貨幣発行益とは何か?
「信用創造の罠からの唯一確実な脱却手段は、ヘリコプターマネーである」。
ヘリコプターマネーを実施するということは、「貨幣発行益」を使うことを意味する。
「貨幣発行益」は、政府や中央銀行などが貨幣を発行することで得られる利益である
例えば、1万円札の発行コストは一枚あたり約20円なので、残りの9980円が日銀の貨幣発行益ということになる。
中央銀行が発行する場合はもう少し複雑な議論が必要となる(日銀のホームページには、「日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益と呼ばれます」と書かれている。
これは、1万円札のうちの9980円を貨幣発行益と見なす考え方と一見異なっているが、両者の額は計算上同じになる。) のだが、政府が貨幣発行する場合は明確である。
1986年(昭和61年)に天皇在位60周年記念金貨が10万円で売り出された。
この金貨に含まれる金の価値はおよそ4万円だった。
この4万円と若干の鋳造費用を引いた残りの6万円弱が政府の貨幣発行益である。
なお、この場合の4万円を貨幣の「素材価値」、10万円を貨幣の「額面価値」という。
中世のヨーロッパや江戸時代の日本で為政者は、コインのこのような額面価値と素材価値の差から盛んに貨幣発行益を得ていた。
貨幣発行益は英語で「シニョレッジ」というが、その語源はシニョール(領主)である。
貨幣発行益を得ることは、中世ヨーロッパにおいては封建領主の特権だったのである。
江戸時代の日本では改鋳によって度々、小判(金貨)や丁銀(銀貨)の「品位」を低下させた。
「品位」というのは、コインに含まれる金や銀の含有量である。
コインの額面をそのままにして含有量を減らし素材価値を下げることで、江戸幕府は貨幣発行益を得ていたのである。
江戸時代の勘定奉行、荻原重秀は、「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、
すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり」と述べたと言われている。
超訳すると、「お金は貴金属でなくても政府の保証さえあれば瓦礫や紙でもOK」という意味である。
荻原は、貨幣の本質が情報であり約束事であるということを300年以上前に見抜いていたのである。
私が「日本のジョン・ロー」と勝手に呼んでいるその荻原は、小判の金含有量を3分の2に減らして、貨幣量を1.5倍に増やす「元禄改鋳」を行った。
額面は「1両」で変わらないわけだから、その分だけ幕府は貨幣発行益を得たことになる。
このように、徴税力に乏しい近代以前の為政者にとって貨幣発行益は大事な財源だった。
しかし現代でも政府は貨幣発行益を使うことができる。
政府の財源として「税金」「国債」以外に「貨幣発行益」が挙げられるのである。
これら3つのうち、国債はいずれ税金によって償還するか、中央銀行に買い取らせて貨幣発行益に変える必要がある。
したがって、政府の恒久帆な財源は、「税金」と「貨幣発行益」の二つだと言える。
貨幣発行益は、人類が手にできるほとんど唯一の打ち出の小槌であり、私たちはデフレ下では、この小槌を副作用なしに振ることができる。
ヘリコプターマネーを実施しない政府と中央銀行は、国民のウェルフェア(厚生、幸福)を高める責務を怠っていることになる。
もちろんそのような政策を無際限に認めれば、過度なインフレが引き起こされるが、2〜4%程度の緩やかなインフレになるまでは、むしろヘリコプターマネーを積極的に実施すべきであろう。
貨幣発行益をべーシックインカムとして国民に配当せよ
それでは、政府は貨幣発行益をどのような支出に向けるべきだろうか。
公共事業はそれが不必要なものであれば、国民のウェルフェアを高められない。
その場合、定額給付金や児童手当のような形で、国民に直接お金を給付する方が良いかもしれない。
最も公平なのは、国民一人ひとりに同額ずつマネーを給付することである。
これを私は、「貨幣発行益の国民配当」と呼んでいる。
「貨幣を発行することで得られる利益を目に見える形で国民に還元すべきだ」という意味合いが込められている。
「国民配当」は、もともとカナダの思想家であるクリフォード・ヒュー・ダグラスが示したアイディアであり、それが「べーシックインカム」の直接の起源の一つになっている。
「べーシックインカム」(以下BI)は、生活に最低限必要な所得を国民全員に保障する制度である。
例えば、毎月7万円のお金が老若男女を問わず国民全員に給付される。私は、これをよく「子ども手当+大人手当」つまり「みんな手当」と説明している。
BIは社会保障制度の一種であるが、この言葉は公的な収益の分配つまり国民配当という意味でも使われる。
例えば、イランや米国のアラスカ州などでは、政府が石油などの天然資源から得た収益を国民(州民)に分配しており、これもBI的なものとして位置づけられる。
日本のような天然資源に乏しい国でも可能な国民配当が少なくとも一つあって、それが貨幣発行益の国民配当である。
理論的にはデフレ不況の時に限らず、常にこのような配当は可能である。
単純なモデルでは、長期において貨幣成長率を技術進歩率と同程度にすれば、インフレ率はおよそゼロになる。
そして、貨幣成長率が技術進歩率を上回る場合は、その差がインフレ率となる。
つまり、技術進歩の分だけ私たちは、インフレを起こさずにお金を増やし配ることができるのである。
なお、貨幣が長期的に中立だとすると、貨幣発行は長期的にはなんらの社会的な富を生み出さない。
ところが、貨幣が長期的に非中立であるならば、貨幣発行は常に需要不足を埋め合わせる効果を持つので、その分だけ社会的な富を絶えず生み出すのである。
いずれにせよ、技術進歩の存在は貨幣の絶えざる増大を要求し、日々のその増大分が貨幣発行益を生み出す。
つまりは、貨幣発行益の持続的な源泉は、経済全体で起きている技術進歩なのである。
技術進歩が停滞さえしなければ、貨幣発行益を常に国民に配当することができる。
技術は現在を生きる個々人、研究者や技術者のたゆまぬ努力によって進歩するが、彼らの高度な研究開発は、先人たちが残した知識の集積の上でなされている。
さらには、日々生み出される技術そのものが、市場の取引なしにつまり経済の外部を通じて別のイノベーションを促しもする。
技術進歩は、「巨人の肩」に乗った個人のインスピレーション(ひらめき)とパースピレーション(汗)によって可能となるのである。
現在の研究者、技術者などの個人は、その努力分の見返りを得ているだろうか。
それは十分とは言えず、一層の見返りが必要であるとも考えられる。
だが、それを超えた分、先人たちの遺産に相当する部分や他のイノベーションによって誘発された経済外部性に相当する部分は、誰か特定の個人に帰属されるべきものではない。
そのような利益は、国民全体で先人たちに感謝しつつ分け合う他ない。
このようにして、貨幣発行益の国民配当を権利の上で正当化することができるだろう。
貨幣を主に創造しているのは、日銀のような中央銀行ではなく、駅前のそこかしこにある民間銀行である、貨幣発行益の大部分は国民に還元されていない。
民間銀行は、企業や個人への貸し出しの際に預金という貨幣を創造する。
銀行は「預金貨幣」を創造し、そこから得られる貨幣発行益を基礎にして、営業利益を獲得する。
民間銀行は、中世ヨーロッパのシニョールよろしくお金を創造する特権を与えられているために、貨幣発行益を享受することができる。
貨幣制度改革の提案者であるジョセフ.フーバーとジェイムズ・ロバートソンはこのような特権を、市中銀行に対する「隠れた補助金」と呼んでいる。
民間銀行から企業へ資金が貸し付けられ、企業が財を生産し、その売り上げの一部は賃金や株式の配当の形で家計へ渡されていく。
あるいは、預金を持つ家計は、その利息を得るだろう。
したがって、家計もまた貨幣発行益のおこぼれに預かり得る。
しかし、貨幣発行益の分配のされ方は、不透明で不確実で不当なものと言わざるを得ない。
例えば、今、日本政府には1000兆円の借金があると言われている。
そのうち60%くらいが銀行から借りたお金であり、信用創造によって作り上げられたお金である。
もし、政府が自ら紙幣を発行するなどしてまかなえば、その分の借金は生じなかったはずである。
無からお金を作り出すという意味では、政府が紙幣を発行しようが銀行が信用創造しようが同じである。
それなのに、政府が自らお金を作り出す権限を放棄しているがために、わざわざ銀行から借金をしなければならず、これまで膨大な利子を支払ってきたのである。
こんなバカバカしい話があるだろうか。
銀行への利払いは国民の増税によってまかなわれるわけだが、銀行をタダで儲けさせるために、なにゆえに国民がそんな負担を強いられなければならないのだろうか。
なお、市中銀行が保有していた国債のかなりの部分が日銀によって買い取られ保有されている。
現在(2016年6月末)、国債の保有割合は市中銀行が26%、日銀が35%である。
その分だけ市中銀行への利払いは減っていると言えるし、日銀が国債を保有する分については政府紙幣を発行したのと同じことになる。
しかし、それでもやはり不当なのは、市中銀行は公的機関である政府から国債を買い、公的機関であるはずの日銀に国債を売るだけで儲けているからである。
国債を右から左に動かすだけで儲けることができるのだが、そのような儲けを支えているのは、中央銀行が政府と分裂して存在している近代の奇妙な貨幣制度である。
あるいはまた、私たちは住宅ローンとして銀行からお金の融資を受けることがある。
しかし、それは部分的には権利上ただで受け取れたはずのお金である。
今の経済では法定準備率は低く(約1%以下)、銀行は大幅に信用創造を行うことができ、その分私たちの受け取れるはずの貨幣発行益は減らされてしまう。
逆に、銀行による信用創造が抑制されればされるほど、国民はより多くの貨幣発行益を受け取ることができる。
市中銀行による信用創造を禁止するとともに、中央銀行が発行したお金を国民に直接給付すれば、銀行が融資しているお金の相当部分を国民はただで手にすることができるようになる。
私たちは本来受け取れるはずのお金を受け取る代わりに、銀行からお金を借りてあまつさえ利子まで支払っている。
そろそろ私たちは、自分たちのあまりのお人良しぶりに自ら呆れる時を迎えているのではないだろうか。
なお、この件に関して銀行家を糾弾するべきだと私は全く思っていない。
銀行家自身がこうしたカラクリを理解しているとも限らないし、誰しも制度の許す範囲内で自分たちの利益を最大にしたいものだからである。
人を糾弾することに労力を費やすよりも、制度を変えるための努力をすべきだろう。
貨幣発行益のすべてを国民に還元するには、民間銀行による信用創造を廃止しなければならない。
ダグラスはまさに民間銀行の信用創造を廃止し、貨幣発行益のすべてを国民に配当するように提言している。
貨幣発行益を享受する権利はすべての国民が持っており、その公正な分配は国家の神聖な義務であろう。
国民のものは国民のもとへ、神のものは神のもとへ納められるべきである。
出所:ヘリコプターマネー 井上智洋 日本経済新聞出版社2016-11-24