闇色の爪 (一) 思いもかけない返事が聞けた。 「キャンプ、行くから」 ファイルや図面の入った封筒が前後に高く積まれたデスクの谷間に伏せていた 良子が隣に腰掛けた時、両腕を枕にしたまま顔を少しもたげて囁いた。 そして由の応えを待たず、急に立ち上がってコピー室のある斜め後方へ振り向く 気配なく離れて行った。てっきり「行かない」という答えをすると思ってはいたが 役目がら声をかけたのは昨日のことであった。由は動揺していた。 良子はこの春入社し、由は二年目を迎え、この春より仕事以外に青年部という コミュニケーションサークルの幹事に自ら立候補して多忙な日々を過ごしていた。 加えて彼にはもう一つ社内での役割が付いていて、バレー部員として練習や試合の折 公に職場を離れる特権を有していた。その日も午後から練習の為に公用車で品川に 行くことになっていたので、良子の返事に答えを見出せないまま去ることになった。 品川に向かう車中、頭に浮かぶのは良子と過ごした三ヶ月の職場の日々で、それは けっして楽しい記憶とはいえなかった。入社して間もないうちは彼女の天性の明るさや パワフルな行動性が周囲の者にも解される位伺えたのだが、担当する業務の内容の為に 日毎にそれらは姿を隠し、悶々とした仕事への不満が蓄積することから無気力感を帯び 一ケ月経つと仕事を放棄してデスクに蹲ることが多くなった。彼女の放棄した仕事を 苦言することなく無難に始末していく由に対して、良子は甘えつつ苛立ちを感じ、 終いにはその苛立ちを由にぶつけるようになった。良子の無気力は仕事が発端ではなく 私生活の中で抱える心の病が主因であった。それは彼女が由に告げた。 ある時、突然、小声で「死にたい」と呟いた。由の優しい応対に甘えたのか、それから 度々呟くようになった。詳しい理由は告げず、苦しさの状態を伝えるばかりでいつも 一方的な接触であった。由にも過去経験があるから深く詮索もせず唯受け入れた。 退社後に相談なり会話する時間を持つものだが、由は多忙の中にあったし、彼女もまた 退社後忙しそうに帰宅していたから今に至って退社後の交流は一度もない。 (二) 練習は区民体育館で行われ二時間で終え、いつものように軽い食事とビールで 懇話会が持たれて散会となった。その後、本部に立ち寄りキャンプの打ち合わせ など今後の活動について話し合った。由はふと良子の手を思い浮かべた。 彼女の掌は褐色の艶があって、何か特別なシャドウを塗っているように見えた。 確かに肌は比較的夏の肌に普段から近く見え、頬や目の周りは化粧を施した ように褐色のシャドウが伺えた。今日、掌や指先も同様だと気付いた。 それに加えて気に止めたのは爪のマニキュアで赤系に部類されるのだろうが くすんだ柘榴色をしていた。以前にも施していたかどうか記憶を辿っている 自分に気づき恥らうのが幾度かあった。帰宅途中の電車の中でまた起きた。 由は惚れ易い性格を自覚していた。郷里に残した婚約者のことが自覚をさらに 強くさせていて、良子に対しても当初より警戒心を喚起させていたのだが 今日はそのことを忘れ去っていた。