風化によって丸みを帯びた縁を持つ花崗岩で作られた三角点の上に、
一片の栞が置かれ枯れ落ちた笹の葉がその周囲に散在していました。
夜も夜明け前も空にはついに星は姿を見せませんでした。
早朝から人々が動き始めて活気を取り戻す頃になっても、
空は灰白色の壁を保持して太陽の姿を隠し続けています。
「なんと、心地良さそうな登山日和なんでしょう。」
「用意は整いましたよ。」
立ち上がる気配を察して、昨夜から準備していたリュックを背負いつつ
右膝を立てその上に手を添えてすっくと仁王立ちした。
「待ち合わせまでには充分余裕がありますから、ゆっくり行きましょう。」
「はい。心地良い天候ですね。」
「そうでしょう。注意書は読みましたか?」
「はい。幾度も。なかなか上手な人ですね。それに植物をよく知っておられる。」
「ええ、植物園の近くにお住まいしておられて暇があれば出かけられると伺っています。」
「そうでしょうね。私なんか生物学は得意でしたが、まるで出歩かないもので分からない。
部屋に飾られる花しか知りません。」
「私もそうです。出歩いているのに分からない。」
「ハハハッ。駄目ですね。」
「ほんと、駄目です。」
可奈は出発の時に交わした会話を幾度も頭の中で復唱しながら
見落としていることがないか詮索を重ねていた。
彼自身の理由はついに見つけられなかった。
少し安堵してはいたが心配は消えるものではない。
栞が風不死岳の頂上で発見されたのは、行方不明が発覚してから三時間後であった。
現在は、樽前山山頂付近の霧が晴れて一般の人々も捜索に加わり始めたが、
それでも目印がなければ位置も方角も分からないほど視界は悪い。雲行きさえ悪くなっている。
山頂付近は特ににわか雨が地上と異なり突然に頻繁に起きる。
戻る可能性があるということで、樽前山の下山道も別れて捜索している。
風不死岳のルートには本隊が置かれている。支笏湖から沢沿いに登って行った。
そして頂上で栞を発見した。沢下りが最も危険な為であり、
迷った時に最も安心できる下山道だからという理由である。
上達者であれば二時間で登れる。地図と無線を駆使して時折マイクで声をかける。
本隊は風不死岳の山頂に陣取られた。
可奈は風不死岳の沢で発見されなかったという知らせにも少し安堵した。
山は至る処転落の危険があるが地を這う人には優しい包容力があると可奈は信じている。
それにしても、どうして独りで行動してしまったのか。
そう考えていた時、一瞬可奈の臭覚に届いたものがあった。
それは野花の放つ香りであった。と同時に栞のことが頭に映し出された。
栞には柳蘭という野花が刻印されていたはずである。可奈は本隊にその野花の一件を伝えた。
そして、今朝出発時の会話からわずかながら可能性があることを言い添えた。
夏山に咲く柳蘭は分布が研究されていてその生息場所が手掛りになるかもしれないと考えた。
それから一時間後樽前山の山頂から少し下ったところで発見された。
頭をぶつけて意識を失っていた彼が手に掴めるだけの柳蘭を握り、指先分の温もりに
すがるように眠っていたという。
軽いねんざと手足に切り傷があるだけで骨に異常はなかった。
睡眠不足が長く意識を失わせていたらしく頭の打撲も軽いものであったという。
それから半月位経て、可奈の自宅机の上には柳蘭を押し花にした
手作りの額が飾られるようになった。
その額の裏に「ありがとう」という文字が刻印されていたという。
― 完 ―