《カンラオン班資料@》

古川外男一家の国際協力

 

フィリピンのネグロス島の真ん中に位置するカンラオン山の中腹に、150町歩の水田が広がる。棚田になっており、年間を通して水稲が栽培されている。農場を経営するカドハダさんの下に、常時約100名の農業労働者が、日曜を除いて毎日変わらぬきびきびとした動きで農作業に取り組んでいる。周辺の農家とは全く異なる整然としたたたずまいの建物が並んでいる。母屋を中心に、作業場や農業機材庫、籾摺り施設などがあり、それを囲むようにして、いろいろな成長段階にある稲が150町歩の水田に栽培されている。これがフィリピンにおけるオイスカ活動のさきがけとして活躍した古川外男一家が築き上げた、国際協力のモデル・プロジェクトである。

1971年、中野與之助師(オイスカ・インターナショナル創設者、初代総裁)を「師」と仰ぐ、古川外男氏が勇躍フィリピンの農業開発の協力のために現地に渡った年である。夫人と中学生の長女(代理子)、小学生の長男(勝利)、次男(邦雄)を伴って、志の高さを胸に秘めた静かな旅立ちだった。戦前の満州開拓団を思わせるような華々しさはこの一家には似合わなかった。大東亜戦争の傷跡が深く残っていた頃から、「日本人が国際社会で果たさなければならない使命」を熱心に説いていた中野師の意気に感じて以来20年、この日を待ちわび、着々と準備を重ねてきた様子であった。

カンラオン研修農場での朝礼の様子

フィリピンを選んだのは1966年に、オイスカが研修生として来日した当時のカンラオン市長の子息、ベルニ・ボウティスタさんを自宅に寄宿させながら面倒見たことが機縁である。まだ、出身地の福岡県八女市では外国人は珍しく、しかも、彼のもたらすフィリピンやそのふるさとの情報は古川氏の「国際協力」への関心をいやが上にも駆り立てていった。

その後、4年間にフィリピン、マレーシア、シンガポール等へ出かけ、はやる心を抑えながら、独自の国際協力の展開を調査・研究して回った。そして、1970年暮れ、フィリピンを活動の地に決めた。決断をした後の古川氏の行動は早かった。家族が離ればなれになっては「やる気」がそがれて集中できないとして、家族全員で赴任することにした。早速、家族全員の了解を取り付け、渡航に関する全ての経費と現地での当座の生活・活動費を捻出し、ベルニさんや父親の市長と連絡を取りながら出発の準備を整えた。この時代、オイスカの開発団員は全て自費参加であり、今のようになにがしかの国庫補助をもらうことなど考えも及ばなかった。

この頃、日本の経済は右肩上がりで伸び続け、夢であった自動車もクーラーも手に入れやすくなり、物質的な豊かさを享受することに、多くの日本人が熱中していた時期に、よりによって貧しい開発途上国へ出かけていくのである。しかも、日本では国際分業論が定着し、農業は斜陽産業の仲間入りをさせられている時である。又、現地での生活が子供を育てる環境であるかどうかも定かでない。何もかもが一般的な日本の常識からはほど遠い状況での決断に、親族をはじめ周囲の反対や忠告は喧しいものがあった。親族の中には夫婦別れを熱心に勧める人もいた。当然といえば当然であったろう。しかし、これまでの人生の中で多くの苦難を乗り越えてきた古川夫妻にはむしろ有り難い励ましと受けとめるところがあった。

現地に赴いた古川一家を待ち受けていたのはフィリピンの常識であった。「国際協力」等の概念は存在せず、しかも、その現場から生産された物を販売しながら市場を開拓し、自分たちだけでなく、現地農業者と共に豊かに安定したものにしていこうという考え方など受け入れられるはずはなかった。案の定、日本で食い詰めた家族がやってきたと、上記の市長をはじめ周囲の人達にも受け取られてしまった。そして、頼りにしていた市長宅の一角を借りて生活することになったが、見方が一変した人達からの待遇は厳しいものであった。スペイン人がフィリピン人を扱う時、この様であったのではないかと思われるほどであったが、このことが農場を経営し、100人もの人達を指導することになった時、役に立ったと古川氏は述懐していた。

技術を知っているから、「国際協力」ができるというのはまだ素人の発想である。つまり、オイスカがいう開発団員とは、単なる物知りの技術屋ではいけない。社会を動かす、人の心を動かす人でなければならない。人間的魅力を十分にもった人でもなければならない。幸いにも日本での苦労の上に、誇りも何もかも打ち砕かれた中での苦難を重ねながらも、次第に一家が放つ人間性はフィリピン人の心をとらえていった。

数々の耐え難い苦労はあったが、それでも現地の生活に慣れるにしたがって、友人も周囲にできた。その内の一人、アメリカ人で大規模の農業を営んでいる人の口添えで、カンラオン市の郊外にあるルマパオ地区を開発することになった。まさに本当の新天地であった。そこは火山であるカンラオン山の中腹にあり、ネグロス島独特の東と西の風を受けて、雨期・乾期を問わず雲が沸き立ち、その山頂がもたらす水は一年中枯れることはなく、絶好の農業地帯の可能性を秘めているところであった。気候も年中変わらず、むしろ、一日の内に春夏秋冬があるような感じである。

先ず、棚田を造ることから始めた。近くの農業者をわずかばかり雇い、家族と共に手で、丹誠を込めて造った。溶岩が風化したローム層のような土壌で、棚田であるため、畦つくりには特に苦労した。かなり重労働ではあったが、そんなことより、次第に形をなしていくの光景に夢をだぶらせて、意気軒昂の古川一家がよみがえった。

豊富な水と土壌の適性を考えて、水稲に取り組んだ。これが見事に成功を収め、数年後、折りから中央政府が進めるパッカイン・ナン・バヤン(食糧増産計画)とも連動して、奨励品種栽培のモデル圃場に推挙されるまでになった。1977年には当時のマルコス大統領から、多収穫品種(IR−8)栽培のモデル農民として、古川氏はマラカニアン宮殿で表彰される栄誉によくした。尚、この時の10アール当たりの収量は玄米にして14俵(60kg/俵)であった。当時の日本の平均収量が7俵であることを考えてみるとかなりのインパクトをもって現地ではとらえられたようである。圃場が広がるにつれて、水稲栽培を一期作から二期作へ、そして、土壌の疲労度を注意深く調査しながら、遂には、収穫から新しい作付けまで16日間の休耕期間をおくだけの三期作を試み、これも成功した。この頃になると、開墾と栽培管理が軌道に乗り始め、安定的な生活を農業者も享受できる態勢が固まり、100名からの生産大隊を組織化するまでになった。フィリピン式と日本式の融合された農 業者が働きやすい管理体制ができただけでなく、近隣への奉仕を念頭に置いて、若者に農業教育をしたり、幼児教育をする研修センターも1980年に敷地内に出来上がり、名実共に古川一家が目指した「国際協力」の形が見えてきた。そして、農場の栽培管理技術を評価した国際稲研究所(IRRI)は、新品種の定着試験栽培を委嘱し、名前を付ける前の品種が栽培されるようになった。これは今も引き続き行われている。

ルマパオ地区での苦節11年間、150ヘクタール(町歩)の農地を開墾し、数百名にのぼる現地青年や「国際協力」の後継者を目指す日本の若者等を育た。又、農場に雇用されている農業者達に堅実な生活習慣や計画的な給料の運用法を指導し、貯蓄意欲も高めた。その日暮らしに慣れていた人達にとっては、大きな生活改善である。1984年に、この地での活動に一区切りを付けることになったが、いつしか一つの理想的な村が出来上がっていた。最後の夜、盛大な送別会が村人主催で行われた。そして、後継者は教え子のカレル・カドハダ君が選ばれ、日本からの援助がなくても立派に「古川一家の国際協力にかける精神」を受け継ぎ、今も、変わらぬ農場が営まれている。

古川一家の意志を引き継いだ教え子達

この間、いっしょに現地に赴いた子供たちは両親の後ろ姿を目の当たりにしながら、たくましく成長し、現地の高校、大学を3人とも優秀な成績で卒業した。長男は両親の後を引き継いでオイスカの国内外のスタッフとして活躍し、今は独立して、両親の思い出の地フィジーで日本語学校を営み、この国の青年教育に携わっている。次男はAIT(アジア工科大学大学院)を卒業後、建設会社の間組に就職、今や同社の海外プロジェクトに欠かせない重要な人物になっている。長女は博多で3児の母。国際協力に人生をかけた人達の生き方がここにあるような感じがする。

その後、古川外男、みや子夫妻はインドネシア、インドのオイスカ・プロジェクトを指導し、最後の挑戦は、オイスカにとって初めての国・フィジーとなった。ここでは自然の恩恵の中で悠々と暮らす青年達に、農業を通じて規律正しい生き方を指導した。新興の意気に燃えるフィジーの人々の心に火を付ける結果となり、ここでも「古川外男」の名は政府はもとより、多くの指導者達に大きな印象を与えた。しかし、1992年、93年の両年、相次いで同夫妻は世界を想い、世界に尽くすことを人生の目標とした文字通りの「奉仕の生涯」を終えた。