第8章 喫煙と他の因子との相互作用〔要約〕
循環器疾患などにおいては、喫煙は相互に作用し合う多くの危険因子のひとつとして位置づけられているが、喫煙者の先天的な
素因、その他の身体的条件、または環境要因の違いなどが、喫煙の健康影響の出方を左右することがあるらしい。
肺がんについてはそれにかかりやすい遺伝的素因が存在するらしいとする報告が断片的ながらいくつかある。たばこの煙の中にあ
るべンツピレンのような物質を体内で活性化するという酵素系AHH(チトクロームP−450)などが肺がん発病の感受性に関
連するのではないかといわれているが、いまのところはっきりした結論は得られていない。このほか、栄養(緑黄色野菜の中に含
まれるビタミンAやその前駆体であるべータ・カロチンの作用)や職業上暴露要因(砒素、石綿、電離放射線その他)も喫煙によ
る肺がんのリスクに影響することが疑われている。
慢性閉塞性呼吸器疾患および慢性気管支炎については、加齢に伴う呼吸機能の低下の過程で喫煙の影響を受けやすい人びととそ
うでない人びととが存在することが知られている。これには体内の蛋白融解酵素の作用を抑える酵素であるアルファ・アンチトリ
プシン(α1AT)の欠乏のような要因が関連してするのかもしれないが、はっきりしない。ほかに幼時の呼吸器感染の既往も関
連するのではないかといわれている。その他、いくつかの職業暴露や大気汚染でも、喫煙習慣から予想される以上に慢性気管支炎
が発生することが報告されている。
喫煙に対する感受性
全く同じように喫煙をしていた人びとのなかでも、ある健康影響を明らかにこうむる人と、必ずしもそうでないようにみえる人
とがいる事実は、広く受け入れられている。もちろん、同じようにみえても喫煙習慣の微妙な違いが、この健康影響の違いの原因
となりうることは注意しなければならない(例えば煙をどのくらい深く吸い込むか、紙巻たばこをどのくらい短くなるまで吸うか、
あるいはその他の喫煙様式の違いなど)。しかし、慢性閉塞性呼吸器疾患の場合には、おそらく遺伝的な特性によって、たばこの
煙の影響を受けやすいか否かが変わるらしいことが唱えられており、またある種の職業暴露のある喫煙者における肺がんのリスク
が、非喫煙者あるいは非暴露の喫煙者に比べて飛躍的に高くなることもよく知られている。
このように、喫煙者(宿主)の先天的な素因、その他の身体的条件、または環境要因の違いなどが、喫煙の健康影響を左右する
ことがあることが、最近いくつかの病気や状態について明らかにされてきた。
危険の高い喫煙者とそうでない喫煙者とを区別するような議論は、喫煙をやめたくないと思っている人びとに言い訳を与えるこ
とになりうる(すべての種類の健康影響に対して感受性が低い個体や環境といったものはありえないから、この口実は理屈が合わ
ないことは明らかであるとしても)が、喫煙の健康影響の機序や病気そのものの発生のメカニズムを解明するうえで重要であり、
またこのような点で特に高いリスク要因をもった喫煙者には特別の対策や保護の手段を考えるといったことのためにも必要なこと
である。ここにたばこの煙に対する個人の感受性を問題にする意義がある。
以下、そのような最近の知見のなかから・肺がん、・慢性閉塞性呼吸器疾患および慢性気管支炎について取り上げることにする。
これらについては、すでに・―2(喫煙とがん)、・―4(喫煙と呼吸器疾患)にふれられているほか、・―3では虚血性心疾患
に関するもの、さらに経口避妊薬(ピル)を使用する女性の心血管疾患に対するリスクについても喫煙と他の要因との複合効果と
して記述されている。
(1)肺がん先天的・遺伝的素因
多くのがんと同じように、肺がんにもそれにかかりやすい遺伝的素因が存在するらしい。Tokuhataは肺がん思者の血縁
者では喫煙歴を訂正してもその他の者の2.5倍の肺がん発生率を観察し、喫煙歴と肺がんの家族負荷とは肺がん発生に相乗的に
作用しているとした。日本での平山の観察でも肺がん患者には血族に肺がん例をもつ割合が、非肺がん対照例における割合よりも
明らかに高いことをみている。肺がんと関連するとされている比較的まれな病気で遺伝的に起こるものもいくつか知られている
(家族性間質性肺炎、硬皮症、Liand Fraumemi症候群など)。これらは主として喫煙と関連の小さい肺胞上皮がん
や、もっとまれな組織型の肺がんについてみられることが多く、喫煙がどの程度これに関連するかはわかっていない。
図・・8―1 成人1人当たりシガレット生産本数と1970年代中期の35〜44歳の肺がん死亡率の相関(略)
たばこの煙の中にあるベンツピレンのような物質は体内でAHH(Aryl hydrocarbon hydroxylas
e)という酵素(酵素系,ときにチトクロームp−450とも呼ばれる)により活性化され、これによってより強い発がん性を発
揮するといわれている。そのような酵素活性が遺伝的に決定されるということ、また肺がん患者でその血中レべルが高いことが報
告されて、たばこによる発がんのリスクと遺伝形質の関連が注目された。しかし、その後この酵素系の作用はたいへん複雑なもの
であること、その活性水準の測定が不確実なものであることが認識されるようになり、最近はこの観察と仮説は必ずしもそのまま
受け入れられているとはいえない。今後の分子遺伝学などの手法による問題の解明に待つところが大きい。
図・・8―2 緑黄色野菜摂取頻度別・1日喫煙本数別肺がん相対危険度(年齢標準化死亡率比)―計画調査 1966
−82(略)
性や人種のような要因と肺がん発生に関する喫煙との相互作用については、いまのところはっきりした結論は得られていない。
図・・8−1(略)は1970年代中期の中年成人男性(35〜44歳)の肺がん死亡率と、この世代の人びとの成人期の喫煙量
をよく反映すると思われる1950(昭和25)年の紙巻たばこ生産量の関係を、主要な国々についてみたものである。両者の間
にはかなり一貫した量−反応関係がみられ、喫煙と肺がんの関連が国や人種の差を越えてかなり普遍的なものであることを暗示し
ている。
図(略)中、日本の肺がん死亡率が喫煙量の割に他の国々より低いのは、この時代以前のたばこ消費量の少なさと、この時代以
後の急速な肺がん死亡の増加傾向を考えれば、日本を例外としなくともよいように思われるという。また、香港をはじめ中国南部
系の女性の肺がん死亡率は著しく高いことは、発がんの感受性の人種差に関連づけてよく問題とされるが、食生活や他の環境要因
で説明しようという研究が目下行われている。
栄養
発がんの内部環境としての食事の関与については多くの疫学的、実験的研究から示唆されている。平山は緑黄色野菜の摂取とが
ん死亡の関連についての前向きの観察を行った。これによれば、図・・8―2(略)のように緑黄色野菜をほとんど食べず、喫煙
本数の多い場合に肺がんおよび全がんのリスクが最も高いが、緑黄色野菜摂取が、がんのリスクを低める効果は、多量喫煙者で最
も箸しい。緑黄色野菜の中に含まれるビタミンAやその前駆体であるべータ・カロチンに由来するビタミンAが、人体内でたばこ
の煙の成分に由来する発がんプロモーターの作用を弱め、見かけ上たばこに対する感受性を低めるように働くものと考えられてい
る。
職業暴露
一連の職業上の暴露要因が、単独あるいはたばこ喫煙と協同して肺がんのリスクを高めることが知られており、あるいは強く疑
われている。がんとの関連が確立されている物質や作業としては、砒素、石綿、bis−クロロメチルエーテル、クロム化合物、
マスタードガス、ニッケル精練、多環芳香族炭化水素、電離放射線、または関連が疑われているものとしては、アクリロニトリル、
べリリウム、塩化ビニル、鋳物製造、ゴム加工、溶接作業などがある。最近、珪肺には肺がんが合併しやすいという報告もある。
(2)慢性閉塞性呼吸器疾患および慢性気管支炎性・人種
喫煙やその他の環境因子を考慮に入れたうえで慢性閉塞性呼吸器疾患の有病率の地理的な格差が人種差によるものであるという
ことを証明した観察はない。ただし、次に述べる酵素などのような遺伝的因子の分布に関する詳細な観察が行われるようになれば
(例えば文献23)、これによる人種差も議論されるようになるであろう。
一方、性差については、喫煙にかかわらず女よりも男のほうが閉塞性障害を起こしやすいとされる。症状や、また気腫性の変化
の頻度、程度についても同様なことが観察されている。
遺伝的素因
ロンドンの中年の郵便労働者の集団を十数年にわたり追跡して、呼吸機能や呼吸器症状が喫煙習慣別にみて、年齢とともにどの
ように変わるかを観察したFletcherらは、非喫煙者でも1秒量(FEV1)でみた呼吸機能は加齢とともに低下するが、
喫煙者の場合には非喫煙者と同じ程度に低下する者と、より急速に低下して中高年期に呼吸障害の状態に陥る者とに分かれること
を示し、喫煙の影響を受けやすい人びととそうでない人びととが区別されると結論した。一方、家族性の肺気腫症例において体内
の蛋白融解酵素の作用を抑える酵素であるアルファ・アンチトリプシン(α1AT)の欠乏がみられることがあることから、この
ような先天的酵素異常のある者が喫煙することにより、肺組織の破壊が早期により強く起こることが観察されている。しかし、喫
煙者の閉塞性障害は、この酵素の血中水準が一見正常の者にも起こり、これとは無関係にみえる家族性の慢性気管支炎や閉塞性呼
吸器疾恵も確かにみられていることから、この酵素異常が感受性の先天的な決定要因のすべてというわけではない。さらに、双生
児の研究から気道粘液クリアランスが遺伝的に決定されているらしいことも示されている。これらの遺伝的要因の実体が上記のα
1AT以外のどのようなものであるかは今後の研究にまたねばならない。
小児期の既往歴
Fletcherらは、中高年期の呼吸機能の低下は青年期にすでに低かった者でより急速であることを見、さらにこのたばこ
に対する感受性を決定する要因として、幼時の呼吸器感染の影響などを示唆したが、実際米国でも小児期の感染や喘息の既往が成
人後の喫煙者における呼吸機能の低下の速さと関係していることが観察されている。
職業暴露
いくつかの職業暴露集団で、喫煙習慣から予想される以上に慢性単純性気管支炎の発生がみられることが知られている。例えば
石炭、穀物、シリカ、鋳物の取り扱い、さらに程度は軽いが二酸化硫黄、セメントなどがある。これらのものの慢性の咳、痰の原
因となる程度は喫煙の影響と相加的であるとされる(文献26による)。
大気汚染
二酸化硫黄を指標としてみた大気汚染の程度と慢性気管支炎の有病率の関係における喫煙の効果は、おそらく相加的なものと考
えられている。常俊らは大規模な住民標本の観察から、慢性気管支炎有病率を性・年齢・喫煙量、それに大気汚染の水準とから導
く数式を決定した。大気汚染の効果は他の因子の効果に対して相加的である。
Reidによる英国での観察でも非喫煙者では持続性の咳および痰の有症率、慢性気管支炎の有病率は年齢にあまり依存しないが、
喫煙者ではこれらはともに年齢に強く依存しており、これは大気汚染があってもなくても同様である。これから彼は、まず喫煙が
慢性気管支炎をひき起こし、大気汚染がそれを悪化させるという仮説を提出している。