ジャンヌ・ダルクと百年戦争




1 》 動機
  近日公開の映画「ジャンヌ・ダルク」のCMをみて、100年戦争にジャンヌ・ダルクが関係していたことを思い出し、丁度授業でやっていたところなので、レポートにしようと思ったため。



2 》 百年戦争の発端
1337~1453年にわたって続けられた「百年戦争」はシャルル4世が男子の跡継ぎの無いまま不意に死んでしまったことにありました。
シャルル4世には、息子も兄弟もいなかったのです。そのため、3人の候補者が「俺に国王になる権利がある」同時に名乗り出たのです。
1人はイギリス国王エドワード3世で、彼の母親がフィリップ4世の娘でした。つまり彼はシャルル4世の甥にあたる訳です。
もう1人はフィリップ・デヴリアという人物で、彼は1234年にフランスの王侯に支配されたナヴァルという国の国王でした。
そして、もう1人が後のフィリップ6世となるヴァロア家のフィリップです。ヴァロア家というのは簡単にいってしまえば王族の分家です。江戸時代の松平家とか水戸家とかいったようなものです。
 それで、ヴァロア家のフィリップは「王国に生まれた」という理由だけでフランス国王となりました。2番目のフィリップ・デブリアはともかく、すでにイギリス国王となっていたエドワード3世を国王にするよりはフランス人のフィリップを国王したかったのでしょう。
 それでも他の2人は王位を諦めきれませんでした。
とくに、エドワード3世は野心家であり、かねてから大陸進出への夢を持っていたので簡単には引き下がれません。そこで、武力でもって王位につくための準備を始めました。
この頃の戦争といえば騎士による戦闘が中心で最初に弓を少し撃ち合い、その後騎士が突撃するというのが一般的でした。で、騎士の質というか腕はイギリスに比べフランスの方が上だったようです。
そこで、エドワード3世は新しい戦術を考えました。弩(おおゆみ)と呼ばれる親兵器を持った歩兵の密集部隊を使って緒戦の弓の撃ち合いの時に少しでも戦える騎士の数を減らそうとしたのです。
エドワード3世はこの弩の部隊の育成に10数年を費やしました。
この弩の出現により騎士の位置づけが段々と変化して行くのですが、それは場所を変えて書きたいと思います。
  また、この戦争には王位継承の問題以外にフランスの北の方にあるフランドル地方が絡んでいました。
フランドル地方は当時はまだフランスの領土ではありませんでした。
この地方は毛織物工業でが経済の中心で、その原料となる羊毛はイギリスから輸入をしていたのです。結構豊かな所だったらしく、フランス王が代々フランドルに対してしばしば不利な条件での取り引きを強要してました。
不利な条件というのが何だったのか手元の資料には詳しく書いていないのですが最後には武力をちらつかせていたのではないかなと思います。
そのため、この地方を支配していたフランドル伯は親仏的でしたが市民はそんなフランスに不満を持っていたため親英的でした。
  そして、エドワード3世がフランスへ侵攻しようとしている事を知ったフランドルの市民は取引先のイギリス商人を動かし、フランスに対し戦争を仕掛けるように仕向けたのでした。
  そして、エドワード3世はフランドルが支援してくれるのならと戦端を開いたのです。
こうして、「百年戦争」は始まりました。



3 》 百年戦争について(1337〜1360)
フランスとイギリスの戦いですから当たり前の事ですが戦争は最初海戦から始まりました。
海に関してはイギリスの方に分があったため、イギリスは緒戦をものにし、1340年にはオランダの小都市エクリューズで大勝しました。この勝利によって大陸に拠点を持ったイギリスは自由に大陸へ侵攻する事が出来るようになりました。
当時、イギリスはフランスの西南部にあるギュインヌという所を植民地としていたので最初はここを足掛かりにフランスを攻めるつもりでしたが、たまたま北フランスのノルマンディが無防備であることを知り、急遽ノルマンディへと侵攻しました。
  これに対しフランスは西南方面から兵を引き上げクレシーという土地でイギリス軍を迎え討とうとしましたが完敗しました。フランス連戦連敗です。これが1346年の事です。翌年イギリスはドーヴァー海峡の入口にあるカレーを占領しますます大陸への侵攻が楽になりました。
このとき、フランスは軍備を整える事が出来ずイギリスに対し同条件で戦えるようになるまで戦うのを待ってほしいと申し出たのですが、イギリス国王エドワード3世に「スポーツをしてんるじゃない、戦争をしているんだ。馬鹿な事をいうな」と断られたといわれています。
海運国であったイギリスが海戦はともかく陸戦でも強かったのには前にも書きましたが弩を使う歩兵の密集部隊が功を奏したのと、フランスの騎士がクレシーの戦いにおいてイギリス軍のこの戦術の効果をみていたにも関わらず騎士がその地位(戦闘の中心となること)を保つため歩兵の力を認める事が出来ませんでした。
  この後、戦争はローマ法王の提案により一時中断され、1350年にフランスのフィリップ6世が亡くなりジャン2世が王位につくまでの3年間は平和な時期だったようです。
このジャン2世はそれほど優秀な王ではなくどちらかといえば愚かだったようで王位につくとイギリスに対して、宣戦布告をし戦争を再開しました。しかし、それはフランスを存亡の危機に陥れる結果となってしまいました。
この時イギリスにはエドワード2世の長子で「黒太子(ブラックプリンス)」と呼ばれる名将エドワード王子がいました(父親と同じ名前だ)。彼は1356年にポアティエの戦いで4倍もの兵力のフランス軍を破り、ジャン2世を捕虜にしてしまいました。
国王を捕虜にされてしまったフランスでは後の名君シャルル5世となる王太子を摂政として当座の危機をしのぎました。なにせ、王様いないと臣下は戦ってくれないからです。
そして1460年にプレティニでイギリスとの休戦条約に署名して因われの身となっていたジャン2世を解放してもらったのですが、代わりにいくつかの領土をイギリス渡さねばならなくなりました。
この休戦条約に署名したのは決して本意ではなかったのですがフランスは条約を結ばなければ行けない状況にあったのです。

・百年戦争とジャンヌの年表(1337〜1453年)
1328年:フランス国王シャルル4世、死去(カぺー王朝滅亡)
1337年:シャルル4世の従兄弟であるフィリップ6世が、イギリス領土のギエンヌ地方の領地を没収する事を宣言
1338年:エドワード3世軍、フランスに上陸
1339年:北部のピカルディ地方で、イギリスVsフランス
1346年:ヒィリップ6世、そのあとのジャン2世がクレイシーの戦いで大敗
1356年:ポワティエの戦いでも大敗
1380年:シャルル5世、死去
1392年:シャルル6世、ご乱心(王族や領主たちの権力争いがはじまる)
1412年:ジャンヌ・ダルクが生まれる
1415年:イギリス国王ヘンリー5世フランス北部のアザンクールの戦いでフランスの騎士軍を破り、オルレアン公シャルルを捕虜にする
1419年:シャルル5世の王太子派がブルゴーニュ公ジャンを暗殺(この時、フランスを救う方法は国王派とブルゴーニュ派が手を結ぶしかないと言われていた)
1420年:王妃イザボーが、フランス国王の地位を、イギリス国王に継がせる事に    した
1422年:フランス国王シャルル6世とイギリス国王ヘンリー5世、死去
1425年:ジャンヌ・ダルク13歳の夏、神の声を聞く
1429年:「にしんの戦い」でオルレアン軍がイギリス軍に破れる
1430年:ブルゴーニュ派軍がコンピエーニュを包囲
----------:ジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ派軍に捕らえられる
1431年:ジャンヌ・ダルク、ルーアンの広場にて……
1437年:シャルル7世、ブルゴーニュ公とアラスで和平の協定を結ぶ
1450年:シャルル7世、ジャンヌ裁判の見直しを命令
1453年:百年戦争おわる
1455年:ジャンヌの母、ローマ教皇庁にやりなおし裁判を請願する
1456年:ローマ教皇が、ジャンヌ処刑裁判の無効を宣言する(7月7日)
1920年:ローマ教皇によって、ジャンヌが聖女(聖人)にくわえられる(5月16日)


4 》 国内の情勢(フランス)
 (1)黒死病
この戦争はフランス国民の生活をひどく苦しいものにしました。
イギリス兵はフランスの領土を征服すると同時に掠奪を目的としていたので都市であろうと農村であろうと場所を選ばずに掠奪をしていました。
  「年代記」の作者フロワッサールは「農村は英軍とその同盟者によって完全に荒されたので、フランスの大軍は生活品を欠き、糧食の窮乏を訴えずにはいられなかった。彼らの周囲にみられるものといえば、ただ焦土と化した村落の廃虚から立ち上る煙の雲のみであった。英兵は、富裕で農穣な物資に恵まれた国を眺め、大量の小麦、贅沢な家、多数の牝羊、この世で最も美しい牝牛をみた。彼らは思う存分掠とり、そしてそれを戦利品として本国へ送った。」と伝えています。
  イギリス軍はとにかく手あたり次第に掠奪し、本国へ送ったらしくロンドンでは「遠征軍が帰った後は新しい太陽がこの国に昇ったようであった。多くの国民がフランスから得た戦利品で豊かになり、衣類、毛皮、夜具その他のフランスの品を持たない家はみられぬ程であった。家々にはフランスの家具、宝石、銀コップ、毛皮などがおかれていた。夫人は得にフランス風になることを好み、フランスの夫人が喪失を悲しんだ分、イギリスの夫人は取得を喜んだ」といわれていた所からうかがうことができます。
 また、1346年のイギリス軍はノルマンディの絹織物工業を壊滅させ、セーヌ川下流の交易を遮断したためますますフランスの生活はどんどん荒廃して行きました。
さらに、フランスは戦争以外にも天災と人災にが同時に重なり国民はかつて無い苦しみを味わうことになりました。
  その一つは1348年から1350年に大流行した黒死病(ぺスト)です。しかし、いままでのぺストはどちらかといえば局部的に発生していたのに対し、この時のぺストは広範囲にわたって流行したのです。当時は病気の原因は呪いであるとか悪魔の仕業と考えられる時代でしたから、ぺストはアジアとかエジプトなどの異教徒の世界からやって来たと考えられていました。実際にはクリミア半島から黒海、コンスタンティノープル、エーゲ海、イオニア海を渡ってシチリア島へとやって来たといわれています。これは当時の地中海貿易の1コースで、ぺストは貿易船のネズミやそれについている蚤、病人の咳や衣服等によって運ばれて来たようです。
さらに、シチリア島にやって来たぺストはイタリア半島を北上してヨーロッパ全域に広まっていきました。
ぺストには腺ぺスト、肺ぺスト、皮膚ぺストの3種類があり、この時流行したぺストは主に腺ぺストでこれに肺ぺストが加わりました。腺ぺストの特徴は首やわきの下、脚の付け根といったところが腫れ、高い熱が出てきて全身を悪寒に襲われやがて意識が混濁し、体のあちこちがしゅようでくずれて死んで行くというまさに悪魔の仕業の様な病気でした。
この腺ぺストよりも恐ろしいのが肺ぺストです。
肺ぺストにかかると咳や血痰を吐き、腺ぺストと同じく高熱におかされ呼吸困難におちいり精神に支障をきたし、最後には体がチアノーゼと呼ばれる全身がの皮膚が黒くなって死んで行きました。
当時の医学では満足な医療施設が無かったため患者は見捨てられ、逆に健康な人がぺストがうつるのを恐れて付近の僧院に逃げこみました。そのため、全人口の20%?25%が死亡し、とくに農村における耕作者の激減、労働力の不足が目立ちました。
ぺストと並んで国民を苦しめたのが国王によって行なわれた頻繁な貨幣制度の改正でした。(実際には改正ではなく改悪でした)

  (2)経済恐慌
 中世の通貨といえばおもに金や銀貨でしたが、国王は窮乏のあまり金、銀貨に混ぜる銅などの分量を増やし貨幣の価値を下落させてしまいました。このため、1336年には金貨1枚約20フランの価値だったものが1340年には半分の10フランになってしまいました。銀貨も同様に17フランが約6フランにとなりました。これにより物価が約2倍にと跳ね上がってしまいました。1度貨幣が改良されて価値が上がった年もありましたが、結局貨幣の価値が元に戻ることはありませんでした。
物価に関しては特に穀類の高騰が著しかったみたいです。
例えば小麦の価格は以下の様に変わっていきました。

      1セティエ(約156リットル)の価格    1ヘクトリットルの価格

1340年 4フラン29 2フラン75
6フラン94         4フラン44
10フラン72        6フラン87

1341年 11フラン03 7フラン07

1344年 26フラン95 17フラン27

1346年 (貨幣の改良された年) 7フラン19
1351年 58フラン 37フラン18

もちろん、上がったのは穀類だけではなく工業製品も同じように高騰したでしょうし、戦争で外国商人が来なくなったため香料、絹織物等の外国製品を扱う商人も売るための品物が手に入らなくなり大打撃を受けました。
黒死病による労働力の低下や、イギリス兵による交易路の封鎖に貨幣制度の改悪が加わり物価の高騰がおき、国民の生活はかつて無い程の苦しみだったと思われます。
しかし、そんな時でも逆に有利な立場を占める者もいました。荘園の日傭人や労働者たちです。

(3)王権とギルドの対立
日傭人たちは労働力が無いのをいいことに高い賃金を要求していました。労働者たちはギルドと呼ばれる組合を組織し、都市の商業を独占していました。このギルドはもともとは遠隔地との交易を行なう商人達が旅の途中の共同防衛と取引先を確保するために自発的に団体組織を形成したものでした。
それが都市や町に定住するようになると、その町の商業の独占と商取り引きの自由を目指すようになりました。
このギルドは普通、親方と徒弟と職人から成り立っていました。職人達は最初徒弟となっていろいろな雑用をさせられ、そのうち技術を学び職人となって修行を積み、試験をうけて合格すると親方となりギルドの構成員となって行きました。
しかし、当時は市場が狭く、需要も限定されていたのでギルドの構成員に制限を設けるようになりました。そして、需要と供給の調整をはかりはじめ、製品の価格決定を行なうようになって行きました。
ギルドは生産力が低下して、供給をコントロールしなくても需要に追い付かないのをいいことに賃金や製品や商品の価格をつり上げ、民衆を苦しみをよそに利益を貪るようになりました。
そこで、国王は1351年に「大勅令」を発布して市場を正常なものに戻そうとしました。
この「大勅令」は古来多くの学者の間で「フランス国王が公共利益の保護の立場を認めた」ものであるとか「労働の自由と解放を目指したもの」であるとか「経済恐慌に対する一時しのぎに過ぎないもの」などと論議がなされてきました。しかし、そのすべてを含めてもこの勅令が「物価や賃金に公定価格制を求める、極めて統制的な要素の強いもの」であることは認めていました。
 この勅令では食糧、衣類等の必需品等について仕入れの値段から販売価格まで細かく規定されていました。それは、賃金に関しても同じで、例えば「パリで傭われる婦人は食事付きで6ドニエ、食事なしで12ドニエ以上の日当を越えてはならない」などといった条文もありました。
ただ、この条例はほとんどが最高価格の決定しかなかったので所詮は一時しのの条例でしかないと思われがちでした。
国王はこの条例を発布してギルドの独占をなくそうとしたと思われます。それは、この条例の中にある親方の数の制限を廃止し、あらゆるギルドの労働者に自由に都市に住むことを許し、また、外国商人の渡来を歓迎し商人間の自由競争によって商品の円滑な流入を図っているところにみうけられます。
これにより国王はギルドがもっていた特権をなくし、自分の監督権を広げようとしていました。
しかし、ギルドはこの条例におとなしく従う気はなく、度重なる戦争(しかも負けてばかり)のための徴税や貨幣制度の改悪で憤りを感じているところだっただけに、この条例が発布されるとすぐに三部会で臨時税の徴収を拒否し、1356年まで戦争に対して協力することはありませんでした。フランスはフランドルの市民だけでなく自国の市民をも敵に回してしまったのです。
そして、ボワティエの戦いが終り、良貨の樹立を条件として三部会が開かれましたが、ここでも市民は御用金(税金)の公正な使用を要求し、また、官吏の腐敗、堕落、無見識を攻撃し、罷免等を要求しました。
これに対し摂政である王太子は努めて寛大な態度で三部会の要求に答え一部の役人を罷免し、三部会の選定になる王の顧問官を側近にすることを認めました。国庫の慢性的な欠乏状態を解消するには市民を助力を必要としていましたし、国王を捕虜にとられた王太子は一人の敵も国内に欲しくなかったからです。
  それでも、市民は王太子を攻めることをやめずしばしば急進的な人物を顧問官に選んで王太子の政治を牽制しました。

 (4)内乱 1
このころ三部会を指導していたのはパリの市長であるエティエンヌ・マルセルと司教ロベール・ル・コックでした。
マルセルはパリの毛織物商人で民主主義の様な社会にしようと考えていました。もう1人のロベール・ル・コックは元々は宮廷で用いられていた人であったが、王の敵ナヴァルのシャルルという人物に会い変節した人物でした。2人ともパリ市を中心に他の市町村との連合によりフランドルのような都市の自治体建設しようと考え、王政を廃止し都市の上層市民による共和体制を樹立しようと思っていました。
マルセルはまずパリを補強することからはじめました。小さな壁を城壁の外側にめぐらし、塔の上には大砲や弩砲をのせ、鎖を夜毎街にはりめぐらせ、十字路にバリケードを築いていきました。そして、1358年の元旦に彼は解放都市に書状を送り自分達の仲間になることを求めました。そして、パリ市民の証として赤と青の色のついたシャプロン(肩まで垂れた頭に巻く布。後にこれに白が加わって現在の3色旗となったといわれている)を採用し、《すべての敵と戦い、市長と共に生き共に死ぬ》同盟のシンボルにもしました。市民はこぞってこれを身につけました。
こうして、パリには反王権的な党派がギルドを中心につくられていきました。
しかし、王太子もこれを黙ってみているわけではありませんでした。彼は身の危険も顧みず、わずかの騎士をつれて中央広場で演説を行いました。広場には民衆があふれ、国の最高位の人の演説に感激していきました。
「さあ、これで大丈夫」かと思われた時に事件がおこり、王太子の勇気ある行動が無駄になってしまいました。王太子の秘書官が僧侶から馬を買っておきながら代金を支払わなかったためその僧侶に街頭で刺し殺されてしまったのです。僧侶はすぐにサン・メルリ教会に逃げ込みました。王太子はすぐに兵をつれて閉ざされていた教会の門を破って犯人を捕らえ、翌日裁判を行わずにこの僧侶を絞首刑にしてしまいました。そのため、騒ぎは大きくなり市民はこぞって王太子の秘書官の不法行為をなじり、王太子の処置に強い反感を示しました。
  これによって、王太子は市民と教会の支持を失い、マルセルは味方を増やしていきました。
マルセルは次第に大胆になっていきました。2月22日に彼はノートル・ダムの鐘の音と共に三千の市民に武装させ、自ら先頭に立って王太子に面会を求めました。
その目的は王太子の側近であるシャンパーニュ元帥とノルマンディ元帥の2人を除くことにありました。彼らは門衛の妨害を簡単に排除し、たちまち王宮の各部屋を占領しました。そして、恐怖に蒼ざめ何の言葉も発せられない王太子の目の前でマルセルは市民をそそのかし2人の元帥を殺害してしまいました。そして自ら顧問官を選びなおして新しい政権を樹立してしまいました。それはまぎれもない革命行為でした。王太子はそれ以来捕らわれの身となり3月末にパリを脱走するまでマルセルの操り人形となって政治を行うしかありませんでした。
そして、5月になると思いがけぬ事件が起こりました。
「ジャックリーの乱」と呼ばれる農民一揆が北フランスを襲ったのです。

(5)内乱2
一揆は1358年5月21日、ボーヴェの郊外から始まりました。
イギリスと戦争が起こるとき北フランスは両国の位置関係からいって、必ずといっていいほど戦場となりました。この戦争での最大の犠牲者は北フランスに住む農民たちだったのです。そんな彼らに王やその地方を支配していた貴族たちは何一つ慰めの言葉をかけませんでした。それどころか、中央権力が衰退するにつれ武装した盗賊たちの餌食となり、次はわが身かも知れない、と不安な日々を過ごしていました。本来、彼らを守るべきはずの貴族たちは自分達の身を守るだけで、もはや何の力にもなってくれませんでした。
そんな不安と貧困が土地の支配者である貴族たちに対する軽蔑と憤怒を呼びさまし、暴動へとつながっていきました。
農民たちは棒の先に刃物をつけ、隊列を組み貴族の屋敷へ向かって殺到しました。
貴族の家では女子供まで殺され、屋敷は掠奪され焼かれました。農民たちの叛乱はボーヴェからアミアン、ラン、ソワソン、ヴァロアの各地区におよびイール・ド・フランスのすべての地方に広がっていきました。
最初農民たちは衝動的に暴行を行っていましたが、やがてギョーム・カールをはじめとする幾人かの指導者よって統率され、その目的もただ暴動を起こすことから腐敗した貴族たちを打倒することへと変わっていきました。
マルセルは最初この事件にたいしてはあまり関心を持っていませんでしたが、カールがバラバラに暴れている農民たちを統率すると、彼らと手を結びパリの立場を強固なものにしようと考えました。そして、パリの市民だけで二つの遠征隊を編成しました。遠征隊の一つは香料商人と金銀細工商の指揮でパリの南部にある貴族を攻め北方で起こった暴動を拡大させようとし、もう一つは農民たちと合流するために北へと出発しました。ただ、この遠征隊には問題がありました。なにせ、市民だけで編成された軍隊なため集中力や持続力がなく、威勢はいいがすぐに物事に厭きる人々だったので戦意は日々低下していく始末でした。
しかし、マルセルのこの目論みが崩れていく出来事がおきました。

(6)内乱の終焉
マルセルの味方であったナヴァルの王の親族が農民たちによって殺されてしまったため指導者であったギョーム・カールを捕らえ、殺害してしまったのです。指導者を失った農民たちは崩壊し、さらに立ち直った貴族たちの復讐にあい2万人の農民が殺され、農村は蹂躙されていきました。行き場のなくなった農民たちはパリへと逃げ込みました。
マルセルは最後の手として再び市民たちを駆り立て王の城塞であるモーというパリの近くの小さな都市を占領することを計画しました。しかし、市民軍が河を渡ろうと橋にさしかかったときパリを抜け出した王太子軍の襲撃に会い、多くの市民が殺されていきました。これで、王太子はパリへ戻ることができたのです。
形勢は逆転しました。マルセルの味方であったパリの市民たちは、パリ付近の農村が荒されたため食料事情が悪くなり、不満がたかまり次第にマルセルの言葉に耳をかそうとはしませんでした。仕方なくマルセルはナヴァル王を頼ったのですが、そんなマルセルを市民は「王国の敵と手を結んだ」と非難しました。とくに農村の人々は激しい憎悪をマルセルに投げ掛けていました。彼らはパリ市が三部会を操り臨時税を徴収したことに限りない怒りを覚えていました。
マルセルはパリを支配してはいましたがそれは裕福な商人とギルドと僧侶だけをたよりにしていたので、その基礎は脆弱なものだったのです。それ以外の市民たちは皆マルセルに背を向けたのです。
その間に王太子は貴族の支持を得て3万の大軍を編成し、パリへと攻め入る準備をしていました。首都は混乱をきたし、マルセルに対する反感は日一日と高まっていきました。
そして、1358年7月31日マルセルはジャン・マイヤールという反対派の手により暗殺されてしまいた。そしてマイヤールは王太子に使者を送りパリへの帰還を願いました。王太子の入城に際しては一市民が彼に対し威嚇の言葉を発する程市内は不穏であったが、王太子は努めて寛容な態度で接し市民をなだめることに力を尽くしました。
そんな中で王太子は1360年にブレティニでイギリスとの条約を結び捕らわれの国王を解放しました。が、条約によりフランスの西南部をを失うことになりました。しかし、その地方に住む人々はイギリス人を支配者として認めるには余りにも愛国的となっていたので禍根が残されることになりました。
それでも、フランスにはやっと平和な日々が戻ってきたのでした。



5 》 百年戦争の再開
(1)権力闘争
  1364年に摂政だった王太子は王位につきシャルル5世となりました。シャルル5世は後に賢明王と呼ばれるほどの名君でした。
彼は学問の振興のために図書館を建設し古典の蒐集を行いました。また、優秀な人材を積極的に登用し、盗賊の首領であったベルトラン・デュゲクランを元帥にしてフランスの領土を挽回しようとしました。ベルトラン元帥は見掛けによらず戦略家としての頭脳を持っていました。そして、イギリス軍に占領された都市を次々に奪還していきました。
しかし、フランス全土の解放を目の前にした1380年7月に元帥は陣中で病に倒れ帰らぬ人となってしまいました。そのあとを追うように9月にシャルル5世も亡くなりました。これが、フランスの不幸の始まりでした。
シャルル5世のあとを継いだシャルル6世は王妃の浮気・不倫に心を痛めついに1392年に発狂してしまいました。宮廷はたちまち権力闘争の場となり、いつしか王の従弟のブルゴーニュ侯ジャンを中心とした勢力と王弟のオルレアン侯ルイを中心とした勢力の争いとなりました。
1407年11月、オルレアン侯ルイは子供を生んだばかりの義姉を見舞った帰り道にブルゴーニュ侯ジャンの放った刺客に暗殺されてしまいました。こうして、両家の確執は深まっていくばかりでした。それでも、ブルゴーニュ侯ジャンと跡を継いだオルレアン侯シャルルは国王臨席のもとシャルトル大聖堂で形だけではありましたが和解の抱擁を行いました。しかし、この和解のかげではやがて対立抗争することになる二つの党派が結成されつつありました。2つの党派はそれぞれの名前がつけられブルゴーニュ派、アルマニャック派(シャルルはアルマニャック伯の娘と結婚していた)と呼ばれました。
やがて、ブルゴーニュ侯ジャンはオルレアン侯ルイの公金使い込みを非難する世論を巧みに利用して暗殺を正当化しようとしました。ブルゴーニュ侯に好意的なパリ大学は暗殺の正当性を理論づけようとし、パリの有力層、特に精肉業者は彼の手足となって働く人間を提供しました。
1411年パリの市民の支持を得たブルゴーニュ侯ジャンは腹心の一人をパリ市長にすると屠殺場で働く血の気の多い人々にアルマニャック派に荷担する人々の家を掠奪させました。こうして、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の争いが始まりました。
やがて、シモン・ル・クートリエという男を首領に抱いた屠殺場の人々の勢いは暴動を扇動したブルゴーニュ侯ジャンが考えていたよりも過激な行動を起こし、パリは流血の街となりました。その勢いは止まることを知らず、やがてブルゴーニュ派に荷担していた人々はこれ以上の流血沙汰を嫌いアルマニャック派に助けを求めめました。市民の心が自分から離れていくのを感じたブルゴーニュ侯はあわててパリから逃げ出しました。
パリの市民を味方につけたアルマニャック派はオルレアン侯シャルルを先頭にパリへ入り、暴動を起こした屠殺場の人々を処刑し争いを静めました。
この、両派の争いが、イギリスが戦争を再開させるきっかけとなりました。

(2)フランス滅亡の危機
そのころのイギリス国王であったヘンリー5世の父ヘンリー4世は当時の国王リチャード2世に反旗を翻し国王になった人でした。そのため、ヘンリー5世の国王としての権力はあまり強いものではありませんでした。
ヘンリー5世は自分の国王としての権力を強固にするためには大陸へと進出しるしかないと考えるようになりました。
フランスでブルゴーニュ派とアルマニャック派が争っていることを知ったヘンリー5世はパリを追われたブルゴーニュ候に会談を持ちかけました。
しかし、その会談の内容はイギリス側の勝手なフランス領土の割譲案でした。いくら権力争いをしているとはいえ、フランス人であるブルゴーニュ候はその提案に同意することをためらいました。会談は2度開かれましたが、2度目の会談の席で煮えきらないブルゴーニュ候の態度を見たヘンリー5世はフランスへ向けて戦争をはじめる決意をしました。
こうして、百年戦争は再開されました。
1415年8月にイギリス軍はフランスに上陸し、10月アザンクールで戦いが起こりました。やっとの思いでブルゴーニュ派を排除したフランス軍はこの戦いでかつてないほどの敗北を喫してしまいました。
この戦いでは従来の戦争のしきたりが無視され、捕虜となったフランス貴族は処刑されてしまいました。当時の戦争では捕虜となった貴族は多額の身代金と引き替えにされていたのです。
国王は貴族に領地を与え、その統治をいっさいまかせる代わりに外敵を防ぐための「壁」としていました。その「壁」となる貴族が大量に処刑されたためフランスはイギリス軍の進出を防ぐ事が難しくなりました。
邪魔がなくなったイギリス軍は次々と都市を占領し、1419年にはフランス第二の都市ルーアンを占領しました。
一方、パリではブルゴーニュ派のパリ奪回の奇襲が成功し1418年にパリに入城し、掠奪とアルマニャック派への虐殺を行っていました。
アルマニャック伯は捕虜となり、発狂した国王に変って政治を行っていた王太子シャルル(後のシャルル7世)も身柄を奪取されるところでした。何とかパリを脱出した王太子シャルルはブルージュに逃れ、そこに臨時政府を樹立しました。
王太子の身柄を押さえることに失敗したブルゴーニュ派はイギリスと同盟を結んでしまいます。ブルゴーニュ候はイギリス軍の援助により、政権を奪おうと考えたのでした。
ブルゴーニュ候はイギリスとの同盟を強化するための政略結婚を考えていました。まずは自分の息子フィリップとフランス王女ミッシェルを結婚させ、さらにイギリス貴族のベッドフォード候ジョンと自分の娘アンヌの結婚させようとしました。ベッドフォード候はヘンリー5世のもっとも信頼する人物でした。
しかし、その計画もフランス王家とブルゴーニュ家の間で起きた暗殺事件のため、水泡に帰してしまいます。
慌てたブルゴーニュ候は王太子と和解しようと会談を開きました。しかし、会談は議論からすぐに口論となり、さらに両派の衛士の間で刃傷沙汰になりしまいにはブルゴーニュ候ジャンは殺されてしまいました。
この事件のあとブルゴーニュ派は再びイギリスと同盟を結びます。 1420年に結ばれた「トロワの条約」で王太子シャルルは“その数々の恐るべき犯罪行為”により王位継承権を剥奪されフランス王国の王冠はヘンリー5世の嫡男とその相続人に永久に伝えられることが定められてしまいました。また、ヘンリー5世はフランス王女カトリーヌと結婚しました。これによりヘンリー5世はフランス王位の正式な継承者となりました。
しかし、ヘンリー5世は1422年に亡くなってしまいました。そして、フランス王位はカトリーヌが生んだ1才のヘンリー6世へと引き継がれ、政治は摂政となったベッドフォード候ジョンが行うことになりました。
ベッドフォード候は混乱のさなかにあるフランスの軍事・民事面を建て直し、パリの防衛を固めさらにフランスの奥へと進出していきました。
一方、王位継承権を剥奪された王太子シャルルは1424年に2度イギリス軍に撃破されましたが1427年にモンタルジの解放戦でやっと勝利をあげました。
 しかし、それはとても小さな勝利でした。
これにより、ベッドフォード候は一挙に大勢を決するべくオルレアンへ向け進撃刷ることを決意しました。オルレアンを占拠すれば王太子軍をブルージュに止めたまま、占領した北フランスと先の戦争でイギリス領土となっていたフランス南西部のギュイエンヌ地方と連携を取り王太子軍の息の根を止めることができるからです。
ところが、オルレアンの領主はイギリス軍の捕虜となっているにも関わらずオルレアンの守りは固くイギリス軍も攻めあぐね、やがて新しい年になりました。
当時の戦争のしきたりでは領主のいない都市を攻撃することは違法だっただけに市民たちは激しく抵抗したのです。
しかし、長い戦いの中で兵糧は乏しくなっていきました。そんな苦しみの中で市民や兵士たちはイギリス軍の不正により、また自分達が勇敢で忠誠であるためいつかは神による奇跡がおきる、そう信じて戦っていたのです。そして一人の少女の出現により奇跡は起きました。
その少女の名をジャンヌ・ダルクといいます。



6 》 ジャンヌ・ダルク(Jeanne = d'Arc)について
愛称 : ジャネット
生年月日 : 1412年1月6日
出身地 : ドンレミ村 (現代はドンレミ=ラ=ピュセル、訳:乙女のドンレミ村)
家族構成 :  父・ジャック=ダルク / 母・イザベル=ロメ / 長男・ジャック(ジャックマンともいう) / 次男・ビエール / 三男・ジャン / 長女・カトリーヌ / 次女・ジャンヌ=ダルク

5人兄弟の末っ子に生まれたジャンヌは13歳の時に不思議な”声”(御告げ)を 聞いて、5年後にオルレアン開放のために立ち上がったのであった。そして、見事オルレアンを開放したジャンヌは御告げの通り、ランス大聖堂にて 王太子であったシャルル7世の戴冠式を実現させたのである。
                         しかし、1430年5月23日、パリへ進軍中のジャンヌはコンピエーニュにて ブルゴーニュ派に捕らえられて、イギリス軍に売られたのであった。 そして魔女として異端審問にかけられて、翌年の1431年5月30日、火刑にされる。
ジャンヌはわずか19歳にして生涯を終えたのだが、 その存在は歴史を大きく動かしたのであった。そして、1920年5月16日に聖女となったジャンヌは、今も人々の心に 大きな影響を与えている。


  サント=カトリーヌ=ド=フィエルボワで「五つの十字が刻まれている剣」を伝令使に伝えて探させた。(この時ジャンヌは2人の伝令使を意のままに用いることができたのだが、これは国王がジャンヌを貴族出身の他の司令官と同等に扱っている証拠であった。)




7 》  ジャンヌ・ダルク
(1)ジャンヌダルクの登場
「オルレアンの囲みを解きて王太子をランスに伴い、戴冠せしむるため王太子のもとに赴くなり、と唱うる“乙女(ラ・ピュセル)”なるものシアンの町を通過せりとの風聞あり…」
ジャンヌ・ダルクが初めて歴史に登場するのはこの聞き書きの中といわれています。
彼女はシュンパーニュ地方のドン・レミという村で羊飼いの娘として生まれました。彼女の生まれた村は王への忠誠が極めて厚いところでした。
ジャンヌは13才の頃、どこからともなく声を聞きました。その声は「フランスへ行け」といっていました。その後も彼女はその声を頻繁に聞くようになりました。
そして彼女が18才になったころ声は彼女に具体的な指示を与えました。「オルレアンの町の囲みを解け。それにはまずヴォークルールの町へ赴きロベールという名の隊長に会え」と声は告げたといわれています。この声の指示に戸惑った彼女は近くの村に住む叔父に相談し、その叔父に付き添われヴォークルールに出かけました。
ロベール隊長に会ったジャンヌは「自分は主が王太子に救いの手を差し伸べるからそれまで、守りを固めるようにと伝えるため、主の命によりやってきた」と告げ、自分を王太子のもとへ送ってくれ、といったような事を頼みました。しかし、ロベール隊長はこの彼女の申し出を当然の事ながら拒絶し、彼女の側にいた叔父に向かい、「この娘をひっぱたきさっさと家へ連れて帰れ」と命じました。しかし、ジャンヌは諦めませんでした。その後も彼女はなんとしても、自分は王太子のもとへ赴き主の命を伝えなければならない。王太子には主以外の助けは期待できないのだからと、ロベール隊長に掛け合いました。
そして、3度目についにロベール隊長はついに、彼女の申し出を受けました。彼女の熱意もありましたが、それ以上に以前から流れている“乙女”の噂が現実になったという市民の熱狂にも押されたからでした。
ロベールは彼女に剣を与え、騎士を1人と従騎士を1人それに従者を4人同行させ、彼女にこう言いました。
 「では、行くがよい。あとはなるようにしかならないだろうから」1429年3月に彼女はシノンの城へとついた。そして、王太子への面会を求めました。
“乙女”の噂を耳にしていた王太子はジャンヌが本当に主の使いなのかを確かめるためある「いたずら」を行いました。ジャンヌを城へ招きいれた日に彼は王座に廷臣を座らせると自分はその他の廷臣たちの間に紛れんだのです。しかし、彼女は城へ向かい入れられると廷臣たちの中に紛れている王太子をすぐに見つけひざまづき、「心やさしき王太子様」と挨拶をしました。
  王太子は「私は王太子ではない。王太子はあそこです」と王座に座っている廷臣を指さしましたが、ジャンヌは「いいえ、あなたこそが気高い王太子様です」と答えました。(この話は正当なフランス王は王太子シャルルであることを世間にしらしめるための後世の歴史家の創作だといわれています)
そして、その後自分が天の声にしたがってこの場所にやってきたこと、王太子はオルレアンの囲みを解き、ランスで戴冠されるだろうと予言しました。最初は不信がっていた王太子たちもそのあとにジャンヌが王太子しか知らない事実を告げると王太子はジャンヌを信頼しました。
王太子シャルルの信頼を得たジャンヌは軍を借りるとすぐにオルレアンへと進軍しました。途中イギリス軍と戦い、その戦いに勝つとその勢いでオルレアンを解放しました。オルレアンの市民は彼女たちを歓喜の声で迎かえ入れました。
勢いに乗ったフランス軍は今までの敗戦が嘘だったかのように勝ち続けついにランスを解放しました。そして、王太子をランスに迎かえ入れ戴冠式を行いました。
ジャンヌの予言は成就されたのです。
しかし、フランスを徐々に解放しはじめた王太子の軍のなかでは権力闘争が始まっていたのです。そして、彼女はそんな貴族たちの嫉妬の的となりました。

(2)パリへ
戴冠式を終えたあとのジャンヌの心はパリ奪回へと向かっていました。
しかし、シャルル七世の寵臣ラ・トレイモユはブルゴーニュ=イギリス連合との間に休戦条約を結ぶための交渉を行う事を提案し、シャルル七世もその案に賛成しました。
ラ・トレイモユを筆頭とした文官達はジャンヌや武官の貴族たちが戦いによって戦功を挙げていくのが面白くなかったのです。そして、シャルル七世も長い戦いに疲れたのか休戦条約を結ぶことに熱心でした。
そして、1429年8月の終りごろにコンペエーニュの町で4ヶ月の休戦条約が結ばれることになりました。
国王と文官達が休戦条約を結ぶために行動を起こしていた頃、ジャンヌ・ダルクは常に同じ戦場で戦ってきたジャン・デ・アランソン侯を呼んでこういいました。
「侯よ、あなたの部下と他の隊長たちの兵士に出立の用意をさせてください。これからパリヘ向かいたいのです。なんとしても、今までにないほど近くからパリを見ておきたいのです」
次の日ジャンヌ達はサン=ドニと呼ばれる町まで進軍し、宿営しました。それを知ったシャルル七世は渋々と近くのサンリスの町までやってきました。それから何度かパリ周辺で小競合いがありました。9月8日パリに対しジャンヌたちは本格的な攻撃をはじめました。戦いは激戦となり正午から日没まで行われる長い戦いとなりました。
日が沈んだ後の戦いの中でジャンヌは弩の矢を腿に受けてしまいました。それでも彼女は兵士たちへ「もう少しでパリは落ちるぞ」と叫びながら攻撃の手を緩めないように指示していました。しかし、夜になり長い城攻めで兵士たちは疲れ戦意が低下していた。それで、他の隊長たちはいやがるジャンヌを無理やり戦場から連れ出し攻撃を中止しました。
翌日になるとジャンヌは負傷にもめげずにアランソン侯と出陣の用意をしていたがそこへシャルル七世の使いがやってきて「パリ攻撃を中止し退却せよ」という命令を伝えました。こうして、パリ奪回の戦いは失敗に終わりました。
このころから、ジャンヌの戦いの運というものが下降し始めたのでした。

(3)野盗討伐
シャルル七世の人柄をブルゴーニュ派の年代記作者はこう表しています。「国王には3つの欠点がある。それは、“移り気”、“猜疑心”、そしてその上を行く“嫉妬”である。国王の周りの人々は頻繁に顔ぶれが変った。というのも、国王は配下の者をその功によって取り立ててもしばらくするとその者がいつか自分に害しないかと不安になってくるのだ。そして、少しでも怪しいそぶりを見せると国王はその者を更迭してしまうのだ。」
ジャン・デ・アランソン候は常にジャンヌと同じ戦場で戦ってきました。ジャンヌにとってアランソン候ほど頼りになる人物はいなかったでしょう。彼がジャンヌのサポートを行ってきたから、今のジャンヌがあるようなものでした。
シャルル七世はそんな二人を別々の部隊へと配属させました。シャルル七世にとって二人が戦場で活躍し名声を挙げることが面白くなかったのです。また、シャルル七世はジャンヌとアランソン候だけでなく、戦いによって名を挙げた臣下たちに対しても同じような行動をとりました。そのため、不満を爆発させた臣下たちによる謀反が頻発していました。なかにはイギリス軍と手を結ぶものたちもいました。それでも、シャルル七世はなんとか国王の座を守り続けることができました。
和平が結ばれた後のジャンヌは不満を抱える日々を過ごしました。彼女は戦いによって勝利し、イギリス軍をフランスから追い出すために故郷を後にしてきたのですから、和平など彼女にとってはとんでもないことでした。
そんな彼女の戦意をうまく利用して野盗の討伐をさせようと考えるものが国王の臣下の中にいました。この、戦乱の中で手薄になった城塞を乗っ取って我が物顔で商人たちから金品を取り立て周囲の住人たちを恐怖に与えていたものたちが多かったのです。
それはジャンヌの望むものではありませんでしたが、彼女はその仕事を引き受けました。彼女はラ・シャリテを本拠とする野盗討伐に出発しました。
ジャンヌはラ・シャリテを攻略する前に国王顧問官の進言にしたがってサン=ピエール=ル=ムーティエにある要塞を攻略することにしました。この要塞は今のジャンヌたちの本拠地とこれから向かおうとしているラ・シャリテの中間地点にありここを野盗に押さえられていてはやっかいだったからです。
サン=ピエール=ル=ムーティエ攻略は簡単には行かず、野盗たちの反撃に会い退却しようとしていたとき、ジャンヌはわずかな兵士とともに簡易の橋を作りサン=ピエール=ル=ムーティエに奇襲をかけ、たいした抵抗にも会わずに攻略することに成功しました。
サン=ピエール=ル=ムーティエを攻略したジャンヌたちはラ・シャリテ攻略へと向かいました。
ラ・シャリテの攻略は11月頃行われましたが、極寒のなか兵も少なく、国王からの物資の補給もされなかったため失敗に終わりました。

(4)火刑
8月に結ばれた休戦条約は、講和会議が4月に行われるという事で3月15日まで延期された。しかし、ブルゴーニュ候は講和会議にはいるための準備がある等の理由をつけて日取りを絶えず送らせ続けていました。しかし、ブルゴーニュ候は、すでにシャルル7世と講和を結ぶつもりはなく、すでにシャンパーニュ地方へ軍事行動を行っていた。
この頃フランス各地では、ブルゴーニュ候に対する抵抗運動が各地に広がっていました。パリでも民衆たちの大規模な抵抗運動が計画されていたが、連絡役をしていた者が捕まり計画が漏れ、多くの人たちが捕まりそのうち6名が公開処刑され、残りの者はセーヌ側に投げ込まれました。
コンピエーニュの町はブルゴーニュ候に対して抵抗姿勢の強い町の一つでした。ブルゴーニュ候は休戦条約を結ぶときにコンピエーニュへ自分達の味方になれ、と使者を送りましたが、これを拒否しました。
そこでブルゴーニュ候は、これらの町を武力で持って押さえるべく、4月4日にジャン・ド・ルクサンブール伯が先発隊を、4月22日にはブルゴーニュ候が全軍を率いて出発しました。この時点でもシャルル7世はブルゴーニュ候には講和条約を結ぶ意思があるものと思っていました。
5月6日にはコンピエーニュの北にある要塞が何の抵抗もせずにブルゴーニュ軍に降伏しました。そして、次にエーヌ川の渡河地点にあるショワジの要塞を攻囲し始めました。このころ、やっとシャルル7世はブルゴーニュ候に講和する気が無く、だまされていたことに気付き、ブルゴーニュ候と再び戦うことを決意しました。
しかし、綿密な計画を立てて行動を起こしたブルゴーニュ候に対し、シャルル7世には何の準備もありませんでした。有能な部下は、シャルル7世自身の手で遠くへ追いやられたり、失脚させられたりしていたため、シャルル7世が頼れるのはジャンヌ・ダルクしかいませんでした。
ジャンヌ・ダルクが出陣したという情報はあっと言う間に広まり、ブルゴーニュ兵やイギリス兵たちの間では大騒ぎになりました。
5月14日にジャンヌはコンピエーニュの町に到着しました。そして、コンピエーニュの守備隊長の弟が指揮をとるショワジの救援作戦に参加しました。しかし、ショワジの要塞はブルゴーニュ軍が運んできた強力な大砲の前になす術が無くコンピエーニュに撤退しました。
5月23日、ジャンヌはコンピエーニュ守備隊長と共同で町の北側のマルニにあるブルゴーニュ軍の陣地へ奇襲をかけることにしました。日中はその準備に追われ、午後4時頃出陣しました。
これが、ジャンヌの最後の出陣となりました。
マルニへの陣地への奇襲は成功するかに見えました。しかし、一度は散り散りになった、ブルゴーニュ兵は徐々に立ち直り、コンピエーニュの部隊の攻撃を耐え凌ぎました。このマルニの陣地の騒ぎに、前線を視察していたルクサンブール伯が気づきました。そして、クレロワと言うところに待機させていた部隊に伝令を出しました。クレロワの部隊はすぐにマルニの救援に駆けつけました。また、クレロワだけではなく他の場所に待機していた部隊も駆けつけました。
敵の救援部隊に気づいたコンピエーニュの部隊は、退却を始めました。常に前線で戦っていたジャンヌもやむなく後退し、味方の退却を援護するかたちになりました。
町の入り口にある跳ね橋の辺りでも激戦が繰り広げられていましたが、敵が橋を渡って町に入ってくるのを見たコンピエーニュの守備隊長はいそいで跳ね橋を上げ、城門をとしてしまいました。そして、ジャンヌとわずかの部下達は、敵の包囲の中に取り残されてしまいました。それでも、ジャンヌは戦い続けましたが、ついにブルゴーニュ軍に捕らわれることになってしまいました。
捕虜となったジャンヌは最初ボーリューの城に幽閉されていましたが、ここで脱走を試みようとし、失敗しました。そして、その後ボールヴォワールの城へと移されました。
ジャンヌが捕らわれてからボールヴォワールの城へと移される間、彼女の身柄を確保しようと熱心に活動していたのはパリ大学の神学者と教会でした。かれらはパリの異端審問官の名においてジャンヌの身柄引き渡しを要求しました。しかし、ブルゴーニュ候はジャンヌを使って多額の身代金を得ることを考えていたためその要求にはなかなか応じませんでした。
そこで、元パリ大学の総長だったピエール・コーション司教はヘンリー6世とベッドフォード候のいるカレーに出かけジャンヌを引き取るための身代金をきめる会談を行いました。教会は多額の身代金を出すことが出来ないためイギリスの力を借りようとしたのです。身代金は6000リーブルとし、条件次第では1万リーブルまで支払うことに決まりました。
その後、コーション司教はコンピエーニュへと出向き、ブルゴーニュ候と会談をおこないました。そして、ジャンヌはイギリスへと渡されることになりました。
シャルル7世はジャンヌがイギリスへと引き渡されるのを聞いたときブルゴーニュ候に、「ジャンヌをイギリスへと売り渡すのなら、こちらの捕虜に対しても同等の扱いをするぞ」と警告しましたが、それ以上のことはしませんでした。
ジャンヌを引き取るための身代金の用意をするようなことはしなかったのです。
シャルル7世の警告もむなしく、ジャンヌは9月末にはイギリスへと引き渡されました。
そして、ジャンヌ・ダルクはルーアンで教会の異端審問(宗教裁判)にかけられ、異端者(魔女)としてルーアンの広場で火刑に処され、19年の短い生涯を閉じました。



8 》 百年戦争の終幕
  ジャンヌ・ダルクが処刑されるとすぐにイギリス軍はノルマンディ地方にあるルーヴィエの城に駐屯しているシャルル7世の軍に攻撃を仕掛けました。
彼らは、ジャンヌには何か魔法のような力が備わっていると思っていたために彼女が生きている間は小さい勝利はあっても、フランスに対して決定的な勝利をあげることができないと思い込んでいたのです。そのため、ジャンヌ・ダルクが処刑されると彼らはすぐにシャルル7世の軍に対し攻撃を仕掛けたのです。
6月の終りにイギリスは本国からノルマンディーに援軍を送ると、ノルマンディー地方を治めていたル・バタール・ドルレアンはすぐに援軍を率いてルーヴィエに向かいましたが持ち堪えることができず、10月にルーヴィエはイギリスに降伏してしまいました。
7月には“騎士の華”と称えられていたシャルル7世の重臣アルノー・ギーレム・ド・バルバザンが戦死してしまいました。またシャンパーニュ地方では敗戦が続きシャルル7世の軍はかつての勢いを失っていき、イギリスはフランスを支配する絶好の機会がやってきたことを実感していました。
しかし、イギリスがフランスを支配するためにはイギリスの威光をフランス人達に見せ付け、イギリスには到底かなわない、と思わせなくてはなりませんでした。シャルル7世を異端者(ジャンヌ・ダルク)によって王となった者として、その立場を弱めることができた今、イギリスがなすべき事はヘンリー6世を正式に教会からフランス国王であると認めさせ、戴冠することでした。
ヘンリー6世のフランス国王としての戴冠式は1431年ノートルダム寺院で行われました。戴冠式は厳かに行われ、その後祝宴が行われましたが、この祝宴に出された料理のほとんどの肉が前の週の木曜日に調理されたものだったため、祝宴は大変不評でした。また、翌日には騎馬試合が行なわれましたが、その余りのみすぼらしさに「イギリス人が彼らの国王の戴冠式に費やした額よりもパリの一市民が結婚式に費やす額の方が遥かに多い」といわれました。こうして、イギリスの威光をフランス人に見せ付ける試みは失敗に終わりました。
翌年1432年には、イギリスがフランス支配への機会を逃したことを印象づけるような出来事が続きました。
2月3日、リッカルヴィルと言う傭兵が100人の部下を率いてルーアンの城を奪取しました。しかし、彼らはルーアンの市民の子供を誤って殺してしまったためルーアンの市民を敵に回してしまいました。結局彼らは、イギリス軍の攻撃を防ぐことができず、イギリスに降伏し全員処刑されてしまいました。
2月10日、ル・バタール・ドルレアンによってシャルトルが取り戻されました。シャルトルの城を取り戻せたのは、オルレアンの魚屋の奇策によるもので、町の人に魚を届けにきたと言う口実で城門まで近づくと、荷馬車で跳ね橋を閉じられないようにしてしまい、その間にレジスタンスが他の城門で警備についているイギリス兵を倒してまわりました。そして、荷馬車をおいて閉じられないようにした城門からフランス兵が突入しましたが、抵抗らしい抵抗に会うこともなくシャルトルを押さえることが出来ました。この時から、運はフランスへと傾きはじめました。
1345年になると、さらに事態は急変しました。ブルゴーニュ候がベッドフォード候の摂政に対し好感が持てなくなり、長年敵対していたシャルル7世と接近しはじめたのです。そして、1月にアルマニャック派とブルゴーニュ派の使者による最初の交渉が始まり、3週間後にはアラスでの再開を約束してその交渉は終わりました。そして8月にはアラスで両派の和解へ向けての会議が開かれ、9月21日についにアルマニャック派とブルゴーニュ派はアラス条約を結び、フランスを二分して争っていた両派は和解したのでした。
また、アラス条約が結ばれる数日前にイギリス国王の片腕で、フランス摂政をしていたベッドフォード候がルーアンの城で亡くなっていました。
1436年になるとフランス軍はパリ奪回のための行動を起こしはじめました。フランス軍の攻勢はムーランの奪取に始まり、2月にはポントワーズを奪取する事ができました。これによりセーヌ川とマルヌ川の2つの河川をフランス軍に押さえられ、パリは食糧の搬入が出来なくなり、パリはたちまち食糧難に陥りました。
パリ奪回の指揮をとっていたリッシュモン元帥はパリ内部の協力者の支援を受けサン=ジャック門から突入しました。リッシュモン元帥は国王の名においてイギリスに協力した“非フランス人”への特赦を約束しました。これで、パリの全市民を味方にすることができました。イギリス軍は近くの要塞に逃げ込みましたが、食糧がないため長く籠城することができず、降伏してきました。
こうして、1436年4月17日にパリはフランスの手に戻ってきました。
その後両国の間に大きな戦いは無く、1444年にはヘンリー6世とフランス王妃の結婚があったため、これを祝して休戦が締結されました。
しかし、1449年にイギリス側で働いていたフランソワ・ド・シュリエンヌがノルマンディーのフージェール城を奪取したことにより休戦は破棄されることになってしまいました。シャルル7世はすぐに強力な大砲を配備して新たに編成した軍隊を動員し、1449年7月、ノルマンディ地方への攻撃が開始されました。
フランス軍は奇策を用いてルーアンの南15キロにあるポン=ド=ラルシュの城を取り返しました。そして、シャルル7世は8月以降みずから軍の先頭に立ち11月にはルーアンへ攻撃を開始しました。イギリス人総督サムシットは人質の引き渡しと幾つかの要塞の引き渡しを条件に町を無事に去ることを認められました。サムシットはイギリス軍の再結集を試みましたが、すでにイギリス軍はノルマンディでは幾つかの小島を形作っているだけでした。フランスは徐々にノルマンディの各地を取り返していきました。
イギリスは大陸での勢力を戻すため援軍を送りました。この援軍はヘンリー6世が相当な苦労をし、王冠の宝石を売ってまで集めた援軍でした。新しいイギリス軍到着の知らせを聞いたフランス軍はそれを迎え撃とうとしましたが、敗走した上に極めて不利な立場に追い込まれてしまいました。そこへ、リッシュモン元帥の援軍が到着し、フランスは形勢を逆転することができました。
そして、1450年4月15日フランス軍はフォルミにでイギリス軍に完勝とも呼べる勝利をあげることができました。
この日、長かったフランスとイギリスの戦いはこの日事実上の終りを向かえました。



11 》 付録

(1) 時計の無かった中世ヨーロッパの料理本には、およその時間を計る方法として、聖書の何処を読むかが書かれている。

(2) とても堅くて美味しくないが、中世ヨーロッパの人々が戦の勝利と不死を願って、戦の前には必ず「クジャク」を食した。現在は保護されているため、食べることはできない。

(3) 君主が若者を騎士として召し抱えるときに、忠誠の儀式として殴った。

(4) シャルル7世がイメージ戦略のために、自分の名前と顔の書かれているコインを国中に配布した。