正しい日本語?

最近、日本語が乱れているというが、それは何も若者に限った事ではない。ごく日常的に使われている言葉も、間違った使いかたをしているものも多い。
よく例えに出されるのが「的を得た発言」というやつである。本来ならば的はもらうものではなく、射るものであるということで、「的を射た発言」といわなければならない。例を挙げればきりなくでてくる。ところが最近になって、その間違いに気付く者も多く、その間違いが気になり始めたのだろう、「正しい日本語」という題のついた本がベストセラーになっている。
しかし、そんな本を買ってどうしようというのであろう、自分の欠点を正そうとでもいうのだろうか。もしくは、他人に自分の知識をひけらかそうとでも思っているのだろうか。それではただの自慢家である。いや、もっとたちが悪い、他人を馬鹿にして嘲笑っているのかもしれない。
人は、周りの多くの人の動きに左右されるという実験結果がある。それによると、二つの出口があっても、周りの人が片方に集中すると、もう片方が開いていても、そちらの出口には行かないらしい。
また、集団心理というものがあり、一人では不可能のことも、集団になると行動力が高まり可能になるというのだ。
言葉の場合でもこれは通用する。多くの人が間違った言葉を使えば、みんながそちらに引かれて、間違った言葉が流用されるのである。そして、多くの人がそれが正しい言葉だと思い込めば、いつの間にか間違った言葉が正しくなってしまうのである。
それでも、間違いは間違いだと言っている人が本を出版するのだが、周りに間違った言葉が流れて、それが正しいと思われている時代には、ただのエゴイストのようにしか思えない。もし、間違った言葉を使うことが恥ずかしい。と思われているのなら、他人の間違いを正す事は、そのひとに「恥を知れ!」と言っているも同じである。
「正しい敬語」を使うためにといっても、敬語を使われる側に正しい知識がなかったら、逆に恥じをかかせる結果に終わってしまう。かといって、相手に正しい知識があるかどうかなど、まずわからない。しかし、とりあえず世間で使われている一般的な言葉を使えば、間違った使い方をしても、相手が気付けば、訂正してくれる。上の人等が他人のことを訂正するのは簡単で気持ちの良いものなのだ。もし、そのひとが常識を知らなかったら…などと考える必要はない。常識も知らない人達が日本で偉くなれるはずがないのだ。
そうすると、ますます正しい日本語を使う場が、限定されてくる。それにもかかわらず、本は売れるのだ。きっと、上記のことに気付く人が少ないのであろう。いや、そう馬鹿にするべきではないかもしれない。次世代に正しい日本語を継承しようとしてるのかもしれない。TVでレポーターがインタビューすると、「間違えたら恥ずかしいから…」等と答えるが、周りも同じように間違っているのだからいいではないか、と思う。
昔から、言葉は変わり続けてきた。今の言葉と、古語とでは、まるで意味が違う単語もある。しかるに、今日の間違い言葉も、新言語として認識すれば、正しい言葉になってしまう。何も昔にこだわる必要はないのである。その証拠が現代語と古語の違いである。
だが、そうはいってもやはり新言語を受け入れる事に抵抗があるのだろう、「新言語」等と口にする人は少ない。そうするとどうしても話す相手によって言葉を使い分けなければならない。上司、家族、友達、書き言葉、それぞれに使う言葉が違う。正式な文書を書く時に正式な言葉を書くのなら、本などを見ながら書けばよい。しかしそれは面倒である。だから、そのために本を買うのかもしれない。それはあくまでも文章を書くためであり、それを使って会話をしようなどと考えてはいけない。会話は流れるものであり、細かい事は気にしてはいけないのである。