厳冬南ゴビ、2千キロの旅
1995年12月28日〜1996年1月8日


 厳冬のモンゴルにいってみようと決心したのは、その年の春、花見の宴席でアルピニスト竹嶋氏と盛り上がっていた時である。「マイナス20〜30度の世界とはいったいどんなものか、体験してみよう」と意気投合し、その熱は醒めることなく、12月28日モンゴルに向かって成田を飛び発った。
 牧歌的で過ごしやすい夏の季節には3度訪れ、その度ごとにモンゴルの素晴らしさを発見してきた。しかし、モンゴルを真に理解するには、観光客がほとんど行かない、1年の中で最も厳しい冬に行かなければと思った訳である。「何がそんなにモンゴルに引き付けるのか」とよく聞かれるが、それは一言で言えば、「大自然と共生する遊牧民の生きざまに惚れたからである」と答えている。
 モンゴル人の祖先、また彼らの宿命的な生き方を、江上波夫編、「中央アジア史」では次のように紹介している。「遥か彼方の遠い祖先は、紀元前4千年から3千年頃、新石器時代に中央アジアからモンゴルに及ぶ砂漠ないしは半砂漠地帯に、人が生活しやすいまわりの湿潤な気候地帯から羊・山羊などの家畜を連れてやってきた。しかも、広大な大地の上で孤独な放浪者として。彼ら牧民はその宿命として、集団では生きることができないからである。牧畜には大量の牧草が必要であり、もし集団で一ヶ所に生活したならば、たちまち牧草は不足し共倒れになってしまう。また、その生活は自然の異変に大きく左右されてきた。炎天の夏、降雪で地面が凍結した冬、牧民は残草や水溜りを捜し出そうと、同じ運命にある人々と先を争って死をかけた冒険的逃避行を繰り返してきた。事実、近年まで10年に1度ぐらいは、ズルという草や水不足による家畜の大量死の恐怖が、中央アジアの遊牧民を悩まし続けてきた。」と。
 この5千年にも及ぶ彼らの生活は、今も変わらずモンゴルの遊牧民の中に生き続けている。大自然と共に生きる彼らは、厳しい生活の中でお互いに助け合うという優しさと、自らの力で困難を克服していく逞しさ身に付けててきた。今私たち日本人が失い忘れかけている大切ことを、訪れるたびに彼らに教えられるのである。
 モンゴルへのルートは、いつものとおり割安な北京経由の定期便コース。北京での滞在と観光は、友人となった通訳の唐鳳英さんにお願いすることにしている。
 彼女は漢族の女性であり、ご主人は少数民族の回族でイスラム教信者である。回族は異教徒との婚姻は原則的には好まないが、男性だけは認められている。それは、異教徒間の婚姻でも子供は夫の宗教・イスラム教を信仰し、回族の一員となり人口は減少しない。しかし、女性の場合は夫となる人の民族になり、結果的に人口は減少してしまうからであるという。少数民族の保護ということにも関係しているのであろう。
 イスラム教の人たちは、羊や牛肉は食べるが、豚肉は決して食べない。それは、豚は何でも食べる汚らしい家畜であると信じているからである。豚肉を食べる唐さんの両親が泊りにくると、ご主人の両親は、二人のために専用の箸と茶わんを用意するといった徹底ぶりである。だからいつも泊まらずに帰ってしまうそうだ。彼女もイスラム教を信仰しているが、その時の思いはきっと複雑であろう。
 彼女は今年(1995年)中国で始まった通訳の国家試験にも挑戦し、4科目中3科目をすでにパスし、来年残る1科目に再挑戦するとハリキッテいる。また、週3回は全日空の北京事務所で通訳として働き、あとは通訳の仕事の勉強のために図書館に通っているという。ご主人とご主人の両親、子供一人の5人家族、たぶん30代後半の女性である。ちなみに、今、中国では人口の増大を防ぐために、少数民族以外は一人っ子政策をとっており、生みたくても生めないのである。
彼女の通訳には、中国の政治、経済、歴史、文化、世界情勢など幅広い知識が溢れており、その聡明さに加え、目標に向かって努力す る姿に会うたびに頭が下がる思いである。

12月28日
 成田を離陸したのは30分遅れの午後3時、北京到着は7時20分となる。運悪く関西からのジャンボ機の到着と重なり、荷物の受け取りに1時間近くもかかってしまった。北京空港の今の能力ではしかたがないと忍耐強く待ち続けるが、時間に追われる生活に慣らされているので、少々イラツいてしまう。
 第一夜の北京での夕食は、庶民がよく利用するレストランに出かける。レストランと言うより食堂と言った方がにあう小さな店である。羊肉のシャブシャブ、野菜と肉の炒め物、茄子の炒め物そのほか数品を味わう。庶民的な料理で味もよく、ボリュウムもタップリである。もちろんビールも飲んだが、このビールがまた実にうまい。アルコール度数の低いかの有名な青島(チンタオ)ビールである。料理にピッタリ合い2人で大ビン4本を空ける。
 近くのテーブルでは高校生風の男女6人が、女の子の誕生パーティーを楽しんでいる。儒学道徳(男女は隔離すべきであるという倫理)が中国人、特に漢民族の今の若者たちの精神の中にも生きているのだろうか。男女の会話の雰囲気に、何となく初々しさがあり、見ていてすがすがしい。公衆の前でも平気で抱き合う、日本の若者たちとは大違いである。ほかのテーブルでは、酔っ払った労務者がビールを催促して騒いでおり、周りの人たちは迷惑そうに白い目で見ている。どこの国でも度を越した飲み方は嫌われるものである。

12月29日
 早朝6時起床。外の外気はさほど寒くはない。長いカーキ色の外套に身を包んだ労務者達が、まだ薄暗い街中を、リヤカーを自転車で引きながら、次から次へと通り過ぎていく。北京では見慣れた光景だが、遠い昔、日本でもよく目にしたような気がする。
 北京新僑飯店の隣の北京同仁医院ロビーには、まだ早朝6時だというのに、診療を待つ人たちで溢れ、その列は病院前の路地まで伸びている。前夜から路上で徹夜して待っていた人たちである。この病院は眼科の専門医のため、中国各地からここにやって来る。診療してもらうのには、大変な労力とお金が必要なのだろう。
 少し明るくなってくると、メインストリートを自転車に乗った通勤者が一斉に走りだす。辺りは急に賑やかになっり、中国の首都・北京の一日が始まる。
 早い朝食をとり北京空港へ向かう。搭乗手続きを済ませ、午前10時10分に離陸。眼下の山には雪はなく、ただ谷間を流れる河が凍結し白い帯になっている。前方に雪で覆われた山々が見えてくる。離陸後してから45分、山並みは消え白い砂漠の大地が現われる。大地は凍結しているのだろうか。南ゴビを車で走った時に分かったことだが、大地が雪で覆われてもその下は凍結することはなく、乾燥したばさばさの土のままである。冬期の気温が常にマイナス20〜30度では雪は解けないため、土は乾燥したままなのでである。再び山岳地帯の上空に入る。山の雪はやがてなくなり赤茶けた色に変わり、はてしなく続いていく。人々をまったく寄せ付けない不毛の世界が、眼下に悠然と横たわっている。じっと見つめていると、悩み、苦しみ、嫉み、そんな人間の煩悩など何処かに吹き飛んでしまう。ただ大自然に対する畏敬の念が湧いてくる。我々は大自然の寛容さの中で、生されているのであろう。 機内は春のような快適なコンデションである。心地よいエンジン音に身を包まれ、すべてを凍らせてしまう酷寒の地であることを忘れ、しばし心地よい眠りに入ってく。

12月30日
 午前8時、モンゴルでの初めての冬の朝を迎える。外はまだ薄暗く、窓ガラスは白く凍結し所々美しく結晶している。全身をすっぽりと外套で身を包んだ人影が窓外をゆっくりと移動していく。本当に寒そうである。
 前日の夜、オリギヌ、ウヌル夫妻と彼らの最も親しい友人ダリフ夫妻が、歓迎のディナーパーティーを街中のレストランで開いてくれた。食事の後、アルヒ、ウォッカのようなものを飲みながらパーテーは深夜2時頃まで続き、その席で思わぬハプニングが起きた。今回の旅のメインは南ゴビ行き。そこへは飛行機で行くことになつていた。ところが、青年実業家・ダリフ氏が、「俺の実家は南ゴビ、里帰りするから俺たちのジープに乗っていったらどうだ」と誘ってくれた。我々はつい飲んだ勢いで「お願いします」と言ってしまった。
 翌朝、アルコールがまだ抜け切らないボーッとした頭で、昨晩宴席で決まった酷寒の地、南ゴビへの片道600キロの旅のことを考える。それはまさに生命賭けの大冒険である。酔いが醒めるほどに背筋が寒くなってくる。文明のかけらもない大平原を、よく故障するジープで行くことは無謀かもしれない。もし故障を自分で直せなかったら、それはまさに死へ直結である。しかし、もう後に引くことはできない。「その時はその時」と腹をくるのだが。
 今日はウランバートル郊外のラマ教の寺院跡に出かける。1733年に建築されたラマ教寺院には、当時1,300人の僧侶が住んでいたというが、今は寺院の一部が岩山の斜面に残っているだけである。1937年、ソ連についで2番目に社会主義革命に成功したこの国は、ラマ宗教を弾圧し僧侶全員を殺害し、寺院も破壊してしまった。革命前、ドイツ人ツーリストが撮影した写真が展示してあるが、それが唯一当時の寺院の全容を私たちに知らせてくれる。大伽藍を中心にいくつかの伽藍が配置され、さらにその周りには、僧侶が寝泊りするゲルが建ち並んでいる。寺院の入り口には、1,000人分の食事を賄ったという鉄の大ナベがぽつんと佇んでいる。その鉄鍋を見ていると、人間、特に為政者の身勝手さ恐ろしさに鳥肌が立ってくる。
 今年は暖冬だとしきりに友人のバートル君は言う。確かに日が射すと厳しい寒さはゆるむが、それでも気温はマイナス15度にはなっているだろう。帰路、太陽が沈むと気温は一気に下がってくる。ウランバートルの町外れにさしかかった時、私達は大自然のドラマに出会った。迫り来る夕闇、雪の稜線に今ゆっくりと太陽が沈んでいく。外気はマイナス25度以下であろう。日が落ちたほんの束の間、空は茜色のクラデーションに染まっていく。この世とは思えないお伽話の世界である。シャッターチャンスとばかり、凍えた手で夢中でシャッターをきる。
 夕食は蒸しパン2個、羊肉少々と野菜のいためものが、一皿に盛り付けられた質素なもので少々物足りない。持参のカップラーメンを食べようかと迷ったが、前日、レストランでたっぷり食べかつ飲んだことを思いだし我慢する。午後9時30分、前日の深夜2時までのパーテーの疲れが出たのか、睡魔に襲われ、ベットに崩れるように倒れ込んだ。

12月31日
 午前5時40分起床、外はまだ真っ暗である。今日の午前中の予定は、夏に計画している自然児塾のキャンプ地の視察。そこはウランバートルから60キロの郊外、ツァガーンボルゾック地区である。分水嶺・ヘンティ山脈を一望することができ、その麓にはトウラー川がゆったりと流れる。なだらかな丘が遥か彼方まで続く別天地である。今は茶色の大地だが、夏には一面緑の牧草に生まれ変わり、あちこちにエーデルワイスの白い可憐な花が群生する。丘に登り地平線まで続く丘陵を眺めていると、馬にまたがった日本の子供たちが、モンゴルの子供たちと一緒に大地を駆け回る姿が目に浮かんでくる。
 視察の後は友人オルギヌ氏の両親が住むゲルを訪問。大小のゲルは風雪をしのぐために板塀で囲まれている。両親は都会の生活よりゲルでの生活を好み、牛を飼育し、野菜を作りのんびり暮らしている。お母さんは高齢ではあるが、大変元気な働き者で、夏や秋には近くの山で山桃・茸を採取したり、家事一切を切り盛りしているそうだ。訪問した時も私たちのために、ボーズ(ギョーザのようなもの)を蒸かしたり、牛乳茶を沸かしたりしててんてこまいの忙しさである。お父さんといえばお母さんとは対照的に、家長としてただ悠然と煙草をふかしているだけである。私たちは山桃のワインや馬乳酒を蒸留して作ったお燗酒、ウォッカのような強い酒・アルヒなどをふるまってもらい歓待された。
 時間は瞬く間に過ぎ去り、外はすでに真っ暗になっている。ヘッドライトをたよりにデコボコ道を、波に揺られるように国道に向かう。モンゴル人はとにかく歌が好きな国民だ。走りだすとすぐにみんな歌い始め、私たちも負けじと日本の歌を紹介する。途中暗闇の中で酔っ払った青年たちに出会う。その内の一人が突然車の前に立ちふさがる。車は急ブレーキで車体をきしませながら止まり、なんとか青年を跳ねずにすんだ。彼はガソリンをくれと執拗にくいさがる。青年実業家ダリフ・31才は、身長180センチ以上はある大男、車をとびでるやいなや、うむを言わさずその酔っ払いをボンネットに叩きつけてしまう。相手は2、30人の集団、一瞬身震いし身構えてしまう。マイナス20数度の真っ暗闇の中、集団に襲われたら大変なことになってしまう。幸い冷静な青年もいてことなきを得たが、恐ろしい体験であった。
 ホテルで1時間半程度仮眠し、午後11時、ウヌル、オルギル夫妻の家に招かれる。ダリフ青年のファミリーを交えた、アットホームなニューイヤーズパーティーである。私達は厳冬のモンゴルの地で、新たな気持ちで新年を迎えることができた。午前3時頃、オルギル氏のギターで“渡り鳥”、“お母さん(ミニエージ)”の歌を合唱しお開きとなる。これらの歌はモンゴルではポピュラーな歌であり、日本の歌ととてもよく似ている。

1月1日
 午前9時起床。ウランバートルの中心街はほんのわずかな広さしかない。街の周辺には、木造のバラック住宅が小高い丘の斜面にびっしりと張りついている。家々は厳しい寒さを防ぐために板塀で囲んでいる。これはモンゴルの一般住宅の特徴の様である。住宅街のはずれに、ラマ教の寺院が廃墟の状態でひっそりと佇んでいる。寺院は70数年前、モンゴルがソ連に次いで社会主義国・モンゴル人民共和国になる前までは、人々の心の拠り所となっていた。
 住宅街を抜けさらに登っていくと、ついに車はスリップして動くことができなくなり、しかたなくそこからは丘を歩るいて登る。しばらく行くと、丘の上に風雪にさらされた日本人墓地が見える。入り口には真っ白な地蔵が、激しく降る雪の中に立っており、その首には真紅の布が巻かれ、風にあおられ激しく揺れている。純白な世界の中で、その布の鮮やかな赤がひときは印象に残る。
 1945年8月のソ連・モンゴル軍の対日参戦後、中国東北地方などから民間人を含む1万2千人の日本人が、捕虜としてシベリア経由で送られてきた。捕虜導入の目的は、捕虜の労働力を使って首都ウランバートルの近代化を図ることである。アジア大陸の奥地まで、自分の意志とはかかわりなく連れてこられ、想像を絶する厳しい環境の中、寒さと飢え、苛酷な重労働のため亡くなっていった日本兵の無念さが、風雪の中でじっと佇む地蔵さんを見ていると、ひしひしと伝わってきて何か暗い気持ちになってしまった。
 ふと山を見上げると、羊の群れを追って牧童が下りてくる。顔は寒風で歪み痛々しい。羊たちはさほど深くない雪を鼻で掻き分け草を食べているが、夏とはまったく違う厳しい風景である。
 午後、カメラを片手にフスバートル広場に出掛けてみる。沢山の人たちが写真の出店の回りに集まり、新年の記念に写真を撮ってもらっている。モンゴル人は写真好きだと聞いているが、カメラに向う若者たちの目は一様に輝いている。
 午後11時を少し回ったところ、ウヌルさんがホテルにやってくる。そして別部屋に私と竹嶋氏を呼んだ。なんとそこにはバースデーケーキが用意されている。昨晩のパーティーの席で、竹嶋氏の誕生日を知り、南ゴビへ出発前のわずかな時間の中で、手作りのケーキを準備し、祝ってくれるウヌルさんの心使いに私たちは大感激した。
 いよいよ2千キロの冒険の旅へ出発する時が来た。ダリフさん一行は時間を気にしながら出発の準備を急ぐ。と言うのは、モンゴルでは旅の出発は、その日の内にしないと縁起が悪いと言うのだ。アルヒで乾杯。我々はなんとか午前0時少し前にスタートすることができた。
街を出るとすぐに闇の世界。およそ40キロは走っただろうか、私たちが乗る三菱パジェロのブレーキドラムのビスが折れてしまう。予期していたとはいえ不安が胸一杯に広がる。何処にも修理屋はおろか、民家も何もない。ここはマイナス20度の大草原。不幸なことにそれに合うボルトの持ちあわせがなく、彼らは代用にするボルトを車体の下に潜って探し始める。何回となく外しては試すがうまく合わない。結局パジェロの車体から見つけることは出来なかった。
 しかし、彼らは少しもあわてる様子は少しもなく、アルヒを飲みながら鼻歌混じりで、今度はもう一台の中国製のジープの車体を探す。かろうじて代用品をそのジープから調達した。それにしても、ボルトをはずしてしまった中国製のジープだいじょうぶなのだろうか。しばらく走ると今度はパンクだ。この先どうなるのだろうか、不安と恐ろしさで冷汗が背筋を走る。
 厳冬の中、ほとんど無人といっていいモンゴルの大地、車が動かなくなってしまったら命を失うことになってしまう。そんな中で彼らは焦りもせず、車の故障ぐらいあたりまえの顔をして直してしまう。彼らの逞しさにあらためて感心させられる。人間も他の動物と同じで、大自然の摂理の中で生かされている。自分の身は自分の力で守っていくしかないのである。自分の力を磨き、その上でお互いに助け合っていく。最初から他人の助けを当てにしきっている私たちとは大違いである。最善を尽くし、生きるも死ぬも天にまかせる。大自然と共に生きている彼らの人生哲学に教えられる。
 モンゴル人にとって、天(テングリ)はどのような意味を持っているのであろうか。鰐淵信一氏は「騎馬民族の心」の中で、次のように言っている。「古来、モンゴル人の人々にとって畏敬すべきその自然とは『天』であった。モンゴル人の頭上を覆う『天』は絶対的支配者であり、彼らはそれを「テングリ」と呼んでいる。『テングリ』は人間界を支配し、人間の一切の行為の洞察者であると同時に、正邪善意の審判者として天罰を下し、正義を守り、時に人間界に霊を与え得る絶対的存在であった。モンゴル人はこの『テングリ』の意向を無視して、あるいは『テングリ』の庇護なくして安心を得ることができないかのようである。」と。
 それにしてもこの冬の南ゴビは怖い。しかし、だんだんと彼らに命を託してもいいような気持ちになりってくる。「ここで終わるのもまた人生」と開き直ってみる。大げさではなく、地のはてまで続くこの凍てつく大地を見ていると、そう思わざるを得なくなってしまう。
 彼らの腕は確かだ。「これぞプロドライバー、よろしくお願いします」とおもはず叫んでしまう。もうどのくらい走ったのだろうか。まだ真っ暗な午前6時、仮眠のため車を止める。ドライバーはエンジンを切ってさっさと寝てしまう。「えっ」マイナス20度以下の中で、ヒーターなしで寝るなんて信じられない。彼らにとってベンジン(彼らはガソリンをそのように呼ぶ)の一滴は血の一滴と同じなのだ。羽毛、オーバズボン、ニットの帽子、手袋、完全装備をしているが、深々と体は冷えてくる。とても眠るどころではない。午前8時、地平線が明るくなってきたところで車は再び動き始める。走っても走っても地平線まで続く平原、変化のない景色が続く。目的地であるダリフ氏の生家のある南ゴビまでは600キロ、途中一ヶ所ガソリンスタンドがある街を通過。バイクに乗った青年たちが数人給油している。ここでは四輪よりもバイクの方が普及しているのかもしれない。もし、将来、牧童子が馬をバイクに乗り換え、野性馬を追って大草原を走り回っていたら、勝手かもしれないが私のモンゴルに対するロマンは消えてしまうかもしれない。

1月2日
 午後8時、夕日が傾き始め闇が少しづつ迫ってくる。地平線まで何もないフラットな大地が延々と続いている。この広大な南ゴビの大地に、今、居るのはただ私たちだけの様に思える。車を止め外に出ると、刺すような冷気が全身を包み込み、体温を容赦なく奪っていく。ジープのうめくようなエンジン音があたりの静寂を破る。やがて日は沈み地平線は茜色に染まっていく。その美さを何と表現したらいいだろう。厳粛な気持ちになり、ただ茫然と見惚れているだけである。やがて漆黒の闇が辺りを包み、その中を100キロ近くも走り続けようやく目的地に到着する。時間はすでに午後10時を回り、ウランバートルからの22時間の長旅は終わる。
 山というより丘の麓に作られたウヌルゴビ県ボルグ市、そこがダリフ氏の生家の在る街である。ここも強い風から身を守るためなのだろうか、家々は板塀で囲まれ、その中にゲルや木造、レンガ作りの家が建っている。さっそく私たちは大きなゲルに案内される。ゲルの中央には大きなストーブが赤々と燃え、その周りに座した私たちは、例によってアルヒの洗礼を受ける。ボーズ、スープ、アブラ肉がたっぷのベーコン入のおじやのようなもの、すなわち、モンゴルの伝統的なご馳走で歓待される。
 しばらくするとダリフ氏のお父さん、家長がお兄さんに支えられ姿を現す。はるばるウランバートルから里帰りした息子のことが嬉しくて、前の晩からアルヒを飲み、少し飲み過ぎているとのことだった。しかし、その体躯は骨太でがっちりしていて迫力がある。特に手が大きく指も太い。その関節は骨張っていて生活感が滲み出ている。子供の頃、親父の田舎でもこのような存在感のある大人を見たような気がするが、今の日本の都会ではほとんど見ることはない。とにかくダリフ氏のお父さんは、家長という言葉がピッタリの迫力ある人だった。
 歓迎の夕食が終わり、近くのホテルに案内してもう。風が吹き荒れる荒涼とした町外れである。夏のシーズンには観光客も来るというが、この時期には誰もいない。案内されたホテルはドア一枚のワンルーム。火のないダルマストーブとベット4台が真ん中にあるだけの簡素なもの。冷気が部屋一杯に充満している。外はあいかわらず強い風が窓ガラスを叩く。ローソクで明かりを採っている薄暗い部屋の中、石炭がヘビの舌べろのようにチョロチョロと弱々しく燃えだす。それでも暖かい空気があたりに広がり、肌を心地よくなぜていく。
 トイレは外でしかも50メートル先。ドアはなく吹きさらしの原始的なものである。懐中電灯で照らし用をたすのだが、ビュービューと吹く寒風で尻は痛くなり何とも落ち着かない。竹嶋氏が用をたしに出ていったが、しばらくすると脱兎のごとく走り帰ってくる。その後を2人の男が何やら大声をあげて追いかけてくる。急いでドアを開け彼が入ったらすぐに閉めようと身構えていたが、間一髪間に合わず、男の手がドアを押さえてしまった。2人の男は部屋に入りこみ大声でわめく。1人は相当酔っており、今にも殴りかかってきそうな雰囲気である。恐ろしさで寒気が背筋を走る。もし殴りかかってきたらやるしかないと覚悟する。通訳のバートルが必死に何やら話している。だんだん片方の青年が冷静になってくるのがわかる。よかった。安堵で全身の緊張が抜けてい。誤解が解け握手をして別れたが、なぜ彼らは激怒したのだろうか。それは彼がトイレに行く時に付けていったヘッドライトが、偶然にも2人を照らしてしまったからである。誰もいるはずのない所で、いきなり何者かに照らされた2人は驚き、声をかけたらいきなり逃げ出したので追いかけてきたという。言葉が通じないため生じか誤解で、それが思わぬ方向に発展してしまったのである。ことなきを得てほっとして寝ようと思ったが、しかし寝込んでしまえばこの火は消えてしまう。部屋の中でもマイナス10度以下にはなるだろう。大丈夫だろうか、新たな不安がまた生まれる。ダウンの防寒具やオーバーズボンなどで身を固め、意を決してベットに潜り込んだ。

1月3日
 明け方近く寒さで目が覚める。案の定火は消えており、かき回してみるとわずかに火だねが残っている。大事に大事にそれを育て火をおこすと、暖かさがあたりに広がる。この時ほど火のありがたさが身に沁みたことはない。日の出の景色をカメラにおさめようと身仕度をして外にでたが、風が強くひどい寒さが全身に襲いかかってくる。東の空が赤く燃え始める。マイナス20数度の外気、肌を突き刺す風が、酷寒の南ゴビの厳しさをいやおうなしに感じさせる。数頭の野良犬が、見知らぬ私を威嚇し激しく吠える。いつ襲ってくるか分からぬ不安の中、三脚を立て撮影の準備を急ぐ。寒さと乾いた冷気のためか、空は限りなく深紅に燃え広がっている。その美しさをカメラにおさめようと夢中でシャッターを切る。あの時の感動は、残念ながら出来上がった写真からは十分伝わってこないが、私の心のスクリーンには今も鮮やかに写し込まれている。
 空がだんだん薄らいでくる。あいかわらず風はビュービューと吹いている。寒さで身体は限界に近づ、きあわてて部屋に駆け込む。ダルマストーブがひとつ、殺風景な部屋の中で赤々と燃えている。
 しばらくすると運転手が迎えにやって来た。ダリフ氏の両親のゲルで朝食をいただいたのだが、またまた朝からアルヒで乾杯である。エキサイティングな一日が始まる。朝食後、ダリフ氏は町外れの靴屋に私たちを連れていき、この地方独特の伝統的なブーツをプレゼントしてくれた。それはまるで宇宙靴のようで、羊・馬・駱駝・やくなどの毛を錬りあわせた、フェルトのようなものを材料としている。履いてみるととても温かい。足の両脇がちょっと締め付けられたが、履き慣れてくると足にフィットするという。さっそくキャラバンを脱ぎこの靴に履きかえる。来る時のジープの中では、寒さで痛かった足先も、帰りはきっと快適であろう。(しかし、ウランバートルの町中では、この靴を履いている者は誰もいない。みんな私たちの靴を物珍しそうに振り返えっていた。この靴は南ゴビ独特の伝統的なものなのだろう。)
 今日は百数十キロ離れた、ダリフ氏の妹さんの嫁ぎ先に案内してくれることになっている。町を出るとすぐに小高い丘の上、そこからは町が一望できる。家々は軒を寄せ合い弱々しく佇んでおり、町の背後には荒涼としたゴビ砂漠が延々と続いている。
 岩場には湧き水があり、それは素晴らしいミネラルウォーターである。昔から枯れたことがないこの湧き水を、村人たちは大切にしている。久しぶりに生水のうまさを味わい生き返った気分になる。竹嶋氏は前夜の深酒のためか、うまそうに水を何杯も飲み、持っていた湯ざましを捨てて水筒に水を汲んでいると、なぜ捨てるのだとダリフ氏に咎められる。火をとおした水もまた貴重なものなのである。
 水に恵まれた私たち日本人は、ややもすると貴重な水のありがたさを忘れてしまう。その結果、天より与えられた恵みを、自らの手で汚し失っていく愚行を繰り返している。うまい天然水を忘れ、水に恵まれない国の人達のように、ミネラルウォーターをコマーシャルに踊らされ飲んでいる。何かがおかしくなっている。
 数百キロは走ったろうか、前方の闇の中に薄明かりが見えてくる。目的地、妹さんの嫁ぎ先である。すでに時計は午後10時を回っている。家はゲルでもなく、今まで見たモンゴルの家屋のような作りでもない。日本でも見られるようなブロックと木で造られた家屋である。リビングルームはかなり広く、私たち8人と妹さんの家族6人が入っても十分な広さである。壁には美しい刺繍がほどこされたジュータンが装飾として架けられ、テレビもサイドボードもあり、ちょっと洋風な洒落た造りである。この家はご主人自らの手作りと聞き、改めてモンゴル人のバイタリティーに驚かされる。いや、自分の家を手作りするのはモンゴル人だけではない。以前、オーストラリアのクリーンズランドでホームステイした時、そこのご主人も立派な家を自分自身の力で造っていた。文明が進み、お金を払えばその道の専門家が、それなりのものをすべてにおいて提供してくれる生活に、どっぷりと浸かっている私たちは、忙しいという言い訳の中で、自分で作り上げていく喜びを捨て去ってしまっているのではないだろうか。特に私などは、「家の壁ひとつ塗れない軟弱もの」と親父から言われる始末だ。数十万浮かせるために、数年後の壁塗りに挑戦してみようと思ってみるがとても自信はない。
 話が横にそれてしまったが、そこでの夕食はまた素晴らし。それはモンゴルの伝統的な家庭料理である。羊の肉とハーブがタップリ入った煮込みのようなものに始まり、おじや、ボウズと続く。ボウズという食物はギョウザのようでもあり、肉まんのようでもある。肉や野菜がタップリ入った蒸もので、日本人の口にもよく合う。もちろんモンゴルの酒・アルヒで杯を重ね、話は弾み夜は静かにふけていった。私たちは近くのホテルに案内されたが、そこは前夜のような寒々としたところではないが、この季節に宿泊する者は、私たちのような物好き以外は誰もいない。大きな木造の観光ホテルは、シーンと静まりかえり不気味さが漂っている。熱いシャワーで冷えた身体を暖めようと思ったが、シャワーからお湯は一滴も出ない。室内の暖房も不十分で、しかたなく前夜同様早々に様防寒具に身を包み、ベットの中にに潜り込むことにした。

1月4日
 ダリフ氏の妹さんの嫁ぎ先を後にする。心からの歓迎を受け、暖かく心優しいモンゴル人に触れ南ゴビ、思い出がまたひとつ増えた。
今日は夏でも雪渓があるというヨリーンアム(3,000m)、モンゴル語で「鷲の谷」を案内してもらう。川は完全に凍結し、その上を谷に沿って歩いていくのだが、途中、氷が薄くなり、岩山によじ登り斜面を進んでいく。ダリフ氏はいつもポケットにアルヒのボトルを忍ばせており、岩に腰掛け、ほのかに甘い45度の強烈な酒をあおっている。彼にとっては今は正月(モンゴルの正月は旧暦で2月の中旬)というよりクリスマス休暇中なのである。美しい風景とほのかな酔は、ここがすべてを凍結させてしまう酷寒の地であることを忘れさせてしまう。ボトル1本は瞬く間に空いてしまう。しかし、気温が低いせいなのか酔いはさほど回らず、ただ、気分だけがいくぶんハイになっていく。
 次に訪れたのは砂丘である。砂丘は荒れた南ゴビの大地に風によって作られ、常に移動していく。ここには2年前来たことがあるが、その時は夏のシーズン、風は穏やかでモンゴリアンブルーの空が頭上を覆い、強い陽射しがジリジリと肌を焼いていた。今回は砂嵐が吹き荒れる最悪の状態ある。車から出ると目は開けていられず、口や鼻孔は砂だらけ、呼吸もおぼつかなくなる。こんな所でエンジントラブルでも起きたら、たちまち砂に埋もれてしまう。視界は悪く風と砂にハンドルを取られながら、2台のジープはなんとか砂嵐から脱出することができた。
 再びダリフ氏の実家の在るボルグ市に向い、南ゴビの赤茶けた大地を走り続ける。街の入り口近くに、ダリフ氏の幼なじみがジープに分乗して出迎えている。ウランバートルに出て事業に成功した彼は、幼なじみにとって英雄なのかもしれない。アルヒを酌み交わしながら談笑し旧交を温め合っている。遠いウランバートルからの年1度の里帰り、何の駆け引きもない心休まる一時なのだろう。
 太陽が地平線に沈みかけるころ、再びウランバートルへの帰路に着く。両親やお兄さん、そして幼なじみたちが町外れまで送ってくれる。辺りはもう真っ暗闇である。大地にシートを敷き、車のヘッドライトで照明し、別れの酒盛りが始まる。厳しい大自然の中、ウランバートルまで無事に帰って欲しいと願う両親や友達の思いが、この酒盛りの儀式の中に満ち溢れている。
 単調な闇の中に消えていく一本の未舗装の道。来る時よりはいくぶん慣れはしたが、それでも無事帰れるかどうか不安が時々胸の中を駈けめぐっていく。彼らといえば陽気に歌を歌いドライブを楽しんでいる。
 来るときに立ち寄った地区長のゲルで、馬乳酒とアルヒをご馳走になる。モンゴル服・デールと毛皮の帽子で身を包んだ女性3人が迎えてくれる。大地に生きる女性らしく、たくましさと優しさがが滲み出ている。中にひときは愛らしい女性が目を引く。背丈は小柄で顔は面長、目はクルリとした黒髪の女性である。区長の奥さんか娘さんであろう。馬(南ゴビだから駱駝かも知れないが)に乗り平原を走る姿はさぞかし美しいだろうと想像し眺めていると、ニッコリと微笑んでくれる。その雰囲気、容姿はまったく日本女性と同じであり、日本人とモンゴル人の血のつながりのようなものを感じ、とても印象的であった。
  突然、激しい振動が体をつらぬく。よく目を凝らすとジープは本道を離れ、荒れた大地をヘッドライトだけを頼りに走っていく。先程の地区長の案内で、この地方特有のふたコブラクダを飼育しているゲルを訪問するためである。闇の中に薄明りが灯るゲルが見えてくる。到着早々私たちはそのラクダに乗せてもらったが、尻がコブの間にスッポリトおさまりとても安定感がある。ゲルの中はランプがひとつ中央に置かれ、ストーブが赤々と燃えている。薄暗いゲルの中も、目が慣れてくると部屋の様子が見えてくる。家族は7人の様で、私たちに暖かい眼差しを向けてくれる。ここでも威厳のある家長が取り仕切る、客人を迎える儀式を体験する。もちろん大好物なった馬乳酒とアルヒで。アルヒは銅で出来た独特の杯に注がれ、それぞれ一気に飲み干す。強い液体が喉から胃に沁みわたっていくのがわかる。この時思わぬハプニングが起こった。大きな杯になみなみとアルヒが注がれ、それが回されると竹嶋氏は、これをいつものしきたりどおり一気に飲みほしてしまったのだ。一同ビックリ。実はこれは一口づつ回し飲みしていくのだそうだ。数分もたたない内に、今までたっぷり飲んできたアルヒの下地も手伝って、彼は意識を失いダウン。ここで彼を倒してはいけないとしっかと抱き抱え、バートル君に「彼はもうだめだから車に寝かせてくれ」と頼んで運んでもらう。その後も宴は続き歌が始まり、家長の依頼でタリフ青年が歌う。上背190センチ近くの立派な体格の持ち主。南ゴビの民謡なのだろうか、朗々と力強く哀愁を秘めて歌う。風の音以外何も聞こえない南ゴビの大自然に消えていく歌声に、遊牧の民の命のようなものを感じた。
 生きるということを感じさせてくれる家長、その家長を柱にしっかり結びついている家族、この南ゴビの真夜中の出会は、私のスピリッツにアルヒのような強い刺激を与えてくれた。楽しい時の別れははすぐに来てしまうものだ。二度と会うことはないであろう人たちと抱き合い、握手を交わす。「バイルッタ・さようなら!」。私たちは再び南ゴビの闇夜に吸い込まれていく。
 闇の中をヘッドライトを頼りに、70、80キロのスピードで走つていると、ダリフ氏たちが何やら興奮気味にまくしたてている。ヘッドライトの前方に、私たち日本人には見えないが、鹿の群れが見えたと言うのだ。彼らは投光器とライフルを準備し、2台のジープは100キロ以上のもうスピードで砂煙を舞い上げながら群れを追う。数十分の追跡、パンパンという乾いたライフルの発射音が闇夜に響く。彼らの視力と疾走するジープからの射撃の腕には度胆輪抜かれる。私と竹嶋氏は必死にジープにしがみついているだけだったが、あの時のスリルと迫力にはすごいものがあった。車は再び何事もなかったかのように、もとのエンジン音に戻り闇の世界を走り抜けていく。

1月5日
 明け方車の中で仮眠する。二度目の仮眠なのでエンジンを止めてもさほど驚かない。しかし寒い。冬山用の完全武装でも、マイナス20度は都会のぬるま湯につかっている私たちにはこたえる。しかし、その苦しさの分だけ感動の場面に出会うものだ。薄く積もった雪の大平原。その地平線の彼方から太陽、いやお日様が上がってくる。生命の源のあの暖かな光線が大地を照らし始め、暖かい空気が頬をなぜていく。素晴らしき大地、偉大な大自然を実感できる幸せをかみしめる。
 ガソリンのバーナーで湯を沸かし、食べたインスタントラーメンの味は格別だった。腹ごしらえがすむと再びウランバートルへ向ってのドライブ、いや冒険が始まる。今回の旅は私たちにとって命がけの冒険の旅であった(もっともそのように思っているのは、日本人である私たちだけかも知れないが)。
 何時間走ったであろうか、前方に雪に覆われ、2本の煙突から真っ白な煙をはいているウランバートルの火力発電所が見えてくる。「ああ、生きて帰れたんだなあ」、そんな実感が腹の底から込み上げてくる。南ゴビ2千キロの旅、かけがいのない体験であった。
 街の入り口近くで思いがけない人に出会う。2年前、ロシアとの国境近くの街、セレンアイマークから日本を訪れたゾウリック氏である。彼はセレンアイマークで製粉工場を経営し、日本には製粉工場、パン工場の見学と東京見物のためにやってきたことがある。1週間の滞在中に親しくなった人である。ギョロとした大きな目、日焼けした顔は、一見人の良さそうな田舎の親父といった風貌だが、製粉工場などでシステムや品質など専門的な質問をする時には、経営者の鋭く光る目に変わっている。日本の食事や酒などにも大変興味を示し、積極的に挑戦する。特に、銭湯やサウナが気に入り、帰国後、自宅に同じようなものを作ったそうである。
 翌年、仲間数人とゾウリックさんの故郷、セレンアイマークを訪れることができた。森林の中の会社の保養所で歓待され、自宅にも招かれた。そこは草原の国モンゴルと、針葉樹がどこまでも続くロシアとの国境の町である。
 その日は、病気の娘さんをウランバートルの病院で診てもらうために、数百キロを車でやって来たのである。ゾウリックさの自宅に招かれた時に会った娘さんであろう。その後すぐに病気になったと聞いていたがとても心配である。セレンアイマークの町には、良い病院がないのであろうか。医療体制が完備されている東京に住む私たちは、草原の国・モンゴルの医療体制の厳しい現実をどのように理解したらいいのだろうか。暗い気持ちになってしまう。
 終日ゆっくりとウランバートルの街中をうろつく。夜、ウヌルさんに、モンゴルの民族衣装・デールの伝統を守りながら、現代風にアレンジし製作している女性の工房を案内してもらう。艶やかな色とりどりのデール、すでに海外で、たしかシンガポールでファッションショーを開き、大きな反響を得たそうである。いつか日本でもショーを開き、デールの美しさを見てほしいと話す。着物とデール、きっと素晴らしいしショーになるであろう。 帰りぎはに、モデルの男性にデールを着せてもらったが、若干太めの私、ベルトをかけるのに苦労させてしまう。鏡に映る姿は自分で言うのもおかしいが、立派なジンギスハーンの末裔に仕上がっている。
 その後、ウヌルさんが経営する自動車学校の所長の家に招かれ、デナーをご馳走になる。ご主人はなんと夏、実施踏査に行った時にキャンプ地で料理を作ってくれた人で、思い出話に花が咲く。がっちりとした体つきの女医である奥さんと、多分小学6年生ぐらいの女の子の3人家族。娘さんは目下日本語を勉強中で、私たちに積極的に話しかけてくる。翌年の夏、私たちが企画する日本・モンゴル交流キャンプに参加するんだと目を輝かせていた。
 ディナーにはもう一人招待客がいた。ウランバートル市の職員で、山岳グループの役員をしているとのこと。登山家・竹嶋氏とモンゴルの山について話が弾み、いつの日にか彼がモンゴルの山を訪れるときには、一緒に登ことを約束する。時間が経つのは早いものですでに真夜中の12時を回っていた。

1月6日

 ウランバートル空港、すでに4度目の訪問であるが別れはいつも辛い。毎年この地を訪れる私にとって、モンゴルはどんな意味を持っているのだろうか。日常の生活は光、騒音の洪水、人間関係の煩わしさ、時間との競争、生まれ来る限りない欲望の中で、ストレスはいやおうなしに高まり成人病に蝕まれる。
 モンゴルの大自然に生きる遊牧民の生活は、大自然の中に身を委ねながら、その摂理の中で脈々と営まれる。日が昇り日が沈み一日の生活が終わる。そこには時間に追われる生活はない。爽やかな夏は瞬く間に過ぎ、厳しい酷寒の冬、砂塵が舞う春を迎え一年が終わる。人間の欲望を増幅するものはほとんどなく、ただ時間だけが静かに流れていく。この遊牧の民の生活は、はるかジンギスハーンの時代から、いやそれい以前の紀元前から続き、これからも続いていくであろう。
 この大自然の中に、一時でも身を置くことにより、日々のストレスは消え去り、生命の充電が図られる。また、遊牧の生活の中で培われてきた、他人を思いやる優しさに触れることにより、知らず知らずのうちに自己中心になってしまう自分を、素直に見つめ直すことも出来る。
 今回も色々なことを教えてくれたモンゴルの大地と友人たち、来年また再びこの地に里帰りしたいという思いを胸に、ジェットのシートに身を沈める。北京空港には唐鳳英女史がいつものとおり、「西村さん元気!モンゴルどうだった」と出迎えてくれる。北京の冬は暖かい。それがモンゴルから帰った実感である。

1月7日
 目を覚ますと外は大雪である。今日は観光客に開放されている第3の万里の長城・金山嶺を訪れることになっているが、この大雪でだいじょうぶでだろうか。定刻に唐さんが迎えに来てくれた。しかし、タイヤはノーチェーンである。「ウッム」あとは言葉にならない。案の定、市内の道路はアイスバーン。ところどころで車はスリップし立往生、大渋滞である。郊外にでると車はスムースに走りだしたが、横転、衝突、事故が続出。荷物を道路一杯に散乱させ途方に暮れている運転手、転倒しうずくまっている自転車通勤の労働者。それは私たちから見るとパニックである。そんな中で、交差点の中で行商している小母さんがいる。信じられない。「何を考えているんだ!」と思わず叫んでしまう。中国人のおおらかさ、無神経さ、図太さに呆れてしまう。
 私たちの車の前方を自転車が右折している。「危ないなあ」「あっ!転倒した。滑ってる。センターラインに入ってくる」。運転手は必死にブレイキを踏むがアイスバーンのためタイヤはスリップして止まらない。「だめだ!轢く」。人と自転車は車の下に消える。完全に轢いてしまったと思ったが、奇跡的にも無事だった。全身が硬直し、冷汗が背中を流れる。当の本人はニコニコして、何事もなかったよう再び自転車に乗って立ち去っていく。
 万里の長城までは、まだこれから数百キロ走らなければならない。間違いなく事故に会ってしまうという不安で息苦しくなる。しかし、さすが中国、地区の責任者の司令かどうか分からないが、沿道の農家の人たちが滑り止めの砂利混じりの土をまいている。おかげでことなきを得る。
 三度目の万里の長城だが冬はまた趣が違う。しかし肌を射す寒風は辛い。周代末期に始まり、秦の始皇帝が造った万里の長城、切り立った岩山の上に延々と続いている。遊牧民族・匈奴の騎馬隊の恐ろしさを知り、彼らから身を守るために軍兵30万、農民数百万人という膨大な人員と財を投入し建造。その後、歴代の皇帝が次々にこの事業を引継ぎ、造り上げたった壮大な建造物が万里の長城である。勃海湾を望む山海関に始まり、西方へ延々と続き、その西端である嘉よく関まで全長6千キロもある。眺めていると中国4千の歴史が迫ってくるような気がする。

1月8日
 雨の北京を飛びたった我々のジェットは、順調に高度を上げ日本海に出る。眼下は黒く濁った海である。黄河が流域の土砂を運んできているからである。行けども行けどもその濁った海は続く。ようやく紺碧の海が見えてくるが、その境界は綺麗な放物線を描いており、黄河の大きさをあらためて感じさせられる。
 成田空港に無事到着し、さっそく和食レストランに飛込み祝い杯を上げる。刺身と日本酒は格別、美酒は五臓六腑にしみわたっていく。日本人であることの幸せを感じながら、しこたま飲んだことはいうまでもない。

参考文献
1、江上波夫編 世界各国史「中央アジア史」 山川出版 1987年
2、鯉渕信一著「騎馬民族の心」 NHKブックス 1995年