| にしむねだより 31 | |||
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雪の積もったある日、大朝町の新庄にある小倉山城跡を訪ねた。安芸吉川氏の四代経見が、大朝本荘の安芸吉川氏始祖の経高築城の駿河丸城を廃し、新しく領地とした大朝新荘の小倉山城を築いたのは1380年の事である。駿河丸城よりは規模は大きくて平地よりは倍の高さの小山にあり、大朝の新荘はもとより本荘も望める城である。 経高の孫、3代経秋に男児が無かった為、経高の弟の経茂の孫である経見が安芸吉川氏に婿養子として迎い入れられ4代目の当主となった。 これから、毛利元就の次男元春が十代興経の養子として安芸吉川家を相続する1550年までの約170年の間、大朝は、安芸吉川氏の本拠地として発展した。 上の写真は、後世に城山の様子を書き表した絵図である。この絵図の下辺に家臣団の家屋敷があり、それを除く平地部分は農地であったと思われる。戦国時代以降の城と比較すると、頗る小さな城である。毛利元就の妻となった「おかた(名前ではなく当時の城主夫人の一般的呼称)」が此処で生まれ育ったのかと思うと史跡探訪が実に楽しいものとなる。 わが豊平町の北に隣接して芸北町、東に隣接して千代田町、北東に隣接して大朝町があり、この四町が来春合併することとなっている。このうち、千代田・豊平・大朝の三町が吉川氏の直轄地であった。今、人口は千代田が10.700人、豊平が4,500人、大朝が3,500人なのだが、図書館の蔵書は、千代田が10,000冊、豊平が2,600冊に対して大朝は51,000冊と桁違いである。武もさることながら、文を重んじ尊んだ安芸吉川氏の国づくりが今の大朝町に息づいていると感じさせられる。 それだけに、この町との合併は大歓迎だ。自然豊かな芸北町を語るのは後日としたい。余談ではあるが、「ねね」とか「まつ」とか戦国時代の女性の名が残っているのに、元就の正妻も、安芸吉川氏の殆どの女達の名前は史料に残っていない。 | |||
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