「インストール」(2001)綿矢りさ 河出書房
読了 2004.1.30
※書評の内容が読み始めて30分ぐらいと読後に分かれています。ご注意ください。
1,読み始めて30分後のもの
つまらなくはない。読みやすい。
しかし、これを文学と標榜するのは筒井康隆も言うように文学の冒涜に当たる。
文学の定義が個人によって異なっているので冒涜していると感じるかどうかは個人次第となるが、
私の文学の定義は「人間の普遍的な営みに対する記述、または思考実験」なので、
この「普遍的」という点において劣った文章は文学と呼ばないことにしている。
この作品が文芸賞と取り、また別の作品で芥川賞を取ったということはいろいろな意味が含まれているが、
最も重要な点として私は「文学」が降りてきたことを挙げる。
綿矢りさの文章が文学に値するほどよかったわけではなく、
文学に値するものの定義を変えて綿矢りさでもそれに値するところまで降りてきたわけである。
その結果として期待されることが、「一億総文学人間化」である。
多くの人に「文学」をふれるチャンスが与えられたわけである。
この現象は一時期音楽業界で一世を風靡した「小室ファミリー」現象と似ている。
小室ミュージックという取っつきやすい、流行り廃りが速い楽曲の登場で音楽業界は活気づいた。
あの頃、小室ミュージックはむろんのことそれ以外のCDも未だかつて無いほどのミリオンセラーが続出した。
小室ミュージックの成功は誰にも耳心地はいいが長続きはしない、
名曲とはならない宿命であるミュージックを矢継ぎ早に生み出すことから生まれた。
そこでは歌詞は歌うための道具でしかなく、意味のない横文字が濫用され、深い共感は得られず、魂は入ってなかった。
小室ミュージックは「一億総CDバイヤー化」をもって成功したといえる(そして現在はその反動も手伝ってミリオンセラーは滅多に出なくなった)。
これと同じことが文壇でも行われようとしている。
綿矢りさを読んでいれば芥川龍之介も夏目漱石も読まずに「文学にふれている人」になれる。
小室ミュージックを聞いていれば「音楽にふれいている人」になれるのと同様に。
出版業界では、その結果綿矢りさ的文学、本が売れることを目論んでいるだろう。
しかし、小室ミュージック全盛期に本物のミュージックを聴きたい層が小室ファミリーに牛耳られた
くだらないミュージックシーンに愛想を尽かしてしまったことを考えてみるべきである。
出版業界も一時のドーピングによって元気になる手法をとり続けるのではなく、根本的な肉体改造を考える必要がある。
2,読後
1時間半ぐらいで読み終わる。
映画化されるらしいが、原作が短いので長さ的につらいのでは。
映画の方がおもしろいことはあり得ないだろう。
そもそも原作を読めば映画は見る必要ない(上戸彩ファン以外)し、
識字率ほぼ100%のこの国でこの本を読めない人間はいないだろうし。
感想は、意外におもしろかった。
底の浅さ(よくいえば敷居の低さ)と村上龍的な普遍性のなさ(よくいえば時代感覚の敏感さ)と
小学生の会話のぎこちなさと文章のわかりづらさはおいておいて、読後感がよかった。
これをあの子が書いたのかという先入観も正直言うと手伝っている。
というより、それが
バファリンのやさしさ
並に半分を占めている。
りさちゃんの文章を押し出す出版社の意図は、
明確に「文学の敷居を低くして本を読まない潜在的な読者層を開拓すること」にある。
あのルックスで男性読者を、文章の中身では女性読者を引きつけようとする。
確かに、この本には「あれ、本てこんなに読みやすくて時間もかからないだ。
内容もなんて身近なんだろう。これならほかの作者の本も読んでみようかな。」と思わせるだけの力を持っている。
文学という権威づけがそれを後押ししている。ハーレクインロマンスを読むのには気が引けても、
「文学」を読むのに恥ずかしさを感じる人は少ないだろう。本棚に並べておくだけで立派なオブジェになる。
メディア、文壇双方からの後押しでりさちゃんは時風に乗っている。
ここまでくると主演ドラマ視聴率5%の上戸彩同様、売れるか売れないかは二の次だ。
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以下、気になった部分(読んだ人向け)
36ページ、「高倉健のようなプラスの不器用さ」という表現は普遍性を欠く。内輪ネタだ。
何かの説明をしようとするとき、説明の中に時事ネタ、知ってる人にしかわからないネタを持ってくるのは普遍性を欠く。
46ページ、再インストールできているってことは本体だけでなくソフトもあげたのか。いつの間に。
51ページ、「私はテレホンレディという・・・」の3文、どこまでが「私」の頭の中でどこが子供の独り言なのか意味不明。
90ページ、ここで早稲田大を出すことで早稲田におべっか使った(りさちゃんは広末入試枠で早稲田に入学)のかと考えるのは勘ぐりすぎか。