| 悠久の風が吹く |
| 草洋の国・モンゴル |
暗く雨に濡れるモンゴル空港
近くて遠い国モンゴルは、一度は訪れてみたい国であった。今回、ナイランダルの一員としてこのツアーに参加し、モンゴルの素晴らしさを十分満喫することができた。
私にとって旅の楽しみは、異国の美しい自然に触れ、歴史やその国の人々が長い時間をかけて作り上げた異文化を学ぶことである。そして、その喜びをより深めるものは、人との出会いであり友好を深めることであった。
午後10時30分、ウランバートルに到着。飛行機の外はつい今し方まで激しい雨が降っていたようで、川のように水が滑走路を流れていた。その中を薄暗い照明を頼りに、入国手続きが行なわれる建物まで歩いていった。そこはヨーロツパのターミナルのようなはなやかさはない。照明の暗さが今,1993年のモンゴルの置かれている厳しい経済状況を物語っているようであった。
私たちを受け入れてくれたオルギヌ氏を代表とする団体(会社)の方々は、数年前まではモンゴル人民共和国(社会主義国)民主青年同盟のリーダーとして活躍していたと聞いている。自由主義国に移行して間もないモンゴル、社会機構も未整備の中、私たちを毎年受け入れることは苦労も多いのではないだろうか。
モンゴル国は平均海抜1,580メートルの高原にある。7,000キロメートルにも達する国境の北側は旧ソ連、南側は中国と接し、東西に長く、面積は156万平方キロメートルで日本の4.2倍。気候は著しい大陸性を示し、冬季と夏季の温度差は大きい。これまで測定されている最低気温は氷点下48度から52度。冬季の平均気温は氷点下30度前後である。夏季は南部で平均25度前後、北部でも10度前後になる。日差しは強く肌がジリジリ焼かれるほどだが日陰に入ると涼しい。人口は約216万人で首都ウランバートルには60万人が集中している。
首都ウランバートル
空港から約20分ほど走るとトラ川に架かる平和大橋がある。橋を渡るとウランバートルの中心街である。ウランバートルは約300年前、山に囲まれたトウラー川流域の盆地にボグド・ゲゲン(活仏)がラマ寺を建てたことから、寺の周囲に人々が集まり住むようになり大きな街ができた。この地をヨーロッパ人はウルガ(宮殿)と呼び、中国人はクーロンと呼ぶ。1921年の革命でソ連軍とモンゴルパルチザンがここを占領し、のちにウランバートル(赤い英雄)と名付けたという。このことにちなんでなのだろうか、“バートル”と名付ける人が多いように思えた。
市の中心部には政府の建物やホテルなど近代的な建物が集中している。中央広場には革命の父“スフバートル”の騎馬像があり、広場北側の政府建物の前にはモスクワの赤の広場のレーニン廟と同じスフバートル廟がある
街並は旧ソ連の指導で造られたのだろう、モスクワを始め旧共産圏の都市と同様、道路は広く、中心地には大きな広場がある。建物のデザインもまったく同じだが、ただ違うのはウランバートルには街路樹など樹木が非常に少ないことである。
また、この地には1945年8月のソ連・モンゴル軍の対日参戦後、中国東北地方などから民間人を含む12,000人の日本人が捕虜としてシベリア経由で送られてきた。捕虜導入の目的は、捕虜労働力を使って首都ウランバートルの近代化を図ることだった。1945年11月17日のモンゴル人民共和国の閣僚会議では次のような演説が行なわれた。「捕虜は犯罪者ではなく兵士です。日本政府によって徴兵され、犯罪的な政治の力によって、ソ連やわが国の国境を攻撃するために前線に投げ出された兵士です。もちろん、友人とは言えません。敵です。しかし、今は我々の手中にあり、我々の能力次第で国民経済や建設事業の利益のために利用できる敵です」と朝日新聞のシリーズ「モンゴル捕虜収容所」(1995年6月20日より)に紹介されていたが、この演説がいつまでも妙に心に残った。。
いずれにしても戦争という悲劇の中で、捕虜となった日本人は、氷点下30度の酷寒と食糧の欠乏に苦しみながら、1,597人の死者を出し、政府庁舎の一部・国立大学・外務省・国立中央劇場・首相官邸など30ヵ所以上の建物を建設した。それは今なお現役として、ウランバートルの中心街にたっている
街からさらに20分走り、我々の宿舎がある国際ピオニールキャンプ場に到着。時間はすでに午前1時を回っていた。
モンゴルの風を頬に感じて
6時30分起床。宿舎は丘の中腹に在り、その周りは一面の草原である。樹木は非常に少ない。風が強いため吹き飛ばされてしまうからだという。そのためか比較的風が弱まる山陰に、ひっそりと森をつくっている。白・赤・黄色、淡い色の草花が山肌に咲き乱れて、朝日に照らされて生き生きと輝いていた。
早朝のひんやりとした澄んだ空気を頬に感じながら、小高い丘に登ってみた。延々と続く山並みが目の前に広がる。それは、あわただしい日常の生活を忘れさせてくれる、気の遠くなるようなスケールだった。そんな中で遊牧の民の生活に思いを馳せてみた。
日が昇り日が沈み一日の生活が終わる。爽やかな夏は瞬く間に過ぎ、厳しい酷寒の冬を迎える。人間の欲望を刺激し、それを増幅するものはほとんどなく、大自然の中に身を委ね、その摂理の中で逞しく生きていく。この遊牧の民の生活はジンギスハーンの時代より、いやそれ以前から続きこれからも永遠に続いていくのであろう。
それに引き替え私たちは、光、音の洪水の中で日々生活し、人間関係の煩わしさに悩まされ、人間の欲望に振り回されている。生活の便利さに慣れ、限りない欲望が大きな力によって作り続けられ、知らず知らずのうちにそれを満すことに喜びを感じるようになっている私たちは、それと引換えに何か大切なものを失ってしまったのではないだろうか。地平線まで幾重にも重なる山並みを眺めていると、そんな思いがふと湧いてきた。
ピオニールキャンプ 場
私たちが宿泊したこの場所は、社会主義の時代に建設された世界ピヨニールキャンプ場。各国の伝統的な家々を形どったカラフルなバンガローが建ち並んでいる。
ピヨニールキャンプとは、「ソ連を筆頭とする社会主義国における青少年の思想教育の場であり、すべての青少年は夏休みに1ヵ月程度参加する」と、20数年前、ソ連国民スポーツの視察団の一員として参加した折りに、共産党の青年指導者から伺った。
モンゴルのこの施設も、社会主義国の時代には国が運営していたが、今は民営になっており、日本からも毎年青少年が訪れるという。朝7時頃、ソ連の子供たちが大勢やってきた。引率者らしき女性と英語が通じたのでちょっとした会話を楽しんだ。明るい女性だった。どこの国でも子供たちはみんな元気だ、明るい声がなだらかな丘陵に弾んでいった。
モンゴ
リアンブルーの空を汚す煤煙
モンゴル人民共和国独立の記念碑、ザイサン・トルゴイは、街からすこし離れた丘の上に、さらに盛り土して造られており、急な石段を登っていくと、そこにはどこの社会主義国にも見られるような記念碑が、モンゴル・ソ連両人民の友好と相互援助をイメージしたモザイク壁画で飾られそびえ立っていた。
そこからの眺めは素晴らしく、ウランバートルの街が一望でき、近代的な外観の住宅がひときは目を引いた。背後にはなだらかな丘が幾重にも重なって見える。その丘に向かって近代的外観の住宅とは対照的な簡易な木造住居がへばり付いている。約60万人がここに集中し、失業者が溢れ、経済状況も悪い中で、住宅建設もなかなか進まないのであろう
首都の電力は2基の石炭を燃料とする火力発電所で賄っている。街の外れに在る発電所の煙突からはモクモクと煤煙が吐き出され、スモッグのためあたりは霞んで見える。公害防止のための設備投資など、今のモンゴルの経済状況では、必要性は分かっていても設備できないのが現状である。ちなみに1993年の経済状況をみると、国民総生産は(GNP)は9.43億ドル、1人当たりのGNPは400ドル、経済成長率はマイナス0.3パーセント、消費者物価上昇率は34.4パーセント、失業者数71,900人、失業率8.4パーセントとなっている。
発電所と反対側に目をやるとそこにはモンゴリアンブルーの空が広がつていた。
ウランバートルにあるラマ教の宮殿・ガンダン寺は、グリーンの瓦屋根と朱色の壁と柱でできていて、日本の寺院の雰囲気を思わせる。革命(1921年)前まではモンゴル社会で大きな力を持っていたラマ教も、今はその力はなく寺院は博物館となつている。寺院の外には絵などの土産物屋が並び、見ているとしきりに勧めてくる。絵はほかに土産になるようなものがないせいかどこにいっても売っている。
モンゴルの民族音楽 と舞踏を堪能
中央広場の近くにある国立民族劇場でモンゴルの民族音楽と舞踏を見学した。その踊りは、大草原で家畜を追う少女や馬を走らせる若者を連想させるような、躍動的で力強いスケールの大きな踊りだった。特に、美しいモンゴル女性の笑顔とあの独特な肩を左右に小刻みに動かすしぐさは、とても魅惑的でいまも脳裏に焼き付いている。
馬頭琴の響きや、民族楽器の合奏、草原にこだまが還るようなモンゴル民謡(オルティン・ドウ、長い歌の意)に琴線を震わされ、しばは時の経つのを忘れてしまった。日本の馬唄・江差追分のルーツはオルティン・ドウにあると聞いたことがあるが、思えば似ているような気がする。
馬頭琴(モリン・ホール)について、星野百合子さんは『馬頭琴とモンゴル民族』の中で、中国の一級演奏家チ・ボラグ氏は日本人の弟子、鈴木秀明氏に次のように語っていたと紹介している。「モリンホールの弦をよく見てごらん。一本の糸でできているのではなく、何本もの糸が束になってできているだろう。だからこの弦を弓でこすると、ほかの楽器の弦のように、左右に振動するのではなく弦全体が膨れ上がり、またしぼむ。これを繰り返しているのがわかるだろう。ちょうど人の心臓のように。これがモリン・ホールの音色が人の心をうつ秘密さ」と。
馬頭琴の歴史は2千年とも4千年とも言われいるが、その音色はモンゴル人の心のふるさとなのだろうか。日本人である私もいっぺんに好きになってしまった。
午後7時頃、再び宿舎のあるピオニールキャンプ場に向う。途中、山から馬・山羊・羊が帰ってくる光景に出会った。馬にまたがった少年がそれらを巧みに追う。まだ日は高いがまもなくモンゴルの1日が終わろうとしている。時折激しい雨が大地を濡らすが長くは続かず、青空が所々に顔を出す。遠雷がかすかに聞こえてくる。頬をなぜる涼しい風がとても気持ち良く感じられる夕暮だった。
バヤンゴビの砂漠まで270キロメートルの旅
今日はウランバートルから270キロ先のバヤンゴビキャンブ場へ、ソ連製のかなりひどいバスで出かけるのだが、昨晩からの下痢が心配でなんとなく落ち着かない。幸い昨晩飲んだセイロガンがきいたのか下痢はおさまってはいるが。
途中、17〜18歳位の馬を追う馬上の青年に出会った。澄んだ目と素敵な笑顔の青年はすぐに皆を虜にしてしまった。カメラを向けても変に意識せず、自然なポーズがとても良かった。はからずもその場のスターになってしまった彼は、写真撮影が終わるとまた馬にまたがり、何事もなかったかのように立ち去っていった。あとには爽やかな印象が残こっていた。
街から離れるとそこは大自然。男性も女性もトイレは自然の中でおおらやに済ませなければならない。それでもルールがある。バスの右側が女性、左側が男性。そちらの方を見ることはエチケット違反になる。
行けども行けども草原以外は何もない。7時間走っても風景は変わず、水場もガソリンスタンドもない。車が故障したらどうなるのだろうか、少しぐらいの故障は運転手が直してしまうと言うが心配だ。
変化といえば綿のような雲が、大地に黒々と森のような陰を作っているだけである。前方に雷雲、激しい雨が降っている。その中にバスは突っ込んでいく。ひどい雨だ。バスは水飛沫あげて突っ走る。5分程度で雷雲を通過、外は相変わらず日差しが強く、30度近くはあるかもしれない。青空が前方に見えてきた。
橋の近に馬の群れが見える。馬たちが水あびおしているのだ。しばらく馬たちを見学するためにバスは止まり休憩。車道を馬の親子がやってくる。トラックが近付くと父馬と母馬は小馬を真ん中にしてガードする。水辺では親子仲良く戯れている。微笑ましい光景であった。
出発しようとしたらバスのエンジンがかからない。さあ大変なことになったと思ったが、運転手は別にあわてる様子もなく10分程度で直してしまった。さすがである。彼らは車を馬を扱うように大事に大事に扱い、エンジンの微妙な音でその時の調子を見極めるのである。
ポラロイドカメラで牧童たちを写し、それをプレゼントしていると、その光景を遠くで見ていたのか、私たちも撮ってくれとファミリーが寄ってきた。「撮ってあげるよ」と言うとうれしそうにポーズをとつた。「もう一枚撮ってくれ」と若者は新妻らしき女性の肩を抱き寄せた。あわてて髪を撫ぜつける彼女のしぐさがとても初々しい。別れ際に彼らは投げキッスをして見送ってくれた。
かなり急な坂道になった。バスはあえぎながら登っていく。ギアを切り替えると「バッシ」と怪音を発した。「ドキッ」この坂道でエンストしたらえらいことになる。何とか登りきってほしいと祈るような気持ちだった。大きな穴ぼこでバウンドしながらようやく峠に出た。
時間は午後3時35分、昼食をまだとっていないので、お腹が大分減ってきた。食事は何時になるのだろうか。目的地のバヤンゴビキャンプ場はまだまだ遠い。「この分だと多分昼食は抜きになるな」とあきらめることにした。車内は空腹と疲れでみんな寝ている。外は単調な大草原が相変わらず続き、道は地平線に向って真っすぐに伸びている。
街に近ずいてきたのだろうか、平原に電線が見えてきた。湖の近くの集落はほんの小さなもので、厳しい大自然から身を守るように、家々は寄り添って建っていた。時折、馬上の親子連れが草原を横切っていく。手を振ると親しげに笑顔を送ってくれた。その顔は赤銅色に日焼けしていて逞しく、ゆっくりと時には疾走するその姿は、大自然と一体化し実に美しい光景であった。
地方の祭り‘ナーダム’に出かけるのだろうか、正装した馬上の一族に出会った。これから始まる年一度のお祭に浮き浮きしている。カメラを向けると満面に笑みを浮かべ応えてくれた。特に、馬上のお母さんの逞しく自信に満ちた姿は印象的だった。モンゴルでも家族の中心は母親なのだろう。
午後7時頃だったか、ようやく目的地のバヤンンコビに到着。さっそく昼食が用意された。時間的には夕食なのだが、まだ昼食を食べていないからである。そのあとすぐに夕食が出されることになっていたが、とても食べられそうもないので、夕食は軽食に替えてもらい、それでパーティーを開く計画が立てられた。それならばと昼食は腹6分目に押さえ、後のパーティーに備えることにしたのだが、なんとパーティーに出てきたものはパンとほんのちょっとしたものだけ、本当に軽いものだった。「計算が狂った」と卑しい考えが頭をもたげてしまった。
モンゴル帝国の都・カラコルムへ
明け方の激しい雨で目が醒める。午前9時、今日はモンゴル帝国の首都であったカラココルムへ出発だ。
赤茶けたゴビ砂漠が緑の草原の中に続く。前夜の雨で一段とそのレンガ色は鮮やかに見え、緑とのコントラストガが美しい。穴ボコだらけのドロ道をしばらく走って国道に出る。国道といっても車が快適に走れるようなものではなく、かなり激しい振動が私たちを揺さ振る。その道も途中でストップ。その先は工事中になっていたが、原材料が不足しているため、いつ工事が再会するかメドが立っていないという。しかたなく再び草原のデコボコのドロ道に入っていった。かなり急勾配の坂道、下の方はどのくらい深いのかわからない水たまりがバスの行くてをさえぎっていた。どうするのだろうと思っていると、運転手は果敢に挑んでいった。バスの頭は水溜まりの中に突っ込んでしまうのではないかと“ヒャッ”とさせられたが、さすが百戦錬磨の運転手、無事その難関を切り抜けた。モンゴルのデコボコのドロ道を知り抜いているからこそなせる技なのだろう。しかしこの道はどこまで続くのだろうか、かなり疲れてきた。
あたりに森はほとんどなく、背の低い灌木が所々にあるだけで、気の遠くなるような雄大な草原が、360度のパノラマとなってそこに広がってた。特に今年は例年になく雨がが多かったという。そのためか川の水は豊富で草原の緑はみずみずしかった。
しかし、雨が多かったことを喜んでばかりいられない。モンゴルは乾燥の国、乾燥こそがモンゴルなのである。もし、牧草の刈り入れが終わった夏から秋にかけて、雨が多いとその牧草は腐ってしまう。それは牧畜のみならず遊牧民の死活にかかわる問題なのである。
見渡すかぎりの草原は芝生のように美しく刈りこまれていた。それは羊や牛が草を食べながら移動していくからである。まるで芝刈り機のようである。不思議なことに花は避けて食べない。嫌いなのだろうか。
遊牧民は家族皆がそれぞれの役割を持って働いている。4・5才になると馬に乗って家畜の管理を手伝っている。南ゴビで出会った素足の少年もそうであった。夕方になると巧みに山羊を集めおりのなかに入れていく。仕事が一段落すると、少年は地平線まで続く平原を一人見つめていた。何を考えているのだろうか、澄んだ目がとてもきれいだった。
厳しい大自然の中に生きる彼らは、つらいからといってそれを避けることはできない。人間も家畜も自然に逆らうことなくそこにとけこみ、助け合って生きていかなければならないのである。
人も羊・馬・牛も大自然の中で自由に生きている。管理社会の中でヒーヒーしている人間はなんと哀れな動物なのだろうか。
週末、私はよく多摩川のサイクリングロードを河口まで、モンゴルの民族音楽を聞きながら、走るのが楽しみの一つになっている。雄大なメロディー、四季折々の多摩川の風景、心地よい季節の微風で満ち足りた時間に身を置く。
昭島市の自宅から河口までの40数キロの河原の中には、テント生活をしている人たちがけっこういる。ホームレスと呼ばれる人たちだが、その人たちはなぜ川原で生活しているのだろうか。仕事や家族を捨て、社会から身を隠して生きている。一人一人いろいろな人生を経て、今ここにいるのだろうが、ふと、彼らの中には、「自由に、自然の中で社会とのかかわり・拘束から解放され、さすらい人として生きたいと思っているのでは」と思うことがある。そんな彼らの生き方は、一面では遊牧の民の生活に似ているような気がする。
私たちをガイドしてくれた19才の少年、ウヌルバートル君は、明るい性格で冗談をよく飛ばし私たちを楽しませてくれた。その彼は2か月間、日本の女性に日本語を学び、その後独学でたった4・5か月で会話をマスターした。頭のよさもあるのだろうが、日本語に向う姿勢がとても真剣だった。それにひきかえ何年も何年もだらだらと英語を勉強し、会話すら十分にできない自分が歯痒く思われてきた。
その彼が遠くの羊の群れを指差して、「何匹いると思う」と質問してきた。「1,300匹だ」と彼は言う。家畜を管理するという生活上の能力だろう。彼らの視力は大変よく2.0以上が普通だという。だから私たちには見えないものまで確認できるのである。私たちの視力は文明社会のなかでだんだん退化してきているのだろうか。
バスの運転手は70才、モンゴル相撲の出身で立派な体格であり、とても年齢には見えない。彼に限らず車を扱う者は、車を非常に大事にする。少しのエンジンの変わった音・振動も見逃さず、チェックし早めに手当てする。それは遊牧民が最も大切にしている馬をあやすように。車を簡単に持つことができ、次から次へと買い替えて、トラブルはすべて修理屋にまかせている私たちは、日本では乗ることができても、モンゴルのような大自然の中ではとても無理であると実感した。
ジンギスハーンの宮殿は、エルデニゾー寺院に変身
二人の少年が道をとぼとぼと歩いていた。辺りには集落らしきものは何もなく、ただ、延々とつづく草原と強い陽射しがあるだけである。どこへ行くのだろうか…‥。草原ではめったに人に出会わないからか、妙に気になって仕方がなかった。ようやく平原の彼方の丘の麓に建造物らしき物が見えてきた。それはかつてモンゴル帝国の首都カラコルム跡に建てられたエルデニゾー寺院である。ジンギスハーンの壮大なロマンを秘めた都へやってきたのだ。
モンゴル帝国の2代目、ジンギスハーンの息子オゴデイは、1235年にカラコルムの地を首都と定め万安宮を造営した。付近には壮麗な宮殿が軒を連ねたという。5代フビライがカンバリク(現在の北京)に遷都して以来衰えてしまった。
1586年にアフターハンは古都カラコルム跡にラマ教のエルデニゾー寺院を造営した。その時、万安宮の建物は取り壊され、資財は再利用されたため、今は当時を忍ぶものは柱の台座であった三っの亀石だけである。これは亀が世界を支えているという神話的背景からきている。草原の中にぽつんと佇んでいる亀石は、見る者に歴史の流れを感じさせる
エルデニゾー寺院は格式が高く、かつては身分の低い者は塀の中に入れなかったという。1965年、エルデニゾー寺院は社会主義政策のもとで博物館となり、今では誰でも入ることができるようになった。
再びバヤンゴビのキャンプ地へ。デコボコのドロ道を荒波に揺られる小舟のように走って、いや、動いて3時間半、往復7時間の旅は終わった。
しかし、雲がいい。こどもの頃、夏の多摩川で水浴びのあと寝そべって青空を見上げ、真っ白な入道雲とよく遊んだ。そこに浮かんでいた雲と同じであった。時間は微風のように音もなく静かに流れていった。
ゲルを友好訪問
夕食は10時。昼が長いためこれが当たり前になっている。しかし、朝は普段と同じように6時半には起きるので1日がとても長い。夕食の後、近くのゲルを訪問。客人として迎えられ、馬乳酒・チーズ・ウォッカをご馳走になった。馬乳酒といってもアルコール分はほとんどない。しかし、飲み慣れないと下痢をすると聞いていたので、恐る恐る飲んでみたがうまかった。濃い牛乳のようでちょっと酸味があったように思う。チーズもピュアーそのもので、じっくり噛んでいると何とも言えないい味がしてくる。
近所のゲル、もっとも近所といっても1キロメートルは離れているが、数家族が集まって来た。ここでもポラロイドの写真がなによりのプレゼントとなった。
訪問したゲルの主人はモンゴル相撲の力士であり、息子がナーダムの競馬で優勝したこと、優勝馬を持っていることを誇りにしていた。モンゴルにこんな諺がある。世の中に3人の愚か者がいる。いちばんバカな愚か者は自分を誉める。中くらいの愚か者は妻を誉める。いちばん偉い愚か者は自分の馬を誉める。モンゴル人にとって、馬はなくてはならない最も大切なものなのだろう。
また、自分の子供に誇りを持ち、自信を持って育てている。他人の前で自分の息子を自慢する。それを側で聞いている子供は、「父親は自分のことをこんなに誇りに思っていてくれる」と思う。この子育てに比べ自分の子育てを振り返ってみると、「しまった」と思うことばかりである。叱り、けなすことの方が多かったような気がする。もっと誉めてやれば良かったと後悔するばかりである。
大草原で“ 羊の生きづくり ”
昼食は羊のバーベキュー。草いきれのする野外で、さんさんと降り注ぐ日の光を浴びながら、馬乳酒・ビール・ウォッカを飲み、歌い・踊り大いに楽しんだ。料理は名付けて特別料理“羊の生き作り”である。
つい今し方までそこで草を食んでいた羊を、ナイフ一本で血を一滴も流さずに解体し、その血の一滴まで無駄にせず料理に使う。この解体がてきるのは家族のなかでも特別な人、家長だけで女性はできないという。解体方法はまず羊の胸にナイフを入れ、左手で羊の目を覆い、右手を胸のなかに入れて心臓を止める。次に、皮をはぎ内蔵を取出していく。最後に固まった血を取り上げ、揉みほぐしながらボールに移しこの儀式的な作業は終わる。この血は後で料理に使われる。
特にうまかったのは骨付き肉の蒸し焼き。料理方法は、熱く焼いた石を馬乳酒の入った圧力ナベのような物の中に入れ、その中に羊の肉を入れる。あとは火に掛けてしばらく蒸していく。味は塩あじでサッパリしていた。
この料理は、祭りとか正月、大切な客人をもてなす時など特別な日にだけ行なわれる。羊は一家の財産であり、やたらと殺して食べていたら財産を食いつぶすことになるからであろう。
大草原の中でこのようなすばらしい体験をもう一度できるだろうか。余韻を楽しみながらウランバートルへ270キロの帰路についた。樹木は一本も無く、ところどころ雲が平原の上に影を落していく。陽射しは強く窓越しにジリジリと肌を焼く。行き交う車はほとんどなく、時折、道路脇にトラックを止めて、その影の中で休んでいる家族を見かけるだけである。
道端で2人の青年が手を挙げ乗車を求めていた。しかし、観光バスのためそのまま走り去ってしまった。影が夕日のなかにどんどん小さくなっていく。ほとんど車が通らないこの道で、車を捕まえることができるのだろうか。あたりになにも無い中でどうなるのだろうか……
ウランバートルの百貨店へ
モンゴル人の平均的賃金7千トルグ(約20ドル)を持って百貨店に出かけた。ジュータン、カシミヤのセーターなど高級品はドルだてで安くはなかっが、民芸品などはトルグで安く買うことができた。途中、停電に見舞われ真っ暗の中での買物となってしまったが、お客も店員も別にあわてることもなく平然としていた。この百貨店を一回りしてみたが、商品の種類は少なく閑散としてた。それに引き替え日本のデパートには商品があふれている。いや、過ぎているといったほうが適切かも知れない。次から次へと欲望は刺激され、知らず知らずのうちに新製品を買わされてしまう。それによって生活は物質的、精神的に果たして豊かになっているのだろうか。ふと、そんな思いに駆られてしまった。
感動的だったテルジ の山でのキャンプファ イヤー
テルジのキャンプ地は、昨日のバヤンゴビの大平原と違ってリフトをかければ日本のスキー場のようである。このテレルジの山の中、大きな岩の下で夜10時、もっとも暗くなるのはこの時刻であるが、私たちのためにバーベキューが用意された。ファイヤーを焚き、ビールを飲み、そして哀愁を秘めた馬頭琴の響き、夜空に響きそして吸い込まれていく歌手ゲレルマさんの澄んだ声量のある歌を聴く。まさしくそれは、遊牧の民が大平原の生活の中で培い、そして楽しんできた音楽なのであろう。歌が日本の歌「北国の春」、「昴」になるとみんなで合唱。宴は一気に盛り上がっていった。民族舞踏家のチェリンさんは、モンゴルの踊りの最もベーシック動き、魅惑的な肩の動きを披露してくれた。翌日その素晴らしい彼女の踊りをウランバートルの劇場で十分堪能させてもらった。
キャンブ地に帰り2次会、飲み、歌い、踊り、時間は瞬く間に過ぎ午前2時30分、モンゴルの仲間たちの「まだ楽しもうよ」という誘いに後ろ髪を引かれながらゲルのベットと帰った。
草原のなかの遺跡、廃墟となった工場
目を覚ますと激しい雨がゲルのテントを叩く。気温は低く肌寒い。バスは車内に雨垂れを垂らしながら、道なき道を荒波にもまれる小舟のように進んでいく。後尾の座席の揺れは特にひどく、シートにつかまっていないと天井まで跳ね上げられてしまう。とても居眠りをしている暇はない。雨の中のデコボコのドロ道、「車輪をとられて立往生するのでは」と内心はらはらしどうし。よくできたもので地面が堅いためなんとか進んでいくことができた。途中、旧ソ連の工場の太い配管が大地に延々と横たわっている。バスはそこを横切るのであるが、道は簡単に土を盛り上げただけ。まるで谷に落ち込んで行くようで、冷汗が背筋を走っていく。
地平線までつづく平原。そこに花こう岩のような石でできた遺跡があった。遥か彼方までその石は続いている。何の遺跡なのだろうか。カラコルム遺跡より古いものかも知れない。このモンゴルの地に栄えた古代の文化か、そのロマンに思いを馳せる。それにしても風雨は強く冷たく肌を刺す。
平原の所々に旧ソ連の工場の廃墟がある。揺れ動く本国のお家事情のために技師たちはみんな引き上げていってしまった。旧ソ連はモンゴルの経済的自立を真に願っていたのだろうか。そうであるならなぜモンゴル人の技師を育ててこなかったのだろうか。大国のエゴを感じてしまう。
モンゴル人の中国人嫌い
モンゴル人のほとんどは旧ソ連びいきであり、中国にはあまり好意を持っていない。なぜなのだろうか。歴史をひもといてみると、両国の間には紀元前218年の匈奴帝国出現の時代から、数千年にわたる深い深い歴史的因縁がある。すなわちそれは遊牧民族であるモンゴル人と農耕民族である漢人の血で血を洗う戦いの歴史であったと思う。
司馬遼太郎著「街道を行く・モンゴル紀行」によると、モンゴル人は遊牧民のせいか、性格が大らかで素朴、感情をむきだしにして多民族を憎悪することが少ないが、地続きの大地に住む漢民族にたいしては、生まれる前から嫌いだというところがある。その理由は、まず民族としての業種が違うこと。遊牧と農耕は同じく大地に依存しつつも、遊牧者は草の生えっぱなしの大地を生存の絶対条件とし、農耕者は逆に草を嫌い、その草を鍬でひっくり返して田畑にすることを絶対条件としている。かつて内蒙古で遊牧民と農耕民が入り交じっているあたりでは、このための紛争がたえなかったという。
1206年、ジンギスハーンが強大なモンゴル帝国を興し、世界を制覇し、1260年フビライハーンが即位し、1271年に中国の国号を元と改め中国を統一していく。1368年には明に滅ぼされ、モンゴルの草原に帰つて行く。分裂を繰り返しやがて民族ぐるみ弱小していった。
明(1368年〜)から清の時代(1644年〜)に大規模なかたちで耕地が北、すなわち外モンゴルの方に広がって行く。その結果、遊牧民であるモンゴル人は北へ北へと追いやられていった。さらに、漢民族の商人はモンゴル人の商業的な無知に付け入って搾取し極度に窮乏させていった。だから、モンゴル人は自分たちの不幸のすべての原因は、中国人にあると思うようになった。
冷たい雨が降る中、目の前に広がる草原を見つめていると、モンゴル民族の栄枯盛衰が走馬灯のように見えてきた。
別れの日はやってきた
いつも私たちに同行して面倒をみてくれたウヌルさんは、2児の母親であり事業家。モスクワで学び、今また若い人たちとモンゴル大学で学んでいる。「夫が卒業したので今度はわたしの番です」と話す彼女の前向きな姿勢に深い感銘を受けた。彼女は英語も話すので、拙いわたしの英語でも会話を楽しむことがでた。話すことにより、彼女のみならずモンゴルの人たちとの距離がすごく縮まったように感じられる。顔を見合わせ微笑むだけでなく、思うことを伝えられたら親しみはより深まっていく。いつの日か再び訪れることができるなら、その時はモンゴルの言葉を少しは学んでいきたいと心に誓ったのだったが…‥。
1週間が過ぎるのはまったく早いもので、もう帰国の日が来てしまった。あたりはまだ薄暗い早朝、ウランバートル空港のロビーで、オルギヌ氏のリードでみんな肩を組み、「若者たち」を合唱した。「♪君の行く道は果てしなく遠い
なのになぜ 歯をくいしばり 君は行くのかそんなにしてまで♪」。日本よりも40〜50年も遅れているかも知れないモンゴル、豊かな国づくりの道程はこれからも大変厳しいであろう。そんな中で、観光事業、貿易事業に全力投球しているウヌル、オルギヌ夫妻。歌っていてジンと胸が熱くなってしまった。
何時も笑顔を絶やさず、歌を口ずさんでいたハンダさんやスタッフの皆さん、目に一杯涙ためて私たちを見送ってくれた。わたしたちの訪問を心から喜び、誠心誠意もてなしてくれた。ありがとう。いつの日か日本を尋ねてくれることを願わずにはいられなかった。