
兎と鹿
大昔鹿には角がなくカンジキを履いていた
兎には角があった
鹿はたいへん兎の角を欲しがり
それから兎は鹿のカンジキを欲しがって取換えた
そこで鹿には角ができたけれども頭がたいへん重くて雪に弱くなり
兎はカンジキを履いているので雪の上を自由に駆けまわるのである。
アイヌの民話 知里真志保著作集より

アイヌの鹿狩猟の絵
その昔シカにとって天敵は「厳冬と大雪」であった、それが「エゾオオカミ」から「人間」になっていったのです、そしてそれは開拓にともなう環境破壊であって、大自然の営みをコントロールできると考えつつある「人間」が最大の天敵といわざるをえません。
エゾシカについてはまずアイヌ民族の歴史についてから語らなければならない、それはアイヌとエゾシカがいかに深い関わりがあったかということを物語っています。
一般的に日本人は農耕民族といわれ野生生物との関わりはあまりないと言われていました。
しかし、ここ150年位の間に蝦夷(北海道)において、和人を中心とした野生動物の滅亡があった、これにはエゾシカ、エゾオオカミが含まれており、特にエゾシカに関してはアイヌと和人の歴史事実に大きく関係がありました。
これは今になって考えてみると、アメリカ開拓時代のインデイアンと野生生物(バイソン等)の管理に対する考えを、そのままわが国に導入した「明治政府の北海道開拓による人為的環境破壊、「開拓すなわち環境破壊」だったのかもしれません 。
ここではその事が始まる以前から現在(道東地域エゾシカ保護管理計画等)に至るまでの種々の事柄を具体的に述べていくことにします。
江戸幕府の命で蝦夷地の調査をした人で蝦夷地開拓史上もっとも有名な人のなかに「松浦武四郎」をあげることができます。
彼の文献によると「1850年頃蝦夷地を探検したとき1万2千頭位のエゾシカの群れを見た」とあります。又アイヌの人達がいかに「シカ」を必要としていたかがそのころの文献を見ても分かります。
それは四季がはっきり分かれている「蝦夷」において草植物、魚類等は入手期間が限定するものの、こと「シカ」に関しては年中手に入る唯一の資源であった。
この証明として道内一円にある「郷土資料館」等へ行けば当時の生活品のなかに種々「シカ」に関するものがあることから分かります。
当時(1850年頃)成立以前に300年の歴史を持つ「松前藩」は、豊富な生物資源があることを外部(徳川幕府)に秘密にしたいため「松浦武四郎」のような「現状を調査する報告書」は不必要のものであったそれは、
いかに蝦夷地には色々な資源が豊富にあったかということで、そのことが幕府に知れれば幕府は松前藩に強引に蝦夷地の開発等を押しつけたに違いありません、
現に佐渡などでも豊富な「金資源」のため悲惨な運命をたどった人がたくさんいたのです。
またそのために松前藩は松浦武四郎に「刺客」を向けたほどでした。
蝦夷地はもともと「アイヌ」と言う先住民がいたと言う点では「アメリカ、オーストラリア」などと似た歴史をたどった地域です。
1200年頃(鎌倉時代、北条義時)に京都から蝦夷地流罪として「和人」がきて以来600年近くにわたって凶悪犯罪人が流罪追放されています、又15世紀には渡島半島に本州の敗残兵が難民としてなだれ込みました。
やがてこの難民は12のグループに分かれ、そのグループをとりまとめたのが「安東氏」でその忠実な部下が後の「松前藩」の蛎崎氏でした。
かつて蝦夷地にはおよそ3万人のアイヌがいたと言われています。
彼らはシカのことを「ユク」と呼び、道内には66カ所シカにちなんだ地名があります(ほぼ一円)、又鹿は年中獲れたので「性別、成長程度等」によって呼び名がありました、それは各地域によって違っていました、又鹿に関する言葉は覚えきれないくらいありました。
シカがとれないときは「餓死者」がでました(そのためかどうかはわかりませんが)アイヌのクマ送り(熊祭り)等の根底にあるのは
「色々な動物が神の国からやってきて、我々はそれを獲物として利用させてもらっているのだから、その霊に感謝を込めて神の国へ送り返す」と言う意味を持ちます、したがっていわゆる「いけにえ」とは少々ニュアンが違います。
純真な彼らは獲物を獲るとその獲物に対して「私達のためにそうこそおいでくださいました」と感謝の念をこめて「神」との対話を交わしていたのです。
又一般論として、アイヌは「人を疑う事を知らない民族」であったため逆に「和人」にだまされることが多く、そのため悲惨な歴史をたどったともいわれています。
そのため和人(シャモ)との間で戦闘が何度も起こり、歴史の中には「武田信玄」なども登場します、いずれにしても歴史ではアイヌが勝った事はなく、人の良いアイヌはことごとく「だまし討ち」にあっています。
豊臣秀吉の頃「タカ狩り」がありました、この鷹は蝦夷地に390カ所の捕獲場所があり、その陰にはアイヌの「酷使」がありました、話をすればきりがありませんが、このような事が重なり、いくどとなく戦闘が起こり中でも「クナシリ決起」と「シャクシャイン戦」は有名で悲惨でした。
明治時代になり北海道開拓の時代がきました。そのころ福沢諭吉の知人で黒田清隆と言う人が北海道開拓史長官になり、彼はアメリカからケプロンと言う人を連れてきました、彼はアメリカ開拓というインデイアン制圧と野生動物虐殺(一説)の行政的要職にあった人で、それらの事がまさにこの北海道で行われようとしていたのです、ただアイヌはインデイアンとは違っておとなしい民族でした。
このころ開拓地にはシカがたくさんいたため「鉄砲」を使い、盛んに殺し、シカ皮の輸出も行われ内地から多くのハンターも入ってきました。
明治5年には札幌と室蘭間に鉄道が敷かれ同6、7、8年頃には膨大なシカが捕獲されました。この事はまさに、アメリカ開拓と同じ現象で「銃、ハンター、鉄道、獲物の虐殺」といずれをとっても「北海道開拓の歴史はアメリカ開拓の歴史と同じ」だったのです。
このころエドウイン、ダンという人がきました、彼によって北海道の野生生物は大きく変えられたのです。
アイヌには家畜がなく犬をかっていました(アイヌ犬)それはシカとか熊の狩猟のためだったのです
「鉄砲」という文化のために狩猟伝統が薄れ、犬の管理が悪くなり野犬が増え始めました、野犬は家畜を襲い始めたので、開拓使では明治9年に全道的に犬の駆除を始め又賞金が賭けられました。
この事はアメリカにおいて、家畜が襲われるためにオオカミ退治に賞金が賭けられた事と酷似しており、推測するに明治政府が雇ったアメリカ人の考えが導入されたものと思われます、さらに政府は野犬対策として牧羊犬を輸入しました。
明治9年「鹿猟規制」が公布され、今まで野放しだったエゾシカに対する狩猟要項が発令され、ようやく欧米に一歩近づいたのです、又アイヌにはそれまでの「毒矢」を禁止し「鉄砲」を貸す事もしました、これはものすごい進歩です、というのはアメリカにおいては白人とインデアンが戦っていて、そのインデイアンに銃を与えるようなことは絶対に考えられなかったし、インデイアンにとってバイソンは生きるための資源でした。タカ派の人達はバイソンを減らせばインデイアンが負けると考えていたくらいですから。
この事からもいかにアイヌの人が無抵抗でやさしい心だったのかがうかがえます、アイヌにとってシカは大切な資源でしたから。
又ダンもケプロンもアイヌの人達がおとなしいためにこのような提言をしたと考えられます。
「狩猟規制」で一般人は鑑札料(今で言えば狩猟税)2円50銭を払うのですがアイヌは払わなくても良いことになっていました。
しかし意外なところで予想していないことが起こるものです。
それはアイヌにシカをとらせて安く買い取って楽にもうけようとするものが横行しました。
アイヌの社会には金というものがないため、酒やわずかの金でシカを大量に獲らされました(一説)こうしてエゾシカは滅亡の道へ向かっていったのです。
又同じ頃アメリカで白人がシチュー用の舌をとるために、インデイアンを利用してバイソンを虐殺したため滅亡へと向かっていったのです。
又明治政府はその後シカの缶詰工場もつくりましたがそのころすでにシカは少なくなっていました。
オオカミの主食はシカだったのでシカが少なくなるとオオカミは家畜を襲い始めました、
エドウイン、ダンは日高の国営牧場で家畜が襲われるためオオカミを毒殺する事にしました、毒薬には「ストリキニーネ」を使用しました、それも北海道中の生き物を全部殺せる以上の量を用意して。
又賞金も賭けられました、そのため約二千頭のオオカミが捕獲薬殺され絶滅したのです。
明治12年には記録的な大雪でエサをとれずに「餓死」したシカも多数でました、しかも「シカ肉の缶詰工場」などもあったためシカの需要も多かった事も要因となって乱獲が続きました、そのため事実上シカはほとんど絶滅した、といっても過言ではありません。
アイヌはシカも主食としていたため主食を失ったアイヌのなかにも餓死者がでました。
シカは条件さえ良ければ猛烈な繁殖を繰り返します、資料によれば「奥尻島」に明治11年オス、メスのシカを6頭放し、20年後の明治31年には約3000頭になったという事です。
明治22年シカ猟全面禁猟となり、明治33年にはシカ猟再会となりました。
そして明治36年に再び大雪となり「餓死と殺戮」でまた絶滅状態になりました。
その後横這い状態が続き昭和25年頃から農業被害が出始めました「エゾシカの復活」です。
今日本を高度成長に結びつけたのは欧米の文化でした。
しかし、その昔「鎖国」が続いていたわが国にとって欧米の文明は「うらやましい」存在でしたその「文明」を羨望の眼差しで貪欲に取り入れた政府の対応はわが国の自然文化に予想以上の弊害をもたらしました。
エゾシカが絶滅に陥ったのは決して「大雪などの天災」だけではなかったのです。
「道東地域エゾシカ保護管理計画」が発令され数年がたちました。
絶滅に近い状態まで追いやった後、増やす計画を立てましたが今度は「増えすぎ」のため「減らす」事になりました、人間が自然をコントロールしようとしています。
大自然の営みをコントロールできると考えていいのでしょうか?
今増えすぎたシカを駆除するのに「銅弾」を使用することになりました、
絶滅に近い「鷲類」を保護するためです。
「絶滅に近い種を保護し、増えすぎた種は減らす」という作業が果たして正しいのか、という疑問とこのような状況になった原因は「我々にある」という自責の念も覚えずにはいられません。
「外国との国交がなかった日本の盲点は、文化程度が低かったわが国が異国の先進機械文明に触れて驚いて「文明開化こそ絶対の思想、必需品」との考え違いをしていた当時の国民感覚であって「どんな人間も基本的には歴史上同じ行動をする」という証明だったのかも知れません。
まだたくさんお話したい事がありますが現在このような経過のもとに「エゾシカ」は生息しているのです。
最後までお読み下さって有難うございました。