都市農業研究 横浜市の都市農業
1 横浜農政の基礎づくり
人口集中と計画的都市農業の誕生
横浜の郊外には、雑木林と谷戸の風景がある。横浜の農家数は7,400戸。市内の世帯数からすれば、1%に満たないが、市域の約5分の1が農家によって緑のスペースとして利用・保全されている。谷戸と呼ばれる小さな谷と中小河川に沿った水田を擁する農村が横浜の原光景であった。横浜の人口は1960年から増え始め、鉄道沿線から無秩序な宅地化開発が急速に進み、郊外の丘陵は開発されていった。当時は、まだ宅地開発を規制する法律もなかったため、野放しと言ってよく、1955年に13000ヘクタールあった農地が1975年には6,100ヘクタールに半減した。
港北ニュータウン・農政の基礎づくり
1968年、市は港北区と緑区にまたがる2,350ヘクタールの丘陵地に計画的に30万人の新しい街を作る構想を発表。農業も計画的に再編し、都市づくりに位置づけるため、都市農業問題研究会を設置した。
同研究会は、いずれなくなってゆく経過的都市農業ではなく、計画的に土地をゾーニングし、行政投資を行うことで、都市開発と共存する計画的都市農業を提唱。さらにこれを実現する場として農業生産の拠点を形成する農業専用地区制度を構想した。1968年に「港北ニュータウン農業対策要綱」が制定され、土地基盤は100%、施設設置には80%の補助がされることとなった。地元農家との話も進め、翌69年には新羽大熊地区をはじめ、最初の6地区、230ヘクタールが設定された。
農業専用地区制度
1971年には市で最初の農政総合計画が作られ、「港北ニュータウン農業対策要綱」を拡大し、対象を市全体とした「横浜市農業専用地区設定要綱」が制定された(調整区域内で20ヘクタールを持つ集団農地を対象に、同率補助で重点投資)。農業専用地区は毎年1から2地区づつ誕生し、市街化調整区域内で土地利用のゾーニングを主体的に行うことにより、農政が計画的な都市づくりにも貢献した(1971年に行政上も農政局に公園部局を合体し緑政局とした)。当時の政府が検討していた農振地域制度に先立ち、横浜農政の方向の基礎づけは定まった。
都市計画法と農業専用地区の拡大
1969年に新都市計画法が施行され、市では70年に線引が行われた。市は乱開発による混乱を抑制し、計画的な都市開発が見込まれる地域だけを市街化区域にしようとし、原案では市街化区域を市域の55%までにおさえた。
例えば、神奈川区の神大寺地区では、調整区域の農林省サイドの特例基準である10ヘクタールをさらに下回る全国最小の調整区域を実現させ、農振地域にも指定した。この他、市街化区域に囲まれた形でも抜打ち的に調整区域をゾーニングした。このため、結果的には市街化区域は75%と増えたが、残りの25%の11,000ヘクタールを市街化調整区域とすることができ、その中に農地の6割(集団的な農地の大部分)、山林の5割が含まれた。
1972年には農振法が制定され、72年に農振地域の指定。73年には農用地の区域の設定もなされたが、これらは、市が拡大しようとしていた農業専用地区のゾーニングを追い越す形で全市的に集団的な農地をカバーすることに役立った。
つまり、横浜では国の土地利用規制策の農振制度と市の農業振興策としての農業専用地区制度の二重地域設定がされている。1975年には農振法が改正され、農用地での開発規制に強力な法的効力が備わったため、農振法はますます市街地の膨張に対峙し、農地を保全する防波堤として機能するようになった。
このように、国の線引に先立って都市と農業の共存を目指した自治体のきめ細かな線引が行え、都市農業のテリトリーが確保されたのは、港北ニュータウン構想で「都市と農村の共存」という政策理念が、それも都市計画の思想としてあったためである。横浜市の取組みは、都市農業は計画的都市農業として確保できることを実証し、それも調整区域に成立させたため、都市農業政策に大きな示唆を与えた。
しかし、国の制度を活用したため、横浜市独自の土地利用規制が付け加えられることはなかった。とかく農家は、自治体独自の土地利用規制には強く反発するため、自治体が政策理念を追及しようとしても、国の規制以上には出られないのである。いかに農業専用地区といっても、現実には調整区域にあることは、やはり都市計画上の明確な土地利用区分がなければ都市農業に安定性がないことを意味している。
(注)1984年に調整区域内の開発基準が20から5ヘクタールに緩和されると、都市計画サイドは郊外の農地山林の土地利用計画を持っていないため、農政に開発圧に対抗しうる農地や緑地保全の論理や具体的手法を求めるようになってきた。ここで問題となってきたのは、調整区域の半分にあたる調整白地5,600ヘクタールや農振の70%を占める白地3,800ヘクタールである。白地では、横浜農政得意の農業専用地区制度が使えない。これらは市の20%を占め、今後が問題である。
1981年、市は「横浜市農業の展望と対策」をまとめ、農業専用地区を中心としたゾーニングと農業基盤整備のセットという一元的施策に、緑や自然を求める市民の声を反映させ、ふれあいの分野を付加えた。
80年代には、不安定だった新興住宅の地域社会にも安定と成熟が見られるようになり、農業やゆとりや潤いを実感できる機会として農業にも関心がもたれ、縁農などを含めて農民化をめざす市民も登場してきた。彼らは、都市住民と農業者のあいだをダイレクトに結ぶ貴重なメッセンジャーであり、ふれあい農業の今後のあり方にも大きく影響している。
市の施策としては、1982年に最初は、単独プロジェクトとして構想された寺家ふるさと村があり、直販、市民朝市・契約栽培も行政施策として体系的に取り上げられた。
市場外流通の分野は農政外と考えられがちだが、地域の自然を付加価値として、住民に農業を理解させるのに役立つ。例えば、JR横須賀線の東戸塚駅に隣接する9ヘクタールの谷戸が1984年に市街化調整区域に逆線引された。果樹の里として、山小屋などが作られている。また、鴨居本郷農業専用地区では、19ヘクタールの農地で、主要の農家8名が生協への契約出荷を試み、うち4ヘクタールが生協向けの多品目生産されている。都市生活者のライフスタイルの裏表を心得た上での新しい発想や経営戦略が生かされ、自信と自負を持つ生産者も多く、後継者も育成されている。
土地と人の両面から施策を考える
1990年3月、市は新しいビジョンを策定した。21世紀に向けての横浜の都市農業、農のあるまちづくりの推進が、それである。農のあるまちづくりをテーマとした新たな政策理念に基づき、次の二つの面から施策体系が整理された。
A.土地的土地利用計画や地域計画の視点から市内の農業地域を50地区に区分。農業基盤の整備状況や都市開発動向といった土地の面から地域を捉える。
B.農業集落の形態や農業者組織の分布から農業地域を90地区に区分。各地区の歴史や生産・出荷・販売組織の動向といったひとの側から地域をみる。
土地と人と地域の結合による活性化
農業専用地区制度の発想では、土地とひとの統合があった。しかし、地区指定も70年代半ばから伸びなやみを見せ始めた。そこで、85年には面積用件を20から10ヘクタールに緩和し、全員同意から地域代表の意見を聞いて市が指定する方式に切り換えた。
また、既に指定した地区の活性化対策に着手。ハードの整備の後の地域づくりのフォロー。経営や組織育成、周辺地域との交流といた、ソフト面を重視。農業専用地区ごとの経営戦略を確立し、土地、ひとに周辺地域と市民(まち)の要素を加えた総合的な拠点形成を目ざしている。
市民参加による労力不足の解消
農業専用地区でも担い手の高齢化や後継者不足が進行している。特に自給的農家や兼業的農家で優良農地を維持・管理する労働力が不足し、農地外転用の要因となっている。現在、これを防ぐシステムは農用地利用増進法による利用権設定か転用規制制度しかないが、高額課税の下で十分に機能していない。このため、第三セクターによる作業受託、流動化の斡旋、農に関心を持つ市民の活用、パート労働や援農が検討されている。
(注)担い手不足の問題は日本全体の課題であり、都市農業固有の諸問題を解決している点では横浜の農業専用地区の意味は大きい。
緩やかなゾーニングによる土地利用調整
とはいえ現実的には、農業専用地区にも開発の波はおしよせ、自治体内部で都市計画サイドとの調整問題が絶えず生じている。このため、一定エリア内にレクリエーション農園を分散的に配置した広域型の都市農園計画により、地域の農的色彩を高める構想が検討されている。
要するに、特定の企業や行政主導ではなく、地域のさまざまな土地利用意向を調整しつつ、要望を積上げて、地域をマネージメントするコーデイネータ的役割が行政には求められてきている。また、従来の拠点方式という土地の純化だけでなく、それぞれのゾーンごとが多面的な価値を発揮する重層的な都市農業が求められてきている。
【参考文献】
江成卓史「横浜における都市農業と自治体」『計画的都市農業への挑戦』(1991)日本経済評論社
をまとめました。
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