人間は生物学的には、ヒト科の動物とされているが、本当に動物と呼べるのだろうか。
よく、「自然界の掟は厳しい」とか言うが、その「自然界」というのは、「人間界」とは違う、別離する、といった考え方である。また、食物連鎖の輪の中にもヒトは含まれない。人間をヒト科の「動物」であると考える生物学の世界でも、こうして「ヒト」と「動物」を区別しているのである。それらはまるで矛盾している。
しかし、人間の祖先は確かに動物といえるものであった。ではどこでそんな違いができたのだろうか。猿人類と人類との境目は、一般的にミッシングリングと呼ばれる時代に現れたとされる。それより前の時代は、猿。それ以降は、ヒト。というわけだ。
その空白の時代に何が変わったのだろう。それは、「火」の使用である。つまり、ヒトと猿との違いは、「火」を使うか否かによる。「火」を使い始めたがために人類は自然界からかけ離れてしまったのである。そして現代までその頭を巧みに使い、発明に発明を重ねてこうした文明、文化を育んできたのである。
ところが、ある仮説によると、古代に宇宙人が地球に飛来していて、そして文明を築いたという。わたしもこの説を信じているのだが、そうすると、人類の自然界との別離は意図的になされたものであるという一面が現れ、神の存在を否定するのも難しくなってくる。つまり、この世の全ての人類に関するものが、神(宇宙人)の意図するところのものになってしまう。
こう考えてみると、我々は神に生かされているのであり、神のうえに成り立っていることになる。
ここで生物全般をみてみよう。以上のことをふまえると、人間以外の動物はなんの操作も受けていない、ピュアな状態であると考えられる(もちろん野生での話だが、)彼らに、「働こう」、「金を儲けよう」等という思考はない。あるのは「われらの種の血を絶やすまい」という思考、というより情熱に近いものである。彼らは生きることしか頭にない。よく人は「考える葦である」といわれるが、そのとおりである。一部の猿に計算ができる猿がいるが、それらは珍しいから評判になるのであって、計算できて当たり前なのだったら面白くも何ともない。人間だけが高度な知能を持っているといえよう。その分、人間には過酷な運命が待っていたのである。
それは、生きている目標である。動物達は生きる事しか頭にないが、人間はお金を稼ぐために働き、「生きる」という目標を失いかけている。だが、人間は本当に働くためだけに生きているのか。日本では縄文時代の頃には上下関係がなかった、弥生時代になって初めて身分に差が生れた。要するに、人を遣うということはごく最近になって確立されたことなのだ。「人間は何のためにいきているのだろう」という質問は、自然で考えるととてもくだらない質問なのだが、「生きる」ということ以外の目標、言うなれば「擬似目標」なるものを造りだしてしまったため、「生きるために生きる」という当たり前の答えが導き出せなくなってしまったのだろう。自殺がそのいい例である。自分は勉強ができないから…、いじめられるから…、などといって人は次々と自殺していくが、それこそが目標を見失っている証拠である。自然というものは弱肉強食の世界だ。弱いものに死が訪れるのは、当然の事だ。人間でさえ自然の掟には逆らえないのだ。
人間は、自らの文明を発展させるためだけに学習をするのではない。確かにそういう人たちもいるが、それは、「人と違う生き方」というものであり、ということは、人並みの生き方は会社勤めなのである。就職には学歴がものをいう時代である。その学歴を得るために学習するというのが一般的である。
自然とかけ離れてしまった人間はその高い知能によって機械を造りだし、自然を脅かすほどに発展を遂げた。そう、人間はこれまでずっと地球の住人であった植物を殺し、地球をのっとろうとしているのである。しかし、さすがに反対する者も多く、国家間でも多くの調印がなされているが、一度起こったら、止める事はできない。「ノアの箱船」ではないが、全てを捨てる勇気がなければ問題は解決しないだろう。
もし本当に宇宙人が人間の種を地球に植え付けたのだとしたら、彼らはこうなる事を知っていたのだろうか。ノストラダムスという昔の詩人が予言書をかいて、その中の一節に「1999年に恐怖の大王が空からやってくる」とかいてあるというが、これも賛否両論ではっきりしない。実は昔やってきたという宇宙人は自分らの食事であるヒトを地球で何万年もかけて養殖していたのかもしれない。そうすれば全てのつじつまがうまくいく。が、他にもそんな例はきっとたくさんあるであろう。
前に、人間は食物連鎖に関与しないと書いたが、少し訂正したい。細菌を考えにいれると、ヒトの天敵はウィルスであり、不治の病も少なくない。人間だけではない、全ての動物に言える事である。その昔、地球上の生命体は、微生物だけであった。そしてこの先、動物達がウィルスに負けて、死に絶えたとしたら、いっきに時代をさかのぼることになろう。いや、多少は委棄残るかもしれないが、ヒトの数は確実に激減するだろう。「他人なしでは生きていけない」の言葉どうり、文明は衰え、まるで原始時代に戻ってしまうだろう。まさに「歴史は繰り返す」である。
この宇宙全体のエネルギーは変わらないのだから、失うものがあっても、何か得るものがあるはずである。輪廻天象とまではいかないが、「繰り返し」は起こる。そして進化も起こる。我々がこのまま生きていっても別な生物がその環境に対応し、立派に生き延びるだろう。もっともヒトは対応できないかもしれないが…
これまでずっとマクロな世界について話を進めてきたが。ここでもっと現実的な話にしよう。現代の世界では確かに人間が自然の存在を危うくしているが、人間の存在も危うくなりつつある。いや自ら危めていると言っても過言ではない。その顕著な例が環境問題である。酸性雨に、水質汚濁、大気汚染、地球温暖化、いずれも人間が主体となって起こる問題である。
人間は楽をするため、物を輸送するために車、汽車を開発したが、そのために地面を舗装してしまった。そのために、地面に生えるべき草が生えなくなってしまった。しかも森を壊しているので、余計に植物の量は減ってしまった。また、二酸化炭素は主に呼吸によって生じる。その動物の中に、もちろん人間も含まれる。人間もまた急増している。それは人口爆発と呼ばれ、地球上の問題の一つである。
今、世界的に老人福祉が問題となっているが、それは、医学の進歩の賜物である。しかし、老人は本当に長生きする事が良い事なのだろうか。ヒトが長生きして人口が増え、老人の介護に関する問題も出てきているのに、「長生き」が未だに人間の夢であるため、どうしても人口が増えざるを得ない。それで人口問題などと言っていれば世話はない、矛盾しているこの問題を解決しようとしても解答が出ないのは当たり前である。昔は寿命が短かったためそれほど気にならなかったが、こうも人口が増えると顕著に現れるものである。
こうして、人が増えたため消費も増え、森林伐採が進み、呼吸の数も増え、二酸化炭素が急激に増えた。そして、温室効果やその他の問題が起きている。もしこのまま老人が増え続けると、働く人は減り、福祉にあてるための税金は増え、人類は破滅への道を歩む事になる。
年寄りが社会の敵であるというと多少語弊があるかもしれない。いや、多少どころではないだろう。が、私はあえて年寄りの不必要性を述べたい。年寄りは昔の人間であるため、どうしても時代の変化を受け入れたがらない。その結果、若者を批判したりして、いわゆる「頑固物」と呼ばれてしまう。そんな批評家を若者が受け入れるとは思えない。むしろ、社会から締め出すのが普通ではないかと思う。実際、昔は「姥捨て山」なるものがあったらしいし、古代のピラミッドの中には「最近の若者は…」と書いてあったという。つまり老人の若者批判は、今の世にはじまったわけではないということだ。もし年寄りがいなくなったとしたら、どれ程の問題が解決することだろう。とはいえ、そんなことは不可能であり、理想の世界でしかありえない。かといってこのままでは終わりは見えている。本当に、どっかの宇宙人が我々を捕獲しに来てしまうのだろうか、未来のことは予測し得ないが、それゆえに何事も否定しきれないのである。タイムマシーンがあれば…と思うかもしれないが、タイムマシーンは実現しないことがわかっている。やはり人は自然の流れには逆らう事はできない。自然に生かされている動物たるもの、自然に逆らう事は許されないのである。
人間はこうなってしまった現代の世界を変えることはできない。できる限りの手を尽くしても、破滅が先に伸びるだけである。しかし、自分本意の人間にとって、100年破滅が伸びれば、自分の孫の代までは安泰である、いや、自分の人生が終わればそれでいいのかもしれない。あとは野となれ山となれである