にしむねだより 30

                                                

No.30 

 駿河国吉河邑の吉川経高が、関東の地から西国の安芸国に移ってきた頃......


 駿河国吉河邑の吉川経高が、関東の地から西国の安芸国に移ってきた頃、同じ関東の御家人が中国地区へ夢を求めてやってきた。安芸国吉田荘へ入った相模国毛利荘の毛利氏、三入荘へ入った武蔵野国熊谷郷の熊谷氏、吉川経高の長弟の経盛は播磨国福井荘、次弟の経茂は石見国温泉津町の地頭職となり石見吉川氏の祖となった。

 関東の豊かな地から、中国地区の雪深い地に、彼らは、何故移り住んだのであろうか。

一つは、直接現地で管理していない領地が、周辺の地元の豪族に奪われるという事態が起きていたようだ。更に、関東では、群小の御家人は勢力を拡大するのは極めて難しかったようである。それに、当時は治水技術が低く、水害に見舞われる川の下流より上流の方が稲作には適していたが為であったといった事等が要因だったと思われる。

 安芸吉川の始祖経高の墓所を訪ねた。小倉山城の麓にある横路遺跡から山に向かって山道が延びている。両側は杉林で、落ち葉を踏みしめながら坂道を進むと、斜面に積み上げられた石垣の上に瓦葺きの屋根のある木の塀で囲まれた墓所らしきものが現れた。

 正面に開き戸があり、開けて入ると石柵でかこまれた土盛があり、石柱ではなく、墓印に五葉の松が植えられていた。墓前の石灯籠に當邑移封入道経高一心公と刻まれていた。この場所は大朝新荘で、経高が没した時は、まだ安芸吉川氏の領地ではなかったので、当初からあった墓所ではないはずである。何故なら、大朝新荘が安芸吉川氏の領地となったのは、安芸吉川氏四代の経見(経高の弟・経茂の孫)の時なのだ。

 文政10年に、吉川元春・元長の墓所と万徳院の境内にあった容光院の墓が修復されており、経高の墓前の石灯篭にも文政10年の文字があるところから推察すると、文政10年・1827年に今の新荘の地に移設されたとみるのが妥当ではないだろうか。それ以前は、駿河国吉河邑から移設した菩提寺の安養寺に葬られていたとみるのが妥当と言えよう。墓印の五葉の松は、元春や容光院の墓所にもあり、しかも、容光院の墓所についての江戸時代の絵図に描かれている点から考えると、安芸地区の江戸期の風習とも思えるが定かではない。謎解きの一つである。  

(写真は経高の墓・右の大木は根が合体している四本の杉で、根周り七メートル)


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