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原始・古代(奈良・平安時代)
1.遺跡の分布状況から見て、天王垣内遺跡、松葉遺跡、畠田遺跡、須賀城址の存在が推測できます。
これらには弥生土器、土師器、須恵器、陶器、青磁、山茶碗等が散在していることから、須賀集落は弥生時代(今から約2000年前)から生活が営まれていたことが推測されます。
2.古代の文献、平安時代の「倭名類じゅ抄」によれば当時の一志郡(壱志郡)には10郷が置かれていて、その内の須賀郷(須可郷)にあたる部分がこの地域です。10郷とは八太、日置、嶋抜、民太、神戸、須可、小川、呉部、宕野、余部郷をいいます。
中世(鎌倉時代〜)
1.荘園としての須可庄の名前が散見できます。「伊勢国須可御庄 補任 地頭職事 左兵衛尉唯宗忠久・・」との記述が源頼朝下文「島津家文書」などに見られます。
2.積善寺と須賀城址
・積善寺は宗道宗浄眼寺末に属する寺で、延元元年(1336年)に北畠親房が建立したとも、正平6年(1351年)開基とも言われている。
・須賀城址は積善寺の境内にあり、北畠氏の家臣の一人である佐波近江守の居城であったと言われている。今も土塁(防御のための土盛り)の一部が明瞭に残っている。
※北畠氏とは現在の多気(美杉村)に拠点を構え、南伊勢を支配した伊勢国司北畠氏をいう。
※須賀城址は大字須賀にあり、積善寺の境内が須賀城址である。現在は竹薮の中に土塁が残っている。
・中世の須賀は、荘園であったことや、北畠氏の支配領域であり、北畠氏に関連深い寺や城があったことは確かなようです。
近世以降
・須賀城はその後、豊臣時代には松阪城に入部した蒲生氏郷の領地となり、坂源左衛門尉が住んだといわれ、また、江戸幕府体制下の須賀集落は和歌山藩松坂領に組み込まれました。
須賀に現在している歴史建造物。
1.駒止塚
俗に「権太郎塚」とも呼ばれている古塚で、嬉野にある。高さ10メートル余りの円錐形の塚で、里伝に権太郎という悪党を斬って埋めた塚ともいう。
2.山ノ神
山の神は山を領する神として全国一般に知られている。山の神は春に山から降りてきて、田の神になる。そして秋の収穫が終わると山に帰るのである。祭神としては大山舐命や木花開耶媛、猿田神とされているが性格には色々な言い伝えがある。山の神は男の神だとか、夫婦神だというところもある。また山の神がお産の神と信じられている所もある。一般に山の神は容貌は醜いとされているが、天神の嫁で美人だという伝承もある。また山の神は天狗の別称であるとも言われる。ここ嬉野町では石が多く、祭りは5月8日と12月8日であるが、今は5月は省略されて忘れ去られている。山の神への供え物は御幣もちであるが、昔はただ米粉を水でこねて作ったしら餅が供えられていた。また山の神はことの他、魚を好んでオコゼという魚を好んだ。このように山ノ神の言い伝えは色々とあるが、今も子どもたちが主催して、一般住民もかがり火をたいて田畑の豊作を感謝し、家内安全を祈り、町内の平安を願うことは続いていることを大切にしていきたいものである。
3.地蔵様と庚申様
旧来の須賀の槇垣道を歩いてみると出入り口には石地蔵様や大日様庚申塚があったりする。よくみるとその周辺は少し広くなっていたり、大きな立ち木があったりする。地元の古老に聞いてみてもいつのころに出来たものか誰のものかも分からない。もちろん何のために地蔵さまが立っておられるのかも分からない。しかし時折、誰かがお参りをしているのか、お菓子やお団子がお供えしてある。そこは広くなっているので子供たちの遊び場になったり、村人の出会いの場、情報の場、井戸端会議の場、仕事の休み場になっていたのであろう。昔の表街道は裏道になり、一昔前の大通りは閑道となり、そこにお地蔵様やお大日様、庚申様は共に寂しく世の移り変わりをながめていらっしゃる。昔はここが「こば」として大切な出入り口であり、人々は必ずここを通って旅に出かけ、旅から帰り、旅の安全を祈り、村に疫病や災いが入ってくることを防いでいた。ここは村全体を守る大切な関所なのであった。道祖神はもともと岐神(ふなどのかみ)で道路や旅行を守護したまう神、イザナギノミコトの投げたまえる杖になれる神で、布那土神、手向神、幸の神など数多くの名はあるが、仏教伝来以来、人間界と幽冥界、生者と死者との間を司る神と解されるようになり、地蔵と庚申、稲荷と観音が道祖神として村や「こば」の出入り口にまつられ疫病や災難、悪霊の入ることを防ぐことになったのであろう。
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