関連性」の高い類型が呼び起こされることによって、それをフィルターとして構造化され、解釈される。この働きは、唯識派のいうマナ識による「第二能変」の働きと同じだ。シュッツの「手許の知識の貯え」の背後には、深層で働らく利害関心(マナ識の機能に当たる)が想定されている。すなわち我々は、深層の自己執着心によって「手許の知識の貯え」を形成し、それによって、現実を「能変」し、類型化し、仮構している。私は、つねになまの現実を見るのではなく、おのれの利害関心が反映した現実を見ているのだ。 4 アーラヤ識と大円鏡智 唯識仏教は、我々の倒錯した日常的な認識作用である八識を転じて、ありのままの真実を見る能力を得ることを目指す。詳しくは、八識のそれぞれを変化させて次の四種の知慧(四智)を得ることである。すなわち、前五識→成所作智、意識→妙観察智、マナ識→平等性智、アーラヤ識→大円鏡智の四智である。 まず大円鏡智とは、丸い鏡の玉のように瞬時に一切をあるがままに映しとる清浄な無分別智である。つぎに平等性智とは、円鏡のような無分別智に一切の事物がまったく平等に映し出されている姿を表現している。さらに妙観察智とは、円鏡がすべてを平等にしかもそれぞれ独自な姿をそのままに映しているように、個々の独自性(=妙)が確かに観察され感じ取られているという意味である。最後に成所作智とは、前五識が転換して、ひたすら衆生を救いとるために働くことをいう。 唯識の行者が見つめた利己心は、容易には克服できない深層に根差した執着心であったが、にもかかわらず唯識は、利己心が利他心へと変貌する可能性を視野から見失わず、瞑想に励み続けたのである。 《主要参考文献》 『大乗仏典15、世親論集』、長尾雅人他訳、中央公論社 00/10/07 追加 |