第9章 紙巻たばこ以外のたばこ(嗅ぎたばこなど)の健康に及ぼす影響〔要約〕
紙巻たばこ以外のたばこ(無煙たばこ)には、乾燥嗅ぎたばこ、湿性嗅ぎたばこ、噛みたばこの3種類があり、鼻腔内に乾燥嗅
ぎたばこを塗りつけるか、口腔内で頬の内側と歯肉の間に湿性嗅ぎたばこか噛みたばこを入れ、噛んで用いている。
これらのたばこの中には、ニトロサミン系の発がん物質が含まれており、動物実験で口腔や鼻腔内のがんの発生が確かめられて
いる。
嗅ぎたばこは日本ではごく最近小規模に使用され始めただけであるが、外国での経験で、嗅ぎたばこの使用とヒトの口腔がんの
発生には、明らかに因果関係があることが認められており、口腔内の自斑症も嗅ぎたばこ使用者に高率に発生し、その一部が口腔
がんに悪性転換することも知られている。鼻腔のがんの発生に対して、鼻腔内に入れた嗅ぎたばこの影響を疑わせる成績もいくつ
か得られているが、確証は得られていない。
(1)はじめに
嗅ぎたばこなどの紙巻たばこ以外のたばこ(無煙たばこ)は、昭和61年の夏に「スミス・スナッフ」が初めて輸入されたが、
それまでは日本では全く使用されていなかったので、その健康に及ぼす影響についての研究は、国内では行われていない。そのた
め、諸外国での研究の主なものを、参考までに紹介する。
日本ではまだほとんと用いられていないが、米国ではたばこ産業の活発な宣伝活動によって、主として青少年層に嗅ぎたばこが
普及しはじめ、習慣性があること、手軽に用いうることなどから、大きな社会問題になりつつあり、わが国にとっても関心を払う
必要のある問題である。
(2)紙巻たばこ以外のたばこの種類
紙巻たばこ以外のたばこ(無煙たばこ)には、次の3種類がある。
乾燥嗅ぎたばこ
たばこの葉を火で乾燥させてから粉砕し、小麦粉のような粉にして、これに香料などを加えたものである。
湿性嗅ぎたばこ
たばこの葉を細かく切り、湿度を高くしたものである。
噛みたばこ
たばこの葉を細かく切ったものである。1980年までは米国の農業省によって噛みたばことされていたが、最近では湿性嗅
ぎたばこのひとつに加えられている。
英国では乾燥嗅ぎたばこ一つまみを鼻腔内に塗りつけて用いるが、米国やスカンジナビア、北アフリカなどでは、口腔内で頬の
内側と歯肉との間に一つまみの乾燥嗅ぎたばこを入れ、あるいは湿性嗅ぎたばこを口腔内に入れ、噛んで用いている。
このため健康に及ぼす影響については、口腔使用時の影響と、鼻腔使用時の影響に分けて観察する必要がある。
(3)嗅ぎたばこに含まれる発がん物質
紙巻たばこは燃焼させるので、多環性芳香性炭化水素やタールを含む粒子を吸入することになるが、嗅ぎたばこは燃焼させるこ
とはないので、これらに暴露される恐れはない。しかし、たばこの中には、特有のニトロサミンやニトロソモルフォリンなどのニ
トロサミン系物質が含まれており、これらは動物に発がん性があることが明らかにされている。
口腔粘膜に対する慢性影響については、ラットの下唇の一部に口腔粘膜で被覆された管を作り、ここに嗅ぎたばこを挿入する研
究が行われた。9〜22月の観察で、嗅ぎたばこと接触した粘膜上皮に過形成、角化亢進、異型上皮の出現がみられ、55例中1
例に扁平上皮がんがみられた。Herpes siplex virus−1(HSV−1)を感染させたラットの口腔に嗅ぎた
ばこを作用させる研究では、7例中2例に扁平上皮がんの発生をみている。
ニトロサミン系物質の発がん性をラット、マウス、ハムスターを用いて研究した成績では、鼻腔のがんの発生がみられている。
(4)口腔に対する影響
1)口腔がん
疫学的に嗅ぎたばこと口腔がんの因果関係について検討すると、次のように総括することができる。
・一貰性
米国と北欧諸国での疫学研究成績の多くは、嗅ぎたばこの使用と口腔がんの発生について、一貫した関係を示している。
・相関の強さ
Winnらが嗅ぎたばこの口腔内使用者の多い米国北カロライナ州の女性の口腔がん患者232例と対照410例について
実施した比較研究から、非喫煙・非飲酒で嗅ぎたばこ単独使用例で発がんの危険は4倍、長期使用の場合には48倍に達する
ことが示されている。使用期間と発がんの危険についても、量−反応関係が成立し、相関はきわめて強いといえる。
・特異性
口腔内の部位のうち、嗅ぎたばこに直接接触する歯肉や頬部に特異的に発がんの危険が多いことが多くの研究で示されてい
る。
・時間関係
前向きのコホート調査で、嗅ぎたばこ使用者に発がんの危険が高く、また前がん状態と考えられる口腔内白斑の発生も嗅ぎ
たばこ使用者に多いことが示されている。
・整合性
嗅ぎたばこの使用が多い地域や国では、口腔がんの頻度が高く、がん発生の性別の差も嗅ぎたばこの使用状況に影響され、
動物のモデルでも上述したように発がんが認められている。
これらの成績からみて、嗅ぎたばこの使用と口腔がんの発生には、疫学的にみて因果関係があると結論できる。
2)口腔内白斑症など
嗅ぎたばこ使用者には自斑症が高率に発生し、その部位は嗅ぎたばこを装着する部位かそれに近いことが明らかにされている。
また、嗅ぎたばこの使用を止めると、白斑症は回復する。
白斑症の一部は口腔がんに悪性転換することが認められている。
このほかに嗅ぎたばこの使用によって、歯肉の損傷が主として接触した部位にみられ、歯質が損傷を受けることもある。
(5)鼻腔に対する影響
1761年にHillは嗅ぎたばこ使用者にみられた鼻腔がんの2例を報告している。
Keenは1949〜54年に経験された南アフリカのバンツー族の気道がん86例中46例(54%)が鼻腔か副鼻腔のがん
で、大半は上顎洞の高分化扁平上皮がんであったと報告した。この母数は200万人であり、全発生例の25%が受診していると
推定している(欧州では気道がん中の鼻腔がんは5%である)。紙巻たばこの喫煙はこの地区ではあまり行われていないが、嗅ぎ
たばこの鼻への吸入は男女とも多くの人が行っている。この地区で用いられている嗅ぎたばこには、たばこの葉のほかに、アロエ
や他の香料の灰、ときに油、レモン・ジュース、薬草などが加えられている。Baumslagは嗅ぎたばこを1日茶匙1杯用い
ている者が多いと述べている。
HigginsonとOettleは、南アフリカのバンツー族のがんについて大規模な発生率調査と症例−対照比較研究を行
った。患者は病院の診療録、死亡診断書、開業医の診療録から求め、国勢調査のデータを分母に用いた。口腔がんの発生率はバン
ツー族と米国の黒人で差はなかったが、副鼻腔のがんはバンツー族で10万対31で、米国の黒人の1以下に比し著しく多かった。
嗅ぎたばこを鼻に吸入している者の割合は男子の副鼻腔がん患者では43%、口腔がん患者で0、肺がん患者で9%,食道がん患
者で7%、病院入院患者では若年者で6%、中高年者で21%、全人口では若年者で4%、中高年の男子で15%であった。
Baumslagは南アフリカで用いられている嗅ぎたばこにはニッケル、クロムや亜鉛などが大量に含まれており、これらの
金属自体、およびこれらと嗅ぎたばこの中の発がん物質との複合効果を副鼻腔がんが多い原因として疑っている。ニッケルに発が
ん性があることは、ニッケル精練工場の従業員に肺がんと鼻腔がんが多いことで確かめられている。
Shanta,Krishnamurthiは南インドで調査し、対照の非がん患者には嗅ぎたばこ使用者はなく、口腔、咽頭、
食道がんの患者には嗅ぎたばこ使用者がおり、その割合は食道がんで男12.2%、女11.1%、下咽頭がんで男11.1%、
女8.3%、口腔、扁桃、上咽頭がんで男9%、女4%であった。ただしこの研究では他のたばこなどとの関連は調査されていな
い。
一方、Achesonらは家具工の鼻腔がん患者11人中3人は嗅ぎたばこを常用していたと報告している。Andersen
はデンマークで治療した鼻腔、副鼻腔がんの例には嗅ぎたばこ使用者は1人もなく、Engzellは1961〜71年にスウェ
ーデンのがん登録に報告された鼻腔、副鼻腔がん例の嗅ぎたばこ使用状況は、全国民と同様であったと述べている。
これらの成績からみて、嗅ぎたばこを鼻に吸入することによって、鼻腔および副鼻腔のがんの発生が促進されることが疑われる
が、確実な証明は得られていない。