3月24日(火曜日)
戦争続行中。当初の見立て通りいかないのは、実験も一緒。
インターネット上で、新聞をみていると、トピックの一覧のコーナーで経済・金融・政治ときてスポーツの後に、おくやみのコーナーがある。
いつも何気なく映画のエンドロールのように、当然あるものとしてみていた。というのも、知っている名前が並んだことがないからであったが、先日天本英世さんの名が目に付いた。
仮面ライダーの死神博士をリアルタイムで見ていたわけでは無いが、その名は知っていた。後に、バラエティー番組にも出たりして、一時期お茶の間における知名度もかなり高くなっていたはず。なのに、後輩は知らなかった。世代のギャップなのかしら?学生と話をしていて、時として感じる年齢の差を再確認してしまった。とはいえ、初めて見つけた知っている名が天本さんであったことに一抹の寂しさを覚えた。
冥福を祈りつつ、そのページのおくやみコーナーに並ぶのはいつも三名。そのためこの間まで、うまいこと毎日3人ずつなんやね。なんて思っていた。
3月19日(水曜日)
某国大統領の最後通告がでても、生活になんら変化なし。
ウサギの膿瘍に困っている。
ウサギはエキゾチックと称する犬・猫以外という部類に入る動物。エキゾチックという言葉があてがわれるようになった由来はよく知らないが、よく知らないという言葉はよく似合う。
膿瘍は細菌感染によって生じた膿が膜に包まれて体内(皮膚の下とか)に存在する病態。犬や猫の場合は、抗生剤を主体とした抗菌療法でほとんどの場合片がついてしまうが、ウサギの場合致命的となる。
とりあえず、犬猫と同じやり方で治療を進めるのだが、色んなことが違う。
まず、痛みがさほどにないのか、痛みに対してウサギが強いのか、たいてい膿瘍が張り出して、外貌が変わったところで飼い主が発見するところが違う。このとき、初診でみた僕はその変化に驚きを覚えるが、毎日顔を見ている飼い主さんにとっては、さほどでもない用であるのがポイント。日々の積み重ねの力を感じる一瞬でもある。
そんな外貌の変化にも怯むことなく進める。ここでの選択肢の一つとして、外科的摘出での根治がある。しかし、周囲組織への浸潤がある場合、完全な摘出は困難であり、少しでも取り残しがあると再発する可能性が高いので、踏み込むのが難しい。
となれば、抗菌療法が残される。
膿瘍に切れ目を入れて、膿を十分に排出し、よく洗ったら、抗生剤を投与するのだが、この膿にあった抗生剤を選別するために、感受性試験をする。抗生剤をしみこませた紙切れを培養皿の上において、膿を培養すると効果があると思われる抗生剤を染みこませた紙切れの周りには菌が生えないという寸法。見た目、れんこんの輪切りの様になる。
通常病院には何種類もの抗生剤が用意してあるために、直径およそ10cmほどの培養皿に、これと思われる抗生剤を染みこませた直径およそ1cmほどの紙切れが並ぶことになる。
ところが、ウサギは草食動物であるために腸管内に細菌を飼育しており、これが野菜を分解することによりエネルギーを得ている。この細菌に影響がおよぶとウサギの命にも影響が及んでしまうのだが、抗菌療法の場合、この善玉細菌が攻撃対象となる場合がある。
そこで、善玉細菌には効かないもしくはさほど効かない抗生剤を選ぶのだが、ある意味無茶な話で選択肢は少ない。折角の直径10cmの培養皿に離れ小島のような紙切れが浮かぶことになる。
そんな無理矢理厳選させられた抗生剤の内、たまたま適合するものがあったとして、更に難点が生じる。なぜかウサギの抗生剤の投与濃度が犬猫に比べて高いのである。犬猫への投薬でも、時として人用に作られた薬剤は不適切な場合がある。まして、あまり水を飲まないウサギに投薬を繰り返すのは至難の業であり、それがただならぬ量となれば不可能に近い。
そんな幾多の困難を乗り越え投薬を実施したとしても、ウサギの膿瘍は一般に反応が悪いのである。
で、今僕の目の前にいるのは、外科的摘出を試みるには全身状況が思わしくない上、摘出するにしても場所が悪く両前肢の掌というウサギ。すでに、安全と思われる抗生剤については効果のないことが証明済み。今まさに危険を承知の上で、多少のリスクを伴うとされる抗生剤の投与を飼い主さんに説明中。
なによりもウサギがそれなりに元気であることが一番悩ましい。
3月17日(月曜日)
夜更けの霧に円い月の幻影。
早、郷を離れて一年を経ようとしている。
日記にも常々時の過ぎる早さを記してきてはいるものの、はっきりとした形で実感するのは今回が初めてかもしれない。というのも、自分の中に何もしっかりとしたものができあがっていないのである。その痕跡すら見つからないことに愕然としつつ、情けなさがこみ上げてくる。
元々こつこつと歩を進めるタイプではないが、これは酷い。
というわけで、今日から気持ちを入れ替えてみる。そんな簡単にできるとは思ってもいないけれど、ちょっと考え方を変えてみる。
昔使っていた教科書を引っ張ってくる、眠っていた資料を掘り起こしてくる。出身が基礎系なだけに、それだけで大きく変わるものがありそう。並べられた資料はどれも臨床からはちょっと距離のあるものばかり、きっと忘れていたものってこれかも!と思いながら表紙を開いてみる。
幾多にも渡る線引きのせいで、雑多な彩りを見せる教科書は驚きの連続。鮮やかに塗り込められている文章に記憶がないのである。まあ、当たり前かと思い、おそらく復習になるのであろう、再読を始めると今まで不思議に思っていたことが、次第に明らかになっていく。
なんとなく、自分のやり方をやっと見つけた感じがしてちょっと安心感が芽生えた日。
3月16日(日曜日)
一日雨。
直らない病気に診断できなかった病気。
自分の力のたりなさと、限界を思い知らされる。
そんな病気二度と来ないよと思いながら、でもそんな病気だからこそ診断できなかったことにとてつもない無力感を覚える。
新しい病気と新しくない病気。ちょっと言い方を変えれば、有名な病気と有名でない病気。この差は何か?確定診断方法の有無であると思っている。つまり、教科書に診断の仕方が載っているのかどうかということ。となれば、獣医という仕事は教科書に載っていることの再現なのか?ということになる。
新しい病気といったって、病態として把握するのなら、何も新しくはないはずで、一から考えを狭めていけば、病気の名前は知らなくても起こっている現象は理解可能のはず。生じている、つまり正常ではなくなっている部分を深く理解できれば、それを修正してやれば治ることになるわけで、そこに持っていけなかった力不足を認識してしまう。
だからというわけではないけど、常に目標としているのはgeneralist。specialistになるのを目的としている人々の中に身をおいてはいても、個人的には根底にジェネラルな部分が必須と思っている。木をみて森を見ずという言葉にある真理。
3月13日(木曜日)
昼間の陽気と夜間の寒気の差が身にしみる。
他研究室の学生の追いコンに参加。
結婚式と同じで、その場にいる見知らぬ面々を見るにつけ、主賓の見えざる部分のあることを認識して、少し寂しい感じになる。一方的な思いこみとはいえ、不思議。
依然父の仕事を手伝った際に、その部下の人と父の話をして、自分の父親像と社員の人の考える上司像との間に差をみつけ、やはり見えざる部分を認識したことがある。
自分を中心に物事を考えてしまうのは人の癖であると思う。
獣医師をしていて、最近このことを深く思う。個人的には、病気の動物に対して感情的にはならないように気をつけてはいるが、ときに飼い主さんを忘れて自分なりに動物の行く末を考えてしまう。末期の動物は特にそうである。私としては最後まで手を尽くすことにためらいはないのだが、家で看取るという飼い主さんの意見は絶対の力を持つことになる。いずれがよいのかは判断し難いが、家で看取るというのは私の手の届かないところにいってしまうだけでなく、病気に負けたような気がして寂しさも倍増する。もう完全に自分中心。動物と飼い主さんの関係を考えると、私の関与する部分などほんの一部でしかないのに、病院でみる動物を全てと考えているのである。
3月9日(日曜日)
天気良好。中庭の梅が開花。
ノートパソコンがCDの取り込みを拒絶する。CDを入れても数秒ではき出してしまう。何度か試みるも変化無く、結局故障ということで受け入れていた。
実際、CDからの情報の取り込みができないという状態は、非常に微妙である。一昔前であれば、完全な鎖国状態となってしまうところ、今日インターネットで情報を取り込むことができる上に、研究室内でネットワークが構築されているので、最終的に学生に頼み込めば他のパソコンを介して情報取得できてしまうからである。
しかし、夜遅くなったり、休日だったりしたときに、学校に残っていたり、きているのが、きれいにwindowsユーザーだけだったりすると、そこはかとない怒りがこみ上げてきてしまう。
そんな状況を脱却するために、ネットオークションで思い切ってパソコン修理中の代用機のつもりでiMacを購入してみた。
かなりの安値で入手して、今のところ問題なく活躍してくれており、今のところ、二台併用して使っている。
何故併用か?
いくら安値とはいえ、少々経済的な負担を受けすぎて、修理予算がたたない所為である。