中国・シルクロードへの旅
1997年12月20日(土)〜1998年1月2日(金) 13泊14日

12月20日(日)
 長江(陽子江)下りを妻と行ってみようと計画してみたが、妻の気変りで急きょ変更。2年前冬のモンゴルへ一緒にいった竹嶋氏とサバイバル的な旅をすることになった。体調は風邪気味でいまいち。2年前医者からもらった抗生物質、多分効き目には変わりないだろうと勝手に判断し持参していくことにする。出発の前日、病院で血糖値の検査結果を調べたが、2か月前順調だった数値が、食べすぎ飲みすぎ等の不摂生により徐々に高くなっている。なおかつ、胃潰瘍が3ヵ所あるという不完全な健康状態での出発である。中華料理は油っぽいし、酒はアルコール度数が強い。意を強くして摂生しなければと思うのだが、大の酒好きの竹嶋氏と一緒の旅、できるかどうか自信がない。とにかく沢山の薬を飲みながらの旅となる。
 成田で昼食時に早速ビールを飲んでしまい、機内でも水代わりにビール。いくら機内サービスの青島ピールが、アルコール含有量3.5%と低いとはいえ、最初からこれでは問題だと気にはしているのだが。気圧のせいか風邪のためか頭痛に悩まされる。
 北京には予定通り到着。今回一緒に同行する唐鳳英さんが出迎えてくれ。夕食は市内の四川料理店、スパイスの効いた辛さはさすが本場物である。アルコールあまり欲しくはなかったが、青島(チンタオ)ビールの生をもらう。中国に来るたびに飲むのだが、とても口当たりがよい旨いビールである。竹嶋氏はもちろんそれだけではもの足らず、紹興酒を希望。熱湯の入ったバケツにボトル1本が入れられ出てくる。1杯飲んでみたが甘めの酒であ。2杯目を竹嶋氏が注ごうとすると、唐さんが「西村さん体大丈夫」とたしなめてくれる。以前から彼女に漢方薬をたのんでいるから、私の持病についてよく承知しているからである。おかげでそれ以上飲まずにすんだが、竹嶋氏は1人で飲んでも旨くないらしく、ボトル半分程度で止めてしまった。呑み助けという者は、相手が飲まないと興が乗らないものである。私にもその気持ちはよく分かる。
 ホテルに着いたのは午後9時30分、飲みすぎ、食べすぎを少々反省し、三ツ星クラスの快適なホテルのベットに身を横たえたが、、ベットが柔らかすぎてよく眠れない。

12月21日(月)
 翌朝まだ薄暗い午前7時30分に起床し、カメラを持って散歩にでかけたが、日曜日だというのに道路は自転車に乗って出勤する市民で溢れている。
 今回も北京の空には青空がない。透き通るような青空は北京の空にはないのだろうか。そんな中、ちょっとやな光景に出会う。それはやたらとツバをはく人や手鼻をかむ人たちだ。中には若い女性もいる。日本でも駅や公園のベンチに座り、やたらとツバを吐いている青少年を多く見かけるが、カニではあるまいし、口からあわが湧き出てくるのだろうか。いつもやな光景だと思っているが、北京では若者よりも中年者に多く見られる。なんとかしてもらいたいものだ。
 朝食は洋食、散歩のおかげでお腹が空きおいしく食べられる。昼食はシャブシャブ、牛肉、牛の胃袋の千切りなど。野菜はセロリのようなもの。ナベの上は焼き物ができるようになっている。ワゴンで運ばれる食材の中から好みのものを選び、シャブシャブにしたり焼いたりして食べる。サービスに青島のよく冷えた生ビールが付いているがグットこらえる。これから先、飲みたい酒を我慢、いや控えていくのかと思うと少々憂欝になってくる。
 北京から新彊ウイグル自治区のウルムチまでは、ボーイング社のジェット、乗りごこちはすこぶるいい。乗客はほとんどが中国人、ウルムチへ帰る人たちなのだろう。少数民族のウイグル族や回族の人たちである。ウイグル族の風貌は、中国人の大多数を占める漢民族とはちょっと違う。背は高く精悍な顔立ちをしている。回族の顔つきはあまり漢民族と変わらないが、男性は白い帽子を被っているのですぐ見分けられる。
 北方航空会社のサービスは抜群である。食事もさることながらスチュワーデスのサービスがいい。飲み物の注文取りにたびたびやってくるし、航空会社特製の素敵なネクタイまでフレゼントしてくれる。唐さんの話では、国内どこの航路も同じようなサービスがあるという。帰りの蘭州から西安(北方航空)、西安から上海(西北航空)ではどんなプレゼントがあるのか楽しみになってくる。
 紺をベースにしたユニホームに身を包んだ彼女たちは、中国国際空港のスチュワーデスよりも垢抜けして愛らしい。漢民族ではなくウイグル族の女性である。こんなことを言うと今回一緒に旅する唐さんに、「漢民族にも素敵な女性がいますよ!」と叱られそうだが。唐さんは漢民族の女性、とても聡明で素敵な女性である。
 彼女たちを見ていると、アジア人は基本的にはみんな同じ顔立をしており、不思議な近親感が湧いてくる。4時間の飛行を楽しんでいこう。
 午後7時25分ウルムチ空港に到着。地方都市の空港らしくひっそりとしている。外気は冷たく鼻孔を刺激する。おそらくマイナス10度以下ひだろう。ウルムチ地区担当のガイドの青年と運転手が出迎えてくれる。ガイドの恵さんは漢民族の青年で日本語通訳。ウルムチ大学を卒業して地元の観光会社に就職している。将来の夢を語るときには目を輝かせる。若いということは素晴らしことだとちょっと嫉妬してしまう。運転手の揚さんは回族、イスラム教を信仰しているので酒、タバコはやらないという。これはイスラムの誓いには@聖戦A礼拝B喜捨があるが、酒、タバコをやらないのは喜捨の誓いの為なのだろう。しかし、その戒律も若い人たちの間では、だいぶゆるんできているという。
 ウルムチは標高860メートルにある中国最大の自治区・新彊ウイグル自治区の区都である。新彊ウイグル自治区には漢族、ウイグル族、カザフ族、キルギス族など13の少数民族が住み、ここウルムチにはウイグル族が多く住む。人口は150万人、過去10年間の人口増加は著しという。近代的高層ビルが建ち並ぶ大都市で、人、車が街に溢れている。また交通の要衝であり、すべての車はこの街を目指している。西域の秘境、中国国内のシルクロードの西のはずれというイメージとはほど程遠い。「30年前はマイナス40度までなったが、今はせいぜいマイナス20度程度だ」と運転手の揚さんは、子供の頃の体験から話してくれる。これも地球温暖化の影響なのだろうか。
 ウルムチでの2泊は環球大酒店・ワールドプラザという4ツ星の近代的高層ホテル。設備は室内プール、トレーニング室まで付いた豪華なものである。

12月22日(火)
 午前9時10分ホテルを出発。まだ夜は明けず真っ暗である。空気はカラカラに乾燥し冷たく埃ぽい。ウルムチは中国の内陸部であるということが体感できる。今日は午前中に天山の麓と天池を観光する。ポプラ並木の道を進んでいく。所々に農家の家がポッント建っており、白い息を吐きながら足早に歩く農夫とすれ違う。山肌はぼろぼろと崩れやすそうな砂岩で、草木がはほとんど生えていない。水気の失せた茶色の世界は、心の落ち着きを奪っていく。ここは不毛のゴビ砂漠である。乾燥しきった大地を覆うわずかばかりの雪が、日の光でキラキラと輝いている。そんな世界の中での唯一の救いは、天池を源とする一筋の流れである。水あるところに生が芽生える。わずかな草木が潤いを与えてくれる。
 車はあえぎながら山道を登っていく。ようやく海抜1980メートルに到達。そこには氷結した天池が広がり、周囲は下界では見ることができない針葉樹林に取り巻かれている。晴れていればその後に天山山脈の一部、標高5445メートルのボコダ峰を望むことができるというが、残念ながら今日は見ることはできない。
 氷の上には純白な雪が積もり、その上を歩っていると遠くから遠雷のような音が、「ドドーン、ドドーン」と聞こえてくる。何の音だろうと不思議に思って尋ねると、それは湖底105メートルからの水の雄叫びだという。大自然の生命を感る。突然、足元から「ビシー」という氷の割れる音がし始める。馬にまたがった現地の土産やの小父さんは大丈夫だというが、足は岸の方へ思わず向いてしまう。
 湖の上方には、質素なカザフ族の観光用テントが在り、お婆さんが土産物を売ったり、テント内で記念撮影をさせて商売をしている。ガイドの話だと、お婆さんの観光収入は一般の人の収入よりはるかに高額であるという。素朴な顔をしたお婆さんを見る目が変わってしまう。
 山から下りてくると空はだんだんと灰色に変わり、ついに前方は霞んでしまう。たぶんスモックのためだろうと思うが、恵さんにそのことを尋ねると、彼は「今日は曇っているから」という。スモックによる汚染ということを知っていながら、そう答えなければならない彼の立場が何となく分かり、ちょっと悲しい気持ちになってしまう。街の中心街に入って行くと、なんとなく喉がいがらっぽくなってくる。さらに、空気にいやな臭いがあるような気がする。私たちは車のなかで思わず咳き込んでしまう。
 スモックに霞む空に高層ビルが見えてくる。首都ウルムチの外見は、間違いなく新彊ウイグル自治区の近代都市である。しかし、近くの化学工業地帯から煤煙がひっきりなしに吐き出だされ、街を走るトラックは真っ黒な排気ガスを垂れ流している。また、超乾燥地帯のため、細かい砂塵が空気中を舞う。大気汚染の状態は相当なところまで来ている。そんな中、ロバに引かれた荷車、自転車に乗った人たちが何事もないように行き交っている。
 生産性優先、公害対策の遅れ、これが今の中国の現状である。発展途上の国なのである。しかし、このままでは大気はますます汚染され、地球温暖化に拍車がかかってしまう。人々の健康も害なわれる。日本をはじめ先進国は、公害防止のための援助をさらにしていくべきであろう。中国の重工業地帯の煤煙は、すでに酸性雨となって日本に襲いかかっており、貴重な森林を枯らしている。中国の問題は日本の問題でもある。
 夕方、ウイグル族のバザールを訪れる。あたりには香料がたっぷりかかったシシカバブーの焼ける香ばしい臭いが立ち込めている。アーケード下の薄暗いところで、裸電球をかざし、食料品からから衣服、じゅうたん、民芸品までありとあらゆる商品が売られている。どれもウイグル族の文化が漂うものばかりである。値段の交渉は相対の掛合いで決めていおり、庶民のエネルギーが満ち満ちていて楽しいところである。
 午後8時30分、夕食に出掛ける。レストランは2ツ星のホテルのレストラン。昔ながらの造りで、派手さはないが落ち着いた雰囲気である。お客は冬期ということもあってか、私たち4人以外誰もいない。前菜から焼き物まで7〜8種類が皿に山盛りになって出てくる。日本の中華料理店のボリュウムとは比べものにならいほど多い。どれも味は良く、前夜の夕食とは比べものにならない。昨晩は摂生して酒は飲まなかったので、今日1日は小々中国の美酒をいただいてもいいだろうと易きに流れた。昼食時にはビールと白酒を。夕食時には、先輩の竹嶋氏に合わせることも必要とばかり、ウルムチだけでしか飲めない50度近くの白酒で杯を重ねる。話は弾み日本文化を代表する歌舞伎から中国の京劇まで、話題はつきることなく出てくる。我々は酒が入るとどうしてこうも話し好きになり、ロマンを語るようになるのだろうか。唐さんに「お二人は酒なしの時はいまひとつ盛り上がらないのにね」と言われそう。
 天池からの帰り道、新彊出身の恵さんに質問しようかどうか迷ったことがある。それはタクラマカン砂漠での核実験のことである。「砂漠で核実験が行なわれていたが、その時の震動はどうでしたか、地震のようでしたか」と尋ねたら大変困ったような顔した。すかさず唐さんは助け船だす。「そこには人は住んでいないから。中国は地震あまりないし……」と答えにならない答えを返してくる。予想していたとおりなので、それ以上突っ込むことはしなかったが。
 中国は相手の面子を重んじる国。唐さんは恵さんの立場が悪くならないように、とっさに機転を働かせたのだろうが、やはり聞かなければよかったのだろうかと、後味の悪い思いにとらわれる。
 だんだん酒も回ってくる。もう一度同じ質問をしたい誘惑にかられるが、なんとか押さえることができた。できることなら率直に両国の政治、経済、国際関係、生きがい、日常生活ことなど話し合いたいと思うが、それは難しいことなのかもしれない。唐さんとはもう6年の付き合いになるから、それは可能だと思うが、彼は私にも唐さんにとっても初対面の青年である。心を開くにはあまりにも危険なことだったのかもしれない。日本であれば、私たちはもっと自由に国や政府の政策、責任を議論することができるのだが、ここは中国、国情の違いを感じさせられる。

12月23日(火)
 午前6時45分起床。今日は午前中南山牧場を訪れる。道すがら唐さんがおもしろい話しを聞かせてくれる。「民間の労働者にはボーナスがその時々の会社の利潤によって支給されるが、公務員、学校の先生や警察官も出ないよ。給料も民間より安い。でもね、権力・権限を持っている公務員は、それによって色々あるの」「中国の伝統的な服は袖の下が大きいの知っているでしょ。なぜだと思う。袖の中で取引をするの・・・・」と言っているが、それは袖のしたのお金なのだろうか。冗談半分なのかはっきりしないが。
 「田舎の人たちは銀行をあまり信用していないよ。だから預けないで瓶に入れて自分で密かに持っている。どうしてだと思う。それは、引き出すのに時間がかかり、必要な時にすぐに使えないから。でも本当の理由はね、お金を一杯もっていると、『どうしてあの人はあんなに持っているのか、なにか悪いことをしているんじゃないのか』と陰口をきかれるから。だからいくら貯めこんでいるか秘密にしておきたいからなのよ」。 中国の伝統文化の一端、庶民の素朴な感情を知ることができて興味深い。
 南山牧場はウルムチから60キロ離れた山中の中にあり、そこはカザフ族の放牧地となっている。彼らは夏は高地に移動し生活するが、冬は麓に下りてきて遊牧の生活をする。それはモンゴルの遊牧民とは違って半定住型の遊牧生活だからである。
 冬のこの地は雪に覆われ荒涼としている。彼方にはうっすらと雪を被った山並みが見え、それに向かって不毛の大地が続く。所々純白な雪が彩りを添えている。静寂を破って時折猛スピーでトラックが通りすぎて行く。その轟音も瞬時に大自然の静寂の中に吸収されてしまう。集落はポプラに囲まれ広大な大地の一角に佇んでいる。ちょうど通学時間帯だったのか、白い息を吐きながら子供たちが集団で登校している。雪を投げあったり、ふざけあったりしながら。雪の日の日本でも見られる光景と同じで、朝の子供たちの生き生きとした風景である。
 集落を抜けると温室栽培のハウスが点在している。それは泥の壁でかこまれており、日が当たる方は、ビニールかガラスようなもので覆われている。この中国西方の奥地でも温室栽培は盛んであり、そのおかげで新鮮な豊富な野菜が冬でも供給されている。この点も農耕が苦手なモンゴル人とは大違いである。

トルファンへ
 ウルムチからトルファンまで4時間のドライブ。一車線の簡易舗装の道を80〜100キルの猛スピーで突っ走る。日本の高速道路とはわけが違う。天山南山の山道は所々にでこぼありカーブあり。緊張で冷汗が出てくるが、さすが定期便でならした運転手の楊さんの腕はたいしたもの。難所を難なくこなしていく。山には草木はなく、山肌は赤茶けた崩れやすい砂岩である。山を抜けるとそこはトルァン盆地。盆地といっても甲府盆地のように山並みが周りに見えるわけではない。東西240キロ、南北75キロとスケールは比べものにならないほど大く、また、世界でもっとも海から遠い盆地でもある。この地理的条件が内陸性気候を生み出している。
 砂漠、すなわち荒地がはてしなく広がつている。川原のような砂利を敷きつめた原野であり、土はどこにも見当らない。当然目に映る緑は皆無である。土と水は生物が生きていける絶対条件である。人類数千年の歴史は土を求め、守り、作ってきた歴史でもある。天山山脈の雪解け水は地下に潜り、そしてトルファン盆地の地下を流れてくる。年間降雨量わずか15〜30ミリ、夏は摂氏40度、そんな日が40日も続く。年間蒸発量は3000ミリ。ここは風の通り道でもあり風庫とも呼ばれ、春から夏にかけて強烈な風が吹き、黄塵を巻き上げる。このような厳しい自然環境の中で、貴重な水は地下を流れることにより、消ずに生き永らえ、生物に命の営みの源を与え続けている。
 地下水は、カレーズと呼ばれる潅漑用に造られた地下水道を流れる。地下水脈を捜し当て、まず親井戸を掘る。それは天山山脈に近いところでは深く、離れるにしたがって浅くなってくる。目的地までの間に20〜30メートおきに堀り、それらを地下でつなげて水路を造る。地下水路は5〜10キロにもおよぶと言われる。汲み上げられた水は、水路を通りオアシスの集落の中を縦横に走る。カレーズは、一切の生命を寄せ付けない不毛の大地にオアシスをつくり、人がその地で生きることを許している。また、水はトルファンの有名な葡萄を二千年間近くも育んでいる。その葡萄は白く半透明で細長く甘酸っぱい。今では年間生産量300トンにもなっている。
 葡萄はまた素晴らしいワインを生産する。中でも‘楼蘭’というラベルのワインは、一級品であると現地のガイドに教えられる。‘楼蘭’とは、幻のロプノール湖畔に紀元前から栄えたオアシス都市。しかし、砂丘の移動とともに湖は消えてなくなり、‘楼蘭’の都市も湖と運命を伴にする。このなんともロマンのあるネーミングのワイン、さっそく購入し飲んでみる。美味しさもさることながら、歴史のロマンが体の中に広がっていく。できることなら数本購入し持ち帰りたいが、まだまだ旅の途中、残念ながらあきらめることにする。

12月24日(水)
 ベゼリック千仏堂・火焔山・高昌故城・アスターナ古墳・葡萄溝・交河故城・額敏塔の順序で見て回る。ベゼリック千仏堂へ向い、砂利の大地を走る。空は薄曇りですっきりしない。遠くに天然ガスが赤々と燃え、灰色の世界のアクセントになっている。ベゼリック千仏堂は赤茶けた土の山の中にある。途中、『西遊記』で有名な火焔山が見える。夏であれば灼熱の太陽のため、全山燃えるような様相になるというが、残念ながら今日は山は霞み、その迫力を感じ取ることはできない。
 ベゼリックとは、ウイグル語で「装飾された家」という意味。その名の通り、石窟はウイグル族の祖先たちが描いた仏教関係の壁画で飾られている。14世紀当時、ウイグル人は仏教を信仰していたが、イスラム教の進攻により、ここの仏教壁画の多くは破壊されてしまった。それはイスラム教には偶像崇拝がないからである。
 宗教は人にやすらぎを与えるとともに、信ずる宗教のためには命まで投げ出させてしまう。イスラム教のパワーと恐ろしさを壁画の破壊活動を見ながら、また、近年の旧ソ連とアフガニスタンゲリラの戦闘を思いだしながら感じる。アフガニスタンの若いゲリラ兵は、イスラム教を信仰し、戦闘で死ぬことはアラーの神の意志であり喜びであると、決死の戦いでソ連兵を苦しめてきた。日本でも神道を背景に、紅顔の美少年が人間魚雷、神風特攻隊等で命を散らしていった苦い歴史を持っている。平成6年6月には麻原彰晃 率いるオウム教団がサリン事件を起こし、全国民を、世界の人々を震撼させた。宗教は人間の魂を救い、生きる喜びを与えることができるのだろうか、それとも狂気の行動にかりたってていくのだろうか。

交河故城
 車師前国の都城であった交河故城は、市街地から10q、高昌国から40qの所にある。東西二つ河に挟まれた高台にある彫刻都市で、さながら不沈空母のような天然の要塞である。20mの絶壁が城壁となり、他の都市のように城壁で囲む必要がなかった。建物は岩盤の台地をくりぬいて造られ、台地の上は乾し煉瓦で寺院や住居等造られいる。谷底にむかって下におりていくと、井戸や道路までが造られている。城は南北に長く、南側に住居地区、中央地区に官庁街、北側は寺院地区になっている。現在は寺院の一部が修復されているが、あとは風化してしまった乾し煉瓦の残骸だけが残っている。
 その当時、この都城を中心にどんな人生ドラマがあっのだろうか。前漢昭帝(在位紀元前87〜74年)の時、北方の遊牧騎馬民族の匈奴は、車師前国に4千の屯田兵を置く。しかし、昭帝の20万騎の大軍がトルファンに進行して来ると、匈奴の王は屯田兵を直ちに撤退させてしまう。匈奴は撤退する所があるが、トルファン盆地に土着する車師前国の王と民衆は、撤退する場所がない。戸数は7百、人口6千5百。兵はわずか1865人では戦にならない。その地で運命の流れに身を委ねるしかないのである。
 漢の出兵の理由は、匈奴が車師前国と組んで、漢の皇族の女性を妻としている鳥孫国を侵略し、漢の皇族の女性、鳥孫公主を匈奴に連行し、漢との関係を断つように迫ったからである。いわば大国匈奴のエゴであり、小国・車師前国は匈奴の意志に従わざるを得なかったのではないだろうか。
 匈奴は車師前国が降伏したことに怒り、漢軍が去ると太子を人質に出せと要求する。車師前国が攻められている時は、援軍も出さず草原の国に帰って身の安全を図り、危険が去ると乗り出してくる。まさに大国の身勝手さなのである。さらに、匈奴は政略結婚策をとり、後に車師前国の王となつた鳥貴に匈奴の女性を妻とさせる。そして、漢と姻戚関係のある鳥孫に行く漢の使節を抑留し、漢との連絡を断たせるのである。
 漢は紀元前68年再び西征軍を派遣。交河城はひとたまりもない。国王はこの時も匈奴に救いを求めたが出兵しない。大国のエゴは何時も同じ。トルファン盆地の小国の一つや二つを見殺しにしても何とも思わないのである。国王は降伏するにあたつて、漢に誠意を示すために、匈奴の属国の小国を攻めてその国王の首を手土産とする。弱き小国がさらに弱き国を、自らが生きるために犠牲にしていく、義理も人情もない弱肉強食の世界である。
 匈奴は再び立腹し車師前国攻める。国王は漢と姻戚関係にある鳥孫に亡命する。漢は匈奴より人情があったのだろうか、逃げてきた王と妻子を保護し、本国・長安まで送り届けさせる。漢軍は車師前国を守るが、朝廷の方針でその国を放棄することになり、6千余の全住民を漢の基地の在る所に移し、車師前国は滅び、その土地は匈奴の支配地となる。そして、510数年後、この地に高昌国が誕生するのである。

高昌故城
 トルフンの市街地から車で40q走ると、孫悟空で有名な火焔山の麓に、498年きく嘉が建てた高昌国の都城・高昌故城の遺蹟がある。城跡はほぼ正方形で、外周5.4q,11の城門を持ち、城壁の高さは10m。城内のあらゆる建物は崩れ去り、赤茶けた土の塊が延々と読くだけである。
 トルファン盆地、タリム盆地をはじめとする中国の西域・新彊ウイグル自治区は、年間降雨量の非常に少ないところであり、トルフャン盆地では20o〜30oである。そのためこの地域、シルクロード沿線のオアシス都市の建物は、一般的に日乾し煉瓦である。なぜ、この地域は年間降雨量が極めて少ない乾燥地帯なのか。それは、中央アシアが置かれている地理的条件からきている。すなわち、南側にヒマラヤ、カラコルム、ヒンドゥークシュ、チベット、パミールなどの世界的な大山脈、台地を自然の大障壁とし、南シナ海、ベンガル湾、インド洋、アラビア海などから吹いてくる多量に水分を含んだ季節風を遮断している。さらに、北側では2500q離れた北氷洋から吹いてくる湿潤な北風が、アルタイ、天山山脈の大山脈やタルバタガイ台地、カザーフ台地で遮られ、これより奥地に雨をもたらさない。このようにして、中央アジアは全体として世界でも有数な乾燥地帯となっているのである。
 当時の寺院や建物は、跡形もなく崩壊してしまつている。それは熱風などによる自然崩壊もあるが、人為的な遺蹟崩しもあつたという。補強のため柳の枝や枯草などが混ぜてある古い日乾し煉瓦は、持ち出され砕いて畑にまかれる。この地域は昔から綿花などの栽培が盛んであり、砕かれた古煉瓦からできる土は、農作物の肥料となるからである。
 遺蹟の高台の上に立ち、遥か彼方まで読く赤茶けた土塊眺めていると、1530年前の彼方から、この地に生きたトルファン盆地の小国、高昌国の朝廷や民衆の叫びが聞こえてくるような気がする。
 この国の歴史は、東方の大国、北き・隋・唐、北方の柔然と高車、突厥という二大勢力に挟まれ、常に二大強国の野望に翻弄され続け、国王は大国の顔色をうかがいながら、不条理を受け入れ、国を国民を滅亡させないよう懸命に生き、そしてついに力尽き、180年間の波乱に満ちた歴史を閉じるのである。
 460年、漢族とイラン系の土着民が共存するトルファン盆地に、北涼亡命政権が侵入してくる。10年後、亡命政権はモンゴル系の柔然滅ぼされてしまうが、遊牧民族である柔然は定住生活ができず、傀儡政権をたてて、そこから搾取するほうが得策と考える。ここに漢族王朝国家である高昌国が誕生する。車師前国滅亡から538年後である。初代国王・かん伯周、その後の張孟明、馬儒など歴代の王はことごとく民衆の支持をえられず、民衆の手で殺されてしまう。
 497年、高昌国には東方派=北きと結ぼうとする国王の馬儒、北方派=勇猛なモンゴル系、トルコ系の遊牧国家である柔然、高車の保護下に入ろうとするきく嘉が、ともに権力争いに明け暮れるが、住民の支持を得るきく嘉が政権を獲得する。すぐに柔然に服従するが、柔然に力がなくなると高車に寝返り、さらに東方の北きとも関係をつないでいく。王朝と民衆が生きていくためのギリギリの処世術だったのであろう。このようにしてきく氏王朝は、140年の歴史を刻んでいくのである。
 581年、きく伯雅はきく氏王朝6代目の王となるが、国は東の隋、北の遊牧国家突厥という二つの大勢力に挟まれ、この地で生きるための宿命的な生き方、すなわち、大国の顔色を伺いながら、従属的に生きていかざるを得ないのである。そのうえ、家庭は複雑で、祖母は突厥可汗(王)の娘であり、妻は隋のよう帝より与えられた北周の皇女、さらに、突厥の風習を強制させられ、実母以外の父の妻、妾を引き継がざるを得ないのである。敵対する大国の姻戚が身の回りにゴロゴロいる中で、伯雅は心から安らぐことはなかったであろう。
 618年、隋は大運河の工事、高句麗への大遠征、豪華きわまりない帝王生活などで国家財政を破綻させ、国を失ってしまう。隋に変わって唐が天下を取る。高昌国は唐建国2年目の619年に唐に使節を送るが、この年にきく伯雅は死に、息子のきく文泰が王となる。同じく突厥の可汗もこの世を去っり、国は東西に分裂していく。唐では高祖季淵が引退し、次男の季世民がクーデターにより政権を取り、626年に即位し大宗となる。きく文泰は唐の朝廷のご機嫌を伺いながらも、西突厥の王である統葉可汗の妹を自分の息子の妻に、自分の妹を統葉可汗の長男の妃にし、西突厥と関係を保っていったのである。高昌国にとって、唐は遠く離れた国であるが、西突厥は目と鼻の先の国、脅威の国である。
 シルクロード上の都市である高昌国とえんぎは、交易の利益、すなわち国益をめぐつて激しく対立していく。高昌国は本道「伊吾の道」を守るために、旧道「楼蘭の道」の復活を阻止しようとし、えんぎは旧道の復活で交易の利益を独占しようと画策する。
 えんぎは唐に旧道の復活を上申し、唐はその復活を援助するこを約束する。そのことを知った高昌国は、唐との国交断絶も止むを得ないと早計な判断をしてしまう。なぜなのか。それは、630年の入朝の際、甘粛方面の城郭が寂れているのを見て、とても大軍などを派遣できまいと高をくくつていたからである。
 また、唐は伊吾に「伊州」を置き、唐の一州とするが、高昌国は西突厥と連合してそこを攻める。それは、西突厥にとって伊吾は、かつては自分に従臣していたが、勝手に唐に鞍替えしたけしからん国だからである。
 高昌国では沢山の宗教が共存している。仏教、ゾロアスター教、マニ教、キリスト教ネストリウス派などである。国王きく文泰は、中でも仏教の普及に力を注ぐ。それは、雑多な民族の融和を図り、国の安定を図るためには、仏教の教義がもっとも適しているからである。高昌国の主たる民族である漢族が信じていた儒教は、教養、モラルとしては各民族に共通するが、信仰としての情熱性には欠けている。ゾロアスター教はイランの土着の匂いがする民族宗教であり、マニ教は善悪の二元論、永劫の闘争を唱えるので民族融和には向かない。その点、平和主義であり、世界宗教として寛容性を持ち、儀式や習慣に濃厚な土着性を持たない仏教は、最適であったわけである。
 国禁を犯し、命懸けで求道のため、唐の長安からインドに向かう三蔵法師は、国王の熱烈な懇願により高昌国に立ち寄ることになる。国王は彼をこの地に止まらせようとするが、絶食して意志を貫こうとする彼をあきらめざるを得なかった。インドから帰国する時には必ず立ち寄り、3年間とどまり供養を受けることを約束させる。
 当時の高昌国は戸数8千、人口3万7千人。僧侶が数千人いるという熱心な仏教国である。出発までの間、王及び大臣など300余人が三蔵法師の講義に聞き入いる。人々は彼の立ち寄ることを心待ちにするが、皮肉にも文泰の高昌国は、その時すでに滅びさつていたのである。
 車師前国から高昌国と歴史の舞台は回っても、その土地に生きる人間が、苛酷な自然環境と、遊牧騎馬民族と漢族の二大大国の覇権の狭間に、翻弄されながら生きて行くことには変わりはない。
 トルファン盆地の古代史から、この地に生まれた小国をみると次の様な特徴が見える。@人口1万に満たない小国である。A土地は肥沃であり豊かな農産物の収穫が可能である。B天山南路の交通の要塞である。C二つの大国が対峙する時は、国民は不幸である。D対立する二強の一方が内乱などで没落すると、板挟みの状態から脱し、しばしの平和を楽しむことができる。シルクロードのオアシス都市は、多かれ少なかれこのような要素を持つているのである。
 今まさに沈もうとしているやわらかな夕日が、交河城遺蹟を優しく包み込もうとしている。2千年以上前から、この二つの都城を中心に繰り広げられた古代人の憎愛、欲望、悲哀に満ちた人間のドラマは、現代の私たちの人生と少しも変わらない。これから先も人間の本質は変わらないかもしれない。2千年という歴史は、50年から80年単位の、色々な人間の人生の単なる積み重ねなのだろうか。それは長いのか短いのか良く分からない。

12月24日
 ホテルでの夕食時、ウイグル族の胡旋舞を観賞。長い三つ編みの髪を垂らし、目に思いっきりの表情を持たせて踊る。漢詩(白居易、季白)にも登場するこの踊りは、くるくると回るテンポの早い踊りで、西域ムード満点である。踊りを見ながら、ウルムチで買い求めた幻のワイン「楼蘭」を堪能する。
 午後11時7分、トルファン駅から夜行寝台列車で柳園に向かう。トルファンから柳園までは、草木がほとんど無い荒涼とした大地が延々と続く。

12月25日
 朝10時23分に列車は柳園に到着。ここからはガイドの季さんが担当する。中国での旅行は、それぞれ地域において、担当ガイドが決まっているようである。駅から敦煌まで不毛の大地が続く。やがて大地に少しずつ草が生えてくる。それは近くに水脈があり、大地にわずかな水分が含まれているからである。草は大地の状況を正直に表す。水はすべての動植物の源であることを感じさせる。
 前方の道に水溜りのような蜃気楼が見える。光の異常屈折による蜃気楼は、古代から水場求め砂漠を行く旅人に、一縷の望みを抱かせ狂わせてきたのだろう。カラカラに乾いた大地を旅していると、ふとそんな風こ思ってしまう。
 鳴沙山の砂丘は延々と続く。山の中腹までラクダで登ことができるが、その後は頂上まで歩いて登る。足元が崩れるので登るのが思ったより苦しい。人間がこの砂丘を抜け出ることなどとてもできるものではない。すべてを飲み込んでしまう恐ろしい死の世界が前方に広がっている。
 砂の表面は少しばかりの水分と、マイナス10度程度の冷気によって固まっている。風によってできた稜線はまるで刃物のような鋭さである。陽が陰り、弱い冬の日差しに輝く砂丘は、遠くでみている限りとても美しく見える。砂丘の麓には、2千年以上埋もれることなく、湧水によってできている月牙泉が凍結して横たわっている。風の力がこの鳴沙山の形を変え動かしてのに、なぜ、月牙泉は埋もれてしまわないのか。それは、風の流れが砂丘の移動をコントロールしているからだという。そうでなければ、この小さな泉など一瞬のうちに砂丘の中に消えてしまうだろうに。
 夕食の時、ガイドの季さんは友好のためにと敦煌の地酒・白酒を出してくれる。ちなみに、白酒は私たちが日本で親しんでいる赤い酒・紹興酒よりはるかに高級な酒で、度数は50度近くもある。禁酒をもう少し続けようと思ったが、結局、友好親善のためだからと勝手な理屈をつけて飲んでしまう。楽しいクリスマスパーテーだった。
 夕食後、もう少し話がしたくて季さんの部屋を訪ねる。彼は中国ではめずらしい仏教の信者である。一人のお坊さんに西安で出会い、仏教思想に感銘し、現在も修業を続けているという。道教、大極拳の考え方が彼の精神的なバックボーンであり、愛読書は三国志、ビジネスはその物語をとおして考えるいう32才の青年である。ハンサムとはいえないが、酒好きで酔うほどに陽気になってくる。できることならまた会いたい人である。

12月26日

 寒さで目が覚めてしまう。暖房は止まり、マイナス10度近くの外気が、窓の隙間から流れ込んでくる。あわてて予備の毛布を出してくるまるが寒くて眠れない。 今日は一日中莫高窟の見学。午後になると寒さが一段と厳しくなり、石窟内は爪先から寒さがだんだん全身に上がってくる。見学者は私たち3人だけ。学芸員がじっくりと説明してくれるのだが、とにかく寒さがつらい。
 石窟は崩れやすい砂岩の山に、水を流し込みながら堀つていく。壁画は壁に泥と草を混ぜたものを塗り、その上に描く。そうすることにより石窟の補強にもなっているという。

12月27日
 午前7時30分に朝食をとり、8時には嘉峪関に向かって出発。370kmを5時間かけてドライブだ。体調がいま一つおもわしくない。昨晩頭痛がするので風邪かもしれないと思い、早めに休んだのだが。午後になると顔がほてり熱が出てくる。「まだ旅は長いので体調には気をつけよう、ここは地の果てなのだから」といい聞かせる。
 夕食はこの土地自慢の郷土料理。例によつてボリューム満点の豪華版だが、見ているだけで気持ちが悪くなり、その場に居られず、、失礼して部屋に帰りすべて吐てしまう。少し楽になり、早めだが午後7時にベッドに入る。
 本場中華料理はうまい。まして西域のスパイスの効いた料理は格別だ。しかし、その美味い中華料理に胃が絶えられるのは、私の場合は1週間まで。どれもこれも油濃いため、体が拒絶反応を起こしてしまう。人間の体はよくできてるものだと感心しながら眠りに就く。
 うとうとしていると、けたたましく鳴る電話に起こされる。何事かと思い出てみると、竹嶋氏が上機嫌で受話器に出ている。彼によると私が部屋に引き上げた後、季さんと意気投合し、敦煌の白酒のボトル1本を空けたという。季さんは英語の通訳で、竹嶋氏もあまり英語は得意ではないのだが。酒が入れば言葉は無くても意志疎通は出来るのかもしれない。「今、季さんの行きつけのマッサージの店に来ているが、季さんが西さんの部屋にマッサージ嬢を出張させるがどうだと言っている。いかがわしいことはしないから大丈夫だって!」というのだ。気持ち悪さもおさまったし、体をほごしてもらうのもいいかなと思いお願いする。10分ぐらいすると容姿端麗の女性が訪ねてきた。さっそく中国式マッサージをお願いし、しばらく筋肉をほごしてもらっていると睡魔に襲われ、1時間はあっというまに過ぎ去り、気が付くとタイムオーバー。料金を支払いお帰りいただく。本当に健全なものであった。

12月28日
 朝食はトースト、助かった。今朝は油っけのないものを身体が要求している。2日間の禁酒が良かったのか、体調はまあまあの状態だったが、昼ごろから微熱が出始め頭痛がする。昼食はほとんど食べられず、抗生物質を飲みいくらか楽になる。
 午前9時、酒泉へ。夜行杯の工場、酒泉公園を見学。工場では唐代の詩人、王翰が歌った「涼州の詞」に因んで、夜光杯を求める。夜光杯は、祁連山から産出する玉を原料にしたもので、その杯に酒を注ぐと、天然文様の透明な部分が光り輝く素晴らしいものである。
 「涼州の詞」は、明日の命も知れぬ、辺境の守りに就く兵士の心境を詠ったものである。「葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す 酔うて沙上に臥すとも 君笑うこと莫れ 古来征戦 幾人か回る」 落ち込んだ時には、夜光杯に白酒を注ぎ、この詞を思い飲んでみようと思う。
 午後、今回の旅の大き楽しみのひとつである嘉峪関を訪れる。ここは万里の長城の最西端でる。勃海湾を望む山海関に始まり、約6千kmに及ぶ城壁。よくもまあ造ったものだとあらためて驚かされる。これを造った秦始皇帝以来の各時代の皇帝が、いかに遊牧騎馬民族を恐れてきたか、また、造るために莫大な費用と人力を投入できた、皇帝の権力がいかに大きかったか理解できる。
 長城から見るあたりの景色は、緑色はまったくなく、埃をかぶった茶色の世界である。ゴビ砂漠が果てしなく続いている。砂漠といってもそれは砂丘ではなく、砂利を敷きつめたような大地で、水気はまったく感じられない。畑は広大な荒地の中にわずかにあるだけ。その周りにポプラを植樹して、貴重な土が強風で吹き飛ばされないように守っている。
 畑は自然にあつた土地を畑にしたのではなく、長城を崩したり、遠くの地域から土を運んできたりして、人口的に造ったものだという。大変な労力であったであろう。人間は土を得て、畑を作り、作物を収穫し生きていける。この苛酷な自然環境の中で、可能なかぎりの知恵を出し、かろうじて生かされている。この荒れた大地を見ているとそんな気がしてくる。
 土は水とともに生命を維持していくためにはなくてはならないものである。自然環境によっては、その土を造るために大変な努力を必要とする。
 インカ帝国では優秀な建築土木技術を生かし、大量な石を積んで堅固な段々畑を作る。計り知れない労力を注ぎ込んで作るのだが、得られる畑の面積はわずかである。それでもインカが畑をつくるは、「土地は永遠の恵みを与えてくれると」という信念があるからである。
 また、アイルランドのアラシ島では、畑の土を作り守るために大変な努力をしている。この島は岩しかないため、少しの土を運び込み、それだけでは足らないので、土作りに膨大なエネルギーを費やす。豚の糞と海草をを混ぜて土を作るのだが、海岸と畑を1日20往復もするという。わずかばかりの貴重な土を守るために、畑の回りに石を積む。さらに大きな石の間には小さな石を入れて土の流失を防ぐ。土を作ることから島民たちの生きることが始まるのである。
 嘉峪関のこの地は厳しい自然環境のため、農業は適さず、豊富な地下資源を生かした工業で成り立つている。町の人口は11万人、製鉄所の町である。工場から吐き出される排煙が空を汚し、晴れているのにもかかわらず、もやがかかっているような状態である。樹木は無く、空気は乾燥と煤煙でかなり汚染されている。灰色の街である。このような状況はここだけでなく、新彊ウイグル自治区全体の冬の状況ある。
 寒さのためか、煤煙から咽喉をまもるためなのか、マスクをしている人が目立つ。今回の冬の新彊ウイグル自治区の旅で、強く感じたことは、緑を守り育てることの難しさ、緑がいかに人の心に潤いと安らぎを与えるかということである。私たちは最初から咽喉のいがらっぽさ、痛さに悩まされてきた。工場の排煙、ジーゼル車の排ガス、埃、苛酷な乾燥、マイナス10〜15度(最低気温)、平均マイナス8度程度の外気は、私達にとって住むにはあまりにも厳しすぎるように思える。しかし、街の自由市場には、多くの市民がに日用品を買い求めにやって来る。その姿ははつらつとしている。

城楼・嘉峪関
 嘉峪関にはぜひ訪れてみたいと思っていた。明の1372年に、河西回廊をモンゴル軍から守るために、馮勝将軍が築いたものといわれ、二重の城壁と3つの城楼からなっている。それは渤海湾を望む山海関に始まり、6,000qに及ぶ万里の長城の最西端に位置している。嘉峪関とはどんな城楼なのか、また、最西端の城壁は北京郊外の万里の長城・八達嶺と同じ造りなのだろうかなど興味ガ湧いてくる。 カメラと三脚を持って嘉峪関を訪れた時は、日はいくぶん西に傾きかかってる。堅牢な煉瓦造りの城壁は、柔かな冬の西日を受け威容を誇っている。城楼の上に立ち西の方を見ると、河西回廊の荒涼たる大地に弱々しい土壁が延々と続いている。
 午後6時に夕食をとり嘉峪関駅に向かう。無数の砂塵が大気中に舞い、空はぼんやりと霞んでいる。嘉峪関の駅に近づいてくる。運転手の王さんとはここでお別れだ。彼はハンサムな独身青年でこの街の出身である。李さんが彼の為に別れの歌を歌う。私も王さんとの別れをしのび、藤村の「惜別の歌」を歌う。王さんは今まで歌はあまり歌ったことがないと言いながらも、18歳から21歳まで軍隊に行った時に、友と別れる時に歌った歌を力一杯歌ってくれた。3日間の付き合いの中で、気心も知れ親しみも湧いていたので、何かジンと来るものがある。
 ガイドの李さんとは、彼の実家がある蘭州まで、14時間の夜行列車で同行する。彼はとてもハンサムとは言えないが、いつも笑顔で冗談を飛ばす親しみの持てる人である。酒好きで、酒のみの友は大切であると言う。それは、腹に一物がなく、心から交流できるからだという。また、しっかりとした人生観を持った人である。列車の中ではまた楽しい酒盛になるだろ。
 午後7時30分発の夜行列車、蘭州行きは2時間30分遅れて午後10時の到着である。駅の雰囲気は大陸的というのか、照明は暗く、天井は高くがらんとしている。改札口は分かるが、乗車券の販売場所は何処にあるのかよく分からない。乗客は木のベンチに腰掛けて、飲食したり談笑してゆったりとくつろいでいる。列車が到着すると、外套を着た怖そうな女性係員が出てくる。時折、なにやら大きな声でヒステリックに叫んでいる。こんな光景をどこかほかでも見たような気がする。日本ではほとんど見ることはない。穿った見方をすると、中国やモンゴルでは、乗客はお客様ではないような雰囲気である。乗せてあげるのは私達。やなら乗らなくても結構という意識が関係者の間にあるのかもしれない。ともあれ寝台車に乗り込み14時間の長旅が始まる。
 李さんはこの地の酒「皇台酒」2本と、ホテルからのつまみを持っての乗車である。これで彼は今までに4本の白酒を振舞ってくれたことになる。よほど私達が酒好きに見えたのか、それとも彼自身が酒好きなのか、酒を飲みながらコミュニケーションを深めたいと願ってのことなのか、多分全てに当てはまるだろう。いずれにしても、商売抜きの彼の好意に感激する。
  車窓は暗く何も見えないが、今走っている蘭新鉄道は、河西回廊(河西走廊)の上をひた走っている。祁連山脈とゴビ砂漠に挟まれた細長い大地は、シルクロードそのものであり、2千年にわたる中国史上重要な所なのである。漢の昭帝、唐の大宗などが、シルクロードの拠点であるトルファンを押さえるため、大軍を送った道でもある。この歴史ある道を今私達は、暖房の効いた車内でくつろぎ快適に走っている。なんだか古人に申し訳ないような気がするが、杯を重ね宴は深夜まで続いていく。
 
12月29日
 午前8時30分、車内に流れる音楽で目を覚ます。外はあいかわらず緑の少ない殺伐とした風景が続いている。蘭州は黄河の悠々たる流れに沿って開けた甘粛省の省都である。人口260万人の中国西北部最大の工業都市でもある。
 個性的でとても人間くさい李さんと別れ、午後5時、蘭州空港を離陸し、古都・西安には8時5分に到着。

12月30日
 午前6時30分に起床し、城壁を撮ろうと散歩にでかける。外はまだ薄暗い。自転車に乗った人たちが出勤を急ぐ。街の雰囲気は北京とはだいぶ違って、古都としての落ち着きが感じられる。本通りを外れると、そこは少数民族のひとつ回族の街である。路地の店では裸電球の下で商いがもう行なわれている。夜にでもまた訪ねることとして先を急いだ。城壁の入り口付近には露店商が並び、出勤前の労働者が朝食をとっている。城壁の入り口から時間とともに、郊外に向かって一斉に出勤していく。朝のエネルギッシュな古都・西安の一日の始まりである。
 西安の街は周囲を城壁で囲まれている。周囲の長さは13.7km、面積11ku。唐代長安より面積は9分の1に縮小されているが、城壁を登って場内の街並を見下ろしていると、積み重ねられた時の流れのなかに身を置くことができる。西域にむかって出ていった将軍や兵士、商人、僧侶達は、どんなおもいでこの城門から旅たっていったのだろうか。
 日本の城壁は将軍や大名を守るためのものだが、中国のでは住民も含めて城内にかこってしまう。住民と将軍は運命共同体だったのだろう。朝、城外に仕事に出ていき夕方帰ってくる。鐘の音とともに城門は閉じられる。今こうして城門の外に立って、朝の出勤風景を見ていると、城門こそ閉まらないが、1千4百年前の隋、唐時代の長安の生活と変わらないのかもしれない。
 西安の郊外の畑は豊かな緑に包まれている。それは麦畑である。西域から来た私には、西安の土地がことのほか豊かに見える。しかし、大気は霧なのか排気ガスなのか定かではないが、もやっていてはっきりしない。
 西域すなわち新彊ウイグル自治区の旅もいよいよ終わりに近付いる。この旅をとおして、私の心に強く残ったのは、農耕民族の土と水を求めての苦難の歴史である。大自然の猛威に押しつぶされそうになりながら、また、北方の騎馬民族の掠奪に耐えながら辛うじて生命を維持してきたのである。
 西安の繁華街は東京、北京と同じような雰囲気を持っている。年末の買物客でごったがしていた。午後8時まで街の中をうろついたが、歩いていると色々なことに出会うものだ。日本ではもう珍しくなった物乞にあちこちで出会う。だいたいがお年寄りなのだが、中には母と幼子が寄ってきて、その子が私の手つかみ離そうとしない。母親はこちらを見て両手を合わせている。何ともやりきれない気持ちになつてしまう。デパートの前では、少年がケロイド状にただれた太股をこれ見よがしにさらけだし、地面にうつぶせにになってパンをかじっている。目にしたくない悲しい光景である。
 はなばなしい西安女性の立ち回りもある。道路はバス、自動車、バイク、自転車が渾然一体となって溢れている。そんな中で、若い女性2人と男性1人が大声を張り上げて喧嘩している。一方の女性がもう一人の女性に殴りかかていく。男性は必死になってその女性を抱きとめている。辺りは黒山の人人人。道路の片側はほぼマヒ状態である。よく見ていると、喧嘩しているのは故障したバスの車掌とその前を走っていたバスの運転手と車掌らし。バスの位置関係と三人の服装から想像できる。なにが原因なのか知りたかったが、中国語は分からないので、野次馬根性を満足させることはできない。とにかく喧嘩は10分は以上続いている。その間乗客はバスに乗ったり下りたり。後のバスでは、喧嘩は車掌にまかせ、運転手が一生懸命乗客に状況を説明してる。
 交通をマヒさせ、路上で大喧嘩やる中国女性のド迫力に圧倒させられてしまう。ひとたび切れてしまつた女性には、男性はもうなすすべがないようだ。このことは肝に命じておいたほうがいいかも知れない。それにしてもバスが動くまでじっと待っている、乗客のおおらかさというか忍耐強さにも驚かされる。

12月31日
 午前6時30分、まだ暗い中、唐さんと一緒に少数民族である回族の地区を散策する。商店では民族の伝統的なお菓子や食事の準備を急いでいる。肉屋が多く目に付くが、肉は牛肉が多い。イスラム教であ回族は豚肉は食べないからであろう。
 裸電球に照し出された家並み、山積みにされた商品、人でごった返す回族の夜の街は、遠い昔の縁日に、両親に連れられて歩いた立川、八王子の路地裏のような、なんとなく暖かみがあり、ほのぼのと心安らぐような風景に思える。
 回族の人たちは、団結心が強くお互いに助け合って生きているそうである。飛び抜けた金持ちはいないが、貧乏のため餓死する人もいないという。中国の全人口の92パーセントを占める漢民族の中で、少数民族が生きていくいくためには、団結は生き抜く術なのであろう。56の民族が住む中国では、回族のような少数民族どう保護し治めていくかは、単一民族である日本人にはなかなか理解しにくいことである。
 夕食は回族の街で買った回族の食べ物で大晦日を祝う。相棒が連日楽しんできた中国の強い酒・白酒のため、体調を崩していたために湿ったパーティーとなる。明日は今回の旅の最後の目的地である上海である。午前5時30分にモーニングコールをお願いして午前12時15分に就寝する。

1月1日
 初めて訪れる上海。耳ざわりのいいロマンチックな雰囲気が漂う。西安空港を朝飛び立ち午前10時上海に到着。空はどんよりとしスッキリしない。街を流れる運河の脇に立つ近代的なホテルにチェックインする。部屋は上海の街が一望できる20数回の部屋である。外は小雨が降りだし、運河は霧に包まれボーッと霞んでいる。その中を運搬船がひっきりなしに行き交うその雰囲気は、隅田川が流れる東京下町浅草界隈のようである。
 上海は開放的な雰囲気と東西混交の独特の文化が漂よっており、北京とはまったく違った風情がそこにはある。それは新中国建設の中核都市として、国策として経済的な開放政策が採られ、大発展を遂げたことと、アヘン戦争によってイギリスに無理やり開港させられ、次いでフランス、アメリカ、日本が租界地をその地に築いたという歴史からくるのでがあろう。
 街には集団公司、有限公司と書かれた会社の建物や高層のアパートなどが立ち並ぶ。アパートは資産家が別荘として利用しているという。華やかなビルから下町に目を移すと、そこには昔ながらの上海の建物がひしめき、日用品を買い求める市民のエネルギーが溢れている。露天商は漢族、回族、ウイグル族などが入り乱れて商売をしている。ふと上を見上げると、アパートから長い物干し竿があっちこっちから伸びており、おせいじにも綺麗とはいいがたい洗濯物が無数にぶる下がっている。時折頭上にしずくが落ちてくる。化粧した表の顔の上海の裏側に、上海市民のエネルギーがある。買い物の雑踏の中に身を置いていると、何かほっとする温かさを感じる。この気持ちは西安の下町、回族の街の裸電球に照らされた商店街の雑踏の中にいた時と同じである。
 ビルの谷間を抜けると海岸通り。長江に流れ込む黄浦江に面する上海の表の顔、外灘通りである。そこは日本で言えば横浜山下公園あたりに良く似ている。歴史を感じさせる建物が並ぶ垢抜けした風景が広がる。市民の憩いの場、とりわけ若い人たちのデイトスホットになっているといわれるが、確かにうなずけるところである。

1月2日

 今日で2週間の旅も終わりである。最後の日になって、「疲れた〜」という思いとまだ帰りたくないという思いが交差する。今回の旅は、北京から中国の西の外れ新彊ウイグル自治区の首都・ウルムチへ、次にトルファン盆地から河西回廊を抜けて古都・西安へ、そして中国一の近代都市・上海までの4、661キロの旅である。ウルムチからトルファンまでの観光地の移動は乗用車で、走った距離は1200キロ、トルファンから柳園までの15時間、嘉峪関から蘭州まで11時間は夜行列車、あとは飛行機、このような長距離の旅ををとおして、中国大陸の広大さと内陸部の自然環境の苛酷さ、それが故に、農業生産に適さない不毛の大地がいかに多いかを体感する。また、それぞれの場所で環境の厳しさを跳ね返し、各民族が逞しく生きている姿を見るにつけ、生きるということの素晴らしさにも感動してきた。
 それにしても、12億という中国国民の食料を、今後とも黄河、長江流域、沿岸部等の穀倉地帯で賄っていくことができるのだろうか。さらに、55の少数民族と全人口の92パーセントを占める漢民族、多民族国家の中で民族紛争族は起こらないのだろうか。猛烈な勢いで大気を汚染しているく公害問題はどうなっていくのだろうか。すでに中国の大気汚染の一部は、酸性雨となって日本の森林を枯らしてきている。また、今世界的に問題になっている人権問題はどうなって行くのだろうか。燐国日本の国民の一人として、大いいに気になるところである。
 しかし、多民族をまとめ、12億人の国民の生活を保障していくことは並大抵のことではないだろう。中国は今、社会主義をベースに経済開放政策をとりながら、徐々に経済を発展させ、国民の生活もそれに合わせてすこしづつ向上してきている。経済の段階的な開放政策とる中で、日本や欧米諸国の情報がどんどん入って行くだろう。それらの情報を基に、今世界的に問題になっている中国の人権問題も、自分たちの問題としてよりよい方向に転換していくであろう。現にそのような運動が芽生えて来ていることが報道されている。その国の真の状況を理解しえない外国人である私たちが、中国が抱えている大きな問題の一つである人権問題を、簡単に非難することはできないかも知れない。
 今回の中国西域の旅は、隣接するモンゴル国を外から感じたいという思いもあった。というのは、1993年に初めてモンゴルを訪れ、モンゴルの自然とモンゴル人の優しさに触れ、毎年行き続けることにより、中国とモンゴルの歴史や現在の両国の関係を考える時、いつもモンゴルびいきになっている。私のモンゴルの友人は、「モンゴル人はみんな生まれた時から中国人は嫌いだ」という。モンゴル人の中国人嫌いは非常に根が深い。その根は紀元前からの両国の歴史的関係まで遡る。すなわち、遊牧民族と農耕民族の命を賭けた流血の争い、近くは清朝時代の中国商人による徹底したモンゴル人に対する搾取などである。そう考えるとモンゴル人の中国人嫌いも分かる気がする。
 しかし、それだけでは一方的な見方になってしまう。土地にしがみつき、そこにしか生きる術を持たない農耕民族。大自然の脅威にさらされ、遊牧騎馬民族の略奪に耐え、必死に生きてきた農民たのことを知れば知るほど、その思いは強くなってくる。そこで、特に自然環境の厳しい中央アジア、モンゴルと南ゴビはさんで接する新彊ウイグル自治区を訪れ、その地の自然環境を肌で感じたいと思ったからである。
 12億の国民を擁する大国・中国と接するモンゴルは、好むと好まざるにかかわらず、21世紀には中国とのパイプを大きくし、経済活動を活発にしていくことがモンゴルの経済にとって必要ではないだろうか。7年前モンゴルを訪れた時、ウランバートル郊外の国道建設現場は、資材不足で工事はストップしてしまっていた。いつ再開できるかメドがたたないということであった。隣接する新彊ウイグル自治区は農産物などはできない不毛の大地であるが、地下資源は豊富である。建設資材をはじめ多くの資源をそこから輸入できるなら、モンゴルは地の利を生かせ、経済的にに相当の恩恵を得ることができるだろう。国境沿い1200キロを自動車と列車で走りながら、漠然と考えて見たことだが、ことはそう簡単なことではないかも知れない。
 帰国の時にはいつも思うことだが、上空から見る日本の国土は本当に素晴らしい。今回は特に、すさまじい乾燥と土ぼこり、車や工場の排気ガスの世界からの帰国だからなおさらである。眼下には青空ら広がり、国土は緑に覆われ、河川が日の光を受けてキラキラとと輝く。山紫水明の言葉がぴったりとくる情景である。日本の自然環境は、中央アジアの厳しい自然環境と比較すると、それは天国のようである。その中で生活していると、ありがたさを感じなくなってしまう我々だが、自然破壊についてもっと関心を持ち、失ったら二度と帰ってこない緑濃い大地と、清らかな自然水、澄んだ青空を水守っていかなければと思う。日本のこの素晴らしい自然は、日本人だけのものでなく、世界の人たちにとってもかけがいのない遺産なのだから。