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私は何者?

〈私〉とは何?これは分かっているようで非常にむずかしい問題です。まともな人なら誰でも自分を他人と混同するようなことはありません。私は私であり、私以外のものではない。こんなことは言うまでもなく当たり前の話です。わざわざ例をあげるのもどうかと思いますが、たとえば他人が食事をしても私は満腹になりません。
 



 では、どうして私が他人ではなく、私であるということを知っているのでしょう。私が私である根拠はどこにあるでしょう。

 まず、「身体がある」ということが、おそらく一番わかりやすい〈私〉の根拠だといえるでしょう。鏡に映った自分の姿を見て、汚いだのもっとハンサムな顔にならないものかと考えたりします。体のない私は考えられません。

 次に、痛いとか熱いとか楽しいという感覚も〈私〉の根拠だといえるでしょう。

 それからイメージも〈私〉の根拠です。〈私〉はいろんなことを思い浮かべます。それがイメージです。いろいろと経験したことが、もし何一つとして頭に思い浮かばなければ、〈私〉はやはりないも同然です。

 イメージというのは表層意識です。これに対して深層意識というのがあります。イメージを映像にたとえるなら、深層意識はフィルムにあたると考えればわかりやすいでしょう。この中に〈私〉に関するありとあらゆる情報が蓄えられています。それがなければ映像も生まれません。この深層意識があるということも〈私〉の根拠です。 

 また〈私〉は物事を識別し、いろいろと判断をし、決断を下します。理性のはたらきといったらよいでしょうか。これがないと体を動かすこともできません。この判断能力というのも〈私〉の根拠です。 

 自分とは何だろうか。自分を自分たらしめているものは何だろうか。それをつきつめてゆくと、「体がある」「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」、この五つがある。これらが〈私〉を〈私〉たらしめている根拠です。 

 この五つのことを「五蘊」といいます。般若心経に出てくる用語では、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)がそれぞれに対応します。「薀」とは、〈私〉という経験主体を構成する基幹的な要素、といったほどの意味です。
 五蘊があるから〈私〉という存在は確かめられるわけですし、この五蘊のうち、どれ一つを欠いても〈私〉は〈私〉でなくなってしまいます。いいかえれば、〈私〉という存在は五蘊なのだ、ということです。