草原に咲く友情
日本・モンゴル青少年交流キャンプ


 始まった青少年の交流事業
 初めてモンゴルを訪れ、その国の自然、文化、モンゴル人の逞しさと優しさに触れ、すっかりとりこになって以来、毎年夏になると里帰りのようにモンゴルに出かけ、早くも5年目を迎えた。
 3年前の夏、友達数人と大草原を馬で走り、満点の星空の下で、友人ウヌル、オルギル夫妻と焚火を囲み、青少年育成、国際交流、日本・モンゴルの友好親善について、アルヒ(モンゴルの強い酒、ウォッカのようなもの)を飲みながら夜おそくまで語り合った。
その時、オルギル氏は「国と国の友好親善は、今生きる子供たちの地道な交流が大切、その子たちが大人になったときに本物になります。だから今は苦しくても将来を担う子供たちに夢を託していきたい」と熱ぽく語ってくれた。 そのロマンに意気投合し、昨年(1996年)、日本・モンゴル青少年交流事業をスタートさせた。
 しかし、モンゴルは1992年、新憲法が発布され社会主義国から民主国家に衣替えしたばかりであり、社会資本は不十分で国はまだまだ混沌としている。国民は日々の生活に追われ、日本のようなボランティアによる交流協会が生まれる土壌は育っていない。
オルギル氏は現在ウランバートル市の職員であり青少年問題を担当している。夫妻は「最近ウランバートルにも青少年のホームレスが増えてきており、青少年問題が国や市の行政課題になってきていますが、国・市にはそのための十分な予算がありません。まず、私たちがそれぞれの分野で全力をつくし、豊かになっていくことが、しいては国が豊かになり、青少年の施策も充実していくことになります」と力説していた。
 子供たちの交流の場はランバートル郊外60キロの地、ツァガーンボルゾックというところ。分水嶺・ヘンティー山脈を一望することができ、その麓にはトウラー川がゆったりと流れる別天地である。
 第1回目は17人の小・中学生がモンゴルに出かけ、モンゴルの子供たちと13人と一緒のゲルに泊り、それぞれの国の歌を教え合ったり、草原でのサッカーや乗馬、植樹などをとおして交流を深めてきた。
 
 モンゴル人の 心「モニトゲーム」

 交流事業の期間中行なわれたモニトゲームは大変ユニークで、日本の子供たちも私たちリーダーも初めての体験であった。それは、最初にくじ引きで一人一人のモニト(親切にしてあげる対象者)を決める。自分がだれのモニトになっているかは最終日まで知らされない。子供たちは自分のモニトに知られないように、野草で作った花束のプレゼントやベットメイキングなどモニトが喜びそうなことを、自分で直接したり誰かに頼んでする。頼まれた人は「これは貴方のモニトからです」とだけ伝える。親切にされた人はそのつど広場に掲示してある集計表に印をつけていく。 バヤンゴビから帰るバスの中で、モニトは親切にしてくれた相手と初めて対面する。そして5日間の親切な行為に対し感謝の気持ちを伝え、堅い握手をかわす。モンゴルの子供たちは、このゲームをいつも楽しんでいるらしく、積極的に参加し、いろいろな方法で日本の子供たちを喜ばせていた。
 「自分の善意の行為がたとえ相手に知られなくても、その人が喜んでくれるなら私はその人のために一生懸命できることをします」と言う。
 素朴で心優しいモンゴルの子供たちの心根を、このモニトゲームをとおしてうかがい知ることができた。ある日本の子供がこんなことを言っていた。
 「モンゴルの子供は頼みもしないのに、いろんなことをしてくれるんだよ」、「どう思 うの」と尋ねると、「僕だったら頼まれもしないことなどやってあげないな」と。ちょっと考えさせられる言葉だった。
 厳しい大自然の中では、一人ではけして生きていくことが出来ない。お互い助け合っていくことが当たり前の世界。こんな話を聞いたことがある。遊牧民の社会では、見知らぬ旅人が訪ねてきても、馬乳酒や食事ふるまい、一夜の宿を提供する。家人が全員出払ってしまう時には、食卓にそれらを用意しておく。旅人はゲルに入り、ご馳走になって出ていってもいいことになっているという。
 そういえば昨年の1月、マイナス20度の中、この冬は暖冬だったというが、ウランバートルから南ゴビまで往復1,200キロをジープで走った。その時私たちを招待してくれた青年実業家ダリフ氏が、私の「もしジープが壊れてしまった時にはとうするんですか!」という問いに、いとも簡単に「20〜30キロも歩けばどこかにゲルがありますよ」と言った。彼の心の中には、行けば必ず救けてくれるという自信があったからだと思う。でなければ行けども行けども何もない酷寒のゴビ砂漠なんかを走れるわけがない。
 また、私たちがよく目にする光景だが、夕暮の中、親子ずれが国道脇にじっと立っている。車に乗せてもらうために。車なんかそれこそたまにしか通らないというのに。そこには待てば必ず乗せてくれるという信頼関係があるからである。
 モニトゲームは、モンゴルのこんな人情味の溢れた風土中で、子供たちに親しまれているのであろう。
 
 草原を走る
 キャンプ場のまわりは永遠のみずみずしさを失わないエーデルワイスが、白いジュータンを敷きつめたように群生している。草原のあちこちでは愛らしい野ねずみやタルバガンが顔をのぞかせていた。そんな中を短めの脚だが力強いモンゴル馬で、走る心地良さを何んと表現したらいいだろう。
 初めて馬に乗る子供たちは、順番が近づいてくるにしたがって顔を緊張させ、普段は見せない真剣な態度になってくる。グループに分かれ指導員からマンツーマンの指導を受け、最初は歩き、次に早や歩き、走り、最後は自分一人でたずなをさばき草原を散策した。大きな優しい目で見つめられ、うなじを撫ぜながらなかなか馬から離れようとしない女の子は、馬の優しさ温かさを感じたのだろうか。普段は斜に構えゲームなどになかなか飛び込んでいけなかった中学生の男の子は、「なかなか素質があるぞ」と誉められ、乗るごとに自信をつけ目の輝が増していった。乗馬は子供たちに何か大きな素晴らしいプレゼントを与えたようだ。モンゴルの子供たちは皆んな乗馬がうまいだろうと思っていたが、ウランバートルの都会に住む子は、日本の子供と同様おかなびっくり乗っており、それを見ていた日本の子供たちはかえって近親感を覚えたようだ。
 
16時間近くのデータイム

 日の出は午前6時、日没は午後9時30分頃、長い長い1日である。ここでのキャンプは日本での一般的なキャンプのように、時間やプログラムに追われることがない。大まかなスケジュールでゆったりと大自然のリズムに乗って生活していく。
 草原でのサッカーは子供たちに人気があり、日本・モンゴル対抗ゲームで、子供たちの距離は一気に縮まっていった。言葉は分からなくても体をぶっけ合い、ボデーランゲージで子供たちの交流は深まっていった。
 モンゴルの子供たちの引率者は若き指導者2人。1人は21才の中学の先生、もう1人は20才のボーイスカウトのリーダー、ともにエネルギシュなリードで、消極的だった日本の子供たちをぐいぐいとゲームの中に引き込んでいった。
 キャンプ場最後の夜のキャンプファイヤーは感動的だった。辺りが暗くなってきた午後9時30分頃、2人の先生は河辺の大きなヒマラヤ杉に登り、紐の先に石をしばりつけそれを投げて枯れ枝に巻きつけて取り始めた。ファイヤーの準備が完了したのは午後10時30分。まったくのんびりしている。日本だったらとっくにキャンプファイヤーは終わり、子供たちは就寝の時間である。2人はそんなことをちっとも気にしない。「ここはモンゴル、時間はタップリある、ゆったりいこう」という気持ちに私たちもなっていった。
 最後の夜のキャンプファイヤー、私たちは日本流の儀式で始めることを提案し快く受け入れてもらった。月が照る小高い草原から、日本とモンゴル、それぞれの民族衣装である浴衣とデールを着た女の子が、ローソクを紙で蔽った灯を持ってゆっくりと下りてくる。静寂な闇の中をモンゴルの心に沁みる叙情曲が流れる。これはモンゴルのリーダーの提案だが、この場に求める雰囲気は私たちと同じであった。いげたに積み上げられた薪に火が入れられキャンプファイヤーは始まった。夜がゆっくりと更けていく中、子供たちは自然児として、闇にとけこみ時には赤々と燃える炎に照らしだされながら歌い踊った。午前0時、ファイヤーは燃え尽き辺りはもとの静寂に戻り、最後の晩は終わった。
 
 民族の歌の交換

 私の知人「あすなろ少年合唱団」の指揮者・茂手木節子氏は、「音楽教育の原点は自国のわらべ歌を歌い遊ぶことから始めなければならない」というハンガリーのコダーイ・ゾルターンの音楽教育の方法論を実践している方である。私たちのプログラムを話したところ、「ぜひ子供たちに日本の歌、わらべ歌を教えてあげなさい。若い人たちはこれから外国に出かけることが多くなるでしょう。そんな時に自信を持って日本の歌を紹介できることが、国際交流の第一歩です」と話してくれた。そして、わらべ歌の指導を約束してくれたのだったが、不幸にして病魔に襲われ現在病と戦っておられる。そこで、私たちはこの交流事業のテーマの一つに日本の歌の学習を取り上げた。そしてモンゴルの子供たちに「わらべうた」を紹介し、モンゴルの歌を教えてもらうことにした。日本の「とうりゃんせ」とモンゴルの「コンバイヤとチグチーヘンネビッシェー」を機会あるごとに歌い合ってきた。子供たちは歌うことにより、自国の歌の持つ意味、素晴らしさを理解するとともに、モンゴルの子供たちとの心の触れ合いを深めることができたのではないかと思う。

 ポプラの苗木に祈り を込めて

 モンゴルでは「国際公園プロジェクト」が今年から発足した。私たちも微力ながらそのプロジェクトに参加するため、全員で4月7日の開校式から出発の前日7月22日まで毎日50円貯金を行い、総額1,200US$をウランバートル郊外のボタニック公園の植樹プロジェクトに寄付してきた。モンゴルの子供たちと一緒にポプラの苗木を、将来再びこの地を訪れることができるよう、また、この苗木が厳しい自然環境に負けず、大きく成長することを願いながら植樹をした。所長は「皆さんの寄付金でまず公園の柵を整備したい。そうしないとせっかく植えた苗木が羊や馬などに食べられてしまいます。将来、この公園を世界各国の樹木で埋めたい。皆さんの善意に心から感謝します」と話していた。
 
 別れはいつもやって
くる
 日本の子供たちは、超一級のモンゴルの大自然に触れ、16時間という超ロングのデータイムの中で、モンゴルの子供たちと身体ぶつけ合い心を通わせてきた。また、白く咲き誇るエーデルワイスの群生の中で乗馬を楽しみ、優しい馬の体温を肌で感じてきた1週間の交流は、またたくまに過ぎ去り別れの時はやってきた。モンゴルの子供たちは全員ウランバートル空港まで見送りに来てくれた。そこでまた日本とモンゴルの歌の交換となった。「とうりゃんせ とうりゃんせ ここはどこの細道じゃ……」モンゴルの子供たちには歌の意味はよく分からないだろうが、この歌の持つ雰囲気は伝わったように思う。フライトの時間が迫ってくる。子供たちの純真な心が大粒の涙となって頬を濡らしていった。いつまた会うことができるだろうか…‥。
 今のモンゴルの経済状況では、子供たちが日本を訪れることは不可能に近い。日本の子供たちがモンゴルを訪れ、友好を深めることしかできないであろう。しかし、いつの日かモンゴルの子供たちが日本を訪問できることを願わずにはいられなかった。
今年(1997年)は18人の小・中・高校生が行くことになっている。この地道な交流活動は、友人ウヌル、オリギヌ夫妻の夢であるが、同時に私自身の決して消えることのないロマンでもある。