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ひさびさに更新をする。
本を読まなくなっていたんじゃなくて、書く気力がなかったから。
あと、スキャナーの具合が悪くなったのとWindowsを使わなくなっていたからとか
理由がたくさんある。そんないくつかの理由に踏み潰されるように更新を止めていた
んだけど、理由じゃない、ルーチンワークでいい、更新をすることの大切さを 感じ始めていた。
感情をきちんと出すこと、いい加減な文章を書かないこと、いろいろと制約を自分に 課すことがあるけど、そんなことは誰でも考えること。
数多くの文章を書きながら、こんな駄文は書きたくないといいながら、数多くの修羅場を 抜けきるってことがきっと結果以上に大切なんだなぁ。
(2003年5月14日(水)3時25分12秒)


東大が倒産する日(森毅 旺文社 1999)

本文

考えない方がうまくいく(森毅 三笠書房 1998)

考えないほうがうまくいくとはなかなかむずかしいことをいう。 失敗したときの自分への納得の度合をはかっているんだとおもう。 じっくり考えた結果ならば納得が行くのだし、考えないで進めると人に説明ができないものが おおく、それでは社会での正当な行動の理由にならないからだ。 しかし、説明の付く理由にじつは僕はこれまでであったことがないのだ。 いちおう、説明の付くように行動を使用とは思っているんだけど、ぼくはつい、直感的に 行動をおこしやすい。しかし、それでよいというのだ、この本は、 結論からつむぎだした理由、こじつけというのもそれはそれでりっぱな理由である。 結果が出てから喋ればうそにはならない、と言われている。 そうはいうんだけど、むずかしい。というか、恐いのだ。考えればそれだけ気が紛れるという 効果も望んでいたりもする。

人生うろうろ(清水義範 講談社文庫 2002)

本文

ソースコードの反逆 −Linux開発の軌跡とオープンソース革命−(GLYN MOODY 小山裕司 ASCII 2002)

本文

iモード以前(松永真理 岩波書店 2002)

本文

免疫学個人授業(南伸坊 多田富雄 新潮文庫 平成13年)

本文

神の子どもたちはみな踊る(村上春樹 新潮社 平成14年)

本文

生物学個人授業(南伸坊 岡田節人 新潮文庫 平成12年)

やはり南さんがダメ生徒になって、生物学の授業をうけるシリーズ。実際にはあまりダメ生徒になっていないところがやはりうまいところなんだけど。岡田節人先生は、分子生物学の権威。とはいっても、あんまり偉そうにはしていないところがまたすごい。でも、どことなく中学校辺りのちょっとおちゃめな理科の教師というかんじもしなくもない。そういえば、こんなかんじの先生がぼくには中学校のときにいた。しかも、クラブの顧問でもあった。 ホメオボックスという言葉がじつはサブタイトルにでもしたくなるくらい重要なものになっている。なんでも、ハエが触覚にするという作用をたとえば足をはやさせたりすることができる遺伝子のことをいうらしい。それが発端ではあったんだけど、じつはもっとすごい機能をもった遺伝子で、それはひとつの分子生物学の大発見でもあったらしい。 そういえば、最近はやりになりつつある遺伝子治療でも、病気を発現させる遺伝子は、かならずしもその病気を発言させるだけの遺伝子ではなく、健全んに働くこともできる遺伝子が別の作用をしていることがおおいという。 ひとつの側面のみをみずに、全体から、その遺伝子と、それが関与するタンパク質とがどういう作用をしているのか、ネットワークとしてみるという動きがあるらしい。それはそれは複雑だ。一時期はやった複雑系ともオーバーラップするけれども、これって数学でとけるのだろうか?それはそれはたいそう茄問題なのだ。 この本の茄化ではそれほどむずかしいことはかかれていない、といいたいんだけど、これって単純な文庫本になるの?というくらい専門的な内容が凝縮されている。これは、対談ともちがうけど、南さんもこれを消化するのに文章の茄化で言われている以上に苦しんだのではないか?いくら初心者が専門家の授業をきくという無謀なことをしていることがおもしろいテーマとなるとはいえ、 それをうまく本にすることができるというのを100%生んだのみにするわけにもいかないだろう。 これはかなりむずかしい。 ぼくは、これは職人と職人のぶつかりあいの軌跡だった、とよんでいる。

仕事、三谷幸喜の(三谷幸喜 角川文庫 平成13年)

本文

河合隼雄 全対話6 子どもという宇宙(河合隼雄 森毅他 第三文明社 1996)

本文

王国 その1 アンドロメダ・ハイツ (よしもとばなな 新潮社 2002)

本文

いつか記憶からこぼれおちるとしても(江国香織 朝日新聞社 2002)

本文

ドラえもん 大好き!ドラえもん!編(藤子・F・不二雄 小学館 2003)

本文

<子ども>のための哲学(永井均 講談社現代新書 1996)

本文

パーマン [パーマン永遠なれ!!](藤子・F・不二雄 小学館 2002)

本文

日本経済企業からの革命 大組織から小組織へ(野口悠紀雄 2002)

本文

吉本隆明の僕なら言うぞ!(吉本隆明 青春出版 2002)

本文

ハゴロモ(よしもとばなな 新潮社 2003)

本文

ぼくの心をなおしてください(原田宗典 町沢静夫 幻冬社 2002)

原田さんが体調を崩していたときの主治医と患者の対談記といえばいいんだろうか?
原田宗典のファンとしてはきっと原田さんらしさが全然でいないというとおもう。きっとそうだろう。それはあとがきで町沢医師もそういっている。自分は対談でいろんな作家さんと対談したことがあるが原田さんとの対談であまり作家原田宗典をだせなかったと。
でも、あんまりそれは意味がないことだと思う。
ここでの原田さんは患者なのだ。作家・原田宗典をだせるかだせないか?というのは出版社の編集者が考えればいいことだ。ディレクターではなく医者なのだから。なぜそんなことを気にするのかがちょっとよくわからなかったことではあった。
内容は小説のはなしとか作家の話にはならなくて、現代における精神病の捉え方であるとか治療法だとか、うつ病になったばあいにどういう処置をすればいいのか?といったことがかかれている。たしかに作家との対談と言う感じではなかった。
精神科医という職業はちょっとよくわからないところがある。医者であることは薬を処方できるという立場にあると言うことがある。
だから単なるカウンセラーではない。しかし、相手の話を聞くことがまず第一になる。でもそれは内科医だろうが小児科医だろうがおなじことだ。でも根本的に違うのは話を聞くこと自体が心をなおす手術みたいなものになるというところに主眼がおかれていることではないか
? ちょっと対比でおもったのは前述の河合隼雄さんと吉本ばななさんの対談だ。これはかなり内容が濃かった
。 でも、治療法とかの話はあんまりでてこなくて悪く言えば雑談集だ。でも、雑談って言うのはテーマが決まっていないだけに
人柄がでる。だから面白かったんだろう。そして対談で歩けどもひとつの作品を目指していると言う性格上、ただどこへともなく消えていくものではまずい。けど、まずいとおもうのは対談している二人ではなくて言いのだ。つまりは、本は出版社があって編集者がいる。本を作っているのは数え切れないくらいたくさんのプロの仕業なのだ
。 だからこそ面白く仕上がる。でも、対談している二人の力量と言うのももちろん重要である。素人を呼んできて仕上げようとしても難しいだろう。それこそ一発勝負の世界だ。
対談というのはむずかしいとおもう。そしてそれが作品になるという奇天烈さも
。 この本は成功なんか失敗なのか?ということよりもぼくは原田さんが大変な状況だったんだろうと言うことがわかった、とそれだけだ。でも、それ以上にひとのプライバシーを除こうとは思わない。
だれかが心を直してほしいと言い、それをするプロのひとがいる。それが本によってわかるということが大切なのだから

ゲノムを支配する者は誰か(ケヴィン・ディヴィーズ 中村桂子監修 中村友子訳 日本経済新聞社 2001)

クレイグ・ベンターというひとがいる。この人はバイオビジネスのビル・ゲイツだというひともいてやり手のビジネスマンというかんじである。
でも、実際にはことは単純ではないということが読んでいて分かったことである。
このひとはベトナム戦争を経験している。
最近出たバイオIT関連の雑誌でのインタビューで、彼は軍曹には2つのタイプがあって、兵隊を戦線に出向かわせて自分は彼らが死傷するのを眺めているだけのタイプがいるがそんなタイプにはなりたくないと語っていた。もう一つのタイプは自分が戦線に立つタイプのことを言っている。それになりたいとは言ってはいなかったが、おそらくその2つのタイプを戦争で見てきて考えることが会ったんだろう。人が死んでいくさまを見ていた人間が何も考えないはずがない。
そして彼はそのベトナム戦争を機にして医療の道を選び、そこから分子生物学者への道を選んだのだ。
そのあとにセレラ・ジェノミクスを設立するんだけど、スローガンが「さっさとやろう!」というのはすこし笑える。そしてこのひとがすごいなぁっておもうのは、この会社はバイオベンチャー企業ではなく情報産業会社なのだと言い切っているところだ。
ブルーンバーグのような会社だといっている。このひとはおそらく分子生物学者でもなくなったんだろとおもう。いったんシステムエンジニアにもなっていまは経営者ってところだろう。まったくすごいひとだ。
たしかにすごいひとなんだけど、学会からはすごく嫌われているらしい。というのは誰もできなかったヒトゲノムの解読をどこよりも速く実現してしまったからであり、人の命にかかわることをビジネスにしていることgけしからん、ということらしい。
ここのことは一筋縄で説明できることではないらしく、この本でも全部が説明できたとは思えない。
ただベンターに反論している人たちも善意の人たちばかりなのかといえばそうではないだろうということだ。
競争原理というのはどこにもそんざいするものであり、そして競争をするときに自分の発表と似たものがあればその発表を抑えさせたりすることもあるとあとがきには書かれていた。おそらくそうした学会のやり口をベンターは知っているに違いない。だからこその「さっさとやろう!」なんだろう。彼は怒りをぶちまけるでもなく結果を持って戦っている。それでも敵は多い、と雑誌にはかかれていた。そしてゲノム解読のサンプルの中に自分の遺伝子を入れたとも書いてあった。
自分がどんな要素の病気をもっているのかを知りたかったとかかれてあったが、表向きそうとしか言わないけれども、きっと彼は例の自分の大嫌いな軍曹にはなっていない!ということを表現しているんだろうと思う。
自分を実験台にするという思想は医者では実際にはやるひとはすくないだろうが第一に考えるべきことなのだ。
彼はきっと医者をやっても優秀で凄腕になったとおもうけどそれを選ばなかった。
もちろんこの本は彼以外のこともかかれている。コリンズというひとがいる。
このひとはベンターと対極にいるひとなんだけどどこか地味である。地味と言う表現も適切ではないのかもしれない。
あとがきでも中村桂子さんがそんな役回りだといっている。人間が仕事をしている以上、人間性がでてもおかしくはない。
娘のことを思うやさしいお父さんというイメージがあるそうだけど、ベンターが冷酷かといえばたぶんそうでもないんだろう。
ひどいと言われている人ほどそうでもなく人の捕らえ方がそんなに冷静なものでもないことは知っている。
だからこそのビジネスなんだろうともおもう。
ただ競争と言う原理がひとを貶めてしまうことがあれば非常に寂しいとはおもわずにはいられない。

なるほどの対話(河合隼雄 吉本ばなな NHK出版 2002)

ある人が、河合隼雄は冷たい目をもっている、と言っていた。
河合隼雄は臨床心理学者である。結構ファンが多くて、やさしいおじさんというかんじだ。現時点でお役所で仕事をしていたんではないか?文化庁かどこかで。心理学は最近はもてはやされることがおおくて、心の病気を抱えた現代人にとっては救いなんだろうと思う。でも、ひとってやさしさだけじゃ生きていけないのも現実。
手放しにやさしくされてそれで治ればいいがそうはうまくいかない。たとえば怒られてもそれで立ち直ることだってあるのだ。
とにかく人の話を聞いて、それでそれに対して自分の考えを押し付けることなく相手のこころを紐解く。
こんな難しいことをこのひとたちはやっているのだ。他の本でも河合さんは書いていたがタイミングの問題らしい。
一方的に相手の話を聞くのもいいけれども言うところは言う。そのタイミングはそのときの一発勝負なのだそうだ。
でもあんまりそれって特別な感覚ではないだろう。日常でも相手の顔色をうかがってひとは話す。
相手が話を聞きたがってないとおもったら手短に切り上げたり結構人間は日常でもそうしている。
でも、ぼくは最近の人たちはどうもそれができていないように感じるのだ。ぎすぎすとした人間関係ということを
現代の社会にいうひともいるけどそれともちがう。ぎすぎすというよりも人間関係が互いに一方通行なのだ。
相手の状態を受け止めて自分を押すという感覚ではなく、押し売りのように自分を押していって相手を受け止めないで
すぐに別の事をする。忙しい現代だからそうなってしまっているんだろうけど、ちょっとまずいきがしている。
しかもみんながそうしているので傍目には異常が分からない。でも、自分が受け止めてもらえないと気づいたときに愕然とする
だろう。コミュニケーションは一方通行ではないから。ただ世の中は情報量が多すぎる。ひとって情報量が多すぎると
とたんに自分の方から情報をたちきる。脳が解釈をやめてしまうのだ。
人の気持ちを考えるということをひとまずやめて自分の気持ちだけを考える、というのは脳が勝手にやっているにちがいない。
情報を半分にするのだ。
無意識に相手を傷つけるというのは結構社会では日常茶飯事である。
特に現代ではその濃度が高まっているから人は傷つきやすいし、傷つけやすい。お互い様だと割り切って生きてみてもいつか
限界がくる。一発勝負のやりとりを真剣にやることが職業となっているのが心理学者なのかもしれない。
この本では対談は吉本ばななとおこなっている。吉本ばななさんというのも学生のころ、それはすごい!という経歴をもっている。
学校で一番前の席でずっと授業中も休み時間中も眠りつづけていたとか、淡々と話す割にはあまり普通の人はしないことをしている。
現実を拒否していたという解釈はたしかにありかもしれないけれどもそれだけではないようなきがする。
物語がきっと寝ている間も作られつづけていたんだろうから、それはたしかに長編小説でも書ききる体力はつくだろうなぁと想像してしまう。寝るのも体力がいるものなのだから。
河合さんと吉本さんの共通しているところはフルートだ。音楽をそれほど深くやっていない二人がなぜかフルートを吹くというところで共通している。しかも二人ともあまりうまくないという。
吉本さんははじめフルートを習いに教室に行くときに自分のことを明かさなかったという。怖かったんだそうだ
。 有名な小説家でたくさん設けているんだろうとか偏見で見られるのが無償に怖かったんだとか
。 世間の目ってどうでもいいというけれどもとても怖いものだと思う。
最近吉本さんがだれかの借金を背負ってしまったとか週刊誌で読んだけど、いろいろと苦労の絶えないひとみたい。
週刊誌にも大変そうだ、と言うことはかかれてなくて、肩代わりした借金の額が多かったのに払えた吉本さんは
すごい儲けている売れっ子作家だと書かれていた。本人の杞憂が杞憂に終わる世の中だといいのに。

リナックスの革命(ベッカヒマネン リーナストーヴァルズ マニュエルカステル 河出書房新社 2001)

楽しくなくちゃ、仕事じゃない。というテーマの元にかかれた現代の思想書といったところか。
仕事といってもお金を稼ぐための手段が苦労だけで埋め尽くされるのがおかしいといった具合のことをさしている。
Linuxの作者であるリーナスさんが最初の方で登場して本人が言うのには、現代は娯楽ですべてが成り立っているという。
戦争も最近ではゲーム感覚で行われている感ががあるといい、仕事も娯楽の要素がたぶんに出てきていると。
戦争を娯楽だというのはけしからん、という向きもあるに違いない。でも、娯楽というのはいい加減な気持ちでやるものだけを
さしてはいない、というか娯楽はとことん真剣にやるものだ。
むかしは生活を成り立たせるためにおこなわれた仕事も現代では娯楽の要素が増えているといっているのだ。
というのは、楽しむこと自体を悪だとみなすのほど怖い思想はない。苦しんでこそ本物ということをよく言われるが、
それだけではすべてを説明し尽くせない。これは日本でもそうだけれども、世界的にもそうなのだ。
ベッカヒマネンさんはフィンランドの哲学者。テレビ番組をもっていて本国では人気者らしい。
彼は、リナックスというOSの例を用いて世界が変わりつつあることを説明しようとしている。時代がどこに行こうとしてるのか?
を知りたいのは誰しもそうだろうけど、時代はあくまで人々の意識の中にある。だから自分たちが何を求めているのかがかぎなのだ。
それが、ベッカヒマネンは楽しいということが時代の鍵だろうといっている。
楽しくて仕事ができれば苦労しないよ、という人が大多数なんだろうけど昔に比べるとたしかに時代が楽しみを求めているというのはわかる。自分がやっている仕事もだれかお客にとっては楽しみ以外の何者でもないのでは?
提供する側はたしかに苦労の連続だろうけど、ひとたび自分も職場を出れば誰かの仕事おかげで楽しんでいる。
こんなことって今までの世の中ではなかったのでは?と考えると娯楽の本質が見えくる。

旅館の女将に就職します(倉澤紀久子 バジリコ株式会社 2002)

なぜこの本を買おうと思ったんだろう?読んでからしばらくたった今となって、ちょっと感じるところである。 将来に不安を覚えていたからだろう、ということにしておく。
女将塾という企画をたてて、女将といえば世襲制で一般人にはなれない職業だというところをうちやぶった。主催者はリクルート(やはり企画の鋭さはここの出身者がつくるんだなぁ)のひと。今は旅館が衰退していて、どこかの会社が買い取ったとしても人材はいないし、経営の仕方が悪くてあまりぱっとしなくなることが多いらしい。
たしかに旅館といえばとても敷居の高い感じがするし、和服を着た女将さんが玄関先で出迎えてくれるとても高級な場所というイメージがある。
結局、そうしたイメージが衰退を招いてしまったのだろうし、後継者が育たないのもそもそもシステム自体に問題があるというところに目をつけたのが企画をした人の立案だ。
実際にどんなひとが女将さんになったのかという紹介がこの本のメインだ。
最初に一期生のひとがでてきて、読んでみるとどこぞにでもいるOLさんというかんじがする。
でも、どこかで冒険をしよう!という気持ちが控えめに存在していたというかんじがする。でも、それっていまどきの女の人は
みんなもっているんじゃないか?というかんじだ。それって本当は男がもっているべきもののような自戒の念もでてくる。
現実に物足りない、たしかにいい職場だけれども自分はどこか別にいるべきなのか?といった将来の展望の持ち方だ。
だから女将というのは納得がいかないかもしれない。
ある女将さんになったひとの話では旅行ができる職業につきたいと旅行代理店にいたが、女将もその範疇にある!と
志願している。昔の女将とはまったく別の観点からの参加である。
でも、それがすごくいまどきなのだ。
たぶん想像するにもともとの女将という職業も花形であったにしろいまどきの感覚をもったひとたちがやっていたんじゃないか。
でも、「いまどき」は時間がたてばいまどきではなくなる。固定されてしまった考え方は時代がたてば古くなるのだ。
女将というのはマネージャーである、というのは確かにそうなのかもしれない。
実際に自分でも動いて布団をかたしたり、掃除をしたり、肉体労働でもある。だから旅行ができるという考え方で望んだ人も
それは現実には大変きつい作業だと身にしみることになるのだ。だからといってそれが理想と現実のギャップだとは彼女は
とらえない。ただ、「違った」んだとかんが得ているように思えてならない。
よく言われることだけれども、この本にでてくるひとたちも特別な人たちではない。
職業に対していろんなイメージをもってくるんだけれども、実践というのは大抵イメージを打ち破る。
こと彼女たちに共通しているのは女将をする前にも他の職業を経験しているひとたちが多いということだ。
それだけ現実を知っていて、ギャップがあることも承知の上。しかし、イメージを捨てないで臨んでいる。
前に深夜放送で見たけれども、今のアメリカは女性が社会にかなり進出しているらしい、でそれはよく言われるんだけど、
どうやら男を凌駕しはじめていて男が危機感を覚えているらしいのだ。
原因はいろいろ紹介されていたんだけど、ぼくが感じたのは、女の人が望みやすい環境になったからだというのがある。
男と女の違いは、女は結構まめにこつこつとやるタイプがおおい。がさつではない。
資格をとってレベルアップするとか、パソコンなんかの事務の仕事がおおくなるとか、肉体労働が減っている(第3次産業が肥大化しているから)とか、よくよく考えるとまめで繊細な女の人に有利な環境なのだ。で、男も女の進出をいやがるんだけど、社会情勢が女に住みやすくなっているからどうしようもない、というかんじ。
男はやはり肉体を使ってみたりプレッシャーの強さを求めたりするものらしい。それらがだんだん社会からなくなりつつあるのかもしれない。というか社会構造が変わってくるのは政治の問題というよりも社会の問題といえそうだ。
女将という職業は女の人がなるものだろうけど、それだけではなくまったく別の価値観を与える別の職業が女の人をよりいっそう進出させる気がする。そしてそれが日本の将来にも関係しているんだろう。

劇場の神様(原田宗典 新潮社 2002)

しばらくのあいだ、精神状態が悪くて執筆を休業していた作者(といってもおかしくなっていたわけじゃないけど)が再び執筆を始めた作品。
ぼくは原田宗典が好きでかなりの作品を読んでいるけど、この作品はそれらとはちょっと違う趣になっている。
それはたぶん文学を古典ちっくに加工しているんだろう(乱暴な言い方をすると)。
文学とは?なんてことは最近はあまり言われなくなった。
一般受けをするものでないと売れ行きがわるいという出版社の意向もあるんだろう。そうしたコマーシャリズムは、その実際の書き手である小説家にもしわ寄せが行く。みんながほしがっている商品を売らなければならない出版社と自分の納得のいくものを書きたい小説家との葛藤でもあるんだけど、その葛藤が原田さんは自分の内側でも繰り広げられてしまったんだろう。
今の時代ほど人々が求めるものが分かりにくい時代はない。でも、原田さんは売れっ子だからみんなが求めるものを
提供することに成功していたのだ。でも、それは違うと本人はいつもおもっていた。
で、それをなんとかしたかったということで書き上げたのがこの作品だろう。
戯曲ではないんだけど、このタイトルと同名の短編は、ある劇団で繰り広げられた奇跡的な時間を描いている。
神様はいるんだ!という赤裸々な内容でもない、でも、人々には共有されうる何かがあるってことを説明するには成功した
ようにみえた。これってものすごく身近なことでもおこりうることだ。
たとえば、学園祭の徹夜での作業の合間とか、仕事場でも、締め切りをむかえた修羅場と化した現場ではきっとおこっている
にちがいない。
いろいろな修羅場や奇跡を身近な生活の中で作者はみてきたにちがいない。
でも、それらの奇跡って、空を飛んでみたり、UFOがやってきたりといった形でくるわけではない。
どちらかというと解釈の問題に近いところでやってくるようだ。
そんな一言で説明のつかないことを小説、物語はきっと説明してくれるのだし、
それを呼んで理解するかどうかはやはり共有することによってうまれるんだろう。決して押し付けの価値観ではないところで。

スローグッドバイ(石田衣良 集英社 2002)

この人の代表作は、池袋ウェストゲートパークってことになるのかな。 最近では「ビックマネー」というテレビドラマにもなった「波の上の魔術師」がある。 この人は証券業界を書くことがおおいようだ。 結構シビアな人間模様を描くことが多い作者が珍しく純粋な恋愛ものを書くことにしたらしい。 スローグッドバイというタイトルと同名の短編はちょっとほろにがく、けどわかりやすい恋愛を描いていた。 他の短編もこのスローグッドバイと同じ、恋愛の形を描いている。 スローというのがなかなか味がある。 スローに終わりゆく恋愛があるとすればきっとスローに始まる恋愛もある、というところが描かれていると なかなか味も深まるんだろうと感じた。けど、このスローグッドバイはなんとなく実際のことをモチーフに されているみたいなきがする。

リトルバイリトル(島本理生 講談社 2003)

おさえている怒り、と説明をうけていることがあるこの本。 どういうことかといえば、主人公は淡々と毎日を生きていて、小さな幸せを受け取ろうとしている。 しかし、実際の境遇は淡々と幸せを感じるような人生ではない。両親の離婚と生活費の問題、 将来の不安、問題はたくさんあるのにそれらを軽く受け流し、毎日おこる人々との出会いを大切にしているのだ。 でも、軽くはないということだ。それが毎日の不条理に絶えて、怒りを抑えていると批評する向きがある。 ぼくはそうは思わない。たしかにあまりいい人生とはいえないかもしれないけど、それとは別に毎日の淡々とした中にも 幸せがあることを忘れてはいけないということ、そしてそれらをちゃんと受け取ることにこそ毎日を生きるコツがあると そう思えるのだ。 だからいやだとおもいました、とかだからすばらしいとおもう、といったことはすごく個人的なことだ。 問題になるのは、個人的なことを誰かと共有することだ。 共有するためには誰かと価値観があわなければならない。しかし価値観を押し付けるわけには行かない。 主人公の女の子に突然できたボーイフレンドと、そのボーイフレンドが持っていた人間関係のなかにはいっていく主人公。 2人は周りを取り巻く人間模様におしつぶされそうになるけれども決してめげない。 自分の価値観と周りの価値観とをいつもバランスを取りながら抜けていこうとする。

マリス博士の奇想天外な人生(キャリー・マリス 福岡伸一訳 早川書房)

PCR法という方法がある。普通に生活している人たちにとってそんなにお目に掛けない方法だと思う。
でも、科学の世界ではかなり有名な方法なのだ。
あるしらべたい塩基配列を増幅させて調べる方法で、シーケンサをしていればかならずやる方法のようだ(詳しいことは知らない)。問題は、そんな方法を1人の人間がかんがえたということ。で、その人物はかなり奇想天外なのだ。人生が奇想天外というよりも彼の人格が奇想天外というべきか。
小さいときから化学実験をやって危ないことをしでかしていたり、ある会社では取引先のうそを見抜いて自分の会社の社長に報告していたりする。そのことも淡々とかかれているけれども実際に知識がなければきっとわかりえなかったとおもう。
ちょっとしたことも普通にかかれているので素直に読みすぎるとなんてことないように感じるかもしれない。
というのは、この本は自伝なのだ。あとがきでもかかれているけれども、もともと自分のことを本にしたいという人が本にしてくれるはずだったところをそんなことをされたら、人前で裸で歩くようなものだ、と自分で書く決心をしたのだという。それで半年も締め切りを遅れていたりなかなかお茶目な人でもある。
女癖が悪く、LSDの常習者でもあったりするノーベル賞受賞者、なんかそれだけでも不思議なかんじがするけれども、意外に書いていることはまともだったりするのだ。
この人も自分の性格のせいで会社からは訴えられそうになるし、講演会には繰るなといわれてみたり、受難がたくさんあったようだ。もちろん自分でまいた種というところもあるんだけれども、
その中から得てきた彼なりの哲学のようなものはあまり馬鹿にはできないものだ。
一杯のビールを飲む幸せや自分のすきな女の人と一緒にいることの幸福感など、あたりまえであるかのように錯覚されがちだけれどもその幸福の大切さを身にしみてわかっているんだろうなぁとかんじる。
PCR法というと学校のことを思い出すけれどもそもそもこの方法はこんなひとがデートの最中のドライブで思いついた方法だった
なんて知っていたらあのときの捕らえ方もちょっとは変わったかもしれないなぁとおもう。

PICマイコンを使おう(CQ出版社)

PICというマイコンがある。秋葉原の電子部品をあつかっている小売店では 普通に並んでいる。そもそもマイコンというのは、いまでは結構家庭用品に使われている。 たとえば、炊飯ジャー。あの有名な「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ」という火加減を 炊飯ジャー内臓のマイコンがおこなっている。パソコンのCPUもマイコンの一種というとなんとなく イメージが湧く。このPICというマイコンは、マイクロチップテクノロジー社が開発していて、 自分が制御したいプログラムをPICマイコンに焼くと制御が可能になるのだ。 LEDを点滅したり、いろんなことができる。 この本を読むとムック本なのにかなりうまく構成されていることが分かる。 ムック本で説明が不十分になりがちなのを考慮して説明されているURLが紹介されていたり、 回路図が載っていたりする。一冊の本でOKということはもともとありえないので、この本を もとにいろいろ調べるとPICのことがわかりやすいとおもう。ほかにもPIC関連の本はあるんだけど、 どれも値段が高い。1000円以下で買えるこの本はかなりお買い得だと思う。 ぼくも電子回路なんて組んだことがないので悪戦苦闘である。で、PICライタってのを自作するところを やっているんだけど、トランジスタのむきとか、抵抗の値の読み方が分からなかったり、そもそも はんだ付けなんて中学校の技術科以来のことなのでまだできないでいる。 でも、この本で電子回路の概念とかアセンブラの構造とかハードとソフトの間の問題がわかってきたきがした。

実践 バイオインフォマティクス(Cynthia Gibas, Per Jambeck またぬき他訳)

この本ははじめ、なんか目的がなくプログラムを組むのは無理があると思って買った。
にしては結構値がはる本だけど(¥4200)。最初の方の章はUNIX自体の使い方、もっというとコマンドリファレンスである。この辺はぼくにしてみればそんなに根気を入れないでもわかるところだったけれども、そのあとの章は結構根気が要るところだった。そもそも分子生物学自体を理解しなければならない。その分子生物学を知るためのリンク集というところがいくつかあって、WEBになれているとじかにリンクをクリックして飛べないのがいらだつところでもあった。
あとは、ソフトウェアの紹介。BLASTやFASTAという聞いたことがあったものが実はある人たちの考案したアルゴリズムで、アラインメントに対してデータベースからそのアラインメントが意味のあるものかどうか?ということを検索するためのものであることがわかった。しかも、BLAST検索をするといえば、実験者からするとパソコンに向かってブラウザからあるサイトで実験結果を照合するというところできっととまるんだろうけど、プログラマからするとそのアルゴリズムが知りたくなる。
実際、そのBLASTというのはツールの名前で、ローカルにインストールして使うことができるのだそうだ。
ずっとBLASTのなぞが頭にひっかっていて、絶対にソフトの名前だと思っていたのにそのことを気にするひとは誰もいなかった。
検索して結果が出ればそんなことは眼中にないというのもうなずけるけれども。
で、CGIを使ってその検索なんかを世界の研究機関はおこなっているんだ、という説明をして、CGIといえば、PERLを抜きに説明できない、CGIだけでなく文字列を扱うのにPerlは便利なんだ、と、ツールとしてのPerlの説明がでてくる。
データベース検索のための導入でPerlは登場してきているけれども、Perlは強大すぎて説明はし尽くせない。
で、この本のほかにもバイオインフォマティクスのためのPerlなんて本もたしか同じ会社からでていたはず。
研究機関は、WEBを使わなければ成らない理由として、簡単なインターフェイスを用いるのに適切だからだとしている。
でも、JavaのAppletなんかもインターフェイスとしてはある(Jalviewとかっていうツールがあったりするらしい)。
Webが必要とされているのはどこの業界も同じなんだなぁって気がした。
DBの説明ではMySQLが登場していたが、Postgresの説明があったらなぁっておもった。
全体的にダイジェストでおこなったというかんじがして、理解するのは結構つらい。専門的でありながら浅い感じがするし、
技術が、きっと情報科学と分子生物学というどちらも一言では説明できないものなのできっと的が絞れないんだろうと思う。
線虫本として有名で、ちょっとした有名な本である。これ一冊でどうしようというものではないけれども、入門書としては
いいかもしれない。でも、どんなひとたちがこれで入門すればいいんだ?というところがかなり問題という気がしている。

教えてゲッチョ先生! 昆虫の?が!になる本(盛口 満 山と渓谷社 2002)

埼玉県の自由の森学園中高等部に勤めていた理科の先生の本。
というよりもちょっと変わったナチュラリストといったほうがいいのか。いいなぁ、こんな理科の先生が自分の中学時代にいたらなぁとおもわせる。今は沖縄に行ってしまったらしいが、一度会ってみたい。
基本的に子供が昆虫に対して疑問をもってその疑問に答えるというような書き方になっている。
それは自由の森学園で培った生徒からの質問が原点になっているからだろう。
でも、こどもが質問したというわりには結構マニアックな昆虫も登場する。
不思議と子供というのは普通の虫をつかまえてくるやつもいたり、なんでそんな虫を見つけることができたのか?というようなやつもいる。これは視点が違うんだろうということはぼくも小さいころに思っていた。なんでここにあれがいるだろうに通り過ぎてしまうんだろう?ということはおもった。ぼくは不思議な虫をみつけたりいそうにないものを探したりするのが好きだったからだ。
たとえば、まだカマキリの幼虫が小さいときには小さすぎて見つからないことが多いんだけれども、ぼくはあいつらはスギナの茂っているところにいるだろうという見当がついていた。スギナというのはツクシの本体のことでツクシはスギナの胞子をばらまくための胞子体なのだ。
なぜかスギナの茂っているところにカマキリの子供がいた。なぜ?といわれればきっとカマキリの子供がいても見つかりにくいからだろうとは思うんだけどなんでわかったの?といわれるとなかなか答えるのがむずかしい。きっと本能で見つけたんだろうと思う。そしてカマキリの子供がなかなか体力がなくて餌をあたえても食べないで大半が死んでしまうということをこの本でも指摘している。
そうなのだ。
ぼくも小さいときにそれでがっかりして(なにしろカマキリは虫の中でも好きなほうだったから)、どうしたらいいのかをずっと考えていた。
それで南下の本を読んだかして、アリマキを食べさせればいいことにたどり着いたのだ。アリマキというのはアブラムシのことでテントウムシなんかが好んで食べる。アリマキというのはなかなか餌としてはすぐれている。たぶん蜜が入っていて甘いんだと思うし、たんぱく質もたくさんふくまれているにちがいない。なにより、植物に群がるアリマキをプラケースに入れておいてもそこから逃げ出さない。
ずっと雑草の水分をすっていて動かない。けど、たまにおしりをふったりする。そうした行動が、なかなか動きまわる餌を食べないカマキリの幼虫にはちょうどいいのだ。たぶんまだ狩の仕方を知らないライオンの子供みたいなものなのだ。
だからアリマキはちょうどいい獲物に成ってくれる。アリマキ自体を飼育するのだって雑草があればいいのだから簡単。という具合でカマキリを飼育するのはアリマキを使うことで成功していた。ちなみにクサカゲロウもアリマキで飼える。これは幼虫も成虫も飼うことができるのだ。
不思議なのは成虫なんてかよわいカゲロウだと思えるのにやはり根は肉食で、アリマキを触覚で一瞬でも触ると反応してすばやくうごいて食べてしまうのだ。あの行動はびっくりした。そんなことを思い出させてくれた一冊の本だった。そういえば、ゲッチョ先生は大学の先輩でもあるんだよなぁ。

非正規社員を活かす人材マネジメント(中島 豊 日本経団連出版 2003)

社会が変わってきて、職場に正社員よりも非正規社員が多いということがあたりまえになりつつある、ということを感じて買った。
非正規社員というのは正規社員以外ということだからいろんな形態がある。といって、その形態は今変化しつつあるところだしとらえられない。そして僕自体もその非正規社員のなかにいる。
一般的に言うと契約社員とかパートのおばさん、バイトのお兄ちゃんなんかがはいるだろう。そうしたひとたちはおそらく最初は正規社員よりも簡単な仕事を与えておけばいいや、その分給料は安めに!というかんじだったとおもう。しかし、社会の構造が変わりだして、正規社員よりも重要で考えざるをえないことになったのだ。たとえばコンビニという産業はバイトのひとたちがいなくなっては明日にもつぶれるだろう。実際の現場にいる人たちというのはみな火正規社員であることがおおいのだ。
ぼくはIT業界でほかの大企業で協力社員として働いている。だけれどもその職場では正規社員ではないのだ。そのことはこの本にはかかれていないすごいプレッシャーがある。やはり正規社員ではないということがかなり大きいのだ。
自分の立場と問題点を明確にすべきだと考えて買ってみたはいいけれどもマネジメントするひとの立場で書かれていて、実際、非正規社員を抱えて問題がありすぎて困っている人が読むんだろうなぁとおもう。これはまだまだ解決はしない問題なんだろうなぁというきがした。

職員会議に出たクロ(藤岡改造 2003)

今年の春に映画化される原作本。
この本はある犬のルポルタージュである。
この犬はクロと呼ばれ、長野県にある松本深志高校というちょっと名の知れた進学校に寝泊りする犬である。この犬はもともと雑種の野良犬だった。あるときに偶然、学校のだしものに犬をだそうということになり、はりぼてを作っている時間がないから本物の犬をだそうということになった。
しかし、その犬がいない。ところがある野良犬が学校をはいかいしているということを誰かが耳にする。
とりあえずそいつで間に合わせよう、ということになったのがクロと松本深志高校の10年近くに渡る付き合いのはじまりだったのだ。
この本は出会ってから、クロがマスコミにとりあげられ一躍有名犬になるところなどを載せている。
きっと新聞にも取り上げられたのだろう。なかにはマスコミに取り上げられたりしていることをよくおもわない生徒の意見というのもとりあげられている。所詮、ただの野良犬ではないか?ということである。
それは確かに正しい。野良犬にもいろいろいる。人にすぐにほえたり噛み付くような犬は学校においてはおかれない。おとなしく、しかし不審者には激しくほえる、そういうところが信用されたのだろう。
そして、クロが死んでしまってからもクロとはなんだったのか?と著者は考える。
クロはいったいどんな存在だったんだろう?
クロという犬を学校においておけたという学校のおおらかさを強調する人もいる。世の中の殺伐としたなかで犬が自由に教室に出入りし、それをあたたかく迎え入れる体制が学校にあるということを本当の教育のあり方ととらえるひともいた。それらに対して、「ちょっといいすぎなんじゃ?」という意見もあった。
そうした考え方が生まれる土壌があること自体がたぶんみんなうらやましいんじゃないかっておもった。
自由ってのは汚い部分もあるし、怖い部分もある。だからこそ規制を加えて管理をするという社会の方向もある。危険な部分が増える世の中では管理をしていくことが無難だからだ。
しかし、人間自体が危険なものをもっているということがある。クロはある意味、人間よりも凶暴性をもっていたに違いない。しかし、それをだすことはなかった。それはきっと人間とうまくやっていこうという気持ちがあったからにちがいない。それは妥協と打算の産物というよりもむしろ社会性があったやつだったということだとおもう。きっと野良犬になる前にいろんなことを経験したはずだ。そのときむやみに怖いからといって人間にほえたりかんだりすることは得策ではないことを肌で感じ取ったはずなのだ。
だからこその生き方をした。そうして、偶然松本深志高校とであった。
生きるってことは偶然と仲良くしていくことにちがいない。クロはその点、恵まれたのかもしれない。
この本はクロの本というよりも松本深志高校がどんな高校だったか(今はどうなっているのか知らないけど)を感じさせる著作だ。

かんがえる人(原田宗典 光文社 1997 ISBN4-334-72379-9)

 またまた原田節のひかるエッセイ本がでました(といっても4年前だけど)。今回は身近に潜むちょっとした、でも気になると眠れないというような『謎』に挑んだ。幸運な酔っぱらいの謎、あのタマの謎、運転技術の謎、などタイトルだけでも興味を引かれそうな謎ばかりなんだけど、そのなかで、美術展の謎が地味な話題なんだけど興味を引かれた。
美術館ではどうして絵なんて見ても違いが分かるような鑑賞眼がないのに皆一様にインテリ面をして絵を鑑賞してしまうのだろうか?という謎である。
言われてみると自分もそうしている気がする。絵はもっと気軽に観てしかるべきなのになぜか絵の前に立つとまるでその絵画の歴史やその作者の生い立ちを観るかのような目で絵を鑑賞し、しかも順路づたいにみんなでゆっくりと眺める。そこはぼくは微妙に違っているんだけど、それにしてもインテリ面をして絵を眺めてしまうと言う癖はある。自分では意識していない感覚でだけど。
本当は絵の近くで持ってきたお弁当を広げながらみんなで楽しくすごすというようなのが本当なんだろうけれども。美術館というのがそうはさせない、凄みのようなものを持った空間である気がする。あれはあれでエンターティンメントの一種なんだろうなぁ。

東京小説(林真理子、椎名誠、他 紀伊国屋書店 2000  ISBN-314-00866-0)

  東京小説という短篇集を読んだ。この本は、フランスのオートルマン社という 出版社が<街の小説>というシリーズを刊行していて、はじめて東京と言う街 をシリーズにいれたものを紀伊国屋書店が刊行したというものだ。

さて、この『東京小説』に含まれている林真理子さんの短篇は、『一年ののち』 というもの。この短篇を読みたかった理由はこの短篇が現在映画化されている からなのだ。その映画は『東京マリーゴールド』という映画。田中麗奈が主演 している。ぼくはこの映画を気に入った。


エリコという女の子が商社マンの彼タムラヒロシに一年間だけつきあって、と いうお願いをして二人はつきあうことになる。この限定付の恋愛はどこへいく のか、もちろん二人の間でもわからない。この小説の視点はこのエリコという 女の子になっているので女の子からみた恋愛ということになっている。そして、 まぁ、この小説をふくめて街というものをモチーフにしているので青山という 街が大きなキーになっている。

 いや、青山というのは『洗練された』という象 徴として表現されているだけで東京と言う街がテーマとなっているといってい い。その点で、東京小説という短篇集に含まれているというニュアンスもわか るし、そう念頭においてかかれたものであるとわかるし、市川準監督が『東京 マリーゴールド』という映画にした理由も分かる。映画がこの短篇という形態 にして凝縮したものをあるいみでもっと原作に近いかたちで表現されたという ことがよくわかった。


 さて、このエリコという女の子は東京と言う街に多いに憧れを感じている。そ して、人並に恋愛をする。ちなみにエリコは26歳、タムラヒロシは28歳である。 この年代というのも実は結構重要だったりする。エリコは東京と言うものにコ ンプレックスを抱いて生活しているわけなんだけど、仕事の先輩に5年もいれ ば慣れてしまうといわれ、一番いい方法は東京生まれ、東京育ちの男と結婚し てしまうのが一番いいといわれる。結婚ということがまだ憧れの対象。

タムラヒロシとは合コンで知り合う。彼は無口な方で一緒にき た同僚からもすこし小馬鹿にされているようなちょっとぼんやりした青年とし て映った。エリコは直観的に彼とつきあいたいとおもったのだ。彼はそれでも 商社マンとしての資質を感じさせ、やはり都会の男としておしゃれな店も知っ ていて毎回会っていてもあきないやはり理想の青年であった。彼には現在彼女 がいる。1年間だけ留学している彼女である。だから、彼女の影を知ったとき、 エリコは1年間だけの条件で私とつきあって、というおねがいをしたのだ。結 局、そのお願いはエリコを苦しめることになる。エリコが一番苦しんだのはタ ムラヒロシがだんだん1年間が過ぎようとしているのに寂しそうな仕草やら切 なそうな表情もまったくみせずにのんびりと明るくしているということだった。 でも、負けたくはない、とおもっている。彼は自分に不利なことには無視をし てしまえるような鈍感さをもっている、そのことを知ってはいても自分は彼に ひかれずにはいられないのだ。


映画は原作よりも長い時間を眺めながら撮っている。だから映画の方が 原作よりも緻密に表現しているのだ。しかし、映画は映像という武器があるん だけどそれは諸刃の剣で、饒舌に喋りすぎてしまうところがある。だから、映 画は最後のシーンは結構無口におわってしまうところがある。東京マリーゴー ルドもそうした終り方をしていた。原作の一年ののちは小説なので文章では表 現が足りなくなってしまうところがあって結構喋らないとならないところがあ る。それで、最後のシーンはちょっと理屈っぽくなっていた。ぼくは原作のほ うが『エグイ』と感じた。タムラヒロシの影の部分の切り取り方は原作の方が 鮮明にきりだしていたんじゃないだろうか。

 エリコは最後にある決断をする。そんな決断の仕方をぼくはとても東京らしい、 とかんじた。エリコは東京にあこがれてはやく自分も洗練されたいとねがって いる。そしてそろそろ慣れるといわれている時期にきていて、そしてとうとう 彼女の憧れていた洗練さというものをとりこむことができるのだ。しかし、そ れは彼女が高校生のとき宇都宮にいたころにもっていた東京の洗練さとはまた ちがったものだった。それははなやかさよりもせつなさが漂うものであること に気づくのだ。慣れるとはどうしてこんなに切ないものなんだろうなぁ。


それがぼくには楽しかったから(リーナス・トーバルズ[Linux開発者]+デイビッド・ダイヤモンド・著 風見潤・訳 中島洋・監修 SHO-PRO BOOKS ISBN4-7968-8001-1)

 LinuxというOSがこれほどまでにシェアをのばすとは誰も思ってはいなかった、とは最近どの本を読んでも言われていることだ。

 それはひとつには優れたOSだからというのはある。ビジネスでも通用するくらいしっかりとしたOSだからだ。最近では日本でもその影響力がひしひしと伝わってきていて、無視できないようだ。ローソンだったかな?Linuxを導入するって言ってたのは。ビジネスで利用される原因の一つには導入にかかるコストがおさえられるからだ。

 LinuxはGPLというライセンス形態をもっていて利用する際にはお金を払わなくてもいい。フリーということだ。そして、それは無料という意味ではなく、自由ということだ。そこがこのOSのすごいところだとおもう。そして、そこには昔全共闘時代なんかがあったりしたヒッピーがもてはやされたラブアンドピースの流れを受け継いでいる。

 あの時代、僕は知らないけどそれでも素敵な時代だったんだろうなぁとおもう。そして、さいきんテクノでもあの時代の影響を受けていると思われるものがヒットを飛ばしている。今という時代の空気をちゃんと吸って生きているOSってことだ。そして、このOSはテクニカル的なものというよりは思想そのものだ、という意見もある。それはわかる。

 この本は、Linuxの生みの親、リーナス・トーバルズさんの伝記という形をとっている。厳密にはそうでもないんだけど大体においてそういう形をとっている。ときどき現在のLinusさんがしゃべる。それは聞き手のディビッド・ダイヤモンドにしゃべりかけてみたり一人で誰かにしゃべったり(もしかしたらそれはパソコンの画面にむかってるのかも)している。

 そこで語られることはパソコンのテクニカル的なことだけに終始しないで、文化、文明、進化、社会、娯楽、セックス、趣味、運動、さまざまなことにわたっている。多岐にわたっている。リーナスの法則と名付けている法則によるとあらゆるものは始め生存に関わることから始まり、それは社会活動に関わって、最後には娯楽になる、という。戦争でさえ、今はCNNによって娯楽になっていると(結構辛口なんだけどハッカーはみんな口の悪い兄さんってかんじなんだろう)言うのだ。ある意味それはあたっている。

 娯楽、そう考えると分かることがある。よく、近頃の若い者は、というフレーズを年を取った人たちが言うが、それは彼らにとってはなんてだらしないんだろう、と言う意味で言った言葉であり、そしてそれは正しい捉え方なのかもしれないんだけど今をリアルタイムで生きている(年輩の人がリアルタイムで生きていないっていみじゃなくて)若い人たちにとってはそんなにふざけて生きているわけじゃなくてちゃんと全うに生きているんだ。

 それは、昔が社会性に裏付けられている時代だったのに対して今はそれが進んで娯楽性が高まったからだ、とすると説明が付く。食べ物なんかがいい例だ。今はそんなに食べ物が食べられなくなるということはない。それは時代がそうなっていると説明すれば確かにその通りなのだ。世界には貧しい人がたくさんいる、と言う説明もあるが、実はその説明のされ方はテレビが普及してメディアが広まったからこその説明なのだ。

 もっと前には世界がどんな情勢なのかを意識する感覚すらなかった。自分と自分を取り巻く社会だけがすべてだった。今だって基本的にはそうなんだけど、もっと広い世界が世の中にあることを知っている(知っているだけじゃなくてさわりたかったからぼくはスウェーデンに行ったんだけど)。話を元に戻すと、今の若い者は食べ物を粗末にするとよく言われる。そして、食べ物を食べると言うことをきっと娯楽の一つととらえているんじゃないかな。

 ぼくもそうだ。コンビニで食べ物を買ってきて食べることに抵抗がなかったりすることは食べると言うことを生命の維持としてあまり考えていないことの現れだったりする。自炊することもそのうちいまよりも普及するに違いない。今は面倒だから、という気運があるけど、料理が娯楽であるという認識もそのうちくる気がする。そうして、リーナスの法則はちょっと近い将来くらいは説明ができる。OSを作った人の言葉なんだけどそれはもっと普遍的なものもみている。彼はパソコンオタクだった。

 僕の周りにもまだこれほどパソコンが普及する前からオタクで、プログラムをしていた人が何人かいた(僕の周りには比較的密度が高かった気がする)。プログラムするってことは昔はふつうだった。今みたく需要があるとアプリケーションがたくさんあるんだけど、昔は作るものだった。だから、自分がほしいものは自分で作るのが当たり前だったのだ(今、職場でもデバイスドライバなんて自分でかいたものだ、なんてお説教されたりしてるけど。ぼくにとっては驚き以外の何者でもない)。
 リーナスさんはその対象としてOSをつくったのだ。もともとはパソコンのハード面の理解をするためのお勉強(というより個人的な研究って言った方がいいんだろう)だったんだけど、ちょっと簡単なプログラムがうまくいってこれはOSとしてうまく昨日するんじゃないかと思えてからはMinixという教材用のUnixライクなOSのニュースグループに投稿すると、それに対する反響があったという。そうしてすっごくちいさなコミュニティができあがった。そのことをリーナスさんは社会に貢献しているという喜びを感じたと言っている。もっと難しくというか、一般論として説明していたけど、そうではなくパソコンの前に常に座っている正真正銘のパソコンオタクで社交性が0の人間がそうしてメールでやりとりをしたりすることは自分が社会の中で生きているんだという実感を感じる唯一の体験だったと言っている。
 
 分かる気がする。自分が必要とされているって言うとってもちっぽけだけどすてきな時間だろう。それは本当はわかる人間同士でやっているおままごとにすぎなくてそれで十分だったんだけど、その活動はいつのまにやら世界規模の史上最大の共同作業へと向かっていった。それは誰の意図するところではなく、自然発生したのだという。オープンソースということばがある。プログラムソースを公開し、それを使いやすいように自由に改変してもいいけど、よくできたらそれを公開し、みんなの共有財産にしよう!という動きだ。それが今世界レベルで反響を呼んでいる考え方だ。

 今までは組織をつくって制限を加えて統制をとっていかなくてはなにごともうまくはいかないということが常識だった。しかし、時代は変わるのだ。勝手にみんなが自分で好きなように作業をしてそれで仕事が成り立っていく。その裏にはいまのようなネットワークの技術の向上がなくてはならなかったわけだけど、現在ではインターネットというのは水道とかガスといったものとおんなじレベルで語られるようになっている。
 水道がいまさらなくなったら社会が成り立たないだろう(まぁ、なかったらないなりにほかの方法ができるのかもしれないが)。時代が変わると常識も変わる。今の時代が変わるというのは昔のやり方がうまく機能しなくなってみんなが悩んでいるという過渡期にあるってことだ。

そして、そのことを、この本の原題で

"Just For Fun"

と呼んでいる。ただ楽しみたいから、そのことが時代を動かしている。だからこそ今若い人たちが元気なんだろう。この本は中盤コンピューター用語がたくさんでてきて、分からない人にとってはつらいとおもう。けど、この本は日米同時発売されていて、ビジネス本のなかにあって、パソコンの知識がない人に対しても読んでほしいという本として売られているんだそうです。今という時代をみる上でヒントになることが多いと思います。

 若い人が元気だけど、楽しみたい!と言う思いは人間ならみんなもってるとおもう。これからの時代を楽しく生きたい!というひとたちに多く読んでもらえたらいいなぁ。そして、ここ1年間パソコンに関係した仕事をしたおかげで、そして、偶然にもLinuxが好きになっていじっていたおかげでこの本のテクニカルな部分も理解して読めたという機会が与えられたことに感謝してます。

プラナリア 山本文緒 文芸春秋 2000

今の世の中程、孤独を感じる時代はないが、その最たる原因は人が多すぎることだろう。
 ある女がいつも彼の前で私はプラナリアになりたいと言っている。いつもの悪戯だ。乳癌の手術をした彼女は女として大切な胸を失った。しかし、自分を愛してくれる彼がいる。親もいる。友達もいる。なのに、彼女はすでに治っている乳癌のことを彼の前でわざと触れ出すように話をふり、周りの空気を悪くする。彼が居心地の悪い思いをすることを承知の上での悪戯だ。

 彼はそのたびにいらだち、彼女もそれが悪いことだとわかっている。
満たされることってなんだろう?幸せって何だろう?ってことが、この『プラナリア』の短編のいたるところにちりばめられている。人は幸せになるために生きているという、当然めいた命題によってうそぶかれているように感じている。それが今という時代の空気であるかのようだ。
 
 春香は、寂しいからついそうしてしまうのか。答えがわからないからこそ彼女は自分の行動に拍車がかかってしまうのだろう。彼が舌打ちをし、自分の行動に対する彼の友人の抱いた感情を受け止めて一つの手応えを感じとる。つぎに彼女は友人にいやな気分を与えた『私』に対する彼の感情に触れたいと思う。まるで赤ん坊が母親の存在をたしかめるように体をさわっていくかのように、形を確かめるように。

 このタイトル同名の『プラナリア』という短編で、後半のところにデパートのお姉さんが登場する。彼女はしっかりものでまわりのものに気配りのできるいわゆる「できた」ひとである。たしかに正しいことをしているんだけど、それが人間関係のなかではあくが強すぎてしまうということがある。本人には自覚はあるが悪気はない。一番始末に負えないがそれをとがめる根拠は誰も持ち合わせない。

 同情というむしろ実は感情の片鱗ですらないオブジェクトはいたづらに人に向けてしまった場合、相手が泣き叫んで助けを求める様を冷酷に見つめるだけで、それが単に感謝の涙であるとしか解釈しえないそんなことになりうるし、そうした感情をもった人は世の中に満ち満ちている。
僕は、この作品の直木賞受賞の理由をこのデパートのお姉さんの描き方にああるとおもえた。よくありがちなテーマを、こんな世の中によくいる人を表現できるというのはかなり高度な技術だ。

 『ただしすぎるわるさ』を描いた山本文緒はすごいとおもう。

 囚人のジレンマという短編もぼくはお気に入り。
これは心理学の用語だそうだけど、
協力して犯罪を犯した二人を別々の部屋に入れてそれぞれに速く自白した方が無罪放免とすると告げると互いに相手の動向を気にし、自分の保身を思うあまり二人ともが自白をしてしまい、結果的に最悪な状況に陥るということをさした用語らしい。

それがこの短編のテーマになっている。結婚を控えた二人がまるで囚人のジレンマにおちいるかのような運命をたどっていく、それが幸せなのか不幸せなのか、それはきっと本人がきめることなんだろう。

iモード事件 松永真理 角川書店 平成12年7月

 i-modeの誕生秘話は、ソニーのPostPetの誕生秘話に似ている。
 ソニーは新しいものへ挑戦するという企業戦略があるがNTTは官公庁の仕事の流れを継承しているためにお役所仕事という基本がある。
そんなNTTから挑戦をする仕事が生まれる。しかも、それは外部の人間の手によるものだった。それがi-modeのようである。

 このほんの作者・松永真理さんはリクルートで編集畑の人である。文系人間という言い方が許されるなら、編集部長として活躍をしていて、しかも政府の税制委員もしていたというマルチな人でもある。そんな人がNTTの新事業に参加してくれと言われ、やるなら一緒に死ぬ気でやって欲しいと頼まれる。地位も名誉もある人なのに挑戦することよりも安定を望んでよい人なのに。
 
 技術畑のNTTでの心労は、技術用語がわからないことだったそうだ。終いには失語症にまでかかってしまう(今の僕とそっくりだが)しかし、情報産業の用語だけが彼女を苦しめているわけではなかった。この新事業を立ち上げるに当たってNTTは経営コンサルティング会社・マッキンリーを招いている。コンサルティング会社のやりかたとやはり業界用語に徹する姿勢。情報処理技術の畑とコンサルティングの畑と自分にはなかった別世界が2つやってきて苦しめる。
会議はまったくわからない。しかも、新事業はまったくはだいろも歩んできた道も違う人たちが集まって行っている。それをどうやってまとめていったらいいものか、そんな苦難の道を一つ一つ歩いてきた軌跡(奇蹟?)がこの本であるようだ。

 そう、結局今現在の松永真理さんが歩んでいる道というのもそれはたしかにi-modeという新事業を立ち上げる原動力がまだ効力を失っていないからこそ、の選択であるように僕には思える。
 テープを切った後の走者の行く道はやはり走者自身が考えなければならない。祭りの後こそしっかり歩いていかなければならないと、そう思わされた。


ホワイトアウト(真保裕一 新潮文庫 平成10年9月)

  この本は最後まで気が抜けなかった。
とても寒いところ(黒部ダムのちかくの極寒地)で繰り広げられるアクション活劇。
一人で敵と立ち向かうその勇気がすごいとはおもうが、決して正義漢というわけではない。むしろ弱い。
 もともと友人と雪山で遭難しているひとたちを助けに行ったときにアクシデントに遭い、負傷していた友人を置いてとにかく救援を呼ぼうとしたらホワイトアウトに巻き込まれてそのとき道をまちがえたおかげで友人を死なせてしまう。
 テロリストの集団を相手に何度もデッドヒートするが、そのときの戦い方がなんとも臨場感のあるやりかたなのだ。雪山を知るものだけの戦い方、発電所を知るものだけのシステムの扱い方、それらが時間との闘いの中で繰り広げられる。
 アクションにありがちのヒロインも主人公・富樫との間に友人を介した因縁があるが二人は常に別の場所に置かれ、それぞれの状況でリスクを背負っている。それがそれぞれ個人的な事情(そこに友人・吉岡がいるわけだが)がからんでいる。
時間の流れが痛いほどわかり、
危機的な状況下での人間の心理描写が
鋭くえぐられている。

 映画の方(織田裕二、松嶋菜々子主演の)も観たけど今回は本のほうがエキサイトした。映画のほうもなにやら賞をもらっていたけどあれは作品の筋書きの勝利だろう。
圧倒的な筆致というのはこういうのをいうんだ、とかなり興奮した。  映画のほうはところどころ端折って作られていると言うのが本を読んだせいもあって感じる。映画のほうが時間的な制約があるために致し方ないのだが観ているものをちゃんと納得させないで強引にひっぱりすぎている嫌いがあった。
映画では織田裕二はあまり喋ったりしない。淡々と仕事をこなしてテロリストを追い詰めていく。淡々とこなしながら常に危険と恐怖にさらされているというところはがっちり押さえているが。
しかし、本のほうはその特性から心の声がかなりずっと喋りつづける。
極限状態という状況をこころのこえが
常に
断末魔のように響きつづける、
というのがこの本の最大の効果であり特徴であり、
そして成功であったとわかる。

キャンパスは深夜営業(赤川次郎 角川文庫 平成12年7月)

 学園モノが無性に読みたくなった時期があった。
 学園ものというと高校が多いのかもしれないけどぼくは大学がよかった。キャンパスリップとかって口紅があるけどあんなイメージ。
 パステルカラーがよく似合う女の子が歩いていてでも、校舎はみすぼらしい。どことなくみんなアンニュィで、学校なんてつまらないとおもっている平均的な大学生達。そんなひとたちが日常から微妙にはずれて事件に巻き込まれてそこでロマンスあり、冒険あり、成長あり、そして最後はちゃんとハッピーエンドしてほしい(最近小説のなかですらハッピーエンドは稀有になってしまった)。
そんなことを満たしてくれる本がどこにあるだろうか?と案外難しい注文をだしてみて思い立ったのが赤川次郎だった。
赤川次郎ならそんな学園モノをたくさん書いているにちがいない!
 実際、学園モノをかかせたら右に出るものがいないらしかった。勘はあたっていたのだ。
大学生の久保山良良二は、キャンパス(そう、大学ではなくキャンパス)で知り合った魅了的なガールフレンド(そう、女友達では決してない!)若林知香に夢中である。
 ところが良二は、知香が夜中に限っていつも家を留守にしていることに気がつく。不審に思った良二はある夜に尾行してみることにするが知香の親が伝説の大泥棒であり、しかも知香がその後を継いで泥棒グループの親分を務めていることを知ってしまった。

 もう、あらすじだけで十分おつりがくる。
死者の学園祭が深田恭子主演で上演されたばかりだけどあれも赤川次郎だった。深田恭子が赤川次郎の作品に出てきそうなキャラクターでかなりはまっていた(フードファイトを見ていてもそうおもった)。
学園ものというジャンルを作り出した元祖のひと赤川次郎のこの作品はぼくはかなり満足したのだった。いろいろ言われてるけどやっぱり赤川次郎は天才だとおもう。

装丁(南伸坊 フレーべル館 2001/3)

 本を選ぶ際に表紙にこだわる。
その本がいいかわるいかを実際に立ち読みして最初の文章の感じで決めることも多いが、表紙を見てこれはおもしろいかどうかを判断することは一番多い。
それは人間関係とまったくおなじだ。
 中身を判断するよりも先に顔をみる。
 最初に入ってくる情報がまず判断の基準になってくるというのは仕方のないことなのだ。
 しかし、そうして決めたことはそんなに間違ってはいない。顔で判断した人が後にとんでもないひとであったり、顔で判断してくだらないとおもったひとも後でかなり面白いとあとで修正することなんて日常茶飯時だ。
 この本は装丁という仕事もしている南伸坊さんの書いた装丁に関するエッセイだ。南さんも著作権はくだらないとおっしゃっていてぼくもそうおもうのでちょっとだけ中身を拝借させてもらうと、冒頭の文書で
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「装丁家と名乗ると、ちょっと立派すぎる。おそらく「家」が立派なので、私は単に「装丁」ということにする。こうすれば馬丁、園丁みたいでちょっと職人ぽくていい。
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 出だしからこうなんだけど装丁に対する重いがここに凝縮されている。だからこれですべてではない。いろいろ失敗したり後悔したりする。その過程がじつに職人ぽくてすばらしい。でも、手放しですばらしいと言うのと違う。生きている、と感じずにはいられないのだ。
 中身にはこれまで手がけてきた装丁のエピソード等が収められている。
 この『装丁』というほんの装丁はどうなっているかというと、南伸坊さん自身がねじり鉢巻でどかた風な服を着ている。
 赤い長袖のTシャツをきて腕をまくってベストを着ている。服はどことなくうすよごれていて「年季」が入っている。
 いい笑顔をしている。
そう、装丁に対して職人を感じて仕事をしている南伸坊さん自身なのだ。

堀ちえみと3人の小さな山男(堀ちえみ 山と渓谷社 2000/9)

 堀ちえみといえば、「 どじでのろまな亀」という名言を残した、『スチュワーデス物語』を思い出す。
しかし、あのテレビドラマを観ていたときぼくはかなり小さかった。時代を感じさせるけどぼくにとってはあまり実感の湧かない時代だ。でも、あの作品が強烈で結局そのあと堀ちえみは芸能界を引退してしまったけれども忘れない女優さんになった。
関西では最近結構テレビにでているようだけど関東ではあまり目にする機会はない。どうしているのか全然しらなかったけど、離婚したり再婚したり子供できたりいろいろやっているらしい。生きるってことは大変なものだ。
 さて、この堀ちえみさんは山登りが好きらしい。冒頭で本人も意外と思われるかもしれないがと言っているが実際かなり登っているようだ。この本は本人の文章でつづられた登山エッセイ。3人の小さな山男とはこどもたちのことだ。
子供のことを考えて自然と接するところへ行こうと言うのが山登りを再び始めることになったきっかけであるらしい。そしてべつのきっかけにもなったらしい。
山登りの本と言うとどこの場所がきつかったとか、ススキ原がきれいだった、とか溶岩がおおかったとか風景に関することが多くなりがちだけれど、この本はあきらかに母親の視点で山を登っている。
 子供を見守りながら時には勇気をもって登っているこどもを見守ったりときには子供が今回は見送ると言って登らなくなったりする姿を見て大人を感じたりする。あくまでも母親なのだ。写真もかなり多いが顔つきが母親になっている。
 母親になりきれていない、ということが端々にでてくるがかなり母親としての姿勢が前面に現れている。本人の自覚のない状態で。
今回はなかったが、家族に父親の姿が現れている姿で登山をしている情景がみてみたい、と読者の立場でそう思った。

仕事を変わりたくありませんか(丘永漢 PHP研究所 2000)

 タイトルにひきよせられたのと、今このひとに興味があるのでまよわず買ってしまった。
これからは終身雇用はもはや通用しないと言うのはすでにあたりまえ。
しかし、それが現実となってもそれほど時間がたってないし、自分が定年近くまでどんな仕事ぶりをしているのかも全く想像がつかない。
それよりも自分が向いている職業すらわからないのだ。就職しているのにそんな状態はまずいとおもっていたが、この本では、若者はいや、日本は失業率が実は潜在的に100%だという。
 みんな就職はしていても満足はしていないと言うことだ。それはそうだとおもう。問題はそのことと、現代社会の実情をかんがえたときの問題点だ。
納得もいかない、しかし勤めてしまったからには途中下車は許されないと言う意識だけがいまだに社会に残っているのに現実には会社は定年まで面倒をみてくれる状態ではない。その状態をきちんと理解してその上で今の仕事を考えたときに不安が残るのだ。今がいいならいい、という認識すら問題だ。
だけれど、この本に書いてあることをじつはぼくはすでに実践しているのだ。
たとえば、なんにも得るものがなくてもいいからわかいうちに海外経験をしておくこと、や、IT産業はこれから斜陽化するがそのノウハウは身に付けておいたほうがいい、とかいまの一流企業に入るよりは小さい会社に入って社長のちかくにいて業務のノウハウを身に付けたほうがいい、とか実現しているものもあるし、これからしようと思っているものも含めてけっこうやっている。
いったい彼のいうことと自分がしてきたことにどんな違いがあるのかを考えたくなった。

お金をちゃんと考えることから逃げ回っていたぼくらへ (邸永漢 糸井重里 PHP研究所 2001年3月)

  急永漢と糸井重里との対談集 糸井重里の本はまえに村上春樹との共著、『夢で会いましょう』があったがあれは対談集ではなかった。今回はちゃんと対談集だけど普通の対談集とはまたちょっとちがったかんじがする。そもそもこの二人は『日刊イトイ新聞』で一緒している。そんなこともあるのか、どちらかというとサイトのあるコーナーを本にした、という感じが強い。村上春樹の最近の本にもWebのコーナーを本にしたものがあったけど、そういう性格をもった本が多くなるんだろう。すくなくとも世の中はそういったものを求めている。 ぼくは名前を聞いたことは会ったけどこの人の本を読んだことはなかった。お金にかんする本なんだけどお金の本と言うよりはなんとなく対談そのものをたのしんでいる本と言う感じがした。 お金は汚いものだ、という日本人の根底にある思想にまずメスを入れる、とおもったら結婚話に花が咲き、事業とは?インターネットとは?とくる。 ぼくもよくおとづれる『日刊イトイ新聞』でもコーナーを掲載している。 溜飲の下がる思いがした。 結婚と言う制度はもうあまりいい制度ではなくなっている、だとか、お金に汚くなってもかならずしもお金持ちにはなれない、とか、ぼくがいつも思っていてしかしそれは単に理想だとか、現実をみていない、だとか言われてぼくの考えは少数派で間違っているのかとおもったが間違ってはいなかった、とわかってうれしかった。 どこかの会社に所属しながらじぶんは別の会社の社長である、ということが現実に可能なのか?

アンダーグラウンド(村上春樹・講談社文庫・1999)

  ルポルタージュ。その姿勢を立て直しながらつねに相手と向かい合う。この本は地下鉄サリン事件で不幸にもサリンガスによって被害を受けた人たちに取材をこころみて、そこで何が起きたのか?あるいは何が起こらなかったのか?人々の心のうちは?ということなどを克明に描こうとした本である。絵で言えば写実画にちかい。もちろん絵は描かれた瞬間からフィクションの性質を帯びる。本物を完全にキャンバスに閉じ込めることなどだれにもできない。しかし、真摯にひとびとのこころを描こうとしたときにそこには完全な事実がなくとも伝わるものがある。マスコミや政治にゆがめられていないもの、そんなものを抽出しようとこころみている。 この本に書かれたことは雑誌やテレビでは得られないものばかりだ。編集という仕事がたいてい切り捨ててしまうものも残している。だからこその分量だ。 世の中にはどうしても捨てなければならないものもある。それはある側面、時代、では正義だ。しかし、時代は変わる。日本はあきらかに行き詰まった。今の世の中、これほどに豊かになるとはだれも思わなかった社会が存在している。豊かにしようとした血眼になって仕事をした高度経済成長期の世代のひとも豊かになったからこその問題をかんがえなかっただろう。あまりに複雑になりすぎた、この世の中をそしてだからこそおきてしまったこの事件を今の世の中に生きている人々はどう受け止めていくべきだろうか? そうした問いを投げかけてくる。この事件ですら人々は忘れようとしている。 この本の続編として『約束された場所で』という本がある。現在読んでいる最中だがインタビューのスタンスがかなり違っていて興味深い。よく、加害者と被害者はまったく別の世界にいきているのだから加害者は絶対的に悪だ、と決め付けてしまう風潮がある。 この事件にはそうではなく、両者がまぎれもなく日本人同士であったということがキーとなっているのではないか?という印象をもった。

黄昏のカーニバル(清水義範・講談社文庫)

 毎度、清水節がさえ渡る。
 ひさびさに氏のSF作品を読んだ感じがした。最初の読んだ作品が、『学問ノススメ』という3冊からなる小説で、浪人して予備校に通う、冴えない男たちの青春小説だった。あれは、ちょうど自分も浪人していたから結構臨場感を持って読むことができた。
清水義範の本は、みんなデータがしっかりしていると安心させられる書き方をしている。実際にしっかりしているかどうかと言うことを言いたいんではなくて、書き方がそういう印象を持ちたくなるように語りかけてくれる。
ちょっと便りになるお兄さんみたいな書き方っていったらいいのかな?大人よりはちょっと『こっち寄り』で、でも、大人としての教養を持っているので知らないことに応えてくれる。
そんな文章の匂いがする。
今回は、出典がSF雑誌ということで全部ある意味で、SF小説になっている。
本人は、あとがきで、ひさびさにSF作品を書いてみてあまりに懐かしいとおもえてしまう部類のものばかりになった、と言っていた。最近のSF作品はきっともっと違う感じに違いないけど、まずは千里の道も一歩から、なんて言っている。
でも、ぼくはこういうのがSFなんだなぁと素敵な感覚をもらった気がしている。
ぼくは、『外人のハロランさん』が好きだ。
全体的に、SF臭は意図的に抑えられている。まだかまだかとおもわせてやっとだしたり、フェイントを出したり、その技の妙が素晴らしい。最近のSFは、出し惜しみせずにがんがんそれこそ直球やらカーブやらフォークやらを出していって最後に大どんでん返しをしたりする。ハリウッド映画ぽさがにじみ出ているものがおおくて読む方も最後まで持たせるために結構体力を温存させる。それがかえって面白みを奪ってしまったりするのだ。
たとえば、ジェラシックパークなんかは、さいしょで恐竜がすごい迫力で迫ってきたりしてもそこで最大限に驚いてしまってはきっとくるであろう、ティラノザウルスの猛攻に太刀打ちできなくなる。
ブロントサウルスが勇壮に歩いている様は、その後の肉食獣の迫力を増すための小細工だってことは分っていないとならないわけだし、そういう見方をしぜんにさせられている観客はある意味不幸だ(原作は、小説としてかなり評価が高いらしい)。
そういえば、清水義範氏は、かなりの映画通だったはずだなぁ。

羊をめぐる冒険【上・下】(村上春樹 講談社文庫 1985)

 村上春樹の3部作の完結編
 ぼくは村上春樹に3部作があることすら知らなかった。
 だから今その3部作についてかなりうろおぼえなんだけど、たしか
一部目:風邪の歌を聴け(デビュー作)
二部目:ダンス・ダンス・ダンス
三部目:羊をめぐる冒険
だとおもう。たぶん。そうしてみるとたしかに3部作だ。というのは登場人物が共通しているから。場所も似ているし、人物の性格設定も似ているから共通したものはあるんだろう。けど、とりたてて3部作だ、という必要はないんだと思う。
 今回の羊をめぐる冒険は野間文芸新人賞を取っている。批評家たちがこの作品で村上春樹を初めて呼んだわけではないと思うけど、賞を取ったってことはこの作品だけでも完結しているってことだとおもう。3つあって初めて意味のあるものではかならずしもないわけだ。
 羊をめぐる冒険は冒険としてちゃんと終わったかというとこれはまだ疑問だ。ぼくは幸いなことにこの作品を読む前にすでに最新作『Sidney!』も読んでいるので村上春樹のターニングポイントも知っている。『アンダーグラウンド 』も出版されていることも知っている(サリン事件が起きてしまったという悲劇も思い出さなければならないが)。でも、この本が出版されたリアルタイムではかなり悲しい読後感を覚えないとならなかったんじゃないかなぁっておもう。『ノルウェーの森』もなんともいえない読後感だったけどあれは異国の感覚で読めたし、その国でのさわやかさというものを感じ取ることもできた。風を感じると言えば風の歌を聴けよりもこの作品の方が風を感じたかもしれない。
 台所で料理を作りながら作品を作っていたと語っていたのでパッチワークのようになっている、といっているけれど、それ以上に3部作はどれも作りがちがう。登場人物がおなじなだけに独特さをそれぞれに感じる。  3部作の完結編なのでこの作品に触れるためにはそのあらすじを語るしか方法がないようなきがするが、それはしたくない。3部作なのでほかの2作についてもはなさないとならなくなる、でもそれもしたくない。というわけでどうしても周辺をめぐってそれで中心に寄らないでそのまま帰ってきてしまうことになる。
 それって羊をめぐった冒険にちかいんだろうなぁ。そう、羊は具体的なんだけど決して具体的ではないのだ。そこへ立ち寄ろうとしても結局自分でそこには行けないのだとわかること、そんなことは人生たくさんある。ぼくは20代をやっと真ん中を越えようとしているけれども今の年だからこそ失われなければならないもの、昔寄ったところがもう二度といけないのだということ、そして幸いなことにそこにはぼくは一度立ち寄ったんだという記憶を有していること、そんなことを感じる。
 ぼくは3部作と言われているこの3つの作品を変な先入観をもたずに読むことができて幸せだった。小説なんてそうやって読まないとおもしろくない。自分だけの世界でそのカテゴリーで小説を読むのだ。
(Last Modified in 2001/2/22)
追伸:
この前、会社でいつものようにTNTディスプレーの前で仕事をしていたら電話が鳴った。とってみるとなにやら小難しそうな女の人の声でちょっと調査をしているということだった。しまった、セールスかなと思ったんだけどなんとなくセールスにしてはあまりサービス業ぽくない。セールスは最近ほんとひとなつっこい。友達よりも友達ぽいかんじではなすのだ。僕は最近電話に出ない。ちょっと理由があるんだけどそれはそれとして今回電話に出たというのも結構偶然だった。
その人の話だと滝川村という村に関する意見を聞きたいと言うのだ。その村に関して知っていますか?というので知っている、その村は北海道の村のことですか?と聞くとそうだという。ちょっと仕事が煮詰まっていたのもあってセールスでもなさそうだし、相手も話し出したらそのまま淡々とはなすというタイプの人だったので相槌も打たずに聞くことにした。 なんで僕が知っているのかというとそう、その村は『この羊をめぐる冒険』でキーとなる村のことなのだ。僕はあの村は架空の村のことだろうとおもっていたのでそれもびっくりした。アイヌの伝承ともかかわってくるちょっと奇妙な歴史をもつ村のようだ。その人がその村の詳しい歴史を電話口で話すにしたがってその村があの村のことであると確信するに至った。偶然とは面白いものだ。そのときは会社だったのもあって適当に断ったんだけど、実際不思議だと思ったのはその後だった。
実は作中で使われていた村の名前は滝川村ではなかったのだ。十二滝村と言う名前だったのだ。
まぁ、村の名前をそのまま使うことはないだろうということも想像するにたやすい。問題はそれならなぜぼくは一瞬にしてまだ歴史も何も聞いていないのに滝川村と十二滝村を結びつけて確信していたのだろうか、ということだ。
まぁ似てなくもないし、勘違いが偶然あたってのもそうなんだろうけど、会社にかかってきた電話で怪しそうなのにそれに対してそんな冷静に判断した、しかも相手の質問に応えたってのも驚きなのだ。
普通ならきってしまうだろう類の電話だったからだ。羊をめぐる冒険は僕の周りでも繰り広げられたのだほんのちょっぴり。
(Last Modified in 2001/3/25)

村上朝日堂/扉 Sidney!(村上春樹 文芸春秋 2001)

 村上春樹の最新エッセィ。
 シドニー・オリンピックが2000年に開催されたことは記憶に新しいが、そこには資本主義が渦巻いていたという感想をもたらしていた。
 そう思うのは、みんなそうだと思うけど、いい加減資本主義には慣れてしまった。麻痺しているというのとおなじことだとおもう。
そのことを追求するのはどこか村上春樹のライフワークになっているようなきがする。いや、世の中にはびこっている病はもはや資本主義という名のイデオロギーですらないのかもしれない。まずは、資本主義というイデオロギーから切り込んでいくというそのアプローチ、それが今回のオリンピックに対するアプローチの仕方につながっていた、のではないかな。
 オリンピックは多額の資本が導入され、誰かがそれでもうけているからこそもうそれは後戻りができないイベントであると感想をもたらしている。村上春樹の一貫したアプローチでもあるけどものごとにはかならずいい側面と悪い側面があってどちらもみる、というのがある。面倒で退屈なのがオリンピックだ、といいながらそれに納得をしつつちゃんと高橋尚子がゴールをするところを興奮して見ている。オリンピックに巻き込まれ、そのことはわるいことではないと言っている。いいものもオリンピックには存在すると。ただ、現在のオリンピックはいささか肥大化しすぎた、と言っている。
 ぼくもオリンピック競技にビーチ・バレーが参加しだしてなんでもありだなぁとおもえてきていた。たぶん、資本の回収が型にはまってきて競技をふやして多目的なものに向けていった方が儲かるからだとおもう。ありがちだけどグッズもたくさんの競技があった方が商品がつくりやすいし。つくれば売れるわけじゃないけど、そのへんの損得の境目が得ができるようにシフトするめどができたのだろう。
 開幕式をぼくはみなかったけどかなり趣味が悪かったようだ。
 最後の方で、高橋尚子と有森裕子の対比をしている。ぼくはこの対比はかなりおもしろいなぁとおもった。どちらも極めているマラソン選手なんだけど現段階では高橋尚子の生き方に軍配が上がってる。
でも、それが勝ち負けにすらなっていないことはよくかんがえればわかる。高橋尚子はまだ20代でまだまだ生き続けなければならないのだ。そして、生きることと言うのはマラソン選手生命だけにとどまったことではないのだ。人間として生きていかなければならない。
そして、村上春樹は本文中で書いているが、人はいつまでも勝ち続けることはできない。
そう、そのことに有森裕子はきがついたのだ。
今はそれが雑念となってマラソン選手としての資質は曇っている。しかし、天気は曇り空だけではない。有森裕子は高橋尚子の成功をこころよくおもっていないと告白している。それは、ライバルとして高橋尚子をみているからだ。闘争本能は資質の一つだろう。ほめてあげればまわりの印象もよくなることはわかっていても決していい言葉を彼女にかけるつもりはない、と有森裕子は言い切る。
マラソン選手が監督の下で人生すら(ボーイフレンドと遊びことさえ)管理されることへの疑問、それに対する答えを走ることで、そして認めさせるために成功することで示そうとしている。そう、選択肢は限られている。有森裕子の今の状態を一言で表現するとするとリベンジだとおもう。
ぼくなりの解釈は、人はいつまでも勝ち続けることはできない、だから勝ち続けられないことの事実を真摯に見つめて自分の走る方向をみつける、しかし、人は、いや生物はみないつまでも勝ち続けることを望んで活動をする。そのジレンマにいつもさらされる。動物は人ほど大脳を使わない。でも、人はいきるために大脳を酷使する道を選んで、だからジレンマにさらされることになる。矛盾はわかりきったことだ。生きることはどこまでも矛盾に挑む営みだ。だからこそ生きる、そして書くことをやめないのだろう。
でも、マラソン選手ぽいなぁっておもうのは、きっとリベンジは観客にでも、陸上界にでも、監督にでも、なく、きっと自分に対するリベンジなんだとおもう。そのへんはうまく説明することは難しい。 Sidney!は一冊の厚い本になった。表紙の青い空がオーストラリアの、シドニーの暑い夏を思い起こさせた、その場にはいなかった、しかし、想像し、メディアをとおした印象は皆が感じ取った。真実はそれぞれがじぶんでみつけないとならない。
退屈なオリンピックをPowerBookを持ち歩いて文章で表現した厚い暑い一冊なのである。

失楽園【上・下】(渡辺淳一 講談社文庫 2000)

 とにかく男女が愛しまくる。とにかく。
 最初、映画で先に見た。社会現象にまでなった、  『失楽園』の小説。テレビの方がなにかと話題になっていたけど、テレビの方は一度も見ていなかったのでどうとも言えない。
小説と映画は観たけど、どちらもよかった。
でも、渡辺淳一をよく読んでいたことがあったので、やっぱり小説の方が趣が深い。渡辺淳一くささがあるのが小説で、あくまで作品として楽しむなら映画ってところだろう。
 映画で、すこし渡辺淳一っぽいところがあったのが、
「秋は夏の次に来るんじゃなくって夏の間にもう準備されている」
という台詞がでてくるところ(完全に正しくはないけど)。
今回、小説を読む気になったのもあの台詞がどうも気になったので小説ではどういう使い方がされているか(どういう場面をもってきて喋ってくるのか)が気になったから、でもある。
 秋という季節にこの作品は実はこだわっている。
 映画では、実は冬がメインになってしまっていたりする(秋もいちおうメインなのでその辺は完成度が低い)。
 ラストは、観た人は知っていると思うからあえて言わないけど、あれは本当は秋がメインであるべきなんだ。というか、小説を読んだらすぐに秋なんだなぁってわかると思う。
 大人の恋愛となると、いや、不倫がからんだりすると、どうしても性欲とか愛欲ははずせなくなる。
 そのとき、四季でいうと、どの辺になるのかというのをあえてあげるのは案外難しい。
 最近の世の中の風潮で行くと、夏か、あるいは、夏の終わりだとおもう。だからこそ、サザンオールスターズの『津波』はヒットしたんだと思う。サザンは夏の歌が多いけど、『稲村ジェーン』や、夏の終わりを歌うものが結構大切だったりする(僕は、Love Posion No.9、ブリブリボーダーラインが好きだけど)。
 恋愛が、夏だというのはわかるけど、秋という季節をあえてだしてくるところはさすがに感じた。
社会現象にもなった、テレビの失楽園に代表されるような、性欲乱れて愛し合うというのは、たぶん作者は計算ずくだと思う。
 ぼくは、昔渡辺淳一の『無影燈』を読んだことがあって、その本でもにた感じがした。
 作者は、昔純文学一本槍を志していたのにも関わらず、部数がとれないことには話にならない、などの葛藤にあい、どうすればいいのかについて悩んでいた期間があった。
 むしろ、もともと作者は、ロマンスとか愛欲なんかの安易な路線に走るのは嫌いなんだと思う。 でも、それを吹っ切ったのは、なにより読者が自分の作品を読んで欲しい、という一途な気持ちからだったんではないかと思う。
 奥様方の人気を集めている渡辺淳一作品だけど、単なる風俗官能小説に終わらず、飾りや味を利かせながら深いところを探っていく技がところどころにちりばめられている。官能的でポップなんだけど、読ませるところがある作家では、知っているところだと、シドニー・シェルダンなんかがある。彼もたんなるポップス的要素だけではなく、ちゃんと深い味わいと才能がある。
単なる流行作家で終わらない味わいがちゃんとあったことに安心した。

絵本を抱えて 部屋のすみへ(江國 香織 新潮文庫・2000)

 彼女の書く文章はかなりここちよく、心配がないです。
彼女の文章を読んでみるときはずかしくてしないけど、声に出してみたくなります。そのかんじがとてもここちよいです。僕も文章を書くとき、とくにメールを出すときには声に出して感じがいいかを試すようになりました。
ただ、ぼくは文章を声に出すという感じも大切だけどほかにも文章だけにそなわった素敵な感性を最大限に出したいほうなので、ひらがなにしても読めるかということを大切にするようにしています。
最近はそれを半々にしているのかな。
仕事の文章は漢字が多いほうがいい場合もあるので。
じぶんのことはいいですが、江國さんの文章のこと。
それは、さきにいったように声に出して心地よい文章という性質があるんですが、それは彼女が絵本と仲良しだからというのがあると思います。そう思っていたところに今日中ずりで、『絵本を抱えて部屋のすみへ』をみつけてしまったのです。
時間が流れていて自分も江国さんもそして世の中の流れもいっぱしにおなじように流れているんだっていう素朴な、しかし正確な感想を抱きました。ぼくは、ある世界との邂逅(漢字です)においては幾分まちがってはいなかったのだと。
この本をぼくは最後まで読んでいません。ざっと、構成を言っておくとエッセイです。簡単なことです。ただ、単なるエッセイには終わっていません。一話ずつがある物語のしょうかいになっています。
構成はどうでもいいのです。が、構成をないがしろにするとあとでいたいめにあいます。
絵本というのは、絵と文がちゃんと手取り足取りしながらすすんでいきます。文は絵の手となり足となります。こんどは、絵が文の手となり足となります。そうして、物語が一歩一歩すすんでいくんです。 文章はもともと難しいものではありませんでした。ある章にアメリカの絵本について書かれている章があります。そこでは、アメリカの行儀のいい生活習慣と、野蛮な精神(バーバリアン・スピリッツとでもいうんでしょうか?)とが紹介されているんですが。
ところで、この文庫本の裏表紙に作者の近影があるんですが、あんなキャリアウーマンみたい
なひとだったかなぁ、とびっくりしました。なんか、ふっきれたような、すごく魅力あふれる感じになってます。
髪型もウェービーヘアで決めてしまって。すごかったです。

後日談:読み終えました。紹介されている絵本の中で自分が知っているのはひきがえるとかえるくんのおはなしだけでした。
それも本当にそうなのかよく分らないくらいで。僕が読んだ話はかえるくんとひきがえるくんが手紙で互いの心の内をやりとりするというお話でした。
とくに筋はなかったようにおもいます。
どうだったかな。
でも、結局互いの気持ちは確かめられたんだと思います。
互いに気持ちをたしかめるってのは大変だなぁと痛感したのを覚えています。それに、互いに何通も手紙を出すのはすごい体力だと感じたのも思い出しました。
奇しくも世の中メールがやりとりされて一日に何通も文章が行き来することも珍しいことではありません。どんどんよのなかがメルヘンチックになりますね。使い方次第なんでしょうが。
 

理系の女の生き方ガイド(宇野賀津子・板東昌子/講談社ブルーバックス・2000)

 女性の観点からむしろ社会に対するアプローチの仕方を書いたもののように思う。
理系を選択しておくと後々の人生にプラスになる、というのが趣旨。だけど、それにとどまらない。この2人は専攻がそれぞれ免疫学、素粒子物理学となっているがストレートに選択してきたわけではない。しかも、それだけを探求しているのかと思えばそれ以外のものも探求している。
子育ては60%合格だったらよしとする、
子供の服はボタンが一つや二つはずれていても洗ってあればよしとする、
食べこぼしがあるけど、新聞紙をひいておいてあとでそれをすてればいい、
そんな60%合格を目指していたりする、そんな探求もしている。
それは僕の今のつたない表現ではなく、日経サイエンスの解説の言い方を借りれば
  『書いている体験はどれも等身大の話で、前向きに物事に取り組んでいける姿勢があれば、何事も成し遂げらえるという考えが根底にある。』
ということなのかもしれないが、しかし、理論ではなかったたしかに実践的な捉え方がそこにはあったのだ、と理解できる。
「毎日が闘いだったのだ。」
その末に得た今の人生をそしてその人生までの過程を淡々と説明している、そしてきっと毎日が楽しいに違いない。
 最初の章はこれから進路を考えている女の子に対してのメッセージのように見える、が、それは進路を抱えて悩んでいた自分たちの娘のことをやさしく見つめ、一緒に悩んでいた経験から得たものがあふれているという風に読めた。
 理論で話をしていない。
理系を生きてきて理論を大切にしてきた2人が経験を話している。
そして、その経験は理系というプロセスの賜物である、としめている。
どういうことなのか?
それがこの本に書かれています。
おもしろいのは2人とも関西の人だと言うことだ。自由な気風は関東ではなかなか生まれない。よく言われるのは関西は商人、関東は武士といわれる。そういう気風が確かにあるかもしれない。でも、これからは東京でもそういう気風が生まれる必要があると思う。東京だけじゃない、日本全国が。
 これからの世の中はたしかに女性がリードすると思う。男としてはこれからの女性の動向をうかがって使えるノウハウは盗んでしまおうと思う。そういう考え方をもっている男性は細々と21世紀が来るのを待っているんではないだろうか?
 宇野さんには昔ぼくが高校をまがりなりに卒業したときにお世話になりました。ちょっと懐かしく感じたりして。あのとき励まされたことを思い出しました。またあれから6年経って将来を悩んでいるけどふたたび発破をかけられた思いです。相変わらず精力的にお仕事をされているようで素晴らしいです。
家事に追われてもひたすら生活をしているたくましい女性に対して考えることは多いです。
ここに僕なりの感謝を込めて。
そう、生きにくい女性達に対してのエールとして『理系』というウェポン(武器)があるよ、とやさしく助言してくれているように見えた。
(Last Modified 2000/12/04)

ダックスフントのワープ(文集文庫・藤原伊織・2000)

女教師は縁のぶあつい、おそろしく古いタイプの眼鏡を外した。
「この眼鏡、度がはいってないのよ。」
「代わった趣味ですね。もし、それが趣味なら…」
「教員のアイデンティティーよ」
「私は、世界に同化すべき部分とそうじゃない部分をわきまえているの」
女教師は、じぶんが世界と同化すべき部分をわきまえて度がはいっていない 眼鏡を自らかけている。「僕」は昔つきあっていた彼女とプラトニックな 関係を続けていたがついには彼女の方が破綻を見いだされてしまい、 ここであなたが私と寝ないのならば私を恥辱することになり、あなたは ここで私と寝るかあるいは精神の一部であるペットを殺すかどちらか を選ばなくてはならない、と言い出す。ばかげた切羽詰まった空間で 彼の取った行動は。 彼は客観的すぎるのか、そして彼は世の中と交わることを極端に避ける。 そこには彼の個人的な経験が問題になっているわけでもない。 何が彼をそうさせるのかそれは誰にも分らず当の本人にも到底見いだせる ものでもない。
ダックスフントのワープ。
それはある物語だった。
そこには 教訓めいたものがあるような、それでいてある個人的な感情が めぐるめく存在しているようなたしかに寓話が存在していた。 ある老いたダックスフントは自分にはスケートボードが似合うと言うことを 長い人生を経た末に見つけることができた。自分にあったものを 見つける喜びは快楽よりも、もっと高貴なもの。 足が短くて背丈が小さいがそれはスケートボードに乗るととたんに 長所になりえた。風の抵抗を小さくするその素敵な状態。 彼はその悦に入った状態で突然危機的な遭遇をする。 幼い女の子が飛び出してきたのだ。彼女に衝突すれば、 このボードはとてもスピードが出ているからただではすまされない。
いつも選択肢が用意される。そして、それを選んだ結果が与えられる。
一瞬のうちに彼にはさまざまな考えがとびだし、しかし、どれも 解決をするには至らなかった、そして、彼のとった行動は 直前でワープをしてしまうことだった。ダックスフントと「僕」の関係、寓話と教訓の関係、ゲシュタルト崩壊。寓話は時として人を突き放す。ある事実を認めて生きていくことは難しいことだ。生きることすら突き放されたときに人は何を求めていくのだろう。今の時代に完全に密着した寓話だ。
(Last Modified 2000/12/03)

そして私は一人になった(山本文緒・幻冬舎文庫・平成12年)

 淡々とあまりに平凡な暮らしが繰り広げられている様がそのまま、 本当にエッセイそのものだ。刺激はない。でも、きっと作者は その刺激のない毎日そのものをどこか視点を変えて愛している にちがいない。平凡で毎日がただ朝起きてゴミを出して、午前中 に小説を書こうとしてうまくいかず、昼には笑っていいともをみて 夕方洗濯物を取り込んでだらだらしているうちに夜が来てしまう ということが書かれている。本当は眠れぬ夜がたくさんあるに ちがいない。そのことにもすこしは触れられているけどそれは あまりに個人的なことだからというのではなく、読ませるものとして 適当ではないからあまり書かれていないんだと思う。 一人になる、っていうのは孤独との闘いだ。きっと死ぬまで こうなんだろう、とか、いやきっと楽しいことがあるに違いない、 と思ったり、そして時には友達と食事に出かける、そんなつかのまの 幸せの時間が訪れたり。 結婚生活に関してはあまり書かれていない。あくまで離婚してから 一人になってからのことが綴られる。だらだらと密度の薄そうで でも、自分とひたすら対面する温度が何度か高い蒸した空間。 孤独ってひどく汗くさい。どこかでひがみっぽくそして傷つきやすく、しかし自分を知ってその性格を前向きに働かせている(前向きに生きようとするのではなく)。自分と同じ時間を生きている人のまいにちの闘い(just,fighting to you)が励ましてくれる気がしてすこしだけ気持ちが暖かくなる。
(Last Modified 2000/12/03)

シュガー・レスラブ(山本文緒・集英社文庫・2000)

現代にはいろんな病気が蔓延している。 いろんな病気が過去には起こっては消えていったが 今の時代ほど目には見えない病気が蔓延している時代はない。 この本には幾つかの短編がいわゆる現代人の現代病と対応する ように綴られている。ある美人の娘が平凡な青年と恋仲になるが あるときにそっけなくなってしまいその理由が分らない、『観賞用 美人』や、恋人からの電話が気になって夜も眠れない『ねむれぬテレフォン 』 いくつかの短編の中で激しく読後感を覚えたのは、タイトル同名の『シュガーレス・ラブ』 だ。ちょっとネタをあかすとこの短編は、味覚異常の話である(何の病気について なのかが先に分るとこまるような進行の仕方はこの本はとってないです) 主人公の彼女は、地元の国立大学出身でアルバイトをしていてその 食品会社にスカウトされて正社員となり、現在の主任まで昇っていった という経歴の持ち主。当然、自分の実力には自信を持っている。 今回、フリーになって仕事をしていく決意を固めた。よくある パターンだ。女性の社会進出が多くなったなんて死語かもしれない ような解説をつけたくもなる。もちろん、彼女は社会の女性に対する 偏見と壁を知っている。そのこともフリー宣言の要因になっているのだけれど 実は個人的なもっと大きな理由が彼女の『胸の内』にあったのだ。 彼女がもっている病気の温床は『嘘をつくこと』だ。社会に対して 自立した女性を演じるために嘘をたくさんついてきた。それは必要悪だと 自分に対して言い聞かしてきたものであったんだけれども、嘘というのが 怖いのはそれが自分自身のみを腐らせていく点だ。偽りの笑顔、 決定的な味音痴のくせに、フード・コーディネーターをして生計をなりたた せているという自覚、それらが形を変えた嘘の形態であることに、 賢い彼女はいつも気がついていた。

夢であいましょう(村上春樹・糸井重里講談社文庫1986)

 冒頭にも書かれてあるがこの本は2人の対談集ではない。 でも、ぼくもこの本を読む前は対談集だと思っていた。タイトルが 対談集ぽいのかなぁっておもったけどよくよく考えてみるとそういう感じも しない。でも、村上春樹がよく読者にそういわれると書いていることから そう思うのは僕だけではないことが分かった。村上春樹と糸井重里が そもそも一緒に本を書くって言う背景がよく見えないところが大きいのかも しれない。たいてい2人で何かしら本を書くときには絵本で絵と文を別々に 書いたり、漫画なら原作者と絵を描く人は別だったりするくらいで、特殊な 場合には藤子不二夫くらいなものだ。
 この本は特殊な感じがする本です。エッセイともつかないし、 読んでみて初めて分かるような本。それだとうまくないから、つまり、文字そのものが訴えかけてくる本って言ったらいいのかな??本って言うのは限られた表現方法の中であえて文字を選択したものです。もちろん、本というのはだれか人が作っているものなんだけどそれが作品になるとそれ自体が独りでに歩き出してしまうと言うところがある。一般に言う、『命がある』状態。具体的にはそれが本当に歩き出すことはないんだけど、そこには文字のみがある。それ以上でもそれ以下でもない。だから、本にとっての命とはつまり文字そのものであると言っていいと思います。その並び方、語句の状態、ページごとの文章の数とか、ひらがなの多さとか。文字はたんに紙の上を這うミミズのようなもので、それを理解して意味のあるものにするのは読者で、読者がいなければ本は単なる紙とその上の模様でしかない。文字はどう読まれるのかは完全に読者に任されている、ということになる。それをふまえて、しかし、小説家やコピー・ライター達は文字というものがもつ『言霊』のようなものをちゃんと扱う技術を持っている。それを感じることができる、つまり、プロ意識をしっかりと受け止めやすい本なのだ。いい加減に書いているようでそれはちゃんと計算されたものであり、しかし、文字が基本的に読者によって解釈されると言うことをきちんと理解する、その辺の謙虚さと緻密な計算とがうまく編まれているほんと言うことができる。近く出版された、回文カルタ『またたび浴びたタマ(村上春樹・文芸春秋・2000)』を読まれると一層理解してもらえるかもしれない。あれをくだらないと見るか楽しいとみるかは意見が分かれるかもしれないけど、意見が分かれると言うことは人の心に何かしらを刻ませている証拠ではあるわけで、きちんと文字が文字としての役割を果たしているともいえる。 まじめに夢の中で起きているような内容で満たされています。夢の中のことって あまりに奇想天外なので正直に相手に説明できないことが多い。あれに にている。ぼくはヤクルト・スワローズ詩集がすきです。

体はすべて知っている(吉本ばなな・文芸春秋・平成12年)

 吉本ばななの短編集。
おやじの味(11つ目の短編):
帰らないおやじ。父は母と別居生活をしている。父は山小屋をつくり、 そこで暮らす。きっかけは父が母に内緒で女を作ったことにあった。 母は離婚する、と言っていたがそれもどうでもよくなってしまう。 私はそんな家庭環境の中にあった。ある日、会社で交際中の人が 別の女の人と歩いているのを見つけてしまう。前は闇になり、そして 怒りをぶつけるも誰もその反応は冷たいものだった。他人事。錯乱している のかそのまったく逆なのか、とにかく精神がうまくクラッチしなくなって 会社を辞めてしまった。  家にいても何もすることがなく、気がつくと夕方になっている。そんな 姿を見て母はノイローゼ気味になり、たまには外に出た方がいいと言うも 、貯金を使うのがいやだから、と断ってしまう。そんなとき自分の居場所 を父のログハウスに思いついた。
 淡々と私が思う毎日について綴られる。そこには、女とつきあう男という 像についての思いというよいrは、自分を取り巻く環境に対する違和感、という ものが描かれている。とくに仲のよいと思えない同僚からの手紙、母の 提言、それらがなぜか心に響かず、そのことが今までの人生と生活が あまりに自分の心に根ざしてはいなかったのだ、ということが思い知らされて くる。自分はいまなぜなやんでいるのか、そのことよりも自分は暇だから 力をあり余しているのか。  父はいつでも帰れる家を前にして、山小屋から帰らない、その理由が 私にも分かるのだった。これは個人の問題では本当はない。文明社会 の抱えた根の深い病気、でありながら。しかし、社会は個人を尊重をするという 建前を使って病を自分の責任の届かないところへ追いやってしまう。 抱えきれない病気が今『私』を取り囲んでしまった。

夢であいましょう(村上春樹・糸井重里講談社文庫1986)

 冒頭にも書かれてあるがこの本は2人の対談集ではない。 でも、ぼくもこの本を読む前は対談集だと思っていた。タイトルが 対談集ぽいのかなぁっておもったけどよくよく考えてみるとそういう感じも しない。でも、村上春樹がよく読者にそういわれると書いていることから そう思うのは僕だけではないことが分かった。村上春樹と糸井重里が そもそも一緒に本を書くって言う背景がよく見えないところが大きいのかも しれない。たいてい2人で何かしら本を書くときには絵本で絵と文を別々に 書いたり、漫画なら原作者と絵を描く人は別だったりするくらいで、特殊な 場合には藤子不二夫くらいなものだ。 ある意味この本は特殊な感じがする本です。エッセイともつかないし、 とにかく説明のしようがない。読んでみて初めて分かるような本。 まじめに夢の中で起きているような内容で満たされています。夢の中のことって あまりに奇想天外なので正直に相手に説明できないことが多い。あれに にている。ぼくはヤクルト・スワローズ詩集がすきだ。

こうばしい日々(江國香織・新潮文庫・平成7年)

 2つの物語がすてきな飾りつけでしあがった。

『こうばしい日々』: 最初はアメリカにすんでる日本人の血が流れてるアメリカ人 の男の子のものがたり。勝ち気なジルにふりまわされるが 結構じぶんも勝ち気。でもジルの勝ち気の前ではなすすべもない。 もうひとつじぶんのなかにながれるにほんじんの血にもすくなからず ふりまわされる。ずっとアメリカに住んでてたとえ見た目が日本人でも しゃべる言葉も英語だし、文化のそこからわかっているアメリカ人なのだ。 しかし、じぶんをかこむ環境にどうしてもアメリカに住んでいる日本人 というキーワードがいろんなかたちでコミットしてくる。それが煩わしい。

『綿菓子』: 最後は日本に住んでる女の子の話。みのりちゃんはもちろん日本人。夫婦ってものを どうあつかって自分との距離をはかればいいのかってことが日常生活に すくなからず関わってくる。老夫妻をとおして夫婦が見えてくる。夫婦って なに?ユキヒロはおとうと。まだちいさい。「私はユキヒロを裸にして抱きしめる のがすき。ユキヒロのおっぱいくさい肌が好き。ぽちゃぽちゃのお腹に顔 をうずめて、半びらきにした唇をおしつけて、ぼぼぼぼぼ、って摩擦音を たてるのが好き。」おとうとがとってもすきなみのり、おとうとはあたらしい おとうさんの一人息子。  姉は結婚する。姉の結婚相手はずっとつきあっていた次郎くんではなかった。 なんで次郎くんとは結婚しなかったのか。「結婚なんて、ばかみたい」 じぶんでは口にしていない、そんなせりふがどこまでもじぶんをとらえてる。 ひとってなんてふしぎなんだろう、そんな空気がわんわんと伝わってきて。

つめたいよるに(江國香織・新潮文庫・平成8年)

短編集。たくさんはいったおもちゃの缶詰のような物語集。 さいしょの「デューク」はせつないはなし。 「草之丞の話」はメルヘンチックな日本の匂いがする はなし。
 どことなく絵本ってかんじがする。どこかで感じた 匂いがするとおもったらグリム童話じゃないかって おもった。 ぼくがすきなのは「藤島さんが来る日」というたしかに 短い短編。一瞬のことをたしかにそこにはストーリー があったってことを実感させてくれる、ほのぼのとした お話なんだけど、恋愛ものともちがう、視点が変わってる しかし、それはたしかに誰かがどこかで感じたことのある 感情を表してくれている短編なのだ。ひとをすきになると 好きで仕方のないじぶんともうひとりすこし間を取っているじぶんが いることに気づくときがある。すこし今の恋愛をちゃんとみたい と言う欲求と間を取って自分のみを守りたいって要求が生み出した 幻影。これでいいのかな?ってかんがえるときの感情にすこし にている。じぶんたちの個性ある幸せをどこかでナレーション してほしいってかんじてるじぶんがうみだしたもうひとりのじぶん。 結婚式の友人のスピーチをこころよくおもっているじぶんと。 読み終わって、寝る前に枕元で読んでもらっている余韻があった。

すいかの匂い(江國香織・新潮文庫・平成12年)

 11人の少女の物語。
 11人の少女は皆それぞれちがうことをかんがえ 違うところで生き、そしておなじようにさまよう。 九歳の夏のこと、いつもすいかの匂いを思い出す 昔少女だった女の子の物語があった。 少女はある事情から人の家にあずけられていて、 いつも自分の家に戻ることを想っていた。 想いは実現することもある。あるいは巡り合わせがやってきて。 家のたんすからおかねを持ち逃げしていちもくさんに 家を飛び出した。いつかそこからいえへとつながっている 一本のみちをひたすらにかけだしながら。 巡り合わせはたしかに存在しているし、人との巡り合わせは 数奇なものだ。ある家と巡り会った少女はそこでたしかに すいかをたべた。あるふたりの兄弟とははおやといっしょに すいかをたべる。  そのときのかんじやみたもの、きいたもの、はすいかの匂いとして 残っている。 記憶はいつだってあいまいだけど たしかに残っている。少女は記憶はすいかの匂いだった。

キッチン(吉本ばなな・角川文庫・平成10年)

 だれでもみんなキッチンをもってるとおもう。 安心できる場所、どうしてもなくてはならないもの。

 この作品は吉本ばななのデビュー作。海燕新人文学賞受賞。いまでも全世界で読みつがれているベストセラー。

 桜井みかげはキッチンが好きだった。 好きという言葉は誤解を招く。安心できる場所、落ち着ける場所 、そしてそこでなら死ねる場所、暗さも明るさも日常性も非日常性も そこにはたしかにある。自分だけの安住の地。 ひとにとってそういう場所はどこでもなく、そしてあんがい近くにあるもの。
 雄一と、宗一郎とえり子さんと田辺家。みかげをとりまく環境が人を含んで あたたかくたしかにそこに存在している。みかげと宗一郎が一つ屋根の下 に同居していることをよく思わない女の子が現れる。みかげが台所を必要 とする「そんな」精神状態、田辺家のソファー、旅行用の小さな歯ブラシセット 、私のための生きるすべての場所がそこにある。

中国行きのスロウ・ボート(村上春樹・中公文庫・1986)

村上春樹の最初の短編集。僕は村上春樹の長編も好きだけど 短編も好きです。この本の中のタイトル同名の『中国行きのスロウ・ボート』 がかなり印象的な話として残っている。小説としてなのかノンフィクションなのか その辺の境界線をあやふやにする、というかそもそもそういうカテゴリーの分け方 自体を笑ってしまえるような不思議な文体はこのころからなんとなく わかる。なんとなく雨がしとしとと降ってしまいそうなかんじが淡々とつづく。3人の中国人と「ぼく」の話。中国はあまりに遠い、という言葉がその距離をしかし、どのくらいのものなのか想像もつかないと言うことを訴えかける。
 この短編はいくつかの話が入ってるんだけどその中で「ぼく」が女の子を 女の子の帰る逆の方向の山手線に乗せてしまうってところがある。 べつに単に間違っただけなんだけどその間違いはとんでもないすれ違いになる 。どうでもいいことが急におおきく自分の舵をとりだすことってある。

 ぼくはむかし夏休みが終わる8月の終わりに図書館で仲良くなった女の子になぜか数学の宿題を全部解いて あげたことがあった。そのあといろいろあって電話番号を教えてもらうんだけど なぜかメモらないで暗記した。いつもそんなことしないんだけどそのときはなぜかそうしたかったのだ。それから電話をかけたんだけどその電話番号は彼女の家には かからなかった。僕の記憶が悪かったのか、それとも彼女が嘘をついたのか 今となってはよく分からない。ほんのささいなことで人って会ったり二度と会わなくなったりする 。あのときは悲しくて悔しくて仕方なかったけどいまではあれでよかったのかもしれないって おもったりする。なぜかそんなことを思い出した。