響きの世界 - アメリカテロ事件
No.490 暴力では解決しない
道義なき攻撃の即時停止を 辺見庸 (Enviro-News より転載)
Special feature: US/UK Bombings in Afghanistan (Opinion Column). 9 October 2001 Asahi Shimbun Newspaper, morning edition, Page 11, Opinion 1. Unjust attacks should stop immediately By Yo Hemmi (Enviro-News より転載)
2001.10.15: チョムスキーさん(アメリカの言語学者,思想家)からの配信 (Enviro-Newsより転載)
2001.10.14: 星川淳さん(屋久島の作家・翻訳家)からの配信(Enviro-Newsより転載)
2001.09.28: アメリカがアフガニスタンを「欲しがる」わけ
2001.09.12: 国連難民高等弁務官カンダハール事務所 千田悦子(ちだ・えつこ)さんの手記
「戦争しか知らない子供たち」
「神の戦士たち」
(株) アシスト 『ビル・トッテンのページ』
No.490 暴力では解決しない by ビル・トッテン (2001年10月3日)
http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00490.html
題名:No.490 暴力では解決しない
From : ビル・トッテン Subject : 暴力では解決しない Number : OW490 Date : 2001年10月3日
世界を震撼させた9月11日のテロ事件について、OWの読者の皆様から米国人としての私のコメントを求められています。今回は、テロの直後に寄せられた読者からのメールへの回答と、このOWでも以前に論文を取り上げたことのある米国人学者ハワード・ジンのエッセイをお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
(ビル・トッテン)
暴力では解決しない
読者:米国中西部に住む者ですが、3日前に起こったニューヨーク市をはじめとする米国の中枢に対する大規模なテロリスト攻撃以来、まわりの雰囲気がガラリと変わってきました。この静かな住宅街でもどの家も星条旗を掲げ、まだ旗を出していない家に対し、「誇りをもって国旗を掲げるように」などというビラが配られて来るし、普段一緒に仕事をしている米国人の同僚たちも皆、強硬な軍事的制裁を望んでいます。私は日本人であり、米国だけが潤い、米国だけが勝利するのではなく、国際共存の道を目指すべきだというトッテン氏に共感する者ですが、事件以来の人々の短絡的な、感情論が先走った反応に囲まれ、落ち着かない毎日を過ごしています。米国は国際共存からますます遠いところへ向かっているような気がしてならないのです。しかし、大きな声でそれを言うと袋叩きにさえなりかねない状況です。ブッシュ大統領は今回のテロ攻撃を「戦争行為」とし、軍事的報復に向けて国民を一致団結しようとしています。そして、国全体が彼の思惑通りに動いているようです。罪もなく亡くなられた犠牲者を思うと心が痛みます。しかし、憎むべきは本当にアフガニスタンに潜伏中だというビンラディン氏率いるテロリスト集団なのでしょうか? トッテン氏のお考えをお聞かせ下さい。
トッテン: 我々は現在テレビをはじめとするマスメディアの時代に生きています。それがもたらした結果の一つは、大部分の人が読書もせず、例えば百年前の人々に比べてじっくり物事を熟考しなくなったことです。したがって多くの人が、昔の人々よりも無知で操られやすくなりました。さらにテレビなどのマスメディアによって、現在はこれまでになくデマによって人々を分別のない狂乱状態に陥れることが容易になっています。今、貴方が米国中西部で感情論が先走った反応を目にしているのも、驚くべきことではありません。おそらく、貴方にはご家庭があり、お子さんもいらっしゃるでしょう。貴方のすべきことはご家族やご自分を守ることであり、米国への批判を口にして自らを危険に晒すべきではありません。狂乱状態の大衆に冷静に理性的に語ることは安全ではありませんし、決して有効ではないからです。
私も貴方と同様に、この事件で亡くなった罪のない人々、そのご家族や友人、同僚といった方々を思うとお気の毒で言葉もありません。そしてそれと同じように、第二次世界大戦が終焉してから米国の空爆によって亡くなった、数百万人の罪のない民間人についても私は同じように胸が痛むのです。
米国が空爆を行った国名とその年代を以下に列挙します。
中国 1945-46 韓国 1950-53 中国 1950-53 グアテマラ 1954 インドネシア 1958 キューバ 1959-60 グアテマラ 1960 コンゴ 1964 ペルー 1965 ラオス 1964-73 ベトナム 1961-73 カンボジア 1969-70 グアテマラ 1967-69 グレナダ 1983 リビア 1986 エルサルバドル 1980年代 ニカラグア 1980年代 パナマ 1989 イラク 1991-99 ボスニア 1995 スーダン 1998 アフガニスタン 1998 ユーゴスラビア 1999
米国の空爆によって、数百万人もの罪のない民間人が無情かつ無差別に殺されました。そういった攻撃によって、この世界が良くなったでしょうか。または米国がこの空爆を続ける理由が思いあたりますか? これらの米国の空爆こそ「顔のないテロリズム」ではないでしょうか。視界にも入らない空中のはるか高いところの爆撃機から、またははるか彼方の艦隊から発射された爆弾が、突然爆発する恐ろしさを想像できますか。この米国が行ってきたもの以上に「顔のないテロ行為」と言えることはないと思います。米国に対してなされた、今回のテロ行為の犠牲者に対するものと同じ思いを、米国のテロ行為によって殺された人々にも向けられることを願っています。そして、米国人が、世界の多くの人々が米国人を嫌うに至った原因を作ったのが、米国だったということに、気づいてほしいと思います。今回の同時テロ事件で、米国に対する憎しみをこれ以上増すのではなく、減らすような行動を米国がとることを望みます。テロリズムと戦う最善の方法は、テロ行為の原因となる憎しみを取り除くことだと思います。
最後に、この攻撃がビンラディンによるものかどうか、貴方と同じくらい私もわかりません。彼は、第二次世界大戦後、米国が世界中で数百万人を殺してきた方法と同じようなやり方で米国人を殺すほど米国を憎んでいる多くの国々の、何百万人もの人の一人に過ぎないような気もします。
暴力では解決しない
ハワード・ジン
(The Progressive, 2001.9.14)
そのテレビの映像は、胸が張り裂けるものだった。炎の中の人がビルの100階の高さから死に向かって飛び降りる。パニックと恐怖にかられた人々が、埃と煙の中を現場から必死に逃げ出している。そこでは数千人もの人々が生き埋めとなり、瓦礫の下ですぐに亡くなったであろうに違いないことを私たちは知っている。衝突するためにハイジャックされ、炎上し、死を迎えた飛行機の乗客が味わった恐怖は、想像することしかできない。それらの映像に私はひどいショックを受け、吐き気をもよおした。
その後、米国の政治指導者がテレビに映し出され、私は再び、恐怖と吐き気に見舞われた。彼らは、報復と、復讐と、懲罰をすると言った。
これは戦争だ、と彼らは言った。そして私は思った。彼らは20世紀の歴史から何も学んでいない。100年にわたって行われた報復と復讐と戦争から、100年間にわたるテロリズムと反テロリズムという、暴力に対して暴力で返される終わりのない愚かさの繰り返しから、彼らは何一つ学んでいないのだ。
犯人が誰であれ、罪のない何千人もの人々を殺すことが自分たちの大義を促進するという狂った考え方を持つ者に対して、我々はみな、ひどい怒りをおぼえる。しかしこの怒りを我々はどうすればよいのか。慌てふためいて反応し、自分たちがどんなに強靭であるかを誇示するために、暴力的かつ盲目的に攻撃するのだろうか。ブッシュ大統領は、「我々はテロリストと、テロリストをかくまう国々とを区別しない」と宣言した。こうしてアフガニスタンを攻撃し、区別をしないということは無差別に爆撃を行うことであることから、必然的に罪のない人々を殺すのだろうか? テロリストたちに警告するために、こうして米国は自分自身がテロ行為を行うのだろうか?
米国は前にもそれをやってきた。それは昔の考え方であり昔のやり方だ。うまくいったことは一度もなかった。レーガンはリビアを爆撃した。ブッシュはイラクと戦争をした。クリントンはアフガニスタンを攻撃し、テロリストたちに警告するためにスーダンの製薬工場を爆撃した。その結果が、このニューヨークとワシントンにもたらされた恐怖である。もはや暴力を通じてテロリストたちに警告しても何も解決せず、むしろそれが別のテロ行為をもたらすということがはっきりしたのではないだろうか?
イスラエル・パレスチナ紛争から、我々は何も学んでいないのだろうか。パレスチナ人が自動車爆弾をしかければ、イスラエル政府は空爆とタンク爆撃で報復する。もう何年もそれが続いている。何も解決しない。そして両サイドの、罪のない人々が死んでいく。
そう、これは古い考え方で、米国には新しい方法が必要だ。米国の軍事行動の犠牲者となった、世界の至るところの人々が感じている恨みを、米国は考える必要がある。ベトナムでは、爆撃で人々を恐怖に陥れ、ナパーム弾やクラスター爆弾を使い農村を攻撃した。ラテンアメリカでは、チリ、エルサルバドル、その他の国で独裁者と死の分隊を支援した。イラクでは、米国の経済制裁によって何百万人もの人が死んでいる。そしておそらく、現状を理解するためにもっとも重要なのは、米国政府がイスラエルにハイテク兵器を供給する一方で、ヨルダン川西岸地区とガザの占領地区において百万人以上のパレスチナ人が、残虐な軍事占領下で暮らしているということだろう。
今テレビ映像で目にしている恐ろしい死や苦しみが、世界の別の場所で長い間続いてきたということを我々は考える必要がある。そして今だからこそ、我々はそれらの人々の苦難が、しばしば米国の政策によってもたらされたものだということがわかるのだ。そして、それらの人々のうちのある者が、いかにして静かな怒りからテロリズムという行動に出たのかを、我々は理解する必要がある。
米国は新しい考え方が必要だ。軍事予算に3千億ドルを費やしても国家の安全はもたらされなかった。世界中に米軍基地を置き、すべての海に米国艦隊を配備しても安全はもたらされなかった。米国は世界における位置づけを再考する必要がある。米国は他国の、または自国の人々を制圧する国々に武器を供給するのを止める必要がある。メディアの政治家たちがどんな理由をこじつけたとしても、我々は戦争をしないと決意する必要がある。なぜなら今の時代の戦争はつねに無差別であり、罪のない人や子供たちに対する戦争になるからだ。戦争はテロリズムであり、被害は100倍にもなる。米国人に安全をもたらすためには、国家の富を銃や飛行機や爆弾に使うのではなく、人々の健康や幸福のために使うことである。無料の国民健康保険や教育、住宅や一定水準の賃金保証、国民すべての健全な環境作りに使うのだ。ある政治家が求めているように国民の権利を限定しては安全はもたらされない。国民の権利を拡大してこそ、それは達成される。
我々が例に学ぶべき人々は「報復」や「戦争」を叫ぶ軍事指導者や政治家ではなく、騒乱のさなか人々の命を救った医師や看護婦、医学生や消防士、警察官だ。彼らがまず考えたのは暴力ではなく治すことであり、復讐ではなく苦しみに対する哀れみである。
Enviro-News from Junko Edahiro・No. 583 (2001.10.15)から引用
(http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/news/
特集・米英、アフガン空爆(私の視点)
2001年10月09日 朝日新聞朝刊 11ページ オピニオン1
◆道義なき攻撃の即時停止を 辺見庸
この報復攻撃には、なんらかの国際法的、あるいは、人間的正当性があるだろうか。この戦いは、成熟した民主主義国家対テロ集団という図式でとらえることのできるものなのだろうか。これは、ブッシュ大統領のいうとおり、文明対野蛮、善対悪の戦いなのだろうか。私の答えは、すべて、ノーである。結論を先にいうならば、当事国は、このいささかも道義のない軍事攻撃を即時完全停止すべきであり、われわれは攻撃がつづくかぎり、つよく反対の声を上げなければならない。
○非対称的な世界の衝突
目を凝らせば凝らすほど、硝煙弾雨の奥に見えてくるのは、絶望的なまでに非対称的な、人間世界の構図である。それは、イスラム過激派の「狂気」対残りの世界の「正気」といった単純なものではありえない。オサマ・ビンラディン氏の背後にあるのは、数千の武装集団だけではなく、おそらく億を超えるであろう貧者たちの、米国に対するすさまじい怨念(おんねん)である。一方で、ブッシュ大統領が背負っているのは、同時多発テロへの復讐(ふくしゅう)心ばかりでなく、富者たちの途方もない傲慢(ごうまん)である。
とすれば、現在の相克とは、ハンチントンの「文明の衝突」という一面に加え、富者対貧者の戦いという色合いもあるといえるのではないか。敷衍(ふえん)するなら、20世紀がこしらえてしまった南北問題が、米国主導のグローバル化によってさらに拡大し、ついにいま、戦闘化しつつあるということだ。富対貧困、飽食対飢餓、奢(おご)り対絶望――という、古くて新しい戦いが、世界規模ではじまりつつあるのかもしれない。
○自前の眼で惨禍直視を
もうひとつ、見逃せない危機がある。テロ攻撃に逆上した米国と、日本をふくむ同盟諸国が、この時期、近代国民国家の体裁さえかなぐり捨てようとしていることだ。テロ対策をすべてに優先し、法的根拠もなく多数の“容疑者”を身柄拘束し、一切の話し合いを拒否して大がかりな報復攻撃に踏み切るような米国のやりかたは、もはや成熟した民主主義国家の方法とはいえない。これにひたすら追随する日本政府は、首相みずから憲法9条、同99条(憲法尊重擁護義務)に違反してまで、米国の報復攻撃を助けようとやっきである。勢いづくこの国のタカ派の論法の先にあるものは、徴兵制の復活でもあろう。
そろそろ米国というものの実像をわれわれは見直さなければならないのかもしれない。建国以来、200回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下をふくむ、ほとんどの戦闘行動に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか。おそらく、われわれは、長く「米国の眼(め)で見られた世界」ばかりを見過ぎたのである。今度こそは、自前の眼で戦いの惨禍を直視し、人倫の根源について、自分の頭で判断すべきである。米国はすでにして、新たな帝国主義と化している兆候が著しいのだから。
今回の報復攻撃は、絶対多数の「国家」に支持されてはいるが、絶対多数の「人間」の良心に、まちがいなく逆らうものである。問題は、「米国の側につくのか、テロリストの側につくのか」(ブッシュ大統領)ではない。いまこそ、国家ではなく、爆弾の下にいる人間の側に立たなくてはならない。
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Special feature: US/UK Bombings in Afghanistan (Opinion Column)
9 October 2001
Asahi Shimbun Newspaper, morning edition, Page 11, Opinion 1
Unjust attacks should stop immediately By Yo Hemmi
Is there any international legal or human justification in theseretaliatory attacks? Can this struggle be portrayed as one between amature democratic country and a terrorist organization? Is this a battlebetween civilization and barbarism, good against evil, as President Bushdescribes it? My answer to all of these is "No!" These military attacksdon't have the least moral justification and should be completelystopped at once. And as long as they continue, we should raise ourvoices in strong opposition.
Clash of unequal worlds
The closer you examine the issues, what you see behind them is a world that is despairingly unequal. They cannot be portrayed simply as the "insanity" of Islamic extremists against the "sanity" of the rest of the world. Behind Osama bin Laden are not only thousands of armed groups.There is also a deep grudge against the United States held by perhaps hundreds of millions of the poor. President Bush is filled with not just the sense of revenge for the terrorist incidents in September, but also the incredible arrogance of the rich.
Hence, besides the perspective presented by Huntington in "The Clash of Civilizations," doesn't the current conflict also carry the undertones of a struggle between rich and poor? To elaborate, if this is so, it means that the problems created during the twentieth century between the rich north and poor south have intensified as a result of U.S.-led globalization, and are now heading towards conflict. Perhaps this struggle, which is both old and new-rich against poor, abundance against starvation, luxury against despair-is emerging now on a global scale.
Look at tragedy with your own eyes Another threat exists which must not be overlooked. These days the United States, in a frenzy after the terrorist attacks, and allied countries including Japan, are in the process of throwing off the appearance of modern civil nation-states. The U.S. approach-giving absolute precedence to terrorist countermeasures, taking into custody many "suspects" despite the absence of legal grounds for arrest, and launching large-scale retaliatory attacks while refusing any form of dialog-cannot be described as the approach of a mature democratic country. And the Japanese government is obediently tripping over itself to assist the U.S. retaliatory attacks, to the extent that the Prime Minister himself is willing to violate our Constitution's Articles 9 (renunciation of war) and 99 (duty to respect and uphold the Constitution). Behind the thinking of the hawks now gaining momentum in Japan is probably the revival of the military draft.
Perhaps it is time for us to revise the image we hold of the United States. Is it acceptable to entrust the world's authority to pass judgment, to that superpower of war that has sent its soldiers to fight more than two hundred times since the country was founded? That country has scarcely reflected as a nation upon its war-making, including the use of the nuclear bomb. Japan has probably been seeing the world through the eyes of the United States for too long. Now is the time to see the tragedy of war with our own eyes, and to make our own moral judgments. Because there are already conspicuous signs that the United States is tilting toward a new imperialism.
An absolute majority of nations supports the current retaliatory attacks but without a doubt, the attacks defy the conscience of an absolute majority of members of humanity. The issue is not, as Bush claims, "Either you are with us [the United States], or you are with the terrorists." Now, more than ever, we must take sides, not with a country, but rather with the people who are below the bombs that are falling.
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辺見氏と英訳してくれた友人に感謝します。
Enviro-News from Junko Edahiro・No. 583 (2001.10.15)から引用
(http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/news/
同時多発テロ事件の翌日、9月12日に、アメリカの言語学者,思想家であるチョムスキー氏がコメントを発表しています。事件直後のコメントということで興味深く、掲載サイトに転載の許可を求めていました。許可しますというメールが来たので、和訳してご紹介します。
http://www.counterpunch.org/chomskybomb.html
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クイック・リアクション(チョムスキー)
9月11日の攻撃は大きな凶行であった。被害者の数でいえば、ほかの多くの凶行ほどではない。たとえば、クリントンはスーダンを信憑性のある口実もなく爆撃し、同国の医薬品の半分を墓石、おそらく何万人ものスーダン人を殺した(その数字はだれも知らない。というのは、アメリカは国連での聴取を阻み、だれもそれを追及することなど気にかけていないからだ)。ほかにもすぐに思い浮かぶもっと悪い事例があることはいうまでもない。しかし、これが身の毛のよだつような犯罪であることは疑いようがない。
例によって、犠牲になったのは主に労働者であった。ビルの管理人や掃除夫、秘書、消防士たちだ。これはおそらく、パレスチナ人やその他の貧しく抑圧された人々にとって、壊滅的な一撃となることだろう。また、セキュリティの厳しい統制につながり、市民的自由や国内の自由を損なうという影響があちこちに出てくるものと思われる。
この出来事は、「ミサイル防衛」という考え方の愚を劇的に暴露するものである。はじめからずっと明白であり、戦略アナリストが繰り返し指摘してきたように、もしだれかがアメリカに、大量破壊兵器も含めて、甚大な損害を与えたいと思えば、ミサイル攻撃を仕掛けるということはほぼありえないだろう。そんなことをすると、自らもすぐに破壊されてしまうからだ。もっと簡単で、基本的に阻止しようのない方法が無数にある。
しかし、それでもなお、このような出来事は、そのようなシステムを開発し、配備せよ、という圧力をいっそう強めるために使われることになるだろう。「防衛」というのは、宇宙の軍事化計画を被う、うまいPR付きの薄っぺらい包み紙である。どんなに見え透いた論議であっても、恐怖におびえる国民の間ではある重みを持つからだ
簡単にいえば、この犯罪は、強硬な主戦論者にとっての贈り物である。彼らは、武力を使って自分たちの勢力範囲を統制したがっている。おそらくアメリカが取るであろう行動を別にしても、である。そして、そのような動きが何を引き起こすことになるのか・・・おそらく、今回のような攻撃が何度も行われ、より酷い攻撃すらありうるだろう。今後の見通しは、9月11日の凶行以前に思われていた以上に、不吉ですらある。
どのように反応するかについては、私たちは選ぶことができる。正当なる恐怖を表明することもできる。何がこの犯罪をもたらしたのかを理解しようと務めることもできる。これはつまり、犯人であろう人々の心情に入りこむ努力をするということだ。後者の道を選ぶのだとしたら、ロバート・フィスクの言葉に耳を傾けるのがいちばんよいと思う。長年に渡る卓越した記者生活から得た、彼のこの地の物事に対する直接的な知識と洞察は、他の追随を許さない。
「押し潰され、屈辱を受けた人々の邪悪と恐ろしいまでの残酷さ」を、彼はこのように書いている。「これは、今後数日のうちに、世界が信じるよう求められるであろう、“民主主義 対 恐怖”の戦いではない。これは、パレスチナ人の家々を粉々にするアメリカのミサイルのことでもあり、1996年にレバノンの救急車にミサイルを打ち込んだアメリカのヘリコプターのことであり、クアアという村に打ち込まれたアメリカの砲弾のことであり、難民キャンプの中をめった切りにし、レイプし、殺害していったアメリカのイスラエル人の同志に雇われ、軍服を着せられたレバノン人民兵のことである」。そして、これだけにとどまるものではない。
繰り返しになるが、私たちは選ぶことができる。理解しようとするか、そうすることを拒み、さらにゆゆしき展開をもたらす確率を引き上げるか、である。
(翻訳:枝廣淳子)
Enviro-News from Junko Edahiro・No. 580 (2001.10.14)から引用
(http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/news/
星川淳さん(屋久島の作家・翻訳家)からの配信
下記は某新聞のテロ報復意見窓口に投稿した内容に加筆したものです。
いま審議されているテロ対策特別措置法案は、もし通過成立すれば憲法を放棄し、戦後の日本を根底から覆す国家転覆罪にもあたると思います。
国民の責任として全力で成立を阻み、万一通過した場合は告訴して(第99条の憲法擁護義務違反、第17条の公務員による不法行為など)、衆参両院の解散を求めるべきではないでしょうか。政府と国会が無法状態だとすれば、国民だけ順法手続きをとるのも矛盾していますが……行政・立法の2権が暴走したら、残る司法権と国民が協力して歯止めをかけるしかありません。
私たちは世界最初の原爆投下の地、広島で誓いました。「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」、と。だからこそ、日本国憲法前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」したはずです。
いま、政府によってその決意が踏みにじられようとしています。NOと声を上げましょう、行動しましょう!
星川淳/屋久島環境政策研究所
stariver@ruby.ocn.ne.jp
アフガン難民支援→http://www1.mesh.ne.jp/~peshawar/
アフガン内情→http://www.i-nexus.org/gazette/kabul/index.html
ピースアート→http://www.afghanpeacenow.com/
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日本政府はアメリカが各国に示したというウサマ・ビンラディン氏とアルカ
イダの事件関与証拠を開示しないが、イギリス政府はかなり詳しい概要を公開
し、ガーディアン紙などに分析記事が出ている。
http://www.pm.gov.uk/news.asp?NewsId=2686
http://www.guardian.co.uk/Archive/Article/0,4273,4270894,00.html
なぜ日本のメディアはこのような重大な情報を知らせ、国会および国民の議論に役立てようとしないのだろうか。以下、この「証拠」の内容とも絡めていくつかの疑問を提起する。
結論としては、すべて状況証拠にすぎず、ガーディアンの解説記事にもあるとおり英諜報筋さえ「ケニアとタンザニアの米大使館爆破事件容疑との関連のほうが強い」と認めている。かりにビンラディンとアルカイダまでは「容疑」を認めたにせよ、タリバン政権崩壊を狙ったアフガン攻撃は飛躍しすぎていて、常識的にも国際法的にも通用しない。しかもタリバン側は空爆開始直前、ビンラディン氏関与の明らかな証拠があるならブッシュ政権と話し合い、裁判を行なう用意があると発表していたにもかかわらず、ブッシュ大統領はそれを一蹴した。アメリカ国内にも、この重大な過ちにより法的・倫理的な大義が失われたという議論が起こっている。
こうした根拠薄弱な武力攻撃に対し、自衛隊を派遣して協力することはまったく憲法上の裏づけがない。それは、小泉首相の「憲法前文と第9条のすきま」などという言い逃れではすまない明白な憲法違反である。政府与党が示したテロ対策特別措置法案の根本的問題点は次のように要約できる。
アフガニスタンへの武力攻撃支援はPKO協力法や周辺事態法の延長線上では取り扱えない。PKOは国連活動であって、その根拠に周知のとおり厳密な条件がある。周辺事態法は日米安保条約にもとづくものであって、基本的に日本国への現実の侵略的脅威を前提とし、やはりそれなりに厳密な条件がある。しかし、米英軍のアフガン攻撃はこのいずれにも当てはまらない。
現在行なわれているタリバン政権打倒作戦は、国連が明示するとおり「米英の(個別的)自衛権」にのみ根拠をもち、NATOの協力はそれにもとづく集団的自衛権の行使である。日本が自衛隊を動員してそれを支援するには、(1)憲法改正(改悪!)によってアメリカの自衛戦争に参戦できるようにするか、(2)正式に憲法解釈を変えて日米安保条約に完全な対称的双務性をもたせ、集団的自衛権を行使できるようにするか、の二者択一しかない。いずれも、国民の過半数の理解を得るには時間がかかる。したがって、今回の攻撃に自衛隊による支援を行なうことは100%論拠がなく、国会審議そのものが時間の浪費にすぎない。テロ特措法はただちに廃案にし、自衛隊派遣以外の方法によって日本が貢献できる道を本気で検討すべきだ。
にもかかわらず、もしテロ特措法の成立を強行するとしたら、非常時を言い訳に憲法を逸脱する国家犯罪だろう。上記の単純明快な法的不可能性を踏みにじって、法理も論理もない稚拙な感情的言説で国会を押し切るのは法治社会とはいえない。法案の内容を人道援助だけに限る方法もあるが、難民やアフガン国内被災民の実情を考えると、どのみち現時点では自衛隊の派遣はなじまない。
いっぽう識者の中にも、「国際常識」や「国際社会の要請」という、これまた法的根拠のない理由で早く軍事協力に馳せ参ぜよという声があるが、民主国家という枠組みをもっている以上、国際常識などという曖昧模糊としたものを憲法の上に置くのは乱暴すぎる。彼らのいう常識や要請は、きわめて恣意的なグローバリゼーション=アメリカナイゼーションの理屈にすぎない。
「政府の仕事は憲法を守ることではなく国を守ることだ」という、北岡伸一東大教授の暴論(朝日10.12)には驚いた。まさに戦前、大陸へ侵攻した軍部の論理そのものではないか。テロ防止を一般化して、今回の世界貿易センターとペンタゴンを狙った犯行が、アメリカのアラブ政策に対する積年の不満にもとづくことを見逃してはならない。これまで、アラブ&イスラム諸国は日本に対して親近感を抱き、日本側も政府・NGOを問わず彼らと良好な信頼関係を築いてきた。テロ根絶に向けて、日本には日本のできること、やるべきことがある。ここで安易な対米追従を深めることは、むしろ日本国民を危険にさらす愚策だろう。
テロ特措法の衆院通過は16日に予定されている。もとより憲法を否定する下位法は無効だし、行政府と立法府の2権が最高法規を無視することはクーデターにも等しい。世界貿易センターを崩壊させたテロ犯罪に乗じて、日本国憲法まで崩されてはたまらない。
アメリカがアフガニスタンを「欲しがる」わけ - MSNジャーナル 2001年 9月 28日 ・高山 義浩(『国際保健通信』編集・発行人)
(http://journal.msn.co.jp/worldreport.asp?id=010914terror&vf=1)MSNジャーナルから引用
・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・
●崇高な理想と陳腐な現実
近年のアメリカの軍事プレゼンスは、中東の安定をきわめて重要視してきた。それは、たまたまそこに石油があるからである。そうでなかったら、湾岸戦争もなかっただろう。アメリカは軍事力を背景とした世界の基軸国である。アメリカは強くなければならない。そして不動でなければならない。すくなくともアメリカ人の多くはそう考えている。だから、アメリカが依存しなければならない石油資源を埋蔵している中東は、なんとしても掌握しておかなければならないことになる。
ところが、この中東諸国とは、アメリカの同盟国ではなく、どちらかといえば折り合いの悪いイスラム教徒の住む国なのだ。まず、これが中東の不安定要因であり、世界の不安定要因となっている。
中東石油に依存し続けるかぎり、石油供給の遮断という危機が、アメリカの喉元に突きつけられているようなものである。石油は、先進国生活者のあらゆるところで不可欠な存在となっており、それだけにこの依存は「民主主義」にとっての最大の危機をはらんでいる。アメリカが「自己正義に満ちた動機」で中東和平に腐心していることは認めてもいいが、しかし、同時進行で中東掌握のための戦略を遂行していることも事実である。
民主主義の唱導者と自認するアメリカの矛盾は、湾岸戦争であからさまとなっていた。多国籍軍が守ったとされるサウジアラビアとクウェートは王制国家であり、イラクは共和国家だったからだ。アメリカにとっての自由世界とは、メードイン・アメリカの世界である。たとえ、国民によって選ばれた指導者であっても、メードイン・アメリカでなければ排除しなければならない。これがアメリカ流「自由世界への導き」である。
これからアフガニスタンがアメリカ主導で国際社会に復帰するとすれば、王制に引き戻されることになるかもしれない。「まさか?」と首をかしげる人は、カンボジア和平を思い出せばよい。「カンボジア人民共和国」が国連主導でどうなっただろう。
北京にいたシハヌーク国王が呼び戻されて「カンボジア王国」になったのである。資本主義諸国にとって、一番手なずけやすい政治体制だったからだ。
「高貴なワシ」作戦は、確かにテロ撲滅の作戦かもしれないが、ブッシュが喧伝するような「民主主義の戦い」ではない。この作戦は、民主主義を導くものではなく、既存の自由世界を守るためのものだ。僕たち日本人がこの作戦に参加するにしても、まず、このことは承知しておかなければならないだろう。敵を知る前に、僕たちはまず味方をよく知る必要がある。これは兵法の基礎のはずだ。
では、アメリカはなぜ、ウサマ・ビンラディン氏とタリバンを同一視し、双方の殲滅を目指しているのだろうか。
●崩壊しつつあるサウジアラビア
アメリカがアフガニスタンを欲しがる話の前に、中東最大の石油供給国サウジアラビアの現況について解説しておかなければならない。
サウジアラビアは、表面的にはアメリカの友好国である。「表面的に」というのは、アメリカを友人と考えているのはサウジアラビア政府だけであって、民衆はそれを支持していないという意味だ。欧米資本主義諸国は植民地支配の方法論を、こうした途上国に適用することを忘れてはいない。つまり、民衆の支持が得られにくい国では王制を強く支援して、その王族を抱き込んでゆくわけだ。
サウジアラビアの王制は、その国民をカネで手なずけることで維持されてきた。石油の富によって、市民は課税されず、医療も教育も無料である。イラクと違って、サウジ市民には国家への忠誠はなく、苦境を耐え忍ぶことも知らない。市民は、豊かさを与えるがゆえに彼らの政府を支持してきただけである。
石油価格が低下しはじめる80年代までは、このやり方に問題はなかった。だが、80年代初頭は1万7千ドルだったサウジアラビアの1人あたりGDPも、今では7千ドルへと低下している。政府はいまも財政赤字を無視して、国民へのサービスを続けることで、なんとか支持をとりつけようとしている。だが、石油による収益が今後改善する見通しはなく、経済の破綻は目前に迫っている。それはすなわち、王制の破滅を意味している。
一方、サウジアラビアの宗教界は、延命に躍起になっている王族に極めて冷淡である。政府が欧米の「不信心な軍隊」を湾岸戦争のとき招き入れて以来、宗教指導者たちは、王族を含む現政権を疑問視している。もちろん、政府への宗教的疑問の裾野が広まれば、それだけ宗教的過激派の勢力がましてゆくものだ。現在、サウジアラビアでは高校・大学卒業者の失業率が25%に達しているが、そうした就職のあてのない都市部の若者たちを中心に、過激派の活動は活発になりつつある。
不満層は他にもある。アフガニスタンでソ連軍を相手に義勇兵として闘った経験をもつ約800の人々だ。彼らの宗教的信念が、現政権の宗教的不純を見逃すはずがない。サウジアラビア政府がオサマ・ビンラディン氏を見捨て、アフガニスタンを叩くアメリカと協調するならば、軍事訓練を施され、殉教を怖れぬ彼らの反乱は、現王制を大きく揺るがすことになりかねない。
サウジアラビアの内乱が近いと、ホワイトハウスは踏んでいるのではないかと僕は思う。内乱の導火線は露出しており、その周辺で多様な火花が散っている。そしてもし内乱に突入すれば、紛争は石油の管理権をめぐる戦いへと進展し、油田地帯もしくは精製施設そのものが戦場となる可能性が高い。そして、この世界最大の産油国の危機は、世界的な恐慌の引き金となりかねない。
だからこそ、アメリカは中東の石油戦略を大きく改める必要があるのだ。前置きが長くなったが、これこそが「高貴なワシ」作戦の重要な意図と結びついてくる。
●カスピ海周辺の石油資源
サウジアラビア内乱の衝撃を緩和するには、欧米諸国のサウジ・オイルへの依存を軽減させる必要がある。とすれば、どこが新たなサプライヤーとして浮上してくるだろうか。アメリカの覇権に反抗的でなく、新たな開発の余地のある国々。それには非常に都合のよい国々がある。すなわち、アゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンという4つのカスピ海周辺諸国である。
1991年のソ連邦崩壊によって誕生した4つの新生諸国には、推定で2千億バレルの石油が眠っているとされ、その量は、世界最大とされるサウジアラビアの埋蔵量に匹敵する。また、トルクメニスタンに存在する天然ガスの埋蔵量も相当なものだ。
102兆立方フィート、これはロシアとイランに次ぐ、世界最大級のガス資源である。これらの油田・ガス田開発のために欧米石油メジャーが乗り出しているが、技術的には今からでも掘り出せる状態にあるという。問題は別のところにある。それは、採取した原油と天然ガスを、どのようなルートで運搬するかということだ。
現在出てきている案は4つある。中央アジアから中国に至るパイプラインを建設する計画と、ロシアやトルコなど西方へ通じるパイプラインを建設する計画、そしてイランを通して湾岸に南下させる計画。しかし、これらの計画では、中国、ロシア、イランといずれもアメリカに友好的とは言いがたい国々を経由させねばならず、石油をめぐる不安は解消されがたいだろう。
そこで石油メジャーが注目しているのが、トルクメニスタンからアフガニスタン経由でパキスタンにパイプラインを通すというプロジェクトである。これが実現すれば中央アジアの原油、天然ガスを中東を通すことなく入手可能となる。また、このルートだと、輸送距離も大幅に短縮され、プロジェクトそのもののコストも抑えられることになる。供給先の東アジアにも近くなる。
加えて、この石油をめぐる資源開発は、石油建設大手にとっても、流涎のプロジェクトとなる。実際、このプロジェクトには500億ドルから700億ドルの海外投資が必要だと考えられている。中東の尊大な王族に頭を下げながら契約を更新するよりは、中央アジアのアパラチキ(元共産官僚)を小銭で丸め込んで新たな開発をする方が、アメリカ経済にとっては安定が見込めるし、なにより夢がある。
ただ、この計画を実現するためには、厄介な連中がいる。それは、言うまでもなく反米的なタリバンだ。彼らが、パイプライン構想のど真ん中でイスラーム原理主義の理想に燃えている限り、構想は頓挫したままである。彼らはまさに石油開発の「ならず者」なのである。
●尻馬にも乗り方がある
キューバ・イラン・リビア・イラク、そして今回のアフガニスタンと、アメリカは定期的に「ならず者国家」を指名している。アメリカは唯一の超大国という立場を利用して、自らの利益をグローバルな問題への対応としてすり替え、他国の協調を引き出そうとしている。
日本だって石油は必要だし、いまのところアメリカが先進諸国の音頭取りをしていることは間違いない。だから、現在の日本がとり得る分別ある態度とは、たしかに「尻馬に乗る」ことだろう。しかし、僕たち日本人はアメリカをよく観察し、その意図を測りながら「尻馬に乗る」ようにしておかなければならない。そうでなければ、また湾岸戦争のときのように「あんなにカネを出す必要があったのか?」とボヤく羽目になる。
「アメリカの言うとおりにやっていれば、きっと認められる」と信じているのは、まったく見当外れの信仰だ。
もうそろそろ気が付いた方がいい。アメリカの言っていることはほとんど当てにならないし、矛盾だらけだ。むしろ日本は、彼らのやっていることをよく分析してゆくべきだ。そうすれば、ヨーロッパのように上手に尻馬に乗れるようになる。望むなら、馬から降りることだって可能になるだろう。
アメリカにおける日本論者たちは、アメリカが提供している安全保障に日本がタダ乗りしていると批判する。そして、アジアの民主主義を防衛する責任とコストをもっと日本は負担すべきだと要求する。しかし一方で、日本がアジアでの独自外交を進めようとすれば、彼らは必ず横ヤリを入れてくる。日本がアメリカに対する依存体質、従属的な体制を清算しようとすることを決して許そうとはしない。頑なに沖縄の米軍基地を撤退させようとしないことは、そのひとつの証左でもある。
アメリカは自らのリーダーシップに依存する日本を嘆きながら、一方ではこうした関係の継続を主張しているわけだ。今回のアフガニスタン報復にしてもそうである。
日本が「主体的に」この戦争に参加することを期待しながらも、決して「参加しない」という選択肢を許そうとはしていない。
僕たち日本人は、平和をひたすらに祈ったり、自衛隊派遣を憲法違反だと騒いだりするまえに、こうしたアメリカの一貫性のなさを批判することから始めるべきではないだろうか。今回のことで永田町を批判するのは簡単だ。しかし、それではおそらく何も変わらない。むしろ、いま日本人に求められているのは、永田町が外圧から解放され、もう少し自主的な判断ができるように、国際世論を形成してゆくことではないかと僕は考えている。
外交はなにも、永田町と霞ヶ関だけで完結しているわけではない。日本のアメリカに対する依存体質、これを清算するのは政府だけの仕事ではない。むしろ国民こそに、そういうメンタリティーを自主的に清算することが求められている。多くの反戦論者が「憲法があるから派兵できないはずだ」と主張している。ここにも依存体質がみてとれる。なぜ「憲法にあるように派兵してはいけないのだ」と言えないのか。
国際情勢を自分の目でよくみる。そして自分の判断をくだし、国内法あるいは国際法による根拠を求める。さらに同意見の人々で世論を形成し、国内外への圧力に変える。これが国際問題と関わる僕たち日本人の出発点となるべきだ。さもなくば21世紀の日本人もまた、前世紀と同様、気づかぬうちに戦争に巻き込まれ、焼け野原で呆然としていることになりかねないだろう。
-msnJ
高山義浩 (国際保健通信)
1970年、福岡県生まれ。東京大学医学部保健学科卒。現在、山口大学医学部医学科に在学しながら、インターネットマガジン『国
際保健通信』の編集人として活躍している。
国連難民高等弁務官カンダハール事務所 千田悦子(ちだ・えつこ)さんの手記
(Enviro-News from Junko Edahiro No. 555 から転載。メールリストへの登録は、こちらから。
http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/news/)
9月12日(水)の夜11時、カンダハールの国連のゲストハウスでアフガニスタンの人々と同じく眠れない夜を過ごしている。私のこの拙文を読んで、一人でも多くの人が アフガニスタンの人々が、(ごく普通の一人一人のアフガン人達が)、どんなに不安な気持ちで9月11日(昨日)に起きたアメリカの4件同時の飛行機ハイジャック襲撃事件を受け止めているか 少しでも考えていただきたいと思う。
テレビのBBCニュースを見ていて心底感じるのは 今回の事件の報道の仕方自体が政治的駆け引きであるということである。特にBBCやCNNの報道の仕方自体が根拠のない不安を世界中にあおっている。
事件の発生直後(世界貿易センターに飛行機が2機突っ込んだ時点で)BBCは早くも、未確認の情報源よりパレスチナのテログループが犯行声明を行ったと、テレビで発表した。それ以後 事件の全貌が明らかになるにつれて オサマ.ビン.ラデンのグループの犯行を示唆する報道が急増する。
その時点でカンダハールにいる我々はアメリカがいつ根拠のない報復襲撃を また始めるかと不安におびえ、明らかに不必要に捏造された治安の危機にさらされる。何の捜査もしないうちから、一体何を根拠にこんなにも簡単に パレスチナやオサマ・ビン・ラビンの名前を大々的に報道できるのだろうか。
そしてこの軽率な報道がアフガンの国内に生活をを営む大多数のアフガンの普通市民、人道援助に来ているNGO(非政治組織)NPOや国連職員の生命を脅かしていることを全く考慮していない。
1998年8月にケニヤとタンザニアの米国大使館爆破事件があった時、私は奇しくも ケニヤのダダブの難民キャンプで同じくフィールドオフィサーとして働いており、ブッシュネル米国在ケニヤ大使が爆破事件の2日前ダダブのキャンプ
を訪問していたという奇遇であった。
その時も物的確証も無いまま オサマ・ビン・ラデンの事件関与の疑いが濃厚という理由だけでアメリカ(クリントン政権)はスーダンとアフガニスタンにミサイルを発射した。
スーダンの場合は、製薬会社、アフガンの場合は遊牧民や通りがかりの人々など 大部分のミサイルがもともとのターゲットと離れた場所に落ち、罪の無い人々が生命を落としたのは周知の事実である。まして 標的であった軍部訓練所付近に落ちたミサイルも肝心のオサマ・ビン・ラデンに関与するグループの被害はほぼ皆無だった。
タリバンやこうした組織的グループのメンバーは発達した情報網を携えているので、いち早く脱出しているからだ。前回のミサイル報復でも、結局、犠牲者の多くは子供や女性だったと言う。
我々国連職員の大部分は 今日緊急避難される筈だったが天候上の理由として国連機がカンダハールに来なかった。ところがテレビの報道では「国連職員はアフガニスタンから避難した。」と既に報道している。
報道のたびに「アメリカはミサイルを既に発射したのではないか。」という不安が募る。アフガニスタンに住む全市民は 毎夜この爆撃の不安の中で日々を過ごしていかなくてはいけないのだ。
更に、現ッシュ大統領の父、前ブッシュ大統領は 1993年の6月に 同年4月にイラクが同大統領の暗殺計画を企てた、というだけで 同国へのミサイル空爆を行っている。世界史上初めて、「計画」(実際には何の行動も伴わなかった?)に対して実際に武力行使の報復を行った大統領である。現ブッシュ大統領も今年(2001年)1月に就任後 ほぼ最初に行ったのが イラクへのミサイル攻撃だった。これが単なる偶然でないことは 明確だ。
更にCNNやBBCは はじめからオサマ・ビン・ラデンの名を引き合いに出しているが米国内でこれだけ高度に飛行システムを操りテロリスト事件を起こせるというのは大変な技術である。なぜ アメリカ国内の勢力や、日本やヨーロッパのテロリストのグループ名は一切あがらないのだろうか。他の団体の策略政策だという可能性は無いのか?
国防長官は早々と 戦争宣言をした。アメリカが短絡な行動に走らないことをただ祈るのみである。
それでも、逃げる場所があり、明日避難の見通しの立っている我々外国人は良い。今回の移動は 正式には 避難(Evacuation)と呼ばずに 暫定的勤務地変更(Temporary Relocation)と呼ばれている。
ところがアフガンの人々は一体どこに逃げられるというのだろうか? アメリカは隣国のパキスタンも名指しの上、イランにも矛先を向けるかもしれない。前回のミサイル攻撃の時は オサマ・ビン・ラデンが明確なターゲットであったが、今回の報道はオサマ・ビン・ラデンを擁護しているタリバンそのものも槍玉にあげている。
タリバンの本拠地カンダハールはもちろん、アフガニスタン全体が標的になることはありえないのか? アフガニスタンの人々も タリバンに多少不満があっても 20年来の戦争に比べれば平和だと思って積極的にタリバンを支持できないが 特に反対もしないという中間派が多いのだ。
世界が喪に服している今、思いだしてほしい。世界貿易センターやハイジャック機、ペンタゴンの中で亡くなった人々の家族が心から死を悼み 無念の想いをやり場の無い怒りと共に抱いているように、アフガニスタンにも たくさんの一般市民が今回の事件に心を砕きながら住んでいる。アフガンの人々にも嘆き悲しむ家族の人々がいる。
世界中で ただテロの“疑惑”があるという理由だけで、嫌疑があるというだけで、ミサイル攻撃を行っているのは アメリカだけだ。世界はなぜ こんな横暴を黙認し続けるのか。このままでは テロリスト撲滅と言う正当化のもとに アメリカが全世界の“テロリスト”地域と称する国に攻撃を開始することも可能ではないか。
この無差別攻撃や ミサイル攻撃後に 一体何が残るというのか。又 新たな報復、そして 第2,第3のオサマ・ビン・ラデンが続出するだけで何の解決にもならないのではないか。オサマ・ビン・ラデンがテロリストだからと言って、無垢な市民まで巻き込む無差別なミサイル攻撃を 国際社会は何故 過去に黙認しつづけていたのか。
これ以上 世界が 危険な方向に暴走しないように、我々ももう少し声を大にしたほうが良いのではないか。
アフガンから脱出できる我々国連職員はラッキーだ。不運続きのアフガンの人々のことを考えると 心が本当に痛む。どうかこれ以上災難が続かないように 今はただ祈っている。そしてこうして募る不満をただ紙にぶつけている。
千田悦子 2001年9月13日 筆
No. 2「戦争しか知らない子供たち」
(国連職員 山本芳幸 さんの カブール・ノートから抜粋引用。
本文はこちらをご覧ください。http://www.i-nexus.org/gazette/kabul/index.html)
・・・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・
1979年のクリスマスイブにソ連がアフガニスタンに侵攻した時から、ほぼ20年、この国は戦時下にある。その間、戦争しか知らない子供たちがたくさん育った。そして、その子供たちもまた戦争の犠牲になり、あるいは戦闘に参加し、そして戦死してきた。
カブールの街を歩くと、子供は振りむき外国人の僕を見る。そのうちの何人かは、恥ずかしげに何かモノをねだるしぐさをする。僕に同行している大人のアフガン人は必ず僕を守るように間に入り、何か早口で子供を叱って、追い払おうとする。しかし、あまり邪険な様子でもない。叱りながら、幾ばくかのお金をやっている。それから僕の方を振り返って言う。
「アフガニスタンには物乞いという習慣がなかったんですよ。」
それが今では・・・と戦争を罵り始める。アフガン人は物乞いをするには誇り高すぎたらしい。今でも非常に誇り高い人々だと思う。しかし、20年の戦闘は物理的な破壊だけでなく、伝統やしきたりなど目に見えないものも破壊してきたと、アフガン人は説明する。
おそらく僕がこの子供たちと同じ年齢の頃ではなかっただろうか、日本中で「戦争を知らない子供たち」と大合唱していたのは。そういう子供が大きくなって、今、「戦争しか知らない子供たち」を見ている。僕と彼らとの間に共通の言葉はありえるのだろうか?コミュニケートが成立する可能性があるのだろうか?彼らの算数の教科書を見てみよう。
「カラシニコフ2本とカラシニコフ3本を足すと、カラシニコフは何本になりますか?」
「あなたはロシア人を3人殺しました。私はロシア人を4人殺しました。さて全部で何人のロシア人が死んだでしょう?」
彼らはこうやって足し算を覚えてきたのだ。「2本のバナナ+3本のバナナ=5本のバナナ」が僕の教科書だったろう。カラシニコフとバナナの差はとてつもなく大きい。いや、ロシア人の死体とバナナの差は人間の生きる次元を変えてしまうのではないか。外から「援助」という名の下でやってきたよそ者とアフガン人の間には、想像をはるかに超える大きなギャップがあるはずなのだ。国際社会によるアフガン援助、その全体の中に決定的に欠けているものがあるような気がしてならないのはそのせいではないか。我々の多くはそのことを感じていながら、あえて考えようとしていない気がする。無知が傲慢となるのはそんな時なんだろう。
ソ連はアフガニスタン侵攻当時、アフガニスタン政府の要請によって、軍をアフガニスタンに送った、と主張した。しかし、ソ連のてこ入れによって発足した新政権は傀儡政権と呼ばれた。多くのアフガン人は、それを自分たちの政権とは認めなかったのだ。ここに聖戦(ジハード)が始まった。ソ連軍及びアフガン政府軍(傀儡政権の下の軍である)に対して、イスラムの大義を守るために、アフガニスタン各地の指導者が立ち上がったのだ。聖戦を戦う者、聖戦士(ムジャヒディン)の誕生である。
当時の聖戦士達が合同で決議をとり、一斉にこの聖戦を始めたという記録はない。自然発生的にあちらこちらでソ連軍・アフガン政府軍に対してゲリラ戦が始まったというのが真実に近いようだ。もっとも、その後、この聖戦は冷戦下の西側の援助により、つまりイスラムの大義とは別の論理により、組織化されていくことになるのだが・・。
その頃、ごく普通のアフガン人達はどうしていたか。これに関する記録で公刊されているものは非常に少ない。概算であるが、アフガン人口の5%は都市部に住み、95%が農村部に住んでいる。都市部はソ連・アフガン政府軍が牛耳っていたので、そこへの攻撃が聖戦士の一つの重要な使命であった。アフガン人の自発的意志によって始まった聖戦であったが、聖戦士の組織化、聖戦士の訓練、武器・弾薬の調達・配分、戦略立案など聖戦士の本部的役割を担っていたのはパキスタンのISI (Inter Services IntelligenceDirectorate)という組織であった。これは、アメリカのCIAや旧ソ連のKGBのような諜報機関であるが、パキスタンではISI は「国家の中の国家」と呼ばれるほど強大な権力を持っている。1979年から1987年、つまり聖戦時のほとんどの期間であるが、この時期にISI の長官であった男がいる。彼はその在任中ほとんど公の場に出ることはなく、そのためサイレント・ソルジャーとも呼ばれた。彼の名をアフタル将軍という。当時の彼の口癖は「Kabul must burn.」であったという。「カブールを焼き陥とせ」とでも訳せばいいのか。敵の本拠地を叩けという意味なのだろう。当然、都市部の普通のアフガン人達は、逃げ惑うはめになったのだろう。
そして、農村部には各中心都市を囲むような形で聖戦士の前線基地が置かれた。ラインが最前線にまで延びていたために、アフガニスタン東部には、多くの聖戦士の基地が置かれた。そのため、ソ連・アフガン政府軍に最も徹底的に攻撃されたのが、このアフガニスタン東部であった。
ごく普通の農民達はその頃、どうしていたか?農作業どころではなかっただろう。ある者は、聖戦士に生まれ変わり、ある者は家族を引き連れて隣国に避難した。これが史上最大と言われる大量難民の発生した経緯だ。
大量の人口が一斉に災いを避けるために居住地を離れてよその場所へ移動する、これをエクソダスと呼ぶ。1981年、このエクソダスはピークに達した。国境を超えてパキスタンに流入するアフガン人の数が1日平均4700人に達していた。イラン側へも同様のエクソダスが起きていた。
イラン、パキスタンに逃げてきたアフガン人達、彼らはその後「アフガン難民」と呼ばれて生きていくことになる。それから20年そんな生活が続くとは、彼らの誰が予想していただろう。しかし、多くの「アフガン難民」はその後20年、「難民」というレッテルを背負って生きてきたのだ。アフガン難民の数はピーク時には、イラン国内に約250万人、パキスタン国内に約350万人、合計約600万人に達していた。(※参照2)
1989年2月、最後のソ連兵が撤退した。その頃、やっとアフガニスタンに平和が回復するかという希望を見たものも多かったであろう。実際、それは難民数の減少という形で象徴的に現れていた。1992年4月、共産主義政権が倒れ、92年と93年の2年間だけで、イラン、パキスタンの両国から合計200万人近くのアフガン難民が母国に戻ったのだ。しかし、この2年をピークとして、その後はパキスタンから帰国するアフガン難民は年10万人前後、イランからは数千人前後という状態が続いていた。現在のアフガン難民数は推定、イラン国内に140万人、パキスタン国内に120万人である(※参照3)。
それでも、合計260万人。これは世界最大の難民数である。アフガン難民の数は過去20年、常に世界最大という記録を維持し続けている。この驚くべき惨劇に世界はもっと注目するべきなのだが、事実はほとんど忘れられている。
なぜ93年以降、母国に帰るアフガン難民が激減したのか。それは、母国に戻った元アフガン難民を待っていたのが、ソ連との戦いよりさらに複雑化した激しいアフガン人どうしの戦闘だったからだ。皮肉なことだが、カブールが瓦礫の山になったのはソ連が撤退した後である。1992年、グルバディン・ヘクマティヤールというかつての聖戦士のヒーローの一人が権力闘争の過程で、カブールを徹底攻撃したのがその破壊の発端であった。
1992年以降のアフガニスタンというのは、比喩ではなく、文字通りアナーキーな状態であった。アフガニスタンという国家を実効支配できる権力が存在しない状態で、各地を局地的に支配する元聖戦士達が互いに戦闘を続けていたのだ。そこには、英語圏でいうところの、Law and Order (法と秩序)は存在しない。暴力のみが支配の道具になっていた。そこへ大量のアフガン難民が戻ってしまったのだ。彼らはまた戦火の下を逃げ惑うはめになった。自分の出身地へ辿り着けず、あるいは辿り着いても、そこから逃げるはめになり、アフガニスタン国内をさまようアフガン人が大量に発生した。彼らは国際法上、難民の定義に当てはまらない(※参照4)。
隣国に逃げ出すこともできす、母国内で、実質的に難民と同じような境遇に陥っている、このような人達のことをIDPs(Internally Displaced Persons)と呼ぶ(※参照5)。
ソ連の撤退と共産主義政権の消滅によりイスラムの大義が達成されたと信じ、母国へ戻ったアフガン難民達の多くが、IDPsになり、あるいはまたパキスタンやイランに逆流していった。現在、アフガニスタン内のIDPs数は150万人前後と推定されているが、実際のところ、推定することさえ、ほとんど不可能な状態である。そして、彼らのほとんどがかつてのヒーローであった元聖戦士達に幻滅しはじめた。彼らが母国へ戻って見たもの、それは地獄であった。このへんの状況に関する情報もまだ整理されていない。が、母国へ戻ったけれど、また隣国のパキスタンへ戻ってきたアフガン人や、ずっとアフガニスタンに踏みとどまり続けたアフガン人の話、そして国連職員やNGO職員の体験を記録した報告書などの形であちらこちらに散逸して残っている。元聖戦士による略奪と強姦は必ず、アフガン人の話に出てくる。女の子供を持つ親は、彼女達を学校にやるのを止めた。登下校中にさらわれ、強姦され、ボロクズのようになって捨てられる、ということが繰り返されたからだ。治安という概念がまったく存在しない状態、自衛しか望めない状態、それがアナーキーの象徴であるのだろう(※参照6)。
元聖戦士達は、各地にチェックポイントというものを作っていた。それは日本風に言えば関所だ。それは第一には軍事的理由によるものであったかもしれない。しかし、一般のアフガン人にはそれは通行人から、お金を巻き上げるための口実にすぎないように見えた。カブールでは辻々にチェックポイントが作られ、そこを通過するたびに一般人は通行税というものを徴収された。カブールだけではない。その他の各地でそういう記録が残っている。
例えば、アフガニスタン南部のカンダハルという都市とパキスタンのクエッタという都市を結ぶ道路は長い歴史を持つ交易路である。その道を使って商用トラックがパキスタンとアフガニスタンの間を往来する。当時、クエッタからアフガニスタン国境までは問題なく通行できたが、国境を超えてからが問題であった。国境からカンダハルに着くまで数キロごとにチェックポイントが置かれていたのだ。それぞれの局地支配者が通行税を巻き上げるためである。商人にとってこれは大打撃であった。何度も関税を払うようなものである。
元聖戦士達の評判は地に落ちて行った。元聖戦士と僕は書いてきたが、彼ら自身はいまだに自分達のことを聖戦士と呼び、聖戦を戦っているつもりであった。しかし、僕は覚えている。その当時(1993年)、僕の会う普通のアフガン人達は彼らはもう聖戦士ではないと言っていた。ただの戦争屋だと。普通のアフガン人から僕が受け取るメッセージは、もう戦いをやめてくれ、それだけだった。
しかし、1994年秋、劇的な状況の変化が起こった。
タリバンの登場である。
そして、彼らもまた「戦争しか知らない子供たち」だった。
※参照
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(1)カブールの状況についてもう少し詳しくは、
http://www.os.xaxon.ne.jp/~nishi/afu.html
(2)これらは推定である。イラン、パキスタン以外にも、ヨーロッパ、アメリカ、インドなどにたどり着いたアフガン難民もいる。大量難民が発生した場合、完全に正確な難民数というのはおそらくつかめない。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は最大の努力を払って統計を出しているが、それでも難民を受け入れている政府、あるいはNGOなどが、UNHCRとは別の数字を採用する場合がある。この背景には、難民の数を数えることの困難さだけでなく、政治的思惑なども絡んでくるが、この詳細については別の機会に書くことがあるだろう。
(3)これも、後に詳述するつもりだが、アフガン内戦の激化により、アフガニスタンへ戻る難民と同時に隣国へ避難するアフガン人の流出も起こり、つまりアフガン人の双方向の流れが置き、正確な数を把握するのがさらに難しくなった。
(4)国際法上の「難民」の定義に当てはまるには、「国籍国の外にいる」ことが必要。「難民の地位に関する条約(1951年)」第1条及び「難民の地位に関する議定書(1967年)」第1条。
(5)国内で居住地を追いやられた人というような意味。定訳があるのかどうかは知らない。母国内にいるため、上の難民の定義に当てはまらない。しかし、人道上、援助するべき人々のカテゴリーとして使われている。ソ連が撤退する直前の1988年当時で、アフガニスタン内のIDPsの人口を200万人以上と国連は推定していた。つまり、その時点で、600万人の難民と合わせて、800万人のアフガン人が自分の居住地を追われる生活をしていたのだ。
(6)その当時の典型的な話を二つ載せておく。
ガズニ県から逃げてきたあるアフガン女性の話
「顔を隠した12人の男達が家に来ました。みんなカラシニコフを持っていました。彼らは私達の娘を出せと言いました。私達は拒みました。でも、彼らは娘と直接話をさせろと言って、ききませんでした。それで私達は娘を隠していたところから連れてきました。娘はあなた達について行くのは嫌だと言いました。
そうすると12人の男のうち1人がカラシニコフを娘に突きつけ、撃ちました。娘は死にました。彼女はほんの12歳でした。もうすぐ上の学校へあがるところでした。私達はその日、娘を埋葬しました。」(1993年頃)
パルワン県から逃げてきたあるアフガン女性の話
「私は二人の赤ん坊の母でした。夫は死に、私以外に誰も赤ん坊の面倒を見る者はいませんでした。まだ二人の赤ん坊が寝ている、ある寒い日の早朝、いつものように私は家に鍵をかけ、朝食のパンを買う長い列に並ぶために出かけました。突然、軍用ジープが止まり、二人の男が私を中に引きずりこみました。私は狂った女のように叫びましたが、まだ辺りは暗く誰もいませんでした。私はその後気絶したと思います。目を覚ますと、銃を持ったたくさんの男に囲まれていました。私は汚いマットレスの上に寝かされていました。男達は次から次に私を強姦しました。私はずっと私の二人の赤ん坊のことを考え続けていました。何日間そこに閉じ込めらていたのか分かりません。何日も何日も同じことが続きました。でも私の頭の中は二人の赤ん坊のことを考えることだけで忙しかったのです。何日そこにいたか思い出せません。ある晩、彼らが私を通りに捨てた時、私は立つことができませんでした。私はゆっくりと這って家の方に向かいました。二人の赤ん坊は死んで凍っていました。飢えて死んだのか、寒さで死んだのか私には分かりません。」(1993年頃)
"In Search of Peace:Afghan Women's Diverse Voices Against violence",
AfghanWomen's Network in Islamabad and Peshawar.より、拙訳。
(続く)
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本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組織の見解とは一切関係ありません。
No.3 「神の戦士たち」
(山本芳幸 さんの カブール・ノートから引用。
本文はこちらをご覧ください。http://www.i-nexus.org/gazette/kabul/index.html)
タリバンには伝説がつきまとう。その一部はほとんど神話化し、あるいはミステリーとして語られる。ようやく最近になって、タリバンに焦点を絞った出版物が出てきた(*)。しかし、おそらく全貌が明らかになるのは、ずっと後のことだろう。タリバン自身、自分たちの出自を説明するということに興味を示していない。そして、メディアには歪んだタリバン像が蔓延している。まるで、メディアの歪みが鏡に映っているかのようだ。
バランスを失わずに、タリバンという現象の総体を理解するためには、(1)アフガニスタンの置かれた歴史的文脈、(2)アフガニスタンの部族文化、(3)この地域の政治力学、そして(4)イスラム教、少なくともこれら四つのパースペクティブが必要だろうと僕は思っている。
『カブール・ノート』でそのような壮大な「タリバン研究」に挑戦するつもりはない。これからもてんでばらばらの話が続くだろう。しかし、その中で、タリバンにも正当な位置を与えるつもりだ。とりあえず、タリバン伝説の起源から書いてみよう。
*****
イスラム教神学を教える学校をマドラサと言う。パキスタン内のアフガン難民キャンプには、パキスタンや他のイスラム教国の援助によりマドラサがたくさん作られた。難民キャンプで生まれた子供たちの多くがそこでイスラム教を学んだ。マドラサで学ぶ神学生をタリブという。タリバンはその複数形だ。
アフガニスタン南部のカンダハル県マイワンド区シンギサール村の簡素なマドラサでイスラム教を学んだ少年がいた。彼はやがて、聖戦士中のヒーローの一人、ユニス・ハリスの率いる一派に入り、ソ連軍との戦闘で片目を失ったものの、聖戦士として素晴らしい名声を打ちたてた。
1994年、ソ連の撤退から5年が過ぎていたが、彼の故郷、カンダハルは元聖戦士達に分割され、恣意的な「税」の徴収、略奪、強盗、強姦が日常化していた。彼とその仲間、計30人が、元聖戦士の腐敗を一掃し、アフガニスタンに平和と秩序を取り戻す決意をし、武器を持って立ちあがったのは、その年の夏であった。しかし、彼らのうち、その時、武器を持っていたのはわずかに14人だけであった。彼らがその約2年後に歴戦の元聖戦士達をことごとく打ち破り、カブールに入城することになるとは誰が予想しただろうか。彼の名前をムッラー・モハマッド・オマールという。現在のタリバンの最高権力者である。
その年の10月29日、薬品、食品、消費物資等を満載した30台のトラックがコンボイを組んで、パキスタンの町、クエッタを出発した。行く先は、アフガニスタン南部のカンダハル、西部のヘラートを通過して、ずっと先のトルクメニスタンであった。この頃、パキスタン政府はアフガニスタンを通過してトルクメニスタンに入る交易路を確立しようとしていた。この30台のコンボイはその最初の実験であり、パキスタン政府は万全の準備を整えたはずであった。
コンボイの出発に先立ち、パキスタンのベナジール・ブットー首相はトルクメニスタンに飛び、ヘラートを支配しているイスマイル・カーン及びアフガニスタン北西部、つまりトルクメニスタンへの入り口を支配しているアブドゥル・ラシッド・ドストム将軍と会い、コンボイの安全な通過に協力するという約束を彼らから取りつけていた。また、パキスタンの内務大臣である、ナセルラ・バーバルは、10月20日、アメリカ、英国、中国、イタリア、韓国の五カ国の大使を引きつれてクエッタ、カンダハル、ヘラートを案内し、アフガニスタンを通過して中央アジアとパキスタンを結ぶ、『トランス・アフガニスタン・ハイウェイ構想』をぶち上げ、その整備のため3億ドルの援助を頼んでいた。つまり、この30台のコンボイはパキスタン政府にとって、非常に重要なショーであったのだ。
出発から3日後、11月2日、このコンボイに事件が起こった。アフガニスタンとの国境を無事通過し、カンダハルの35キロ手前の街、タフテ・プルまで来たところで、そこの支配者、マンスール・アチャクザイに停止させられたのだ。このコンボイの停止には、いまやカンダハル周辺の戦争屋(warlord)と化し、互いに抗争を繰り返していた元聖戦士達も、同盟を組み、協力していた。パキスタン政府は怒っただろう。交渉による解決も試みられたが、この戦争屋連合軍を説得するのは不可能に思えた。
11月3日、そこに突然、別のグループがコンボイの救出に現れ、元聖戦士の連合軍をあっという間に撃破してしまった。彼らはコンボイを解放しただけでなく、さらに前進し、24時間も経たないうちに、カンダハル県から元聖戦士のすべての派閥を一掃し、カンダハルの武装解除を決行した。このグループがタリバンであった。この戦闘でのタリバンの死者はたった9人だったと言われている。これがタリバン伝説の始まりである。その後、タリバンには常に神秘性がつきまとい、無敵というオーラが漂うことになった。この段階でタリバンは規律とモーティベーションに満ちた2500人〜3500人の戦士集団になっていた。
しかし、彼らはいったいどこから来たのか? 数ヶ月前は、たった30人で武器は14丁しかなかったのだ。
パキスタンのコンボイを解放し、カンダハルを急襲したタリバンの多くは、クエッタ周辺の難民キャンプにあるマドラサで学ぶ若い神学生であった。カンダハルに突撃するタリバンのほとんどが新品のカラシニコフを持っていた。その時、タリバンとは逆方向にパキスタンに逃げ出す外国人のジャーナリストや援助関係者達はその道中に無数のグリース紙が舞っているのを見て帰ってきている。神学生達が新品のカラシニコフを包んでいたグリース紙をはがしながらカンダハルに急行したからだ。
武器はどこから来たのか?
実は、このコンボイ救出劇はタリバンの緒戦ではなかった。クエッタとカンダハルを結ぶ道をアフガニスタン側へ少し越えたところに、スピン・ボルダックという街がある。ここにパキスタンとアフガニスタンを往復する商人を悩ます、悪名高い関所の中でも最大のものがあった。ここにはヘクマティヤール派のムッラー・アフタル・ジャンが率いる兵士が陣取り、通行する商人から金を巻き上げていた。コンボイが出発する約2週間前の、10月12日、200人の無名の戦士がこの街を襲い、彼らは2時間でここの守備隊を殲滅し、関所を廃止した。これが後にタリバンと呼ばれるようになるグループの緒戦であった。スピン・ボルダックには、パシャ武器庫と呼ばれるアフガニスタン最大の武器庫があった。92年以前の共産党政権軍から奪取した武器・弾薬及び西側の援助により送られた武器・弾薬がここには大量に蓄えられていた。ロケット砲、戦車砲弾、小火器の弾薬など数年分はあるとも言われたが、おそらくそれは誇張だろう。しかし、ここでタリバンは少なくとも1万8千丁のカラシニコフを獲得したと言われている。
この経緯を見て、パキスタンがタリバンのバックについていると考ても不思議はないだろう。コンボイ通過のために予めスピン・ボルダックの関所を骨抜きにするようタリバンに頼んだと思われるし、何より国境通過の配慮がパキスタン政府になされていない限り、これほど簡単に多くのタリバンが一気に国境を通過できなかっただろう。
パキスタン内の或る勢力とタリバンとの間に協力があったのは、今では明らかになっている。しかし、かといって、タリバンがパキスタンの傀儡として動いてきたかというと、その後の展開で明らかになるように、それも事実とは言いがたい。カンダハル制覇直後の11月16日、既にタリバンは次のような声明を出している。(後にタリバンの外務大臣になるムッラー・モハマッド・ガウスの声明)
「パキスタンが今後カブール政府もしくはカンダハル政府の許可なくコンボイを送ることを禁じる」
「パキスタンが個々の局地支配者と取り引きをすることを禁じる」
パキスタンがタリバンをサポートする意図がなんであれ、最初からタリバンはパキスタンの傀儡となるような集団ではなかったのだ。
カンダハルを制覇した後、もはやタリバンを止めることは誰にもできなかった。その後たった4週間で、タリバンはカンダハル県に隣接するヘルマンド県、ウルズガン県を支配し、さらに西方のファラ県、北方のザブール県、ガズニ県にも進出していった。ヘルマンド県は、アフガニスタン最大の麻薬生産地だが、そこから麻薬商人を叩き出し、けし栽培を違法化する宣言をした。
この間にもパキスタンの北西辺境州及びバロチスタン州のマドラサで勉強していたアフガン難民の神学生がトラックやピックアップバンに乗ってタリバンの本拠地となったカンダハルに続々と駆けつけた。タリバンに参加したのは、アフガン難民だけではなかった。パキスタン人の神学生達もタリバンに参加するためにパキスタンの全州からやってきた。1995年1月の段階で、12,000人の神学生がアフガニスタン、パキスタンからカンダハルのタリバンに参加したと言われている。この神学生の殺到に応じるため、タリバンはカンダハルとスピン・ボルダックに戦士の訓練所を開いた。そこで2ヶ月のコースを終了すると、一通りの武器の操作ができるようになる。
僕はその頃、クエッタに住んでいたが、何か新しいことが始まる、奇跡のような何かが起こる、救世主が現れたのかもしれない、そのような期待で、異様な雰囲気があったのを覚えている。しかし、誰にも何が起ころうとしているのかは、はっきり分かっていなかった。ただ、タリバンの進撃のあまりの速さに驚くばかりであった。すでにその時で、ソ連侵攻から15年、ソ連撤退から5年も経っていた。あらゆる期待が裏切られ、「戦争疲れ」、「援助疲れ」という言葉が頻繁に使われ、アフガン内戦は「忘れられた戦争」と呼ばれ始めてい
た。
そこにあっという間に南アフガニスタンを制覇してしまう無名の戦士たちが現れたのだ。それは衝撃であった。しかも、彼らはアナーキーな状態を利用して私利を追求するのではなく、治安の回復を最優先していた。援助関係者の中にも「私はタリバンのファンだ」というものが出てきた。
アフガニスタン内でも、タリバンの正体が分かるにつれ、住民は彼らを歓迎するようになった。タリバンは略奪、強姦をしない、タリバンは住民を虐めない、タリバンは秩序と治安の回復に専念する、タリバンは進出地の武装解除をする、
こういう情報が広まるにつれ、住民は警戒心を解き始めた。それぞれの局地支配者であった元聖戦士の方も、タリバンと戦うことなしに、タリバンの進軍を認める者がこの頃少なくなかった。タリバンは新しい地域に進出する際、まず交渉によって無抵抗の中を進軍しようとした。進軍には現金も大量に使われた。金をもらった局地支配者は丸腰にされ、その地域から放り出された。交渉にも買収にも応じない場合は殲滅する。これがタリバンのやり方だった。実際のところ、94年の後半から95年初頭までタリバンはほとんど戦闘する必要がなかった。戦わずして進軍していくタリバン。無敵神話ができつつあった。
しかし、94年後半の段階では、タリバンはまだアフガニスタン南部を進軍中であったことに注意する必要がある。タリバンの主流を構成するのはパシュトゥーン族であるが、アフガニスタン南部はパシュトゥーン族の心臓部である。同部族ということもこの頃のタリバンの進出を容易にした理由の一つであっただろう。アフガニスタン西部の都市、ヘラート、及び、北部にある首都、カブールは、タリバン主流の属する文化圏とは別の文化圏である。そこではアフガニスタン南部のようには簡単にいかなかった。
ヘラートはイランに近く、ペルシャ語文化圏である。タリバン主流はパシュトゥーン語を話す。また、彼らの主流である若い神学生のほとんどはパキスタンの難民キャンプで育ったため、パキスタンの共通語であるウルドゥー語を話す者も多い。一方、カブールはアフガニスタン最大の都会であり、首都であるから、民族構成は多様である。タジク族、パシュトゥーン族、ハザラ族、ウズベク族などが混合して住んでいるが、共通語はペルシャ語のアフガン方言であるダリ語である。しかも、カブールのような都会では、農村部に残る各部族それぞれの習慣・規範がかなり希薄になっている。しかし、タリバン主流は農村部出身かあるいは難民キャンプ出身である。都会の洗練とはほど遠い集団である。
1995年、タリバンの支配地域拡大は第二段階に入った。タリバンは異文化圏のヘラート及びカブールへの侵攻を開始した。タリバンの本拠地となったカンダハルから北へ向けて伸びるハイウェイがある。この道はガズニ県を越え、カブールに至る。カブールに入る直前には聖戦史上、最大のヒーローの一人、ヘクマティヤールが陣取っていた。この頃のカブールは、92年の共産党政権追放後、元聖戦士の合同政権の下にあった。といっても、それは名目だけで、ラバニ大統領の右腕である国防大臣、マスードがかろうじて抑えているというのが実態であった。カブール市の西南部はマザリが率いるシーア派の軍とドストム将軍の分派が支配し、たえずマスードを脅かしていた。
彼らよりさらに大きな脅威は、同じ政権の首相であるはずのヘクマティヤールであった。彼は合同政権の権力の分配に満足しておらず、カブール市南部の外側に陣取り、92年から95年にかけて、そこからカブール市内に無差別にロケット砲を撃ち続けていた。ヘクマティヤールの目的は、ラバニ・マスード派の信頼を崩し、合同政権を瓦解させることであったが、このロケット砲撃により、カブール市はほとんど破壊され、2万5千人以上の一般市民が亡くなったといわれる。その結果、ヘクマティヤールはまったくカブール市民からの支持を失い、カブール市民はマスードをカブールの守護神として支持していた。しかし、聖戦士中、最も戦上手と言われるマスードにしても、カブールを防衛するのが手一杯で、ヘクマティヤールをロケット砲の射程距離の外へ追い出すことができなかった。
そこへタリバンが南から北へ上ってきた。ヘクマティヤールは、タリバンはカブール政府軍(ラバニ・マスード派)とつるんでいる、北と南から挟み撃ちをするつもりだ、ずるいっ!と叫んだが、タリバンはすぐに声明を出した。(後にタリバンの内務大臣になるハイルラ・ハイルフワの声明)
「我々はラバニとヘクマティヤールの間の権力抗争には中立である」と。
ヒステリックなヘクマティヤールの叫びは無視され、タリバンは北上していった。95年1月30日、タリバンとヘクマティヤール軍の最初の衝突が起こった。この戦いはその後のアフガニスタンの運命を大きく左右するものになることは誰の目にも明らかであったし、長期に渡る大激戦が予想された。が、2週間後、ヘクマティヤールは壊滅的な状態でカブールから75キロ東にあるサロビという街に向かって敗走していた。大量の武器・弾薬・Mi-17輸送ヘリコプターまでも置き去りにして行かざるをえない遁走ぶりであった。タリバンはカブールの35キロ南にある街、チャリアシアーブに到達していた。このタリバンの圧倒的勝利は、タリバンの無敵神話を決定的にした。かつてソ連の最強の敵であり、聖戦士合同政権を3年間悩まし続け、カブール市民を恐怖に陥れた、あのヘクマティヤールをたった2週間で片付けてしまったのだ。しかも、あの30人の有志が立ち上がってから、まだ半年しか経っていない!
このタリバンの急激な興隆の要因として、よく出てくる説明は、戦争にうんざりした一般人の強い支持、つまり平和と秩序を回復してくれるなら誰でもいいという願望、元聖戦士の政治的破綻、略奪・強姦に代表される道徳的な崩壊、これがタリバンの急成長の基盤にあったというものである。つまり、改革者(crusaders)としてのタリバン、という見方だ。
これに対して、タリバンの軍事的側面に焦点を当てるアナリストもいる。タリバンは長いアフガン戦史に革命を起こしたということだ。軍事アナリストによると、タリバンの軍事行動は、(1)非常に効率的なコミュニケーション、(2)流動的な状況で乱れない指揮・統制、(3)緻密な計画行動、そして(4)圧倒的なスピードという点で、際立っているという。これまでタリバンは常に敵よりかなり少数の戦士で戦ってきている。しかし、かといって、タリバンの戦闘は、ロバの背中に武器を乗せて、山中を密かに移動し、ヒット・アンド・ラン---物陰から一発撃って、その結果を見る暇もなく逃げ去る---を主体とする伝統的ゲリラ戦、とはまったく異なっていた。
タリバンは、100人から200人の中隊規模の、高度に機動的な部隊をいくつも作り、素早く敵の側面や背後に展開する。この機動部隊は戦士をピックアップに乗せ、トラックにZU-2対空砲やBM-21多筒ロケットランチャーを備えつけて、敵を文字通り四方八方から攻撃するのだ。敵は敗走さえ、まともに出来ていない。ほとんどの場合、武器を投げ捨て秩序も何もなく、逃げ去るのみだ。95年9月にタリバンがヘラートを陥した時は、あまりの混乱で政府軍には撤退命令が出ていることさえ分からない部隊があった。この部隊はヘラート市中の路上で眠り、目を覚ましたらタリバンが市内に入ってくるところだった。彼らは全員戦死した。これまで秩序立って敗走できたのは96年9月にカブールを撤退した時のマスード軍だけだ。99年6月現在、タリバンの敵として残っているのは、このマスードだけである。
ヘクマティヤールを破った95年初頭、タリバンは既に三種類の異なった構成要素から成り立っていた。
(1)真のタリバンと呼ばれる、若い神学生
(2)タリバンに寝返った、元聖戦士
(3)共産党政権下の正規軍の元将校達
この三種類である。92年4月まで存続した共産党政権の与党であるアフガニスタン人民民主党(PDPA)は二つの派閥に分かれていた。その一つハルク派を中心とする将校達が90年3月、元国防大臣のシャナワズ・タナイ将軍に率いられてナジブラ政権を倒そうとして失敗したという事件があった。彼らはその後パキスタンに逃げ、ISI (パキスタンの情報機関)のゲストとして生活していたのだが、この将校達がタリバンに参加したのだった。90年のクーデター未遂も、彼らのタリバン参加にも、ISIが絡んでいることは間違いない。この将校達がタリバンに洗練された軍事技術をもたらした。
タリバンは決して一枚岩ではないと言われる。それはこの構成を見ても明かだ。しかし、これほどバックグラウンドが違う三者が見事な連携を保っていることは驚異である。互いに摩擦を起こし、バラバラになってもまったく不思議ではない。何が彼らを結びつけているのか。歴史、部族文化、政治、宗教、これらの要素を駆使すれば説明できるのかもしれない。先走った結論は避けたいが、この5年のタリバンの行動を振り返って感じるのは、彼らに漂う「確信」である。それはどのような「確信」なのか。例えば、それは自分の国を取り戻すのだとか、平和と秩序を回復するのだとか、そういうものだと、外国人が簡単に解説してはいけないもののように感じる。
僕は97年以降、アフガニスタンの各地でいろんなタリバンに会って話をしたが、彼らに共通しているのは、非常に礼儀正しいということだ。そして、生活が質素で態度が謙虚だ。歴戦の元聖戦士達をほとんど一掃してしまった恐ろしい戦闘集団というイメージとどうも一致しない。国連関係者がタリバンとの会談中に、タリバンにティーカップを投げつけられた、ちゃぶ台をひっくり返された、ひっぱたかれた、というような事件があるが、いったい何を言って彼らをそんなに怒らせたのだろうか。真相は分からない。しかし、アフガニスタンにやってくる我々よそ者は、ほとんどの場合、タリバンに関して、いやアフガニスタンに関して恐ろしく無知である。不幸なことに、メディアの情報を鵜呑みにするナイーブな者も少なくなからずいる。その中に傲慢に滑り落ちるものがいても全然不思議ではないだろう。
タリバンとの話が終わり彼らが去った後、ふと自分がどこか違う世界にいたような不思議な気分になる時がある。彼らの静かな態度の裏に、決して揺るがない「確信」のようなものがあったことに思いつく。これが「神の戦士」と呼ばれる人達なのか、とぼんやり思いながら、僕はまた変わりない日常に戻る。彼らと本当にコミュニケート出来るまでには、はるかに遠い道のりがあるような気がする。そこに到達するまで、我々は何一つ解決できないのかもしれない。
(続く)
(*) タリバンを主題とした文献。
William Maley ed., “Fundamentalism Reborn ? : Afghanistan and theTaliban”, 1998, Vanguard Books
Peter Marsden, “The Taliban : War, Religion and the New Order inAfghanistan”, 1998, Zen Books
Kamal Matinuddin, “The Taliban Phenomenon : Afghanistan 1994-1997”,1999,Oxford University Press
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る組織の見解とは一切関係ありません。