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 3作目のステインボーイ『ボーリングボールヘッド』が完成しました。これはなかなかいいです。というか、こんな高品質なものをネットでブラウザでしかも無料で見れていいのだろうか?ってくらいです。短い時間の中でかなり濃密に計算されて完成度の高い作品になっています。ステインボーイのアニメが劇場化されたらすぐにでも観に行くんだけど。

上映予定の映画


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サトラレ   ギター弾きの恋   CastAway   薔薇の眠り   アンジェラの灰   グリーン・ディスティニー   フィオナの恋した頃   インビジブル   グラディエィター   サイダー・ハウス・ルール   60セカンド   金髪の草原   遠い空の向こうに   TwinFallsAidaho   MissionImpossible2   パッチ・アダムス   いつか何処かで   ストレートストーリー   燃えよ、ドラゴン 007/ドクター・ノオ   007/ゴールド・フィンガー   ゴジラ×メガギラス G消滅作戦   あなたのために   ホワイトアウト   ミリオンダラーホテル   メッセンジャー   ガメラ3 邪神<イリス>覚醒   はつ恋   月とキャベツ   ガメラ2 レギオン襲来   就職戦線異状なし   四月物語    stainboy -stear girl-   stainboy -toxic boy-   メトロポリス   雨あがる   魔女の宅急便   クールランニング   stainboy -bowling ball head-  
トゥームレイダー
製作総指揮/ジェレミー・ヒース=スミス,スチュアート・ベイアード 製作/ローレンス・ゴードン,ロイド・レヴィン 監督/サイモン・ウエスト 脚本/パトリック・マセット,ジョン・ジンマン 脚色/サイモン・ウエスト 原作/サラ・B・クーパー,マイク・ウェッブ 撮影/ピーター・メンジース JR.,A.C.S. 編集/ダラス・S・ピュエット A.C.E. 原作/アイドス・インターナショナル・ゲームシリーズ 開発社/コア・デザイン 音楽/グラハム・ラヴェル 美術/ジム・モラハン,デヴィッド・リー,デイブ・オールディ,ス・ウィテイク 衣装/リンディー・ヘミング キャスト/アンジェリーナ・ジョリー,ジョン・ボイト,イアン・グレン,ノア・テイラー,ダニエル・クレイグ,リチャード・ジョンソン,クリス・バリー,ジュリアン・リンドツット,レスリー・フィリップス,ロバート・フィリップス,レイチェル・アップルトン

 銀座のとある映画館がモーニングショーをやっていた。ぼくはもともとこの映画のチケットをもっていたが、すっかり忘れていて上映期間を逃してしまっていた。しかし、ちょっと見かけたこの映画館で上映期間を過ぎた映画をモーニングショーとしてちょっとしたリバイバル上映としていたので入ってみることにした。チケットは無駄にはならなかった。

 TOMBRAIDERは、アメリカのゲームであるらしいんだけどそれがFFぐらい人気があるらしくてそれが人気が昂じて映画化されたものだ。その主演に「17歳のカルテ」でアカデミー賞をとっているアンジョリーナジョリーがなっている。大抵ゲームとかアニメの映画化っていうのはあんまり面白くないんだけどこれは面白かった。店舗のよさがいいんだろうなぁ。どこまでもかっこいい、というキャラクターは007のジェームス/ボンドに通じるものがあるんだけど、監督も007を撮ったことがあるひとで納得。それにイギリスの令嬢がトレジャー・ハンターという設定なので確かに似ていてもおかしくはない。ボンドはイギリスの秘密諜報部員だ。

ところで映画の内容とは離れるけど、そのシネパトス3というのは銀座のどちらかというと築地よりにある映画館でちょっとマイナーなのをやってる、僕的には昔ながらの映画館で好きなんだけど映画館が狭い。まぁ、それもいいかんじなんだけど平日の午前中でしかもこの映画、もともと人気はあったんだけどすでに上映期間はすぎてて(実はチケットは持っていた)人がいない。もう貸切状態で見させてもらったのだ。けど、映画って家でどんな大画面のテレビでビデオを見たとしても勝てない物がある。それは臨場感だ。やっぱり旬というのがものにはあるのだ。すこしは人がいたのでその臨場感に一役買っていた。それはそれはいいかんじだった。
面白いのはこの映画館はなぜか地下にある。それがちょっと普通の地下とは違う。なんていうのか洞穴の両端が空いてるってかんじ。ちょうど晴海通りの真下が映画館なので映画館に入りに洞穴をくぐると晴海通りをはさんで向かい側の道路にでれるってわけ。あれって意識している人っているんだろうか?やっぱ銀座は混みこみの交差点を歩いて渡るんだろうけど、ちょっとした抜け穴のようですきなのだ。
 ところでこの映画、たとえば主人公のララは死んでしまった実のお父さんに会うことになるんだけど演じているジョリーの実のお父さん(ジョン・ボイト)が役をやっていて再開のシーンは二人とも感極まったらしい。ジョリーも変わった人で熱愛の末に結婚した中年男性と互いの血液を入れたペンダントをつけているらしい。ちょっと変り種といったほうがいいんだろう。

 でもアナーキーちっくなことをただしているひとではなくて国連のボランティアの仕事もしていたり、そもそも普通の礼儀正しい人らしい。飾らずに自分に正直に発言をするタイプの人のようだ。その辺が人気の理由にもなってるんだと思う。ぼくはこのTRというゲームをやったことがないんでわかんないんだけど結構はまり役らしい。主人公を演じられるのは彼女以外には考えられなかったらしいのだ。

 そんなこんなで映画を見終わっていったん銀行でお金を下ろしてきたあとにこれも前日に目をつけていたチョコクロというパンをだしている喫茶店" サンマルクカフェ "でチョコクロとコーヒーを飲んできた。案外、ここも有名でこじゃれているのにドトールと変わらないくらい安い。ここもチェックしておこうとおもった。時間もたしか結構遅くまでやってたと思う。店の雰囲気もよかった。そこでいつものように映画のパンフを読んでた。ちょうど13時ころでそのくらいの時間になると2階席は陽が差し込んでくるらしかった。街路樹はユズリハで木漏れ日のように日が差し込んでくるなかでパンフを読んでいるのは気持ちがよかった。ちょっと眩しかったんだけど日頃太陽を浴びていないことに気が付いてあえて日を浴びることにしたのだ。

千と千尋の神隠し
製作総指揮/徳間康快
製作/松下武義・氏家齊一郎・成田 豊・星野康二・植村伴次郎・相原宏徳 原作・脚本/宮崎 駿 音楽/久石 譲(サントラ盤:徳間ジャパンコミュニケーションズ)/

プロデューサー/鈴木敏夫 制作/スタジオジブリ

作画監督/安藤雅司・高坂希太郎・賀川 愛 美術監督/武重洋二 色彩設計/保田道世 映像演出/奥井 敦 デジタル作画/片塰満則 録音演出/林 和弘 整音/井上秀司 監督/宮崎 駿
声の出演 千尋 柊 瑠美 父役 上條恒彦 ハク 入野自由 兄役 小野武彦 湯婆婆 夏木マリ 青蛙 我修院達也 お父さん 内藤剛志 河の神 はやし・こば お母さん 沢口靖子 坊 神木隆之介 リン 玉井夕海 釜爺 菅原文太 番台蛙 大泉 洋    
主題歌 「いつも何度でも」 作詞 覚和歌子 作曲・歌 木村 弓 (徳間ジャパンコミュニケーションズ)

製作担当 奥田誠治・福山亮一 宣伝 市川 南(東宝) メイジャー 特別協賛 ネスレ 特別協力 読売新聞社・ローソン

配給 東宝 公開 7月20日(祝)全国東宝洋画系ロードショー 上映時間 2時間5分(予定) 方式 カラー/ビスタサイズ/DLPシネマ対応/ ドルビーデジタルサラウンドEX・DTS−ES(6.1ch)

 トンネルのむこうは
不思議の町だった。
ありえない場所があった。
ありえないことが起こった。

人間の世界のすぐ脇にありながら、
人間の目には決して見えない世界。

土地神や様々な下級神、
半妖怪やお化けたち。
そこは、古くからこの国に棲む霊々が
病気と傷を癒しに通う温泉町だった。

 予告でこんな文章がある。 この通りだ、といえばそうなんだけどいつもながらジブリ作品はかなり身近な出来事をかなり壮大に描いてしまう。    この映画が語りかけてくるものはなぜか懐かしいものばかりだ。架空の温泉街で千尋は名前すら失ってしまう。名前を失ったものは、新しい名前をつけた相手の言いなりになってしまう、こんなおとぎ話の設定のような言葉すら現代ではかなり強いメッセージとして伝わってくる。 今の日本がもっている病んでいるところはたくさんあるけど、会社で働いているうちに役職といった『名前』をつけられて自然と会社のいいなりになって家族にもそして自分にも冷たくなっているという今の日本の大問題がこっそりと顔を出している。

 おとぎ話を笑って読んでいられる時代ではないからこそ、真摯なメッセージを投げかけてくるこんな映画を心を揺さぶられずに観ることはできないんだろう。

 そして、『働く』ということは『生きる』こととおんなじことなのだ、という現実を目の前に突きつけられてしまう千尋の運命はそれはそれは人ごととは思えない、出来事として人々の目を釘付けにしただろう。『生きる』というメッセージは前作『もののけ姫』で訴えたメッセージでもある。今回は宮崎駿監督は自分の個人的な小さな女の子の友達に捧げた作品である、といっているけど、そんな個人的なことってかなり大切にしなければならないことだ。

 パンフ解説でも、10歳くらいの現代の女の子は楽しんでやるものか、という「ぶ〜たれた」表情をしていると言っているが、そんな子供たちにも希望をもってほしい、そして今の世の中は希望に満ちているとメッセージを投げかけ、そしてそれは嘘をついてはいなかった、とほっとしているようだ。自分が投げかけたメッセージが嘘ではなかったことへの安堵をちゃんと作品の中に見いだせたからこそ、未曾有の観客数を記録したんだろうとおもう。

 スポンサーがネスレなんだけど、それがわかるところがあった。冒頭の箇所なんだけどそんないたづらもちゃんとしてあるところに作り手の余裕を感じた。

こころの湯
監督:チャン・ヤン(張揚) 製作:ピーター・ローアー 出演:チュウ・シュイ(劉/父さん)    プー・ツンシン(大明/兄)    ジャン・ウー(阿明/弟)、ほか
1999年/中国映画/カラー/92分 配給:東京テアトル、ポニーキャニオン 宣伝:メディアボックス
1999年トロント国際映画祭国際批評家連盟賞受賞 1999年テサロニキ映画祭グランプリ(Golden Alexander)&観客賞受賞 1999年サンセバスチャン国際映画祭監督賞&OCIC賞受賞 2000年ロッテルダム国際映画祭観客賞受賞

 今は失われた下町の銭湯での人情味あふれる人間ドラマが映し出される。湯と言うよりも湯船というほうがイメージがわきやすい。

 下町というよりは中国の開発と国の状態というのがすこし見え隠れするという物語構成になっている。最初の出だしはこの人情味あふれる銭湯『清水池』に出入りしている曰くありの男の空想からはじまるんだけど、その出だしはそれほど空夢ごとにはおもえない。すこしおかしい感じはするけど、近代を感じる。国全体が近代化を夢見ていてそのための開発がたくさんおこなわれて、自然と人の心までもをゆがませてしまう。

 知的障害のある次男阿明(ジャン・ウー)は清水池に来る客のひとりひとりとコミュニケーションをとりながら、毎日を暮らしている。彼がだんだん清水池の将来に振り回されていく姿はこころ苦しくなる。彼は悪くはないが、彼の気持ちとは裏腹の現状が彼と清水池を苦しめていくのだ。兄の大明(プー・ツンシン)は深川地区から里帰りしてくる。彼は父と次男が経営しているこの清水池を馬鹿にしている。が、次第にその純粋なこころのやりとりにじぶんのこころもうちとけていくのを感じる。そうしてうちとけていく大明も清水池の将来に振り回されていくひとりなのだ。

 今、日本ではなくなってしまったとかいう人情味あふれる銭湯だけれども、実は自分の家の近くには下町だからなのかちゃんと残っている。駄菓子やもなくなってきているとかいうけれどちゃんと残っている。だんだん消えゆくものだと言われているけれども、時代の流れに逆らわず、形を変えつつしぶとく生き残っていくすべというものも必要な時代なのかもしれない。構造改革とかいうけれども、人間の気持ちの構造はそう簡単に変わるものではないと思うし。
詳しい内容等は、
http://www.ponycanyon.co.jp/pc-movies/2001/roadshow/shower/

stainboy -robotboy-
■Design Tim Burton Produce Tim Burton [shockwave.com] exective producer/ Michael Yanover sevies producer/ Eric Oldrin associate producer/ Jullie Renwick editor/ John Geirland engineerign group/ scott barklow Josh King Alicia Gill Darryl Dunn Brad Mowrey site group/ Russ Glaser Tony Lopez Quality Assurance/ Greg Ficher [Flinch Studio] exective producer/ Chris Takami producer/ Michael Viner lead designer/ Will Amato designers/ Michele Welbart David Ing Sean Shimoda Card Design/ Penny Kaisaki Game Engineer/ Emil Petrinic

 今回のステインボーイはかなり微妙だ。
 ロボットボーイがなんででてきたのか意味合いがちょっとわかりずらいし。
 ロボットっていうのが最近ちょっとしたトレンドになっているってのはあるんだけど、それにしても今回の対決の結末といい、ちょっとまたこれはまずいのでは?とおもった。

 でも、毎回面白いとそれはそれで疲れるので今回のような感じもいいんではないかとおもう。結末もかなり古典的だけど、まぁわかりやすいといえばそうなるし。

 グレン・デール巡査部長の締めくくりはなかなか的を得ていることが多いんだけど、今回の締めくくりはちょっとぼくも最近そうおもうなぁとおもうことだった。


みんなのいえ
■脚本と監督/三谷幸喜 製作/宮内正喜 高井英幸 企画/石丸省一郎 島谷能成 エグゼクティブ・プロデューサー/石原隆 増田久雄 プロデューサー/佐倉寛二郎 空閑由美子 重岡由美子 音楽/服部隆之 助監督/酒井直人 製作/フジテレビ 製作協力/プルミエ・インターナショナル クロスメディア CAST/唐沢寿明 田中邦衛 田中直樹 八木亜希子 伊原剛志 白井晃 八名信夫 江幡高志 井上昭文 榎木兵衛 松山照夫 松本幸次郎 野際陽子 吉村実子 清水ミチコ 山寺宏一 中井貴一 布施明 近藤芳正 遠藤章造 他

 珍しい映画だけど新しいスタイルをちゃんと確立している映画。そんな映画なのが、この『みんなのいえ』だとおもう。 和む、三谷幸喜らしいテイストだとおもったけど、一時期のたとえば『やっぱり猫が好き』テイストとは一線を画している。もっと、普遍的なものをつかもうという気概を感じる。

『みんなのいえ』と言うテーマは最初は意識しなかったけど、いえをつくろうとするキャストの面々が徐々に増えだしてきてからなんとなくわかってくる。もちろんタイトルからその意味を類推することは実に簡単なことだ。タイトルの意味はだんだんしみいってくるようにわかってくる。

 よくありがちなのはタイトルが映画のあまりにも本質をつきすぎているというのがあるけどそれほど強力なタイトルではない。単純明快だからこそタイトルがうるさく感じないのだ。  それにしてもキャストの面々はかなり華やかなのは三谷幸喜の映画ならでは、だ。普通なら主演を演じているはずのひとたちが脇役を喜んで演じているという感じがひしひしとかんじる。

この映画のもうひとつのテーマはずばり『仕事』だ。実はそれは前作の『ラヂオの時間』でも表現されていた。三谷幸喜のテーマのひとつなんだろうとおもう。それのひとつの表現が、後半にでてくる、ココリコ田中と唐沢寿明との広い芝生(実際は広くないらしい)でのやりとりだ。これは一見の価値あり。期日を守るのが仕事だ、と言う面と、芸術としての仕事を守って欲しいというぶつかり合い。しかも、それらは共存できる、という一つの可能性。ものをつくる仕事についたひとならきっとその葛藤を我がことのようにかんじるのではないか?

 竹割りというモチーフ。古いものに対するこだわり。そうしたぶつかり合いも見物だ。まぁ、この辺は映画の内容に入ってしまうけど。 八名信夫さんが今回大工の一員としてでているけど、パンフのなかでも、自分を悪役として三谷監督に使って欲しいと言っていた。あのひとは悪役として名高いんだけど、最近は逆にいいひととして使うことが普通のようになっているところがある。ありきたりになってしまうことが怖いからと言うのもあるんではないだろうか?

 でも、あえて新しい悪役のスタイルで出すことができるとしたら三谷監督しかいないんではないだろうか?と言う気もする。次回作にかなり期待をしてしまうのだった。
これだけ硬派なテーマをちゃんと映画として成立させていく監督は素晴らしいと思う。キャストの面々もみんな監督を信頼している。仕事をちゃんとこなすひとであるからだろう。キャストは華やかな人が随所にでてくるんだけどあるひとだけをどうしても登場画面のなかに見つけることができなかった。そのひとを見つけるためだけにでもまた観に行ってもいいかなぁとも思うんだけど。

stainboy -bowling ball head-
■Design Tim Burton Produce Tim Burton [shockwave.com] exective producer/ Michael Yanover sevies producer/ Eric Oldrin associate producer/ Jullie Renwick editor/ John Geirland engineerign group/ scott barklow Josh King Alicia Gill Darryl Dunn Brad Mowrey site group/ Russ Glaser Tony Lopez Quality Assurance/ Greg Ficher [Flinch Studio] exective producer/ Chris Takami producer/ Michael Viner lead designer/ Will Amato designers/ Michele Welbart David Ing Sean Shimoda Card Design/ Penny Kaisaki Game Engineer/ Emil Petrinic

 今回もまたまたでましたティムバートン監修のネットアニメ『ステイン・ボーイ』。2作目が個人的に不作だったとおもっていたので心配してましたが、今回の3作目でおもしろさが復活しました。
 今回はいままでのような切り口ではなく、アニメとしての面白みがだせてきた、という印象を受けました。これまではなんか企画があってその企画がすべてのストーリーを支えているというかんじだったんだけど今回はストーリーそのものがすべてを支えているという感じでした。
 今回の敵は、バーバンク町でボーリング場に出没する怪人・ボウリングボールヘッド。つぎつぎにボウラーたちをおそってはボウリングシューズを奪い去り奪ったシューズを売りさばくという悪党。
 なぜボウリングボールヘッドはそんな悪行を続けるのか?そこに我らがヒーローステインボーイが登場。しみをつくることしか能力がない彼だけど今回はすこし違った能力も使ってます。そしてすこし彼の性格がでてきた感じがして、また感情移入しました。
ところであの軍曹さんのところへ指令を受けに行くステインボーイがつくったシミって毎回消えているんだけど雑巾がけで消えるもんなんだろうか?化学モップとかつかうのかな?
ボウリングヘッドシューズの言葉を聞いたらちょっとボーリングでもやってみませんか?

クールランニング
■監督/ジョン・タートルトーブ製作/ダーン・スチール脚本/リン・シーファー トミー・スェードロー マイケル・ゴールドバーグ原作/リン・シーファー マイケル・リッチー製作総指揮/クリストファー・メレダンデリ音楽/ハンス・ジマーCAST/デニスバノック(リオン) サンカ・コフィ(ダグ・E・ダグ) ジュニア・ベビル(ラウル・D・ルイス) ユル・ブルナー(マリク・ヨバ) アーヴ(ジョン・キャンディ) カート・ハンフィル(レイモンド・J・バリー) ジョセフ・グルール(ピーター・アウターブリッジ)他

 むかし、日本でも夏と言えばレゲィ・ミュージックが流行っていたときがあった。日本も夏は亜熱帯と言っていいくらい暑いから南国の音楽が似合うんだとか何とか。いまでもやってるとおもうけど、フェスティバルと言って海の近くでみんなでレゲィ・ミュージックを聴く集まりがある。
 夏の炎天下の中、海の潮風に当たりながらビールを飲みまくるという、一時期人気がでてマナーを守らない人たちがでてしまい、ビールは禁止で、おとなしく聞くことを義務づけられたそんなときがあった。ビールは前から持ち込みは暗黙の了解だったらしい。けど、本当にレゲィが好きな人ばかりだったので、ビールを飲んでもただ陽気なだけだったみたい。アルコールを飲んで素敵に弾ける夏の午後ってかんじだったらしいけど。
 
 まぁ、あのときのレゲィ・ミュージックの隆盛はないとおもうから逆に本当に好きだった人たちには今が落ち着いていいんじゃないかって思う。ラスタカラーとか巷にはびこってた。そのときぼくは高校生か浪人生くらいだったかな。あのときの夏の強すぎる日差しって覚えている。10代って怖い時代だなぁとつくづくおもう。そうした時期にぼくもレゲェ・ミュージックを聴いていた。
そんなある日、友達に誘われて新宿の伊勢丹の近く(ムラサキスポーツとかあるところだったかな。青い色のビルが印象的だった。)の映画館にほとんどクーラーを浴びるために入った。レゲェ・ミュージックってなんかいかれた人が聴く音楽って気がしていたのでなんとなく敬遠してたんだけれども。それからちょくちょく聞くようになった。そう、J-Waveで流れたBig Mountainの"Baby, I love your way"がきっかけでぼくにもレゲェを聞く時期ができたんだったっけかな。あの音楽は誰が歌っているのか知りたくていろいろ調べた。いまだったらネットで掲示板に書き込んだりするんだろうけどそのときは携帯電話で離れた人と通話できるくらいがすごいという時代だった。ぼくはまだ携帯電話を拒否し続けていた(だから僕は今でもPHSにこだわっているんだけど)。  
そんな流れもあったんだけど、そのレゲェ・ミュージックとはほんとうはあんまり関係ないところでこの映画はあった。この映画が上映されたときはちょうどレゲェ・ミュージックが流行り出す直前だったんじゃなかったかな。とあるオリンピックでボブスレーという氷の上を4人でソリに乗って速さを競う競技がある。
 
 それになぜかジャマイカの人たちが参加しようと言うお話。それが実話らしい。ジャマイカというのがレゲェ・ミュージックの発祥の地、ボブ・マーリーの生まれ故郷だ。なんでジャマイカのひとが始めることになったのかという詳しい経緯は映画の中で、ということで、それでも南国の人が寒い氷の競技を始めようというところがおもしろい。

 バスタブのなかで4人でボブスレーのシュミレーションをするところなんてなんともいえない。でも、ぼくの好きな場面はやはりあの、本番の4人の顔つきが真剣な場面だろうなぁ。

 そういえば、この映画のサントラは当然レゲェ・ミュージックなんだけど、そのなかにぼくが気に入ったアーティストがいてそのひとがダイアナ・キングというひとだった。このころはまだ人気がなくて探しようがなくて困った記憶がある。その後、"Shy guy"っていう曲をヒットさせて有名になったっけ。
この映画を観てジミー・クリフが"I can see clearly now"を歌っているって思っている人がいるかと思うけど、実際はこの曲のオリジナルはボブ・マーリーなのは案外見落とされがち。でも、ぼくもジミー・クリフのこの曲のイメージの方が強くなってしまっているんだけれども。
卵にキスしていい旅を!


魔女の宅急便

 最近テレビで魔女の宅急便のDVDがでたという宣伝をよくみかけるようになった。この映画を観に行ったのはいつだっただろう。宮崎駿の作品で一番気に入っている作品である。 魔女の子キキは13歳。魔女は13歳になると一年間の修行にでなくてはならない。満月の夜に黒猫のジジと一緒に生まれ故郷を離れて別の街に行く。コリコと言う街になんとかたどり着いたキキは知り合ったパン屋のおかみさんの家に居候することに。そして荷物配達の仕事を始めるのだが…。 少女の成長というテーマは宮崎駿の作品の中にはかなりでてくる。アニメってトムソーヤの冒険にしても少年の成長が多かった。少女の成長というモチーフをはじめてアニメにもってきたのは宮崎駿ではなかったろうか?(手塚治虫がリボンの騎士を作っていたけど)ありきたりの成長ではなくてあくまで『地べた』に着いた成長というかんじで統一されている。ほうきにまたがる、わかりやすい魔女の形から実際のストーリーは恋もするし、人間関係になやんだり、魔女そのものになやんだり、そして仕事に関しても結構悩む。配達をすることって言うのはどこかでコミュニケーションとつながる。その辺にこの作品で描きたかったメッセージがあったんだろうなぁ。メルヘンだけにとどまらずに感情を常に刺激してくれるこの作品はいつみても素敵な後味を残してくれる希有なアニメだと思う。

雨あがる
■ 監督/小泉堯史 脚本/黒澤 明 撮影/上田正治 撮影協力/斎藤孝雄 美術/村木与四郎 照明/佐野武治 録音/紅谷愃一 衣装/黒澤和子 監督補/野上照代 CAST/ 寺尾  聰  宮崎 美子  三船 史郎  檀  ふみ  井川比佐志  吉岡 秀隆  加藤 隆之  原田美枝子  松村 達雄  仲代 達矢  製作/『雨あがる』製作委員会  スタッフ東京/イマジカ/博報堂/住友商事/日本カルミック/サミー/テレビ東京/角川書店/アスミック・エース エンタテインメント 製作プロダクション/ アスミック・エース エンタテインメント 製作協力/ 黒澤プロダクション/Elie Chouraqui/7Films Cinema 特別協賛/ チューリッヒ保険会社日本支社 配給/ 東宝 アスミック・エース エンタテインメント

  今はなき黒澤明監督の遺作。
「観た後に爽やかな感じがするように」
という監督の言葉通り、爽やかな気分がしました。

 爽やかというのはなかなか得られない感想で、いやゆる小学生の読書感想文ではないけれど「よかった」というのが大抵の感そうなわけです。それ以外の感想を言いたいがためになんだかんだと理由や理屈を付けて作品の感想を言おうとする。

 そこにはいつも自分は無理をしているという実感がつきまとう。いいじゃないか、「よかった」で。よかった、ことを別の表現で言うのってつまり、対象によるんです。観たものは本当は映像でよかったと残っているし、本を読んだりすれば文章そのものがよかったと残ったりします。

 映像になったりもするけど、基本的に五感は所詮五感なのです。観たものは映像として、味わったものは味覚としてしか残りません。それとなにかがむすびついたとき、思い出になるのかもしれないです。

 このさくひんは今はなき昔のよき日本が映し出されていると安易に言うことが許されるならばそう感想を述べてもいいかもしれません。しかし、もう二度と帰ってはこない日本の原体験ではないとおもいます。不器用でつい人に優しくしてしまうことが主人公の出世を遠のかせます。
 主人公の妻はそのことにため息をつきながら、あぁ、だからこそこのひとなんだ、とあくまで妻であることに誇りすらもっているようです。不器用な人生を生きている人は今の世の中でもいっぱいいます。
 才能もあるのになぜあのひとはあぁいう身分で落ち着いてしまっているんだろうと思うたびに世の中人がいいだけでは生きていけないんだ、とぼくでなくても世の中の人はそうおもっているはずです。

 しかし、だけれど、出世がなんだろう?自分の人生をまっとうしていくってことはなんなんだろう?とそういうことを真摯に見つめていける世の中に現代がなりつつあるってこともそろそろみんな気がつき始めてきたようです。

 失速することを許さず悪いことをしてでも世の中のスピードを高めて常に進化することが善であった時代。しかし、それに行き詰まりを感じてしまったからこそ、新しい時代がどこに向かうのか?そんな答えは案外簡単なところにあるのかもしれません。『雨あがる』にでてくる日本はそう遠い昔のことではないのです。

 たかだか100年くらいのスパンで変わったことなどすぐにとりもどせる、そんな爽やかさを感じました。そう、たしかに雨はあがるんだなぁ、いつの時代も。

メトロポリス
■企画/りんたろう 丸山正雄 製作/角田良平 宗方謙 アニメーション製作/マッドハウス 原作/手塚治虫「手塚治虫初期傑作集(角川文庫)」 キャラクターデザイン/総作画監督/名倉靖博 美術監督CGアートディレクター/平田秀一 CGテクニカルディレクター/前田庸生 挿入歌/「ST.JAMES INFIRMARY」作詞/作曲:Joe Primrose 「I CAN'T STOP LOVING YOU」作詞/作曲Don Gibson 歌:Ray Charles 主題歌:「THERE'LL NEVER BE GOOD-BYE」THE THEME OF METROPOLIS 作詞:Minako "mooki" Obata 作曲:本多俊之 CAST/ティマ(井出由香) ケンイチ(小林 桂) ロック(岡田浩貴) レッド公(石田太郎) ヒゲオヤジ(富田耕生)

  ノスタルジィ、ジャジー、メランコリー、どれもぎりぎりの、ねずみ色の雲に迫りながら、しかし、青色系の心情として保っている、素敵な作品。絡み合う要素がたくさんあってそれらがどれも自分を売り込むことなくしっかりと自分の持ち場をひっしとつかんでいる、それはこの作品をつくったスタッフの心情をそのまま反映しているというのだろうか。

 度肝という言葉が誇張表現として使われてしまうことは残念だけど、ぼくはこの作品のオープニングでその映像美に度肝を抜かれた。それはCGというのはここまでできるのかというものだった。僕はこのような印象の持ち方を向かしPlayStationでファイナルファンタジーに対して抱いたことがある。
 あのGameはオープニングムービー、イベントムービーというものがあり、それらが一連の映像を流した後に違和感なくユーザーのGameの進行にはいっていくのだ。それは自分が映画の主人公になって進んでいくというゲームの本質を正しく再現してくれているように感じた。これこそ、エンターティンメントなんだと思ったのだ。そのときの印象とにたようなものをこの『メトロポリス』で感じ取った。

 精緻の極まった機械が綿密に描かれていて、冒頭で華やかしく打ち上げられている花火の火の粉がたれ落ちる様は美しい。その摩天楼という言葉がぴったりの街・メトロポリスのそのリアルさとそしてその街に住んでいるおなじみの手塚キャラが一体となっている。アニメとリアルさはとてもなじみにくそうだという先入観が僕にはある。

 アニメの実写版がとても恥ずかしい仕上がりになったときのあの印象をどこかで想像している。でも、冒頭の花火の中、意地悪くどこかに違和感はないか、と探しているもののどこにもそのようなものはなく、むしろキャラクターの表情がとても微妙な表情をしていてリアルさを持っている。そこにはやはり驚きがある。映像的にはやはりここまでの完成度があるのか、という観たことのないものをみる憧憬がある。

 映像的にはとにかく美しいという言葉につきるんだけど、ストーリーは、というとたしかに工夫がかなりされているんだけどいろいろと不満があった。毎度のことなんだけど手塚アニメがリバイバルされるときの完成されすぎていて遊びがない、という印象なのだ。ヒゲオヤジこと伴俊作が探偵で活躍する。

 ヒゲオヤジってのは下町の親父の典型でどこか知恵が足りないんだけどむこうみずでいつも怒っているんだけど子供のことをどこかで理解を示しているって言う人情のキャラなのだ。このキャラは手塚治虫のよく言われるスラップスティックな部分をうまく表現するキャラなのでこのキャラがうまく動くことが大事な場面を引き立てる。でも、いままでみてきた手塚作品で手塚治虫本人が監修していないものでこのスラップスティックな部分が表現できていたものをあまりみたことがない。

 だいたい、生命の神秘とか文明の荒廃とか、壮大なテーマを謳うことは成功しているんだけど、笑いの部分がない。この前みた映画で田中麗奈が主演していた『東京マリーゴールド』という作品では、樹木希林がなんていう演技をしているわけでもないし、本人も撮り方次第でなんにも考えていない役者がすごい演技をしているように撮れてしまうんですね、なんて言っていたけどあれは本当のことなのかもしれない。

 そう、そういう監督業も漫画家はやっていたのだ。今の漫画家は脚本と絵が別の人だったり、分業制になっている。そうしたことも今と昔の大きな違いなんだろう。そう、手塚治虫は昔気質の職人なんだ。そうは思えない(顔も知っているしすこしだけどはなしているところも知っているから。

 ちなみに最近話題になっている渦中の人、LinuxというOSを作ったLinuxTovalsというひとがなんとなく手塚治虫に顔や風貌、考え方なんかがよく似ていると思うのは気のせいだろうか?)今回のメトロポリスでも手塚作品に沿った形で勧めるためにそのスラップスティックな部分を再現しようとしていてヒゲオヤジにいろんなギャグをしゃべらせているんだけどどれも上滑りをしているように感じた。本物のオヤジギャグになってしまっているのだ。質は落ちてしまうかもしれないけど、今の風俗を風刺したりマッチしたりするギャグを入れた方がよかったんではないかと思う。もちろんそのためには勇気がいるんだけど。あの映像美の世界の中で低俗なギャグがマッチするかというと疑問だけど、それはうまくいかなくていいところだとおもう。

 手塚作品には結構そのときの時代の風俗を意識したギャグがかなり多い。そういう部分って後で見返すと恥ずかしく思えたりするんだけどそれはそれでいいとおもう。後々の人が見ても素晴らしいと思うように作った作品なんてたかがしれているんだから。それに手塚作品はたしかに古い部分をたくさんもったものなんだけど本質的には古さを感じさせないところも特徴だ。変にみんなは意識して手塚作品を芸術作品にまで高めないとならないという呪縛にとらわれてしまうのだろう。

 そのことのい弊害は監督と脚本のりんたろうさんと大友克洋さんは痛いほど分かっていたに違いないんだけど。レッド公の「話せば分かる」という台詞もあるんだけどあれからもわかるんだけど、この作品の対象としている年齢層があくまで昔手塚治虫に熱中した年代の人をターゲットにしているということがわかるのだ。それはマーケティング的には正解かもしれない。今の世の中で手塚治虫がどれだけ受けるのかと言うことはかなり問題だというのは事実だからだ。

 しかし、手塚作品はあくまで子供をお客様にしているところが売りなわけでそれを変えてしまったところが今回の失敗とまではいかなくてもしこりを残したところだと思う。もちろん、あれだけの映像を作るのにどれだけのお金が動いたのかと言うことを考えるとそれは回収するのに戦略が必要であったことは仕方のないことではあるんだけれども。たぶん、本人が生きていたらあぁいう撮り方はしなかったんだろう、とはおもう。

 子供が大人に対していつの世の中でも抱いている恐怖感、そして最近では大人になりきれない子供による犯罪が多発している。それは子供が大人なんかにわかりっこないという秘密の連帯感みたいなものが気薄になってきていて世の中が変に大人びているからだと思う。恐怖感が子供という垣根を越えて一気に社会に向かってしまうと言うところにこの世の中の最大の欠点が浮き彫りにされていると思うんだけど、そんなものをあざ笑うような作品がぼくはみたいなぁと常日頃思っているところ。アニメはあくまで上品にしなくていいとおもう。

[後日談] ぼくはリアルタイムでこの映画の原作の『メトロポリス』を読んだことがない。当然なんだけどそれってこの映画を観る場合にちょっとしたファクターになっているみたいだ。まぁ、この映画の評価は一般的に高いようなのでいろんな人がこの映画を巡って批評しています。ぼくはあんまり作品を批評することはしないんだけど、それでも、生きてると誰かとしゃべったりすることって重要であったりするので悪いとわかっていても意見を述べたりします。そうした機微も含めて映画って面白いと思う。
http://www.watch.impress.co.jp/movie/column1/2001/06/04/79.htm

東京マリーゴールド
■2001/製作/「東京マリーゴールド」製作委員会 電通 テンカラット オメガ・プロジェクト シィー・スタイル 特別協賛/味の素株式会社/「ほんだし」発売30周年記念作品 監督/市川準企画/遠谷徹 小林栄太郎他音楽/周防義和主題歌/『ラヴ・イズ・モア・ザン・ディス(唄:スーザン・オズボーン)』劇中歌/『カゼドケイ』唄:蛍(作詞:Hotaru/作曲・編曲:坂出雅海・lori)原作:林真理子「一年ののち」(紀伊国屋書店刊『東京小説』収録)撮影/小林達比古 CAST/田中麗奈、小澤征悦、樹木希林、斉藤陽一郎、小林沙世子、長曽我部蓉子 蛍 石田ひかり、寺尾聰

 駄目な男とつきあっていませんか?といわれるとぎくっとする。
 ぼくもきっと駄目な男だからだ。でも、駄目な男だってわるくはない。というよりも人間最悪ってのは決めるのがむずかしいのだ。なんでそれでも駄目な男にエリコ(田中麗奈)は惹かれたのか?
 そういったところもこの映画を幅広いものにしていると思う。もちろん、自己弁護の意味も含めて。まぁ、キャッチコピーを読むと「最近、ダメなオトコとつき合っていませんか」だから、ね。
 この映画は田中麗奈もいうようにドキュメンタリーぽさがある。
 
 それは市川準監督による手法なんだけども、決してわるくない。等身大の東京を映し出すためにかなり「よさげな」効果だ。
 ほんと、デートスポット一覧というようにいろんなところで撮影されている。ちょっと、小澤征悦扮するタムラがぼくに似たところを持っている(もちろん共通した一部分ってことだけど)んだけど、その彼が住んでいるところがぼくの住んでいるかなり近くだったのと遊びに行くところも近かったりしてびくっとした。
 赤坂にも行くし、勝どきにも行く。これも市川準監督の好みだというが、それでも現在の東京をこれほどに性格にうつすこともないだろう、というくらいよく映っていた。

 まぁ、内容に踏み込むことはしないけど、この映画というか映画全般にきっと言えることなんだと思うけどこれは映画館でしか得られない波動のようなものをもっている。真実が開かされる瞬間のリアル感というのもそうだし、リアルに悩むエリコも今の東京で本当に悩んでいることがわかる、それを映画館でリアルに感じるのだ。

 リアルさと言うのに関しては、映画館にいたみんなは樹木希林の行動に一斉に笑うことが多かった。樹木希林も言ってたけど、自分はあんまりいい演技をしなかったし、あんまりでていないと言っていたけどかなり大事な役だったとおもう。切なくなる等身大のエリコをともすれば一緒に胸を痛めてしまう危うさを樹木希林は助けてくれた気がした。ほおっとしたときほど涙ってでてしまうもんなんだよね。

 今回は、はじめて映画館スクリーンの一番前でみた。首が疲れるかと思ったけど、夢中で観ていたので気にならなかった。それはまわりのみんなも一緒の思いだったに違いない。あと、市川準監督の味の素にたいする責任の果たし方なんてのもちゃんと確認してみましょう。それは、結構この映画の面白い味わい方だし、ちゃんとピントがあってるとおもうから。
そうそう、キャッチボールってのが今回キーになるんだった。まぁ、そんなのは観たらきっとわかるんだろうね。
ストリーミング技術を生かしたネット上のテレビで『東京マリーゴールド』を味わってみよう!
ImpressTV

stainboy -toxic boy-
■Design Tim Burton Produce Tim Burton [shockwave.com] exective producer/ Michael Yanover sevies producer/ Eric Oldrin associate producer/ Jullie Renwick editor/ John Geirland engineerign group/ scott barklow Josh King Alicia Gill Darryl Dunn Brad Mowrey site group/ Russ Glaser Tony Lopez Quality Assurance/ Greg Ficher [Flinch Studio] exective producer/ Chris Takami producer/ Michael Viner lead designer/ Will Amato designers/ Michele Welbart David Ing Sean Shimoda Card Design/ Penny Kaisaki Game Engineer/ Emil Petrinic

 しみをつくるだけのヒーロー・ステインボーイ。彼が今度は環境破壊を破壊する強敵トキシックボーイと対決する。またまたBossに怒鳴られて街のうざったいやつトキシックボーイを退治してきてくれと言われてとぼとぼと向かう。相手は殺虫剤やら毒を平気で飲み込んでしまう強敵だ。いったいどうなるのだろうか?

 今回は、前作・ステア・ガールとはちょっと違う構成。というか、今回はふつうだなぁと思った。なんていうのか、毒がなかった。前は冗長すぎるような構成がまたそれ自体がみりょくでもあったんだけど、今回はそういう見るべきところがなく、しかも、そんなに長くない。

 よく言えば、起承転結があるってことだろうか。ステア・ガールとかトキシックボーイやらが住んでいる町ってどんなとこだろ。ゴッサムシティよりは平和な気もするが。ニューヨークみたく当たり前のように精神科がよいの患者があふれているところも問題だけど。

stainboy -stear girl-
■Design Tim Burton Produce Tim Burton [shockwave.com] exective producer/ Michael Yanover sevies producer/ Eric Oldrin associate producer/ Jullie Renwick editor/ John Geirland engineerign group/ scott barklow Josh King Alicia Gill Darryl Dunn Brad Mowrey site group/ Russ Glaser Tony Lopez Quality Assurance/ Greg Ficher [Flinch Studio] exective producer/ Chris Takami producer/ Michael Viner lead designer/ Will Amato designers/ Michele Welbart David Ing Sean Shimoda Card Design/ Penny Kaisaki Game Engineer/ Emil Petrinic

 映画とはこういう形態をもつものだ、という観念があったのでここにはいわゆるフィルムを載せることにしていたんだけど、そもそも、レンタルビデオ屋で借りてきたビデオテープすらここに載せているというのは矛盾しているんじゃないかとおもえてきた。

 というか、映画は映画館で観るものという観念もあった。けど、それは単に固定観念であるとも思えてきたので、映画とは何か?という答えをまだ求めないようにした。

 ステインボーイというアニメはアニメーション映画とも言える作品。実際、これはFlash という技術を使ってインターネットで配信されているものだ。ただで見ることのできるアニメ。けど、完成度は高い。ステインボーイは、シザーハンズ、スリーピーホロウ、ビートルジュースなんかの監督でホラー映画をよく撮っているティムバートンという監督が作った。キャラクターデザインも彼がやっているらしい。
 水彩画でかかれたキャラクター”ステインボーイ”の味をなんとかだせないものか、と制作側はあれでもないこれでもない、と試しに試した結果、今のキャラクターデザインにおさまったらしい。詳しくはメイキングにかかれている。

 ステインボーイはただしみをつくるだけのヒーローなのだ。『しみ』ってあの『しみ』です。そういうヒーロー好きそうだなぁって、自分もすきなんだけど。正義とか悪とか、そもそもそんなものの線引きすら危うい現代にやってきた素敵なヒーローだとおもう。どことなくつかれてそうなヒーローなんだけどなんか憎めない。デザイン的に鬼才ティムバートンがよくでているとおもう。
 
 ある街にステア・ガールというずっとみつめつづけるおばけがいついてしまってどうにかしてほしいという依頼がステインボーイのBossのところに入ってくる。なんとかしないと、ステインボーイ!なんでみつめつづけるおばけがわるいやつなのか?そんなところも作品から楽しんでください。映画って新しいことに挑戦することが存在意義だとおもう。
ちなみに、日本の漫画の王様、手塚治虫はじぶんの漫画のカラーページにはいつも子供がつかうような水彩の絵の具を使って絵を描いていたのだとか。本格的な絵の具ではなく、何色もないようなごくありふれた絵の具を使ってあのきれいな絵を描いていたのだ。天才は似たところがあるってことなのかも。

四月物語
■監督:岩井俊二 80分/カラー/片面・一層/日本語音声2チャンネル:ドルビーデジタル5.1chサラウンド、 DTSデジタルサラウンド(邦画初!) 16:9LBシネスコサイズ(スクイーズ映像)/36チャプター 1998年劇場公開作品
出演:松たか子、田辺誠一、藤井かほり、加藤和彦

 この映画は上演開始後すぐに観に行きました。と言っても全国ロードショーなんて大きなものではなかったので渋谷の文化村だったかそこら辺の小さな映画(ミニシアター系なんだろうなぁ)に観に行ったのを思い出す。この映画は4月に上演されていて、田舎に住む女の子が東京に上京してきて初な感情、行動を赤裸々に刻んでいく様をまるでスケッチブックにフリーハンドで書いたような描写を続けながら進んでいくというストーリーなのです。同人映画みたいなタッチです。けれど、それがたんに2流の中身ではなくなっているところが岩井俊二のすごいところでもあるんだけど主演している松たか子もかなり肩の力をぬいてしかし、演技はさりげなく完璧におこなっているだろうということがスクリーンから感じ取れるのです。 特に桜の花びらが嵐のように吹き乱れる中に立つ松たか子は一時期CMでもそんな場面を観たことがあったけど、騒然&爽快というイメージがわき上がるくらい。あれは松たか子の勝利ってかんじがしました。とは言ってもなんてことはない場面なんです。それが逆にすごいとおもえるところがまたこの映画全体を貫くイメージであったりするんだけど。 これはいいものをみた、という爽やかさを感じました。爽やかさって春と言う季節にはとっても大切な要素なんだなぁと再確認したくらいでした。わざわざ授業を抜け出してさっさと渋谷に行った甲斐があった。

『卒業旅行 ニホンから来ました』
■東宝・バンダイビュジュアル提携作品/企画制作・メリエス  カラー/ビスタビジョンサイズ/98分/1993.09.04公開 メインスタッフ 監督 金子修介 製作 山科 誠/高井英幸 プロデュース 島谷能成/渡辺龍夫 プロデューサー 小林壽夫/山田耕大 原作・脚本 一色伸幸 撮影 高瀬比呂志 照明 高柳清一 美術 山口 修 音楽 大谷 幸 録音 林 大輔 編集 冨田 功 助監督 富樫 森 CAST/織田裕二 鹿賀丈史 鶴田真由 小坂一也 水野久美

  この作品を確か高校2年の時観に行った。会場は小さくて学校が終わって遅れて入ったのでいすに座れなかったのを覚えている。友達を連れて仕方なく一番後ろの非常口のちかくにござを引いてもらって地べたに座ってみた。

一浪一流の末に三流大学の史学部に卒業した三木靖男(織田裕二)は就職前にタイとラオスの狭間にあるチトワン王国という小国に卒業旅行をすることになった。彼は考古学オタク(オタクって言葉も時代を感じる)だったので遺跡のあるチトワン王国に来れておおはしゃぎ。遺跡を巡って写真を撮りまくる靖男の前にじゃぱゆきさん派遣を生業とするブローカー・桃山百夫(鹿賀丈史)が登場。なんとか靖男を口車に乗せてチトワン王国のアイドルに仕立て上げる。芸名は一発太郎。

いやがる靖男もマリファナとアルコールの力でハイになり、無事舞台を終えるとテレビ局の前にはすさまじい群衆が。
チトワン王国のトップアイドルになってしまった靖男は、これからどうするのか?日本に帰って就職か?それともこのままチトワン王国に滞在してアイドルを続けるのか?

 流れ的にはかなりふざけてるんだけど、鹿賀丈史のうさんくささと織田裕二の初な青年という役どころがうまくとけ込んでいいかんじの軽く楽しめる映画になっている。評論家にはタイを侮辱しているという批判もあったみたいだが、しかし、どこにもよりどころのない架空の国での出来事を描くよりはずっとコミカルタッチに成功している。

就職戦線異状なし
■製作=フジテレビジョン 配給=東宝 1991 2,841m 103分 カラー ビスタビジョンサイズ 製作/三ツ井康 エクゼクティブ・プロデューサー/村上光一 堀口壽一 プロデューサー/鎌田敏郎 一瀬隆重 瀬田素 石原真 監督/金子修介 助監督/猪腰弘之 脚本/福田卓郎 金子修介 脚本協力/坂元裕二 原作/杉本伶一 撮影/高間賢治 音楽/小六禮次郎 美術/及川一 録音/林大輔 照明/吉角荘介 編集/冨田功 出演/織田裕二 的場浩司 仙道敦子 和久井映見 坂上忍 羽田美智子 本田博太郎 音楽 「どんなときも」 槙原 敬之

 僕の思い入れの強い映画です。たしか、僕が中学3年生の頃に友達と見に行ったんだと思う。映画館に遊びに行くって言うスタイルができあがったのはこの映画を見に行ってからじゃないかな。それに映画を観て感動したという経験をしたのもこの映画からかも(洋画ではETが最初だったけど)。
 キャストを見ると織田裕二、的場浩二、和久井映見など、そうそうたるメンバーで構成されている。槇原敬之のデビュー曲「どんなときも」が使われた映画でもあります。  日本の音楽でこれはいい!と初めて思った曲でした。それまであんまり音楽なんて聴かないのに友達に頼んでCDを借りたのを思い出しました。

 それにこのころはいわゆるフジテレビジョンものというのがはやっていた頃で、独特の映画の取り方なんです。監督もぼくがすきな金子修介で、今はガメラシリーズを撮っていますが、日本映画のメジャーな監督さんです。この映画はある大学生が青田買い(そんな言葉あったんだ)にあったり、恋や友情やらがたくさんちりばめられている青春ものです。

 就職活動ってのは今は別の意味で激化しているけどこの映画が上映された頃は会社が一人の学生に高額のお金をだして他の会社にとられないように缶詰状態にしてみたり、車を買ってあげたりといわゆる『バブル』が日本の社会に巣くっていたころの影響が見られた頃です。今みるととても不思議な感じがします。
 ぼくも就職活動をしたときにこの映画を思い出しましたが全然状況が違っていました。時代を感じさせる映画です。ちゃらちゃらしていてもどこか泥臭い青春ものというのはいまでも変わらない定番の物語ですが、それでも、一直線さがここまで出せる映画というのはなかなかないとおもいます。

 この映画での和久井映見の役どころというのはFテレビの人事をやっていて織田裕二をどうにか採用しようと人事として女として誘うという結構高飛車な女なのです。和久井映見はそれからどちらかというと弱くておっちょこちょいな憎めない女の子という役どころをすることが多かったものでこの役どころはまた珍しいかんじがします。

 和久井映見の映画デビュー作である『べっぴんの町』という映画では主演がたしか柴田恭兵で、和久井映見はほとんど登場しません。でも、その役どころというのが結構はまっていて、これはたしかに大きく成長する役者さんなんだなぁとおもわされました。

月とキャベツ
□監 督:篠原哲雄/脚本:篠原哲雄・真柴あずき/音楽:山崎まさよし   企画:原 正人・黒井和男/プロデューサー:吉田佳代/ラインプロデューサー:松岡周作   原 案:鶴間 香「眠れない夜の終わり」(第2回さっぽろ映像セミナー入選作)   主題歌:『One more time,One more chance』(作詞・作曲・編曲・唄:山崎まさよし)   撮影協力:群馬県吾妻郡中之条町
CAST/   (花火)山崎まさよし/(ヒバナ)真田麻垂美/(理人)鶴見辰吾   (木村)ダンカン/(森崎)中村久美/(新人バンド)ネタンダーズ   (ギタリスト)千葉大輔/(ベーシスト)田中要次/(ドラマー)倉持裕之   (モデル)海藤れん/(DJの声)長谷川雄啓/(ニュースの声)吉田一之・吉田真奈美

 泣く切なさ、後悔、それらとはちがう、自分は生きている。
 女の子・火花(真田 麻垂美)は踊る。火花には夢があった。花火(山崎まさよし)にも夢がある。いや、夢は実現した、しかし、その先の夢が澱んでしまっている。カリスマ的バンドを解散して自分のこれからを見失っている。火花はダンス教室に通いながらいつも花火の歌をウォークマンで聞く。教室の隅で。
花火は大会に何度か出場するがなかなか実を結ばない。

 でも、花火の歌を聞くとき自分の存在を近くに感じることができるのだ。存在の気薄さ、それはいつも彼女の周りをぼんやりとまわっている。自分の存在は花火とともにある、花火に心のよりどころがあった。

 そんな2人がある春の晴れた日に草原で出会う。  花火が乗っている車のバックミラーに火花の踊る姿が映る。  2人は、花火は歌で、火花は踊りで、2人のコミュニケーションは続く。2人は自分が好きで信じているもので互いの心に近づいていく。
 
 火花は水をおそれる。
 
 その理由を聞かず、しかし、花火は火花をしっかりと抱きしめて守るのだった。  2人の夏休み。夏休みはきっといつか終わってしまう。そのとき2人それぞれの宿題はどんな形で提出されるんだろう。

 もう一度観たくて仕方ないとおもえる作品だった。けど、心の準備ができるまでまだできそうにない。複雑な感情が湧き起こる、そんな素敵な物語だった。

ガメラ2 レギオン襲来 製作=大映=日本テレビ放送網=博報堂=富士通=日本出版販売 配給=東宝 1996.07.13  100分 カラー ワイド
■ 総指揮徳間康快 製作代表/加藤博之 漆戸靖治 大野茂 製作/池田哲也 保坂武孝 澤田初日子 製作補/高橋博 齋藤久臣 森江宏 企画/島田開 武井英彦 鈴木伸子 プロデューサー/土川勉 佐藤直樹 南里幸 アソシエイトプロデューサー/奥田誠治 門屋大輔 藤巻直哉 高橋千尋 監督/金子修介 助監督/片島章三 脚本/伊藤和典 撮影/戸澤潤一 音楽/大谷幸 主題歌/『そら』 ウルフルズ 美術/及川一 録音/橋本泰夫 照明/吉角荘介 編集/荒川鎮雄 製作担当/森賢正

  北海道に落下した草体がそれに共生して群をなす異形生物レギオンという生物により、地球の生態系が脅かされる。

 レギオンは電磁波に引きつけられるという性質をもっており、またシリコンを吸収して酸素を大量に排出することで、環境を破壊し続ける。前作でガメラと意志疎通していた草薙浅黄(藤谷文子)がどのように今回ガメラと絡むのかが見所。

 また、あの養老孟司(解剖学者でフリーター??)が北大の研究者としてレギオンを解剖する場面がある。とても研究者らしく(当然だけど)演技しているので見逃しがち。養老孟司を知る者にとってはそこはみものかも。

 本作品ではガメラは人類の味方であるというよりも地球の味方なのだ、というスタンスが初めて登場する。そのテーゼはそのままガメラ3 邪神イリスへと引き継がれるのだが、地球の味方をするガメラにとって人類の環境破壊という行為は許し難いものなのだ。人類か、地球か。

 環境破壊ということに関して製作でかなり調査が行われたと思われるところがいくつかある。たとえば、異形生物レギオンは草体にむらがる幼体として生息しているときはシロアリの生態に近くなっている。

 また、シリコンを吸収して酸素を大量に排出するところは原始の地球で今の生物の共通の祖先が行った史上最初の環境破壊行為であった、無機物を栄養として酸素を放出するという行為を意識していたに違いない(今の地球の大気に酸素が多く含まれているのはそのときの行為がもとになっている)。

 酸素が多く含まれる大気というのは結果的に人類にとっても他の多くの生物にとってもプラスになっているがそれは酸素が本来生物の毒となる気体でありそれを逆に利用して生き延びてやろうという生物の戦略の結果なのだ。

 そうした、完全に悪としての環境破壊と言う行為を定義できるのかどうか?人類の環境破壊という行為を単純に悪いものと定義していくことが正しい評価の仕方なのか?という難しいテーマも含んでいる。

 外からやってきたレギオンは排除すべき生物だがそれ自体が本来悪なのかどうかというのは人類にとって好まざる生物だからだ、ということ以外の価値基準というものは見いだせない。
レギオンとガメラとの戦いというのはその辺の本質の決闘という側面もあるように思えた。

はつ恋 (c)「はつ恋」製作委員会/ エンジンネットワーク TBS バンダイビジュアル 角川書店 電通 デスティニー 配給/ 東映
■製作/ 安田匡裕 監督/ 篠原哲雄 原田俊明 脚本/ 長澤雅彦 阿部忠通 音楽監督/ 久石 譲 企画/ 小滝祥平 撮影/ 藤澤順一 濱名一哉 照明/ 矢部一男 川城和実 録音/ 野中英敏 プロデューサー/ 遠谷信幸 美術/ 都築雄二 大川 裕 編集/ 奥原好幸 加藤悦弘 アソシエイト  プロデューサー/ 千野毅彦 河野 聡 CAST/  田中麗奈 原田美枝子 真田広之 平田満 他

 今月で26歳になった。 いくつか恋愛をしているような気もするし、そうでもない気もする。
 うまくいったものは何一つない。そして、それは26年生きて、26年間を思い返すとそう思う。

しかし、ずっと生きていって、そのとき自分の人生を振り返るときどの恋愛が、自分にとって素晴らしかったといえるのだろうか、あるいは言おうとするのだろうか?

 会田聡夏(田中麗奈)は17歳になっていた。そんな17歳の春休み。
ある日、母・志津枝のオルゴールを偶然あけるとき、そこには一枚の手紙が入っていた。

 それは昔の母の好きな人への送ろうとした、しかし、送られるはずのない手紙だった。娘は、その手紙をその送られるはずの相手に送って2人を会わせようと画策する。
母は入院する。父は母を看病する。春が近づいてきて何もかもが始まろうとする素敵な季節の幕開けにはちがいないのだけれど。
 田中麗奈は走る演技がとてもきれいだなぁと思う。なにかあると走る、とにかく走る。走るときにはしゃべらないので表現できるトリックが限られる、しかし、それは限定されたデメリットではなくむしろ本人にとっての得意の表現の場が与えられたとおそらく田中麗奈自身には思えていることなのかもしれない。
 
 『月とキャベツ』の篠原哲雄、音楽は久石譲、オルゴールの聴いたことのある音色は、観るものすべてにとってもどこかで聴いたことのある涼しい音色、淡い音色、に違いなかった。

ガメラ3 邪神<イリス>覚醒
■総指揮/徳間康快 監督/金子修介 脚本/伊藤和典、金子修介 CAST/中山忍、前田愛、藤谷文子、山崎千里、手塚とおる、津川雅彦 他 カラー108分/ステレオHi-Fi/ドルビーサラウンド/1999年作品

 『就職戦線異状なし』の金子修介監督。
 僕はこの監督が好きなのだ。
今回は3人の俊英が関わっているのでこの作品はかなり重さが違う。単なる怪獣映画に終わらないのだ。これまでのガメラの位置づけは、ゴジラと比べると特に完全に正義のために戦っている怪獣で曇りがなく戦っているという印象がある。また、子供の絶対的な見方でもある。

 しかし、この『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』では冒頭からその神話は崩れている。
 綾奈(前田愛)がまずガメラに身内を殺されている過去を持ち、ガメラを死ぬほど憎んでいる。ガメラは一時期、巫女のような存在の娘(藤谷文子)と精神的につながっていたが勾玉の破壊によりそのつながりは断ち切られ、今ではガメラ自身の意志で戦いを行っている。

 ガメラは環境破壊を平気で行う人類に味方をするのをやめようとしているのだが、作品中でゲームプログラマーの天才(手塚とおる)の言うように
「迷っている」
のである。

 昔のように単純な図式ではなくなっているのも現代という時代を自然に反映している結果ともいえる。
 ガメラは古代人の作り出した生物兵器だとも言われている。同時に宿敵ギャオスも古代人が生み出したものであり、遺伝子の変異を積極的に使って環境に異常に適応する力を持っている。一作目でもギャオスは登場しているがそのときに比べて遙かに強力になっている様が伺いしれるのである。
 
 今回の怪獣のメインは邪神イリスである。設定ではギャオスの亜種と言うことになっている。
昔からのガメラファンならこのイリスの位置づけは用心棒怪獣ギロンに近いなぁとおもったのではなかろうか?あのときも最初にギャオスがでてきてその次にギロンがでてきた。怪獣ものは最近環境破壊とむすびつけたメッセージを発することが多い。
 しかし、そろそろそれを一歩踏み出して人間の精神、良心、倫理、なんかの精神世界をモチーフにすべきではないだろうか?とおもう。

 ガメラやイリスがそれぞれ女の子と心を交わすというストーリーはその複線であるようにも思えるのである。

メッセンジャー 1999 小学館・ポニーキャニオン

  一時期、自転車ブームを起こして、映画、今でもたまにMTBに乗って、アウトドア用のザックを背負って走っている自転車便を見るけど、やはり現実は厳しいようです。
 バイク便と自転車便とでは自転車が速い!と草薙くんがいうんですが確かにその通りだと思います。確かにダートをを走っていたらエンジンのついているバイクが速いですが、道路事情を考えると小回りの利く自転車の方が速いだろうということです。
 
 運ぶ先は大企業とは限りません。中小企業、とにかく運んで欲しいといっているところに運ぶのが仕事ですからきっと入り組んだ路地を走り抜ける必要があるでしょう。
それは、逆に自動車とバイクの関係を見ると明らかでしょう。バイクの方が自動車よりも小回りが利くのです。
ただ、ダートが速いということと小回りが利くので目的地に速く着けるということは切り離して考えた方がいいでしょう。

 ある意味、ベンチャー精神が強く打ち出されている映画という見方もできるのかもしれない。そう思います。
はじめ、ナイナイの矢部と草薙君とで仕事をしているんだけどそのあと矢部が事故に遭い、急遽、飯島直子が仕事をするようになる。そのうち人数が増えるんだけどそのときの仕事の転機となるある草薙君の名案がでる。
 そのヒントって結構すごいことだなぁっておもう。ヒントの生まれる土壌をすこし再現してあったから。
 加山雄三もでているんだけど役どころがおもしろい。ガキ大将がどんなことになっているのか、ってとこも見どころ。でも、ちゃんとかっこいいんだよなぁ。

 フジテレビの映画を観たいなぁと思っていたときに観たのでちゃんとはまりました。ときどきそういうときってあるんだよなぁ。ヒーローインタビューとか、就職戦線異状なしとか。

ミリオン・ダラー・ホテル
□ 監督/ヴィムベンダース  脚本/ニコラス・クライン  製作/ディーパック・ネイヤー、ボノ、ニコラス・クライン、ブルース・デイヴィ、ヴィムベンダース  原案/ボノANDニコラス・クライン  音楽/ジョン・ハッセル、ボノ  衣装/ナンシー・スタイナー

 自我。
大人になるためにもっていく荷物。人をいっそう成長させそして切ないほど人に対して冷たくなれる不思議な薬。
ミラジョヴォビッチは当たり前だがとてもきれいでセクシーだ。トムトムの純真無垢さはジェレミー・デイヴィス。彼はショーン・ペンによって推薦されたという。FBI捜査官はメルギブソン。

 淡々としたストーリー。ミリオンダラーホテルという一癖もふた癖もあるひとびとのすむホテルがある。そこで殺人事件がおきた。
その事件を解決しようとFBI捜査官(メル・ギブソン)が立ち上がる。
ストーリーはその犯人がみつかるまでの過程が淡々とつづられる。
だらだらと流れる時間。そこでの人間模様。自分の欲望と幻想がそのまま現実にゆがんだ形で実現される様子。

 そしてそのなかでゆがんだかたちで純粋さが実現されている。トムトムはだれのたのみもことわらず、あらゆることの『ぱしり』として日々スケボーをけりながら街中を滑走する。そう、トムトムは純粋なのだ。そしてかれはみなから「バカ」だ、と言われている。

エロイーズ(ミラジョヴォビッチ)はある意味、トムトムと好対照にある。おなじように一癖もあるミリオンダラーホテルの住人だけれどただだれかにだまされている弱者ではない。
 彼女は世の中の世知辛さをしって賢く立ち回っている。彼女の通称は『処女のマリア』。彼女にあって彼にないもの、そしてそれがあることがそして切なさと生きていく上に大切であるかどうかの葛藤。だれも無邪気で生きているわけではない。みんながしかたなくもっているもの。
その典型的な場面が計画を実行する上でみんなに紙を回して投票をするところ。アメリカが設立されたときに民主主義にのっとって投票をしたことに習っている。そう、それがあの国の始まりだった。そしてそこにも。
 彼の部屋が出てくる場面がある。パッチワーク、コラージュ、などなど。きれいな石がおいてある。どれも断片的でそれをならべて自分の世界ができている。かれのいきかたそのものだ。だからいわんこっちゃない、とそうおもってしまう。彼はとても素直に生きているから、しかし、だれも彼なんて見ようとしない。かれはただ人ごみの中を通り抜けてしまうだけだから。

 今回の映画はロックミュージシャンU2のボノのインスピレーションから始まった。1987年にビデオクリップを撮ろうとしておとづれた地がこの『ミリオンダラーホテル(現在ではフロンティアホテル)』だった。
そのホテルの最盛期には、ロサンゼルスに来たらかならずそのホテルに止まるべきだといわれるくらいの規模であり、ルーズベルトやアイゼンハワー、トルーマンらも、大事な客であったと言う。
ボノの言葉によると、
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誰かに物語を書いてもらいたがっているようだった、といい、屋上には、3mほどで隣のビルに飛び移れるところがあって、U2のギタリストのエッジは「信念さえあれば、自分にはやれる。信じれば、絶対できる」
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と言ったらしい。
 すでに映画の出だしは決まっていたわけだ。物語はその出だしが滑ればあとは勝手に動き出す生き物だ。
その一年後に友人のニコラス・クラインに話をもちかけて脚本ができあがっていくわけだが、構想には何年かかかった。クラインはクラインは、ボノに、主人公が向かいの建物へ行こうと屋上から飛び降りる話だという構想をもちかけられたとき、
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「僕の方こそ、実は映画の冒頭に使いたいと思っているセリフがあるんだ。「飛び降りてから、気がついたんだけど…」っていうのが」
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と答えている。不思議な2人のイマジネーションの一致。機は熟していたというべきか。

 その後、クラインにヴィム・ベンダースを紹介し、3人で脚本を練ることになる。

 だらだらとした時間はときとしてひとをなごませる。
眠くさせる。
春の陽気のように、
時がとてもゆっくりとながれ、
雲が風の動きにあわせてのそのそと動いているのをみている
河川敷に寝そべっているように。
人を安心させ、そして
しかし時間は動いている。
信用するものを、信用しないものをそれらを乗せて容赦なく時間は動いていく。
憎んでも憎んでもそれらはなにもかもを乗せていく。

トムトムの言葉をかみしめたい。


2月20日、ベルリン国際映画祭で「ミリオンダラー・ホテル」は銀熊賞(審査員賞)を受賞した。

サトラレ
■監督/本宮克行 製作総指揮/藤原敏雄 製作/横山茂幹 阿部秀司 他 企画/戸谷仁 原作/佐藤マコト「サトラレ」(講談社「モーニング真マグナム増刊連載中) 脚本/戸田山雅司 音楽/渡辺俊幸 美術/部谷京子 製作/「サトラレ対策委員会」日本テレビ ROBOT スタジオカジノ 東宝 博報堂

  悟られたい。ひとのじぶんのきもちを知ってほしいと言う願望。
悟られたくない。ひとにじぶんのきもちを見透かされたくないと言う願望。
このどちらの願望も、むかしからひとがもっていた基本的な欲求であるのにもかかわらず、特に現代であきらかに多くもたれている欲求であると思う。
情報が過多になっているからこそ、自分の気持ちという情報を誰かに発信して理解してもらいたいと言う発想にたどりつくのはたやすいことだし、情報が多いからこそ誰かに自分の気持ちがばれてはいないかどうかが神経質になりがちなくらい気になることでもある。
最初の方は自分の気持ちがみんなに筒抜けになっていることに気づかない症例7号と、みんなとのやりとりがしらじらしくどこかユーモアでかなり笑ってしまう。そういう状況下だったらそんなやりとりになるんだろうなぁというかんじ。
症例7号以外はみんなで演劇をしているかんじ。でも、ひとに全部心が読まれると言うことが面白いですむはずはない。そんな展開の仕方が思わぬ流れになっていく。そこがこの映画の一番うまいところだ。
彼らは日本に7人いるというちかくにいるひとに自分の気持ちが筒抜けになってしまう、思念波をおくってしまう能力をうまれつきもってしまっているひとたちである。
彼らはその稀有な能力を持つと同時にIQが異常に高く、そのため国家的財産として評価される。
国家は彼らを保護すべく、法律を制定し、彼ら自身にサトラレであることを悟られないようにすることにしている。しかし、そのことは当然のことながらさまざまな影響をもたらすことになるのだった。
パンフレットにSF的要素をもつ映画なり作品なりはそのSF的特異性のある事柄を除いてはリアルを強めなくてはならない、と解説している。現実離れしていることがらを強調するためにはそれ以外の要素はすべて現実さを強調することになるのだ。
主人公のサトラレNo.7は外科医だが、手術の終わったあと、ゴムの手袋をごみ箱に入れる際に手前におもいっきりひっぱって輪ゴムを飛ばすようにごみ箱の中に飛ばして捨てている。それは技術指導のせいであり実際に外科医はそうして手袋を捨てているにちがいないのだが、そんなところにもこの映画の完成度を高めている要素があった。
あと、出演している役者方がかなりのスターキャスト。
安藤政信の演技が光っていた。鈴木京香も。

ギター弾きの恋
■監督・脚本/ウディ・アレン 製作/ジーン・ドゥーマニアン 製作総指揮/J・E・ボーケア 共同製作総指揮/リチャード・ブリック、レッティ・アロンソン 撮影監督/チャオ・フェイ 音楽監督/ディック・ハイマン プロダクション・デザイン/サント・ロカスト 衣装デザイン/ローラ・カニンガム・バウアー キャスティング・ディレクター/ジュリエット・テイラー、ローラ・ローゼンタール
キャスト/CAST エメット・レイ/ショーン・ペン ハッティ/サマンサ・モートン ブランチ/ユマ・サーマン エリー/グレッチェン・モル アル/アンソニー・ラパグリア ビル/ブライアン・マーキンソン Mr.ハイネス/ジョン・ウォーターズ ウディ・アレン/本人 ベン・ダンカン/本人 ナット・ヘントフ/本人 ダグラス・マクグラス/本人

 見栄っ張りで性格が悪く、女癖が悪い、酒癖が悪い、意地汚い。
しかし、ギターを弾く腕はたしかなものだった。
エメット・レイ(ショーン・ペン)は、才能に恵まれているギターリスト。ジプシージャズのギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトこそが世界で一番すばらしいと信じている。そして、自分が2番目だと。機関車をみるのがなぜかすきで、持っている拳銃でごみ捨て場にいるねずみを撃ち殺すのが趣味。
途中にはさまれるウディ・アレンをはじめとするジャズ愛好家たちの彼に対するエピソードを語り草にするルポタージュは本物の彼がいたかのように思わせるがまったくの架空の人物(ジャンゴ・ラインハルトはいるらしい)。
しかし、その時代に生きたジャズミュージシャンもたしかにそんなやつがいたような、あんな時代だった、とおもわせるような演出がちりばめられているという。演出といってしまうと、嘘にちかいがそれはこじゃれた嘘。そう、彼は自分の人生を嘘で嘘で塗り固めてしまった。その嘘が結局自分の首をしめてしまうだけであることをずっとずっと彼は知っていた。しかしやめなかった。
真摯な姿勢で臨んでいたのはギターを弾く態度のみだった。
彼が本当に心をひらいていたのはギターだけだった、と結論付けるのはあまりにも簡単なことすぎる。彼のそのおもいったけを最後に語るのはこの映画の本当のラストシーンだとおもう。涙を誘われるのか、彼を笑うのか、彼を軽蔑するのか、その分岐点をラストにもってくる演出をウディがしたのは心憎しい。

CastAway

 ただの漂流ものともちがう、なんだかそんなに特別な環境のことを言ったものとも感じ得ない。この感触はなんと表現したらいいんだろう?そういったかんじのする映画だった。ストーリー的にはかなりシンプルなものだ。トムハンクス主演でほとんど彼だけがずっと出ていると言う不思議な映画だ。そして言葉があまりでてこない。ストーリーは監督のロバートゼメキスが言っているように3幕に分けられる。1幕は現代でシステム・エンジニアとして活躍している彼が仕事を効率的に進めるためにはどうすればいいのかを試行錯誤している画面、そして2幕は漂流した彼がどうやって自分の命を守るために今何をすべきなのかを模索する、そして3幕目は、…。 ロバートゼメキスの言う、「生き残るだけなら易しいかもしれない…本当に難しいのは生きてゆくことだ。」という言葉がとても感慨深い。

あなたのために where heart is
■20世紀フォックス 製作・監督/マット・ウィリアムズ 脚本/ローウェル・ガンツ ババルー・マンデル 原作/ビリー・レッツ 音楽/メイソン・ダーリング CAST/ナタリー・ポートマン アシュレー・ジャド ストッカード・チャニング ジョーン・キューザック ジェームズ・フレイン ディラン・ブルーノ サリー・フィールド 他

 映画観るひとなら思うことだと思うけどどうして邦題そんなのつけるの?っておもう。日本語だと変な直球を投げてくるんだよね。
 なんていうのかな、まちがっていないんだけど当たらずとも遠からずというのかな。映画のタイトルって難しいんだけど当たらずとも遠からずってのが一番まずかったりする。どぎついのも変。まぁ、むずかしいんだろうけどね。
 字幕も大変そうな訳がついているのを見るたびにおなじ印象をもつ。

 僕の好きなナタリー・ポートマンが主演の映画。完全に主演ってのはこの映画が初めてじゃないかな(デビュー作のレオンはジャン・レノが一応主役だろうし。そういえばさっきTV観てたら茶髪の広末涼子がジャンレノの横で泣いてた)。
 ナタリーは自分が出演する映画にたいしてかなりシビアに選ぶことで有名なんだけど(まぁ、なまいきなんだろね)、そんな彼女が選んだのがこの映画。批評でも言われているんだけど彼女がまだ未完であるということがこの映画を彩っている。
 
 それは彼女自身がこの映画をチョイスした動機ともなっている。彼女の年がちょうどこの映画に出演することに向いていていまの年齢をなにかのかたちで残しておきたかったという。開花させるというのとはちがう、つぼみが開いて花になってはいるんだけどまだぎこちなく咲いている可憐な花びらそのものというかんじかな。
 
 よっぽど魅力的で今ハリウッドで間違いなく注目株の女優さんなんだけどそれでも俳優というのはその年齢に左右されているところがたしかにかなりある。彼女はこれから成熟していくにちがいなく、それはキャリアアップにちがいない。
 しかし、完成されていないこと、まだまだ若いと言うこと、それらは『今』しか得られないことなのだ。それを間違いなく誰よりも本人がよく知っていて、まるでそのときの年の自分を写真に収めたいと言う理由からであるかのようにこの" where heart is "に出演したのだ。

 テネシー州に住むノヴァリー・ネイション(ナタリー・ポートマン)は17歳。大きなお腹を抱えた彼女は、ミュージシャン志望のボーイフレンド、ウィリー・ジャック(ディラン・ブルーノ)とともにカリフォルニアに旅立とうとしていた。車はおんぼろだが、ナンバープレートに5の数字がないのが気に入っている。

 その車に乗ってウィリーとホクラホマにさしかかるとノヴァリーはトイレ休憩と買い物のためにスーパー・マーケット、ウォル・マートに立ち寄る。しかし、レジでお金を払うと5ドル55セント。不吉な予感がして急いで駐車場にもどるがそこにはウィリーと車の影はあとかたもなくなかった。

 5と言う数字なんで彼女が気にしているんだって、それはいろいろあったからなんだけどそういうどうでもいいマイナスのジンクスって誰でももっている。重荷以外の何者でもない。気にしないようにすると気になる。しかたないからほおって置くと忘れた頃に思い出す。そんな過去。

 この映画はサクセスストーリー、それもかなりわかりやすい。そのサクセスを表現しているのがもちろんナタリー・ポートマンなんだけどその表現の仕方はおそらく今彼女しかできないとおもう。とてもわかりやすくサクセスストーリーを登っていくさまがスクリーンから伝わってくる。それがこの映画の一番の見せ場でしょう。

ホワイトアウト

 原作の本を読んでから映画を観てしまったせいか、なにか物足りないものを感じた。
 この原作『ホワイトアウト』は本来小説として成功しているアクション・ミステリーなのだ。小説というのは不思議なもので実は紙の上に文字という模様が描かれているだけのなんのことはない紙の束なのであるが読むものの想像力を使って頭の中に映像を結ばせる。それがリアルで歩かないかというのではなくそれが小説のリアリティなのだ。
 そして、この小説がもつ魅力は、主人公富樫の心の声が痛いほどつたわってくることだ。実際には極寒地で繰り広げられるストーリーであるから音があまりしない。雪の音と荒げられる息づかいと心音、そして銃声くらいのものだ。
 今回はダムの放水があるのでそれがアクセントにもなる。

 実際、映画では映像を使うしかないので音はほとんどない。いや、人物が発する声があまりないのだ。それが小説と映画の大きな違いでもあった。
 それはおそらく意図的にされた効果だったんだろう。
 そしてそれはある程度は成功した。しかし臨場感という上ではひとが次の瞬間に起こることを基本的には予測不可能であるというサスペンスを描くことには不成功だった。その不安は心の声を描き一秒一秒が恐怖との戦いであるというところを描くべき(というかそれがこの作品の持ち味)だったので残念。

しかし、映画的にはかなりの英断だったとおもう。ストーリーの中で原作を知っていると富樫が悩んだ末におこなう決断が淡々とすすんでしまっているのでなにもかも計算高く相手をやっつけにいく富樫のキャラクターができあがってしまっている(その辺は織田裕二は原作を読んで役作りをしているように思えて、ぎこちなくて不器用な演技をしているけど脚本の力ってかなりつよいからなぁ。
うまくいきすぎている行動にどこか人間的な迷いと偶発さを入れ込んでいる。でも、賞もらってなにより)。
 たとえば、流されて体が冷え切っていて動かなくなったときの場面。あそこは火をたくのにいらだちと焦燥感があってしかるべき。それは演技でまかなっているが短い時間で演技をするのではやばやと火が炊けてしまう。あぁいうところだよなぁ、役者と監督のしのぎあいって。

 本当は相手の宇津木(佐藤浩一)が冷徹で頭が切れて富樫はむこうみずで失敗ばかりやらかすっていうキャラクターなんだけど映画という限られた時間でつくられる作品ではその辺の機微はとうてい表現できない。
 あまりにさくさくと進みすぎているというきらいがあった。もっとかっこわるいヒーローであるべきなんだけど。だからどちらかというと踊る大走査線での織田裕二の役の方が富樫に近いのかもしれない。

ゴジラ×メガギラス G消滅作戦
■東宝 製作:富山省吾 脚本:柏原寛司 三村 渉  撮影:岸本正広 音楽:大島ミチル サントラ盤:ビクターエンタテインメント 監督:手塚昌明 CAST 田中美里 谷原章介 勝村政信 池内万作 かとうかずこ 極楽とんぼ 他 

 ここだけでしか言わないが、ぼくはゴジラ映画のファンである(ほんとここでしか)。
 というわりには昔のゴジラ映画をあまり見てはいないんだけど。最近のゴジラ(たしか、メカゴジラで止まっていてから復活したゴジラシリーズ)は全部観た。最近のゴジラを最初に観たのは中学生のときだった。
 ゴジラは名前は知ってたけど劇場で見るなんてあんまり実感がなかった。それがいわゆる最初の『ゴジラ』だった。
 あまり記憶がないんだけどなぜかお金を払わずに劇場にはいったようなきがする。それで船に乗り込んでいってそっと椅子に座っている船長をのぞくと椅子が回って白骨化した船長がこっちを睨むっていうシーンだったと思う(あぁ、今思い出すと…怖かったかな??)。
 かなり怖くなって友達とでてきた記憶だけ残っている。ちゃんと観たのはゴジラ×ビオランテ。これは最近のゴジラのなかではかなり完成度が高い。

 実はその前作からの流れがあるんだけど(東宝シンデレラガール出身のあの女優がビオランテになるんだけど)それを知らなくてもちゃんと見れる。
 
 というか、ゴジラって一応一作一作が独立していながらちゃんと続けてみている人にとっては前の流れがあって今のこの環境になっているということがわかるような仕掛けになっているのも伝統なのだ。隊長がゴジラに殺されたりして仇をとるというストーリーもならでは、だ(そしてそうした仇というようなテーマは基本的にゴジラは怪獣映画というよりも『義侠』ということを色強く反映したかなり日本映画なのだ)。

 今回は、これまでのゴジラとはちょっと一線を画す感じになっている。というのはゴジラがちょっと人格があるのだ。そういう意味で昔のゴジラの路線を襲名しているともいえる。それは監督のねらいどおりらしい。
 最近はあくまでゴジラは人間の想像のつかない”キング・オブ・モンスター”という立場をとっていた。怪獣というよりもあくまで人間の想像を超えた動物という枠組みで科学的に分析し、科学で立ち向かうという路線をとっている。それは特にゴジラシリーズがいったん休止してから復活するときにゴジラ単独で登場するときの雰囲気がそれをもっている。今回は科学兵器としてブラックホールをもちだした。
 
 そして、ゴジラに対する怪獣はメガギラス。このメガギラスもこの作品だけ観てもわかるんだけど昔から見ている人にとってはこの怪獣、むかしにでてきたことがあるのだ。それは見ている人だけがわかったりする楽しみであったりする。
そして、昔と言えば、この作品で冒頭にでてくるゴジラがニュース映画のかたちをとって東京襲撃をしている場面は1954年の『ゴジラ』第一作へのオマージュになっているのだ(実はぼくは仕事を終えて駆けつけたのでその冒頭の部分を見ていない)。

 今回のゴジラがすこしいつもとちがうのはそれだけじゃない。今回ヒロインは『あぐり』の(というか、東宝シンデレラガールの)田中美里が演じているんだけど田中美里と ゴジラとの闘いがちょっといつもの人間VSゴジラと違うのだ。それらは観てのお楽しみです。

007/ゴールドフィンガー goldfinger

 007シリーズの感想を一気に書いているんでみんなおんなじ感じになってきているんでちょっと怖い。一見このシリーズみんなおんなじ感じに見えるんだけど実は結構一作一作ちがうのでそれがさすがだなぁとおもう。
 ぼくが007シリーズの中で3つの指に入れている作品。
なんていうのか、均整がとれている。最初でボンドガールかとおもわれた女の人が死んでしまう。その死に方というのがまたきれいな死に方なのだ。
なんでそんな死に方しちゃうの?っていうような。
ゴールドフィンガーとは敵の名前なんだけどその敵にあうまでが大変。007は基本的に結構大変な修羅場を抜けるわけだけど敵に会うまで大変だなぁといつも心配してしまう。
007はほんと陸海空といろんなところが舞台になる。

007/黄金銃を持つ男 the man with the golden gun

 007シリーズ9作目。タイへ向かってボンドは黄金銃をもつ男スカラマンガを追う。
 小人の男が登場するんだけどこの男がとても悪いやつなんだけど憎めない。動きもおそいし、とにかくいつでもやっつけられそうなんだけどこれがずるがしこくてへんに機転が利く。
007ってイギリスの匂いがするからヨーロッパ人がアジアに来ると言うよりもなんとなく植民地の国に来る英国人って感じがするんだよね。それがまたシリーズの完成度を高めているような気がする。
最近の007シリーズにはない高貴な感じというのかな。

 007はスカラマンガの挑戦を受けているんだけどスカラマンガが誰かと対決するときになぜかへんなスタジオのセットみたいなところへ連れて行ってそこで対決する。鏡の部屋になっていて自分の姿が映るちょっとデビットリンチ的な空間。
なぜそんなちんけなセットで戦うの?っていう質問はあきらかに愚問。その手の質問ならいたるところにちりばめられているから。
当時はいつも先端の武器や舞台が用意されているのであれは当時は『かっこよかった』んだとおもう。そこに真剣味があるから観ているほうも安心して観ることができる。変におどけられたり不真面目にやられると気勢をそがれるというもの。アクションの原点ってそういったこともかなり重要なのだ。
 比較するのもおかしいけどたとえばダイ・ハードシリーズなんかはすごいアクションと大爆発が起きる。たとえば、ブルースウィルスが絶体絶命になっているときにカメラワークがガムテープを映したとき(わからないひとはそれでいいんです。ねたばれになるので)のあの笑いと言うのは一歩間違うと観客の信用を奪い去るかなり危険な演出になるわけです。

 アクションはあまり笑いを撮るのが難しい。そのうちに当たり前の手法となっていくわけだけど(たとえば、ターミネーターでさえすこし笑いがある)、007は最新作に至るまでいわゆる『笑い』はない(途中おかしくなったところもあったけど)。
ユーモアはある。それはイギリス紳士的なウィットのようなものだ。
帆にしばられた小人男がよかった。

007/ドクター・ノオ

 007シリーズ第一作。初公開時は『007は殺しの番号』。
 米国の月ロケット起動妨害電波を追って、ボンドはカリブ海のジャマイカへ。
この頃の時代はとにかくアクションがきわまると舞台背景が宇宙に行ってしまう。
まだ、冷戦とかがあったころだから宇宙開発ってスパイが活躍する場面が多かったんだろうね。今でもジャマイカに007の撮影で使われたビーチが名所として残っているんだそうだ。

あの、ジャマイカ特有のけだるい音楽が印象的。あれってなんていう曲なんだろ。あの音楽が僕のジャマイカの原点だったりする。

 ジャマイカといえばレゲェーミュージックがあるけど、あれは闘いの音楽だったりするので平和っぽい音楽としてのあの音はなんともいえない。
この頃のショーン・コネリーはかなりとんがっているというか、一枚目俳優だ。この頃ってどんな時代だったんだろうってこのシリーズを観るといつも思う。
 
 007は一時期、ユーモアが優先する時代が続くんだけどこの頃のジェームスボンドはとても殺し屋としての顔が強い。最新作の『World Not Enough』はまたピアース・ブロスナンが殺し屋としての007を復活させているがこの007シリーズの原点である作品ではどんどん人を殺していくのがキャラクターとして『のっている』。
そして英国臭もちゃんとある。つまり、紳士としての風格かな。

007/ダイアモンドは永遠に diamond are forever.

 ショーン・コネリーが復帰する作品。
また、逆にこの作品で元祖ジェームスボンドは引退。
オープニング前のアクション"アクション・シークエンス"で宿敵ブロフェルドがボンドによって葬られる。
 ダイアモンドを狙う敵とそれを守るボンドとのやりとりが見もの。ボンドガール(ティファニー・ケース(ジル・セント・ジョン))は敵として登場。
ダイアモンドはやがてホワイトによって利用されることがわかるがその利用のされ方は?
007シリーズは伝統の手法というのが確立していて一時期かなりマンネリ化していた。それはマンネリ化しているということすら007のトレードマークとなるくらいにこの映画がアクション映画におよぼす影響力は強かった。インディー・ジョーンズシリーズもタイトル前のアクションがあるがあれはこの007を完全に意識していると言われている。
また、常に時代の動きや流行を取り入れているのであとで見るとそのときの時代の空気がちゃんとつたわってくるのはすごい。
宇宙や宝石、カジノ、そういった派手でどこかはかない感じのする空気はこの映画の上映時にあった時代の雰囲気だったと思う。
今見るとどこか笑ってしまうというのが007シリーズの昔の作品にたいするよく言われる感想なんだけどそういうのってつまりは昔の流行がちゃんと盛り込まれている証拠なんです。流行ってなぜか後で見ると笑ってしまうものがかなり多い。古いものに対して馬鹿にする風情ってあるけど、古すぎるとそれが笑いになる。でも、もっと古くなると時代は繰り返す。

燃えよ、ドラゴン 1973 Warner Bros Inc. color/99min.

   とうとう観てしまった。
あの有名な燃えよ、ドラゴン。
あの有名な音楽が流れて始まった。意外におもったけどあの音楽はオープニングのある一部でしかながれないのだ。
 香港でおこなわれる武道大会でその主催者の資金源が不正な経路で取引されている(麻薬など)のでその証拠をつかんできてほしいと言われる。船で大会に出場する猛者達が集結する。アフロヘアの武道家もいるが時代を感じさせる。
 007を筆頭とするスパイものの流れも汲んでいるように思えるストーリー。どちらが先なのかわからないがそれも時代を感じさせ、しかし古さがいやらしくない。 むしろ新しい。
敵陣に乗り込んで妨害する者に対してブルース・リーのジークンドゥが炸裂する。
ヌンチャクや棒術もリーの真骨頂の一つには違いないが、やはり一番の見せ所はその蹴りにあるとおもう。一撃必殺と呼ぶにふさわしく、ストーリーの明快さとその流れから相手を倒すためのただ一撃の蹴り。テーマとその演舞が正しく織り込まれ常に悪しき者を倒すための繰り広げられる華麗な技。
 確かに代表作、ハリウッドで認められた作品としての気品を感じざるを得なかった。
リーが武道大会に出場するように言われるところ(外にあるテーブル)で弟子が現れて一時中断し、弟子に教えを授ける場面がある。
蹴りを出すように言い、何度も正しい蹴りを出すように言う。そして真に相手を倒すための蹴りを出せるまで繰り返し蹴りを要求し、そして真の蹴りが見られてからその蹴りについて問う。そこで弟子はどうやってその蹴りがだせたかを考えるのだがそこでリーは弟子の頭を殴る。考えてはだめだ、感じるのだ、というのだ。
 おそらくそれがリーのあるいは武道の持つ正しさについての哲学なんだとおもう。考えて出す答えではなく、感じて出した答えこそが真の答えであり、そこから人は歩くべきなんだろう。
 必殺の蹴りの奥にはそうした哲学があったのだ。

薔薇の眠り

あまりに普通すぎる。設定自体はちょっと込み入った感じなんだけ ど筋に沿って観ていればそんなに無理なく分かるし、 実際のテーマはその複雑さをとくことではなくどうしてそんな状態が訪れたのか? ってところでした。二つのストーリーが平行して進行していく様は、 村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の感 じににてる。 でも、この映画はなぜ二つのストーリーが展開されるのかって言う 明確な理由があるからあそこまではとんではいない。 癒される。
「もしも同時に二つの人生を生きることができたら?」
そのフレーズがどうしても心を離れなかった。
すこし映画の内容を観ていたら展開が読めた。でも、どうしても スクリーンから目が離せなかった。理由が知りたかった。そして、 きっと起こるだろう結末が知りたかった。
She loves both her lives but only one is real.
展開は主人公マーティ/マリー(デミ・ムーア)をせき立てる。
そう、せき立てるのだ。時間は着実に流れている。
そして、 その『時間』が鍵になるに違いない。
そう感じ始めると観ているもの にも時間が感じられるようになる。
二つの世界で、2人の男性に求愛される。それぞれの男のやり方で 。
ウィリアム(ステラン・スカルスゲールド)は、内気でしかし、 マリーを恋する情熱的な作家。彼は昔マリーに発表した作品を 批判されたことがある。その過去がきっかけとなりマリーと 縁を持つことになる。
アーロン(ウィリアム・フィッチナー)はマーティに恋をする 繊細で理性が表面だつ男。
2人の男性と対するマーティ/マリーは二つの世界で全く正反対の性格を持っている そしてそのマーティ/マリーは別の世界に存在している自分のことを 知っている。彼女は眠ればもうひとつの世界へと誘われる。
そして、そこでは新しい男と新しい恋が待っている。
薔薇の眠り。
しかし、いつかはどちらかの世界でのみ生きることになることを知ってい る。
監督は現代で生きる女性が近代の技術進歩によって生活自体が 浸食されていることで女性でいることが難しくなっているという 女性の内面に目を向けている。
女性であることは、男性がいるから ではなく自分が自分であるための基本のプロセスなのかも しれない。男性と対になっている存在ではなく、それだけで個別に存在しうるという存在に代わりつつあるのかもしれない、いや、そういう時代なのかもしれない、現代という時間は、流れの速すぎる時間の中ではそういったことがあるのかもしれない、そして、その時間の流れでは人はいくらか歪まされる。二つの世界で生き引き裂かれ苦悩するあの彼女たちを 観て女性はどう感じるのかは興味がある。この映画の結末は女性という存在を救う一つのヒントになるのかもしれない。

アンジェラの灰
とても貧しい家族がいた。ニューヨーク、ブルックリンで 生まれたが、貧しさに追われるようにアイルランドの故郷に 戻る。しかし、そこでもなおも貧困につぐ貧困は止まらなかった。 金銭がきつい中で失業中の父は仕事を見つけて働いてはその 給料をパブで酒を飲むのに使ってしまう。そして、クビになり また失業となる、その繰り返しで工面する母親の後からそれらを 台無しにすることばかりを繰り返す。しかし、家族は父を 誇りに思い、優しい父を愛していた。家族の絆はちゃんとあったの だ。しかし、父には3つの顔がある。一つは朝起きて家族に優しい 笑顔を与えてくれる誇り高い父。昼は失業中で仕事をなんとか 見つけようと必死な打ちひしがれている父。そして、夜はパブで なけなしのお金をつぎ込んでは下手な歌を歌って家に帰ってくる どうしようもない父。 むかしのアイルランドの背景といまなおつづく深く深く眠る 民族、宗教上の対立、それらがアイルランドをうかびあがらせる。 どんなときでも、ひたむきに生きている。 教会で懺悔をする場面がアクセントとして何回かでてくるんだけど ひどい貧困を観てきてそのなかでのヒトコマヒトコマがおもしろい。 懺悔というのは日本人にはなかなか理解しにくい。 あれはなんか芝居がかって見えてしまう。しかし、宗教、キリスト教 のちからというのは結構ねづよいものだ(2000.12.2)。
グリーンディスティニー
■2000年/アメリカ・中国合作/カラー/スコープ/上映時間・2時間/配給:Sony Pictures Entertainment(Japan)Inc/主演:チョウ・ユンファ、ミシェル・ヨー、チャン・ツィイー、チャン・チェン他/監督:アン・リー/主題曲:ヨー・ヨー・マ

中国に伝わる伝説の名剣『グリーンディスティニー』 ある時その名剣と修行に出ていたリー・ムーバイ(チョウ・ユンファ)は帰ってきた。ある目的を遂げるために。 その名剣は自分にとってはすでに必要ではないと言って献上してしまうと決心をしていた。 そのグリーンディスティニーは献上された屋敷から盗まれてしまった。 盗んだ相手はムーバイの師匠を殺した敵だった。仲間で互いに言わないが恋仲であるシューリンと ともにその犯人を捜すがその相手は意外な人物だった。 チャン・ツィイーという女優さんがいるんだけどかなり演技がうまくてかな かわいかった(これから上映される『初恋の来た道』って映画で初主演)。たぶんこれから有名になっていくんじゃないかって感じがした。 中国映画につきもののアクションはあの『マトリックス』をとったユエン・ウーピン 。かなりアクションは見物です。屋根はふわふわ飛ぶは、水面は歩けるし、 竹藪では竹の木を駆け上ったりするしで、あぁいう元気さは中国にしかないものだ。 中国の映画はアクションで終わってしまうって思われがちだけど、この映画の中では ちゃんと感情の描写がなされている。ファンタジー・ラブ・アクションっていう売り文句になってる んだけどそれはわかりやすい表現だと思う。中国の広さと、神秘と、こてこての中国活劇演舞 を観たかったらこの映画はおすすめです。中国の笑いってかなりこてこてです。シリアスな場面と対照的にしているという狙いもあるんだろうけどあれを観ると中国を感じます。でも、意見が分かれるところだろうなあ。
あと、音楽がヨーヨー・マなんで綺麗なチェロの音色が心地良いです。
<後日談>
グリーンディスティニーアカデミー賞受賞したようです。おめでとうございます。
 この映画を試写会で観たときはほかの観客はかなりブーイングの嵐でそれはそれはかなりくだらないものをみせてくれたな、というような感じでした。なかには指笛まで鳴らして「ありがとう!」と心にもないことをいう輩もいたくらい。
 ほんとなんて映画の見方をするんだ!と怒りに震えたのを覚えています。特に日本人が中国の映画を観るときの態度、あるいは中国の文化との接し方といったらあまりいつもいい気がしません。なんなんでしょうか。
 たいていの映画(特にハリウッド)は相手を愛していると言うのを端的にいえば"I love You"と言う言葉で表現してしまいます。
 ところが、この映画のよさは愛していると言うことを映像そのもので表現してしまったところにあります。特に自然の映像で。愛情だけじゃないです。戦いの場面ですら竹林で表現してしまっています。あの場面を大げさなやりとりでしかとらえていなくて竹林は単純に中国っぽさをだしたかったから、なんて解釈してしまっているとしたらもったいないです(大体、中国の映画なんで中国ぽさをだしたところで意味ないんですが)。
 もちろん中国特有の大胆すぎるパフォーマンスもあります。でも、あの映画はそれだけにとどまらなかった。
 多分、観客のブーイングの原因のその極めつけはあのエンディングに集約されるのかもしれない。けど、あのエンディング僕は単純にきれいだと思いました。今の映画はあまりに理屈が多すぎます。それは欧米の文化だから仕方ない世界情勢なのかもしれないけど、せめて日本人はアジア人なんだからアジア的なもののとららえ方をしてもいいんではないんだろうか。
 中国の映画に恥ずかしさを覚えるんだとしたらそれは日本が根底に消しきれない(消そうとしている!)アジアの純真そのものなんじゃないかっておもうんだけど。それってどうなんだろ?
LastModified 2001/3/31(Sat.)

フィオナの恋していた頃
■ビヘイビア・ワールドワイド提供/フィルムライン・インターナショナル、ハミングバード・コミュニケーションズ制作/1998年/アメリカ映画/カラー/ビスタサイズ/2時間1分/提供:ポニー・キャニオン、日本ヘラルド映画/配給:日本ヘラルド映画

アイルランドの昔のお話。とっても個人的な物語で切なくやるせない想いがみちみちている。人はいろんな経験をするものだけれど悲しい想いはできることなら少なくしたい。そして悲しいほどだれにも語れないそんなエピソードがたくさんある。過去という時間にはそうした想いがたくさん眠っている。 フィオナは今ではねたきりのおばあさん。つきっきりで看病をする妻と、学校で問題を起こしている息子とくらしている。キアレン・ジョンソン(ジェームズ・カーン)は今では高校教師で授業で自分の家系の過去と世界の過去との関係を課題に出して授業をしているところだった。しかし、生徒にからかわれている最中、自分の家系の過去自体に疑問を持ち始め、会ったことのない自分の父親の生まれ故郷でもあるアイルランドへと飛ぶ。 原題は"This is my father"このほうがいつも原題に抱く思いなんだけどしくりくる。鈍重で素朴でそして自分を取り巻く慣習などに静かな怒りを抱いているそんな父親。かれは、結局自分の身近な狭い世界を破って外へ出ていけるタイプの人間ではなかった。フィオナはそんな彼をどうにか自分とともに自由な世界へと連れ出そうとするがそれをさえぎるように閉じられた世界の住民である村の人々に引き離される。
 象徴的な村の一本の木がさびしく映えている。
フィオナは結局アメリカのシカゴに住むことになる(その辺の経緯は説明されていないが)がその経緯を想像すると彼のフィオナの中での大きさの度合いがわかる。フィオナはもう意識がないようにねているが実は外界と感情を遮断しているだけで意識はちゃんとしている。今のフィオナにかけてきた彼の言葉がとても印象的で叙情的に映った。 切なくやるせない想いがみちみちているのになぜかすがすがしさも感じる。恋をしている時間は永遠なんだと思わせられる。

インビジブル
□コロンビア映画提供 ダグラス・ウィック制作ポール・バーホーベン作品”HollowMan"製作総指揮マリオン・ローゼンバーグ音楽ジェリー・ゴールドスミス特殊効果ソニー・ピクチャーズ イメージワークス主演エリザベス・シュー、ケビン・ベーコン他

 夏も終わりに近づいてすっかり秋を感じる今日この頃。なのに、ホラー映画を観てしまった。

この映画の主演はケビン・ベーコン。9月号の映画雑誌『PREMIRE』に彼が綴ったこの映画に関する日誌が載っている。観たときに彼自身はなかなか画面に登場しなくなっていたなぁと思っていたら本人もそのことに言及していた。当然なんだけど透明人間になるとスクリーンにケビン・ベーコンが登場しなくなるのだ。俳優としての演技力が生かされていないから自分はいてもいなくても関係ないんじゃないかって言うことだ。透明人間なので仕方ないことだけれども、たしかに俳優のプライドは揺らぐと思う。でも、透明人間になってしまった後たしかに彼は見えないから演技力は見えなくなっている部分があったけどそれでも、透明になる前の演技力がその分生きていたんじゃないか。どうしても見えないから観ているとき透明になる前のケイン(主人公の名前)の行動とか言動とかを頼りに観ているところがある。ケインの奔放で自信過剰でしかしどこか寂しさを隠しながらの健気さとかそういうことを透明になってしまった後の彼に見いだそうとする。透明になってしまった後のテーマは透明になったのは肉体かそれとも存在か、というのがある。苦悩は自分の存在が誰かに認めてもらえているのかという不安から来ている。誰に認めてもらいたいのかって言うのは個人的なことを指している。
この先は映画の内容に深く関与している可能性があります。できるならば映画館でご覧になられた後に読まれることをお勧めします。
 この映画での映像的なトピックと言えばなんといっても透明になる薬を注射されたときの透明になる過程だ。皮膚がまず透明になって次第に血管が浮き出て徐々に骸骨化して消えてしまう。そこには透明になるという過程よりもむしろ血の通った一人の人間というテーマが隠されている気がした。髑髏というのはもともとすべてを取り去った本当の自分を魅せてやるというメッセージがある。特に西洋ではそのテーゼは強いはず。インパクトの期待されるところにはきっと訴えるテーマがあるんだろう。
 関連した映画に最近上映された『アンドリューNDR144』がある。主演は僕の好きなロビン・ウィリアムズ。あの人はロボットとして出演することでしかし自分の演技を出すことにかなり工夫をしていたようだ。ロボットの物語で中に誰が入っていても同じようだがやはり中はあの人が入って演技をしていると分からせてしまうのだ。あの人はかなり演技力がある人だしそういう自分を見せないで演技を示すことをライフ・ワークにしている人だけど、普通に考えて自分がスクリーンに出てこないことは不安をかき立てるだろう。そんな通常の感情を持って映画に臨んでいるケビン・ベーコンを今回の映画でとても好きになった。
 ポール・バーホーベンについて。この人は前にも『トータル・リコール』や『氷の微笑』なんかを撮っている監督だ。ちょっと刺激の多いものを撮ってきているという印象を持っている。最近の映画では『スター・シップ・トゥルーパーズ』なんか強烈に覚えている。あの映画はナチを援護しているとかいろいろ叩かれたらしい。僕もあの映画は観た後いい気がしなかった。ポール・バーホーベン監督は今回の『インビジブル』の記者会見であの映画について、20世紀は殺戮の世紀だった、実際の出来事を棚に上げて平和な映像を撮りたくはないというようなことを語っていた。映画って自由にとって然るべきだと思う。見た人がどう感じたかが大事であってしかし、そのことがフィードバックされて映画の撮り方を大きく左右することはあってはならないと言っていた。それはヒロイン役のエリザベス・シューも語っていた。観客の反応を気にして演技をしてしまう傾向があってそれがハリウッドを駄目にしているとも。それは映画だけでなくて今の時代を象徴する闇の部分であるとも感じた。

Gladiator

壮大なスペタクルという言葉がぴったりだ。
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"息子を殺された父として、
妻を殺された父として、必ずや復讐を…"
巨大ローマ帝国に敢然と戦いを挑んだ、
一人のグラディエーター(剣闘士)がいた。
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観るものを興奮させ、涙を誘う、この映画は後にアカデミー賞を受賞することになる。  リドリースコット作品であるこのグラディエーターは単なるスペクタクルに終わらない映画だからこそ評価された。
 剣闘士をただの勇者として描くのではなくもっと人間ぽく、父として夫として個人的な復讐のためにたちあがりそしてその敵とは国家であるローマ帝国である。シーザーに対して詰めて詰めていつかは闘いを挑むという筋書き。コロシアムでの闘い。そして観るもの誰をも巻き込むすばらしい剣技の数々。
リドリー・スコットは
「ローマ帝国が栄光と邪悪さに包まれていた事を物語る、その絵を目にした瞬間、私はこの時代の虜になったよ」
と語る。その絵とは19世紀の画家ジャン=レオン・ジェロームによる"Pollice Verso(指し降ろされた親指)というもの。この絵によって監督は作品に対する意欲と想像力をかきたてられたという。
そう、この時代は栄光に満ち満ちていたが同時に人々の邪悪さが最大限引き出された時代でもあった。コロシアムでは人々は生活の豊かさから退屈をしのぐために見世物を楽しみに来ていた。その見世物は人殺し。
互いに命をかけた男達が互いに殺し合い、そしてそれを見て人々は歓喜に涌いた。血しぶきがあがり、互いの剣技が繰り広げられる。
人が死ぬことを喜ぶ人々。人間の根底にひそむ邪悪さを引き出し、そしてそこに目をむけさせることでローマ帝国への懐疑からめをそらさせることで政治は行われていた。 ーマはすでに老体になっていたし、政治はうまく行われていなくていつ滅んでもおかしくはなかったのだ。そのことに誰よりも気がついていたのは政治家たちだった。コロシアムには政治的なにおいも漂っていた。
主人公マキシマスを演じるのはラッセルクロウ
コモドゥスを演じるのはホアキン・フェニックス。
リドリー・スコットの次回作は現在上映中の映画『ハンニバル』邪悪さを描かせたら右に出るものはいないだろう。

Cider House Rules
■2000年第72回アカデミー賞(R)受賞 最優秀主演男優賞<マイケル・ケイン>、最優秀脚色賞<ジョン・アーヴィング> 主要7部門ノミネート(作品賞、監督賞、助演男優賞、脚色賞、編集賞、作曲賞、美術賞)他多数受賞

おまえの仕事って言葉。それに心を痛めつけられた。今自分は自分の仕事を見つけているだろうか? 林檎園で働くことになったヒッカムはそこで働くきっかけを作ってくれた少佐の彼女とできてしまう。運命はいくらでものたうち回る。彼女との楽しい日々は孤児院での孤独さを癒してくれるように忘れさせてくれるように過ぎ去らせてくれる。そんな毎日もつづかない。
この先は映画の内容に深く関与している可能性があります。できるならば映画館でご覧になられた後に読まれることをお勧めします。
 
 ルールは俺達が決める。自分の仕事を見つけたヒッカムは持ち前の手先の器用さで仕事の腕を身につけていく。同僚のジャックはある日ボスに林檎を搾った汁のはいっているおけにたばこを入れてしまいそれをボスに見つけられる。 ヒッカムの育ての親でもある医者はハーバード大学をでた優秀な医者なのだがいまでは孤児院の医者をしている。エーテルを毎日すっている。いわくがありそうな過去を持っている。  あの医者がかなりきになった。あまり彼についてのことはふれられないんだけどそれにしてもあの彼の生き方はなんなんだろう。あぁいう生き方をしている人がどこかにいてそれで主人公がスクリーンの前で生活をしているという前提のようなものがひしひしと伝わってくる。ひとはだれか意識をしていないで同時進行で生きている大切な誰かの存在が微妙に影響をしている。そんなかんじを無意識にしているからこそなんとか毎日をこなしているようにおもえてならない。 癒されること癒すことともに大変な体力がいる。運命というものに対する執拗な執念というものを脚本から感じた。翻弄されるのが運命なのか身をゆだねるべきなのが運命なのか。

60セカンド
■タッチ・ストーンピクチャーズ&ジェリー・ブラッカイマー・フィルムズ提供/ジェリー・ブラッカイマー制作2000年/アメリカ映画/上映時間1時間58分/日本語字幕林完治/主演ニコラス・ケイジ、アンジェリーナ・ジョリー他

60秒で車が消える、そんなことをやってのける車泥棒メンフィスはいまでは平凡にひっそりと暮らしていた。そんなある日、自分の弟が同じく車泥棒を働らきへまをおかし、2日間で50台の車を盗まなくてはならないと言う。その仕事を弟のためにメンフィスは昔の仲間を募って遂行しようとするのだが。 人間模様が描かれているというのだけれどやはり見せ場はカーチェイス に置かれているようでそれはエキサイトさせてくれるものばかりだった。 まず観客の予想を裏切るようなアングルでのチェイスが見所だ。 普通車と車が追いかけるという図式なんだけどそこは逃げる方の 視点がかなりうまく作ってあって観ている方も車に乗っているような 錯覚になってくる。それはスタントマンを置かないで実際にスタントをやって のけたニコラス・ケイジの技によるものが大きい。 映画ってよくいわれることだけど映像処理技術だけがその映画の質を 高めるものではない。技術はだんだん進歩している。もう人間の頭の 中で描いたものを具体的に表現するのにやぶさかではないような域 に達しているがおそらく人間の想像力のスクリーンの質はどこまでも 昇華していくにちがいないだろう。そのとき、目に見えるものだけではなく 表現している役者のスピリッツとか監督の意気込み、スタッフの士気なんか が案外作品の質を高めているようだ。そういうのは評価の高さとして はかりにくい。けれども、観客が『よかった』と思って帰るかどうかってところで 案外単純にわかるものじゃないかな。そういう質の高さをこの作品はもって いたようなきがする。ニコラス・ケイジは好き嫌いがある役者だと思うけど ぼくは、あのやる気がなさそうで変にエキサイトしてどこまでいくのかわからない 失踪力がある雰囲気が好きだ。まじめそうでかなりの不良であるところも。 今回、ニコラス・ケイジらしさがよくでてたのは『イージー・ライダー』っていう 曲を仕事はじめに景気づけに聴くんだけど昔の連中と一緒にそれで ハイになるところがいい表情してました。あの表情でファンは魅せられる んじゃないかな??

金髪の草原
□吉本興業、ポニーキャニオン制作。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭グランプリ受賞

あらすじ
 あるホームヘルパーをしている女の子古代なりす(池脇千鶴)がある老人日暮里歩の家に派遣 される。その老人(伊勢谷友介)は偏屈で有名で以前その派遣会社から来ていた人を やめさせてしまったほどだった。 彼はある朝20歳の青年として目を覚ます。あまりに現実離れした感覚のせいで 彼はこれは夢の中の出来事だと思いこんでしまう。その風景の中に なりすがやってきて。なりすは歩の大学の頃のマドンナにそっくりだったのだ。

若いと言うことはなんでもできる。できないことがない。未来がある。 そんな言葉は若いとよく分からない。そのさなかにいると自分のことは よくわからないものなのだ。逆に若いと年老いると言うことが分からない。 客観的に見るのは他人だけなのだ。年老いると言うことがどのくらい 悲しくてどのくらい希望のあることなのか。現実ってどのくらい大切なもの なのか。

 80歳の老人が主人公なのにも関わらず20歳のなりをしている青年として スクリーンに登場する彼は老人の心描写そのものだ。献身的でそしてどことなく 事務的な作業をするなりす。そのなりすにはくらい過去があって。現実を夢と思いこむ歩と せつない恋をするなりすの不思議な縁が2人を包み込む。
 昭和初期のようなセピア色の匂いがする、とってもあたたかくそしてせつなさ も漂ってくる映画。でも、冷たさも暖かさもある現実というものをどうやって 受け入れていくのかということを考えさせられた。この映画随所に渋いキャラクターが出演しています。

遠い空の向こうに
■監督ジョー・ジョンストン/脚本ルイス・コリック/原作ホーマー・H・ヒッカム・Jr.

 NASAのロケットエンジニアとなったホーマー・ヒッカム・ジュニア の本当にあった実話を下敷きにしている。 ある炭坑の街にホーマー・ヒッカム・ジュニアは生まれた。 小さいときから運動にもむかず、勉強ができるわけではなく、 その街からでるためにはアメフトの選手になれる才能がなければ それを手にする資格はなかった。彼の兄は有名なアメフトの選手で将来は 有望な選手になれると皆が思っている。自分には何ができるのか、 炭坑では探鉱者として働くより他はない。しかし、自分にはどうしても その道に向かって挑戦していく構えがなかった。そんなある日かれは 上空を飛ぶロケットを見つける。それはスプートニックだった。
 自分も昔理科が大好きな少年だった。 じぶんには文系としての才 はあっても理科系の素養はないと思ってはいたがしかし、挑戦して 今もぎりぎりのところで理科を楽しんで生きている。そこには天賦の才 なんてものはなくただあきらめの悪さだけがある。理科系っていうのは もしかしたらそれが才能なのかもしれないと思うことがたくさんある。 なんか雰囲気が"Cider House Rules"と似てるって思うのは僕だけ?

Twin falls Idaho

ちょっと病的でいてそれでいてせつなさは誰にも等しく与えられていることに気づかせてくれるそんな映画。いまどき珍しいと思えるできばえになっている。真摯に訴えてくるその描写はなにより主人公の兄弟が醸し出す不思議な空間の作り方にある。きっと兄弟の物理的精神的な距離が見るものに人生を感じさせてくれるのかもしれない。 ストーリーはある兄弟とある娼婦が出会うところから始まる。その出会いはたしかに運命的でそれでいてその絆は固かった。「悲劇はやがて幸せをもたらすもの。悲しい場面で途切れているだけで、物語は続いていくんだ」と言われると、映画館を出てから続いていく自分の物語をちゃんと毎日消化して生きていく力が沸いてくるってもんです。

ミッション・インポッシブル2

言わずとしれたトム・クルーズ主演のアクション映画。ジョン・ウー監督と言うことでなかなかのアクション映画になっている。カンフーを使う場面もあるんだけどあんだけかっこいいともうごちそうさまでした。というかんじだった。ヒロインとのからみもアクション映画の醍醐味なんだけどその辺はちょっと物足りなかった。映画全体の時間とヒロインとのからみの時間との配分がいまいちだったようにおもう。あまりに盛りだくさんにしすぎたからかな。いちおうイーサン・ハントは諜報員なのでいろいろ道具を使って敵をやりこめる場面が多い。少年心を刺激するってところ。ストーリーにはいる前にミニ・ストーリーが入るところなんかは007の影響をちゃんと継承していてこの系列の映画の常套手段をきちんと踏襲している。最初のイーサン・ハントはなかなかいい客のだましかたでよかった。

パッチ・アダムス

希望、夢、それを実現させる力。 そんなものがこの世にあるものか信じられなくなっている自分の意志の 弱さに気がつく。 アダムスは自殺願望を持っていた。病院に入院させられてそこで患者を 治す喜びを感じ、自分の目的を見つける。医者となって患者を救おう とする目的、しかしそれは通り一遍的な治療とは違っていた。アダムスは 普通の医者とは違うアプローチを目指していた。 アダムスは2年生でインターンとしてではなく、個人的に患者と接して 彼ら患者と心通しでつきあってかれらを癒そうとした。そのうちに彼の気持ちと 目的の中にボランティアとして医療を続けようと言う目標が広がってくる。 それに反対するひとたち、それに賛同する人たち、アダムスはかれらを 説得し医療の質そのものにたいする深い掘り下げかたをし、しかしそれは 病院にいる医者達の反感を買うことになる。どちらがただしいことを言っているのか 。現実と理想の狭間で揺れ、一人の人間としての弱さをひとに見せ続けることで 周りの人間をまきこんでいく。巻き込んだことが自分の責任ではないのだろうか? アダムスの自問自答はどこまでもつづく。

いつか何処かで


奔放な母親と大人びた娘がひろげるドラマ。ナタリー・ポートマンに惹かれて見てしまった映画。でもかなりいいできばえで見て得したと感じた。出来のいい娘はいつも奔放すぎる母親をいらだたしく見ている。いい男がいればすぐにのめり込んでしまうその母親を軽蔑すらしている。しかし、周りを巻き込んでどこか憎めない、そしてなにより誰よりも一番自分のことを愛してくれている母親を愛している。すれ違い、しかし通じ合うところがたくさんある二人。これは娘と母親という独特の関係がいくらかあって理解しづらいところもあった。そしていいなぁとうらやましく思うところも。男には父親がいるが友人のようにはつきあえない。よくて敵としてとらえるのがいいところだろう。よき先輩であり友人である母親をこよなく愛する娘という描写が素敵だった。やっぱりナタリー・ポートマンに傾斜してるのかな?この前、雑誌でナタリー・ポートマンにインタビューしている記事があったんだけどナタリーはハリウッドと学校をちゃんと両立しているらしかったです。自分をちやほやする人物がたくさんいるかと聞かれて、むしろ学校にいる友達を自分は尊敬していると語っていました。

The Straight Story

あらすじ
 だらだらとつづく時間。アメリカの片田舎でトラクターで 何十キロという距離を走ろうとした老人がいた。名前は アルヴィン・ストレート。彼は長い間会っていない仲違いをしている 兄のところに行くつもりだった。何十キロという距離をアメリカの ひたすら続く畑のみちをただひたすらに進んでいく。

 牧歌的ともいえるその風景の中で彼はいろんな人々に会い足止めをくらい、ときには彼を助けるためにトラクターで行くことをやめさせようと するのだが彼は断固申し出を断り続ける。彼は自分の力だけで すすみそして兄と会うことが目的である。 デビッド・リンチ監督の映画だがこれまでのどこか異世界的なそれでいて 残虐性と荒々しさに満ちた世界観は今回はあまり現れていない。 そのことは様々な批判や意見となって論じられている。そのことは これまでのリンチファンにとっては物足りなく感じられることだろう。 しかし、映画一作品としてみた場合、そしてこの現代といういささか 奇妙な病み方をしている現実世界を考えるとき、実直でただ自分の信念を愚かに貫き通そうとすることのできるそんな時間と機会がとても貴重な ことのように思えてくる。そしてそのことをあまりに実直であるということだけで描かれたこの作品を今だからこそもっと素直に心に染み渡らせて もよいのだろう、とおもう。 作家・村上龍がこの作品を絶賛し、現実にもっと物語が必要だと言っていた。そこにはこのストレートがただ個人的な事情により黙々と大きな時間の中を実直に進んでいくその「物語」を現代人特に日本人には必要だ、と言いたかったのではなかったか? ドアをそっと開ければ殺人鬼、となりの親切な人が殺し屋、SFX、刺激はさらに大きいものを求めて肥大している殺人的な 精神のあり方をある意味くらべてゆがんだ形で描き出した作品ともいえる。