銅山の町 足尾町の近況

 

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銅山の町 足尾町の近況

利根川 治夫

はじめに
 足尾銅山が閉山したのは1973(昭和48)年である.足尾銅山が発見されたと一般に言われる慶長15(1610)年1)から数えて363年後のことである.閉山時の人口は9,632人であったが,その後減少を続け,2001年には3,723人2)へと,対1973年比で61.3%減少している.
  この間,足尾町では過疎化に歯止めをかけるために,工場誘致,観光事業,道路整備や生活環境の改善を進めてきたが,歯止めはかからず過疎化は急速に進み,町財政も破綻状況にある.
 鉱山の公害問題,とりわけ比較的研究事例が少なかった山元における公害問題に強い関心を持っていた筆者は,閉山直後から足尾町に通い,足尾町の変貌を目にしてきた.また,その時々に町の施策等について若干の意見を述べてきた.
 本稿は,著しい過疎化が続く銅山の町・足尾町の近況について報告するものである.

古河鉱業から古河機械金属へ
 閉山直後には輸入鉱による製錬を行っていたが,1989(平成元)年,国鉄民営化移行で足尾線の貨物輸送が廃止になり,電車による鉱石の運搬ができなくなっため製錬は事実上停止された.同年,古河鉱業株式会社は,鉱山部門からほとんど撤退したために社名を古河機械金属株式会社(以下,「古河機械金属」と記す.)と変更した.
 翌1990年,古河機械金属はオーストリアに銅製錬会社「ポート・ケンブラ・カパー社」を設立し(年間銅生産能力12万t),国内においては旧足尾機械株式会社から営業譲渡を受けて,同社100%出資の足尾さく岩機株式会社を設立した.
 現在、同社足尾事業所の製錬所では,製錬に代わって溶鉱炉で廃油を焼却する廃棄物処理事業を細々と行っている3)。

足尾町における古河機械金属鰍フ位置 
 鉱山町として発展してきた足尾町では、現在もなお古河機械金属が足尾町の将来を左右するほど大きな地位を占めている。
 すなわち、第1は、足尾町の総面積18,579ha中宅地面積はわずかその0.6%にあたる104haにすぎないが,その49%(51ha)を古河機械金属が所有していることである。4)
  第2は、足尾町内の事業所の従業者のうち、3割は古河関連会社の従業者が占めていることである。特に、製造業におけるその割合は46.8%を占めている。
(表−1)

歯止めがかからない過疎化の進行
 閉山後,足尾町では,工場団地の造成と工場誘致,銅山観光などの観光事業,日足トンネル整備・生活環境の整備などを進めてきた.しかし,人口の減少は急速に進んでいる.特にこの数年,地元企業の倒産,企業の町外への移転等により,人口減少・過疎化に拍車をかけている.
 こうした人口減少,企業の倒産・撤退,さらには入込観光客数の減少(表−2)等により,税入は減少し,近年町財政は悪化の一途をたどっている.すなわち,平成9年度の一般会計当初予算額3億7.952万円が平成13年度には3億3,084万円へと12.8%減少し,地方交付税の割合が48.3%から実に59.1%へと急増している.5)

表−1 古河関連企業従業者数の割合(省略)

表−2 足尾町の入込客数の推移(省略)

足尾町における新しい動向
 足尾町は,明治以降,銅山業とともに命運を分かち合ってきた典型的な企業城下町である.閉山後の急激な過疎化はさらに進むものと予測されている(表−3),足尾町の急激な過疎化は,社会的にも経済的にも一企業に大きく依存してきた必然的結果でもある.しかも,すでに2つの指標に基づいて指摘したように,こうした一企業に大きく依存した企業城下町的性格は基本的には現在も続いている.
 しかしながら,一方では,こうした企業城下町的性格からの脱皮を可能にする新しい動きが近年生まれてきていると筆者は考える.それは,町・町民と古河機械金属との新たな関係の構築によってつくり出される地域の再生,地域の活性化への可能性の芽生えでもある.

表−3 足尾町の人口の推移と目標(省略)

 以下では,足尾町の地域の再生・活性化を可能にすると筆者が考えるいくつかの動向を概観する.
@ガイア計画の中止
 まず何よりも強調しなければならないことは,銅山があるが故にかつては渡良瀬川下流地域に対しては鉱害の「発生源」となっていた足尾町が,渡良瀬川流域15市町村と1団体が共同して,大手ゼネコンが松木渓谷に計画した巨大廃棄物処分場計画=ガイア計画を中止に追い込んだことである.
 すなわち,1991年,大手ゼネコン27社が,関東一円から産業廃棄物と一般廃棄物を集め,処分地面積500ha,総処分量4.5億t,埋立期間45年間の巨大廃棄物処分場の造成を計画したが6),足尾町が再び鉱害の「発生源」とならないために,沿線市町村と共同して反対運動を展開して,1998年には計画を事実上中止させたことである7).

A足尾に緑を育てる会
 1996年,「わたらせ川協会」「渡良瀬川研究会」「田中正造大学」「渡良瀬川にサケを放す会」「足尾ネーチャーライフ」の5団体が事務局となり「足尾に緑を育てる会」を設立し,同年より大畑沢などで植樹を行っている.この足尾の山を緑化する運動は大きな広がりをみせ,2002年4月の植樹デーには全国から650人が参加している.
 「足尾に緑を育てる会」の目的は,「煙害で荒廃した足尾の山に木を植えることをとおし,足尾が抱えるさまざまな問題を考えよう」とするものである8).また,「地球の環境問題」をも考えよとするものである9).同会の一つの特徴は,かつての鉱害の発生地と被害地のNGOや個人などが共同して足尾の緑化活動を進めていることである.会発足7年を迎えた2002年5月,同会はNPO法人を取得し,新たな活動に踏み出している.

B足尾の環境と歴史を考える会
 2001年,同年3月に足尾高校を退職された生沼勤氏と筆者らが中心になり,「足尾の環境と歴史を考える会」を発足させた.2001年は,田中正造が明治天皇に直訴してから百年目にあたる.また,松木村が製錬所の煙害によって廃村してからも100年目にあたる.一方,足尾町では前年松木谷の入口にあたる三川合流ダムにある銅(あらがね)親水公園内に「足尾環境学習センター」を整備した.同センターの整備は,足尾鉱毒事件を含め,足尾町が自ら鉱害・環境問題を正面に据えて環境学習を推進しようとする施策を打ち出した最初の事業である.
 「足尾の環境と歴史を考える会」の目的は,歴史的な視点にたって,「町内外の方々と協力して,足尾町が,全国的にひいては世界的な『環境問題の発進基地』となるためには何が必要で,何をなすべきかなどついて調査・研究を行うこと」10)である.
 発足後の第1回の研究会は,長年製錬所の正面で煙害の被害を受けつつ,町民の煙害による被害を見つめてきた龍蔵寺の住職・太田貞祐氏が記念講演を行った.第2回研究会では,足尾町長・斉藤重二氏が全町地域博物館化構想を基本とする今後の地域振興のあり方について講演を行った.第3回研究会は,日本環境学会,日本・ブラジルネットワーク,足尾の環境と歴史を考える会の3
団体の共催,足尾町後援で,「直訴百年・松木村廃村百年記念研究会」を開催した11).この研究会を契機に,足尾町では環境問題に対する調査・研究に対する気運が大きく盛り上がっている. 
C続々刊行される足尾銅山・足尾町に関する出版物
 わが国は多くの鉱山を抱えていたが,足尾銅山や足尾町ほど,足尾銅山や足尾町に関連する出版物が数多く出版されているところはないと思われる.2001年のみでも筆者の手元には次のような本がある.
 ●砂川幸雄「運鈍根の男 古河市兵衛」晶文社 2001年3月
 ●小山矩子「足尾銅山 小滝の里の物語」文芸社 2001年3月
 ●「よみがえれ足尾の緑」随想舎 2001年4月
 ●写真新井常雄・解説村上安正「足尾銅山写真帖」随想舎 2001年6月
 ●山本正夫「わが町 足尾」随想舎 2001年9月
 ●廣瀬武「鉱害の原点を公正に」随想舎 2001年12月

地域振興に向けた今後の課題
 「足尾町振興計画」は,「第7章 地域づくり・地域振興の方向」の中で,「地域振興のテーマを『銅山の歴史と豊かな自然を活かしたまちづくり』とし,次のまちづくりを積極的に推進します.」と述べている.そして,まちづくりの一番目に「全町地域博物館化構想(エコミュージアム構想)を推進する町づくり」を掲げている.12) 
 筆者は,本構想を中核に据えて足尾町の地域再生・地域振興を図っていくことが今後特に重要であると考える.なぜならば,全町地域博物館化構想(以下,「構想」と記す.)は,足尾町が有しているすべての自然的・歴史的・社会的・人的資源を活用するものであり,もし構想が具体化するならば地域の経済的発展効果をもたらす可能性を持っていると考えるからである.
 しかしながら,現状のままでは,これまで足尾町において多数策定されきたこの種の計画と同様に,構想が進展せずに死滅する運命をも内包するものである.そうした悪しき歴史をたどらないためには,次のような施策が不可欠であると考える.
 第1は,本構想を推進する母体を設置し,計画的・系統的に構想の具体化を推進することである.例えば,条例ないしは要綱に基づき「足尾町全町地域博物館化構想推進委員会」(仮称)設置し,構想の具体化を強力に推進することである.足尾町の地域振興に向けた意欲のある町内外の人材・団体等から構成される「推進委員会」は,「構想」実現のための長期・短期にわたる実施計画を策定し,実施計画の進捗状況をチェックし,チェックに基づき計画の修正や次なる施策を打ち出す機能を持たせることである.13)
 第2は,既存の施設や意欲的な町内外の人材を活用して,最小限の費用で,最大限の効果を上げるよう知恵を絞り,それを具体化することである.現存施設・遊休施設を最大限に活用し,ソフト事業・人材育成を中心にした事業を展開し,小さくとも地域経済へ波及効果を生み出す実績を着実に進めることである.筆者は,これまで鉱害博物館の整備を提言してきたが,破滅的財政状況の中では,また,まがりなりにも「足尾環境学習センター」が整備された中では,遊休施設の活用により足尾資料館の整備を図り14),総合学習等と結びつけて新しい誘客システム・案内システムの構築など,ソフト事業の展開に力を入れることがより現実的であると考える.  
 第3は,足尾町の役場職員・町民・企業・団体等の地域再生へ向けた意識変革を促すことである.町外の人間がこのようなことを提言することはおこがましいことかも知れない.しかし,足尾鉱毒事件や松木村の廃村など足尾町の負の遺産と同時に,足尾町の自然や歴史や文化や産業などの遺産は,単に日本の遺産であるばかりではなく,今日では世界的な遺産である.「光と陰」のある遺産を守り育てることは,足尾町民のみならず日本国民が果たすべき責務であると考えるためである.
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注1)足尾銅山の発見時期については諸説があり,村上安正氏は,それぞれの説を比較検討するなかで,「足尾銅山の発見について,これまでの史料を整理,検討すると,1550年代に銅山を発見し,採掘が始まったことは間違いない.」としている.(村上安正「足尾銅山史稿本(一)」2001年)
 2)住民基本台帳による.
 3)元足尾精錬所従業員からのヒアリングによる.
 4)「足尾町振興計画」2001年3月.
 5)「予算決算白書」2001年10月 足尾町役場出納室. 
 6)「ゴミの超巨大最終処分場の建設を問う」『人間と環境』第20巻第1号(1994年3月),第20巻第2号(1994年6月)参照.
 7)平田昭子「流域自治体・住民の団結でガイア足尾計画を止める」『人間と環境』第25巻第1号(1999年3月).
 8)「足尾に緑を育てる会」ホームページ(http://www.takatechnical.co.jp/ashio/syoukai.htm).
 9)神山英昭「緑の再生をめざして」『よみがえれ足尾の緑』随想舎 2001年.
 10)「『足尾の環境と歴史を考える会』の発足にあたって」2001年4月(筆者が開設しているホームページ「環境談話室」( http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5081/)参照.    
 11)当日の研究会では4人の方が発表されたが,そのレジメは上記ホームページ「環境談話室」に掲載されている.また,当日の発表者上岡健司氏は,研究会の発表を元にして新たなに執筆された「煙害で消された村が今に語ること 松木村『廃村』物語」が近く日本環境学会の機関誌『人間と環境』に掲載される予定である.
 12)エコミュージアム構想については,「『エコミュージアムあしおの創造』整備構想策定調査報告書」栃木県足尾町 平成9年3月 参照.
 13)例えば,2001年4月,古河金属機械は古河足尾工業所の貴紳客の接待と宿泊施設として建築し,現在の使用して「掛水倶楽部」の一般公開を開始した.斉藤重二町長のお話によれば,全町地域博物館化構想の一貫として公開をしてほしいという町の要請に基づいて公開したものとのことである.筆者は,本施設の一般公開は,構想を推進するうえで極めて重要な出来事であると考える.しかし,公開当初は多くの利用者を迎えたが,その後利用客が減少しているとのことである.こうした場合に,「推進委員会」は,誘客対策等の対応策を迅速に検討し,検討結果にもとづき対応策を実施することにより,構想の一層の前進を図ることが求められる.そのような町全体としての対応策の検討とその実施を通じて,構想を契機に生まれた古河金属機械との新しい関係をより発展させることが重要である.
 14)民間では,古河のお抱え写真師小野崎一徳氏の孫にあたる小野崎敏氏が,小野崎一徳記念館の開設を計画している.(「発掘! 百年ぶりに日の目を見た田中正造の『雄姿』」『サンデー毎日』2001年6月10日号.

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