| にしむねだより 29 | |||
No.29 中国山地には、安芸吉川氏に関係した戦国時代の山城の跡が沢山のこってい......吉川元春の居館跡・元春と元長の..... |
中国山地には、安芸吉川氏に関係した戦国時代の山城の跡が沢山のこっている。その殆どが樹木や雑草で蔽われ、当時の姿を思い浮かべるのは難しい状態である。が、それらを探訪していくうちに、色々と疑問が出てはやがて解明すると言う面白さを経験できる。 わが町に、吉川元春の居館跡・元春と元長の墓所・菩提寺の海応寺跡、隣接する千代田町に、日山城跡・万徳院跡・容光院と吉川氏二代から九代の当主の墓所、隣接する大朝町には、駿河丸城跡・小倉山城跡・安芸吉川氏の始祖経高の墓所がある。 駿河吉川氏の五代経高が、地頭に任じられている安芸国大朝本荘(広島県山県郡大朝町大朝)を直接管理するべく移って来たのは1313年で、経高80歳の時の事だったそうだ。この頃、関東の群小御家人の多くが西国へ移住したらしく、経高の弟達も、播磨吉川氏、石見吉川氏の祖となっているし、毛利氏も同様である。この経高が安芸吉川氏の始祖となり、十一代の元春へと続くのである。 経高は、移住して間も無く、現在の大朝町間所に居城を設けた。寒曳山の南側の山裾で、大朝本荘を見渡せる平地から40mばかり高い丘の上に築城された。今は、写真の様に竹薮と松や杉の木立に包まれた丘で、周囲は耕地でどこまでが城郭区域だったのか判然としない。麓に登山口の標識があつたので、頂上へむかってみた。孟宗竹の藪が両側から覆い被さる山道を進むと、突然、急斜面の階段が現れ、登りつめたところに本丸跡の標識があった。平に切開かれた台地は松や杉が林立し、麓の景色は見ることができなかった。 この城を本拠に、初代経高・二代経盛・三代経秋が安芸吉川の基礎固めをしたようである。83歳で没した経高の墓所は、この本荘に無い。東隣の盆地、大朝新荘の小倉山城の山麓にある。歴史家は、当初は本荘の安養寺(駿河国吉河邑にあったのを移した)にあったと推測しているのだが、何時の頃か今の場所に移転した。山の斜面に石垣を積んで墓所を作り、木の格子の屋根付きの塀をめぐらし、その中に石組みで囲った土盛りがあり、墓印に五葉の松がうえられていた。墓前の石灯篭に「當邑移封祖 経高入道一心公」、裏に文政十年九月一日と刻まれていた。 つづく | ||
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