’98相生ペ−ロン祭り 「 5.31」

船名書いたのぼり 白龍城をバックに力漕
女子優勝チ−ムの頑張り どっち勝ったかな
傘踊り 叔父さんつかれた


ペーロンの発祥 
 西暦紀元前300年のころ、中国の福州(現在の福建省福州)地方で楚の宰相屈原は懐王を助けてよい政治を行い、名宰相といわれていましたが、ざんげにより政界より退けられました。その後間もなく懐王は、秦の軍勢に捕えられ客死しました。  屈原は楚の国運をなげいて泪羅(河)に身を投じました。人民はこれを非常に悲 しみ、「ちまき」をつ<って河に投げ、同時に龍舶(白龍)を造って競漕し、その霊を慰めました。 ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれております。 日本への伝来 我が国へは1655年に伝来したといわれています。その当時中国の舶数隻が長崎湾を訪れた際、強風のため出帆ができなかったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。これを長崎の人達がとりいれて 競漕を行うようになり、同地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。
 相生では 大正11年に長崎県出身の播磨造舶所従業員によって移入され、終戦までは毎年5月27日の海軍記念日に、同社構内天白神社の例祭に、ポートレースと共に盛大に行 われて来ましたが、この異国情緒あふれる古式豊かなペーロン競漕を絶やすことなく続けたいと、戦後、市・商工会議所・播磨造船所が共催し、「相生港まつり」と して行い、また同時に花火を打ち上げるようになり、現在の基礎ができました。昭和37年には市、商工会議所、石川島播磨重工業の三者により「相生ペーロン祭協賛会」を結成し、翌昭和38年からは「相生ペーロン祭」の海上行事として盛大に行われております。現在わが国で行われているところは、長崎のほかは相生、沖縄などです。

兵庫相生ペーロン船の沿革 
大正12年に一代自ペーロン舶(舶名不明)3集が新造され、続いて二代日(飛龍・雲龍・蚊龍)に引き継がれ、昭和28年には三代日(天龍・白龍・神龍)が新造されました。その大きさは長さ13.55m、幅1.75mで、艇長1名、舵取1名、監督2名、太鼓1名、銅ら1名、漕手34名、計40名の船でありましたが、老朽化のため、昭和55年に四代目、昭和60年に同型の五代目を、平成2年には六代目を新調しています。 現在のペーロン舶は、相生型(龍の頭をかたどった舶首)の伝統を受け継いだ四代目(飛龍、雲龍、昇龍)と五代目(天龍・白龍・神龍)の長さ12m、幅1.58mの船と、それより全長を1m長くした六代目(海龍、蒼龍、輝龍、瑞龍)の船で、艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅鑼1名、漕手28名、計32名が乗り組み、ドン!デン!ジャン!と、中国特有の銅ら、太鼓の「はやし」に合わせて力漕する有様は、まさに龍が駆けるように壮観そのものです。
(関連資料抜粋)