窯風呂A
●窯風呂の続きです。「入浴・銭湯の歴史」は、昭和45年6月に出された「銭湯の歴史」を、書名のみ変えて再出版したものです。すでに最初の本は版元にありません。古書展などで前の本が出たら是非買いたいものです。
●私が最初に窯風呂というのを知ったのは、この本ではなかったように思います。「日本風俗史講座」の第10巻だったかも知れません(昭和4年7月雄山閣)。見たのは、中澤温泉研究所だったかも知れません。しかし、その後この本が見当たらないので気になってます。もし、上記の2冊の本、古書店などで見かけた人がおりましたら、是非教え願います。出来れば買いたいためです。
●ところで、八瀬にはかつて16軒もの窯風呂があったというのは驚きです。私が知っている限りでは、窯風呂があるのはこの京都市八瀬と富山県の山田温泉のみです(陸奥外ケ浜にも「釜風呂」があるようですが、八瀬の窯風呂とは異なるようです)。しかも、後に紹介する山田温泉のそれは八瀬の窯風呂を真似たものです。そこで、私の疑問は、何故八瀬のみに窯風呂があるのかということです。私は、残念ながら石風呂に入ったことがないので現物をみたことはないのですが、下記の文章を読見返してみると、塩俵を使ったり、塩水を撒いていたことから類推すると、四国や広島に多く分布している石風呂と関係あるような気がします。四国愛媛あたりの人たちが八瀬の方に移り住んで、窯風呂の習慣が残ったのではないかというようなことです。とは言え、そういった方面の歴史的・民俗的関係についての知識がまったくありませんので、あくまでも考えられる一つの可能性を述べたままです。
●なお、ここでは、竃、窯、釜という3つの言葉を使っています。釜は、ご飯を炊いたり、お湯を沸かしたりする用具です。それに対し、竃・窯は、高温で物を熱したり溶かすための装置と言えます。したがって、下記の引用文のように竃風呂とするか、あるいは窯風呂とするのが、語義からするとより正確だと思います。ただし、後に述べるように、私はこの窯風呂が気に入ったため自分で立てた温泉計画では釜風呂という字を使いました。音が同じで、しかも似たような物だと思ったためです(このような言い方をすると叱られそうですが、本当は、あまりよく考えなかったというのが正直なところです)。
●「入浴・銭湯の歴史」は、竃風呂と石風呂について述べたのちに、次のように述べてます。中桐氏とあるのは上述の「日本風俗史講座」の中の同氏の書かれた「風呂」という章を指しています。
「しかし、このような入浴形式がいつ頃から始まったかは詳でないし、古い文書の記載には名称はあっても内容がはっきりせず、いずれも同様なものだったかどうかが確認できない。また誰が考えだしたものかも明らかでなく、この種の風呂が行われた地方的分布などから、あるいはそれが中国とか朝鮮の『汗蒸』(ハンジン)から伝えられたものではあるまいかとて、中桐氏はさらに朝鮮の汗蒸、米印人の汗浴、露西亜式蒸風呂などに言及されている。」(p.34)
(20010616記)
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八瀬の竈風呂
八瀬は比叡山の西麓、京都を去る三里あまり、高野川に沿った渓谷の小村落だが、寂光院、三千院、大原女などで名高い大原に隣りし、また禁裏駕輿与丁などで知られている。この里の竈風呂はいつ頃からあったものか、天武天皇近江勢とに戦に背に矢創を負いたまいし折、ここに来て治療されたといい伝えがある。『人見雑記』に、八瀬の竈湯、病める人この湯に入ること藤原為景(冷泉)の八瀬の辞という文に見ゆ、明暦承応の頃にやと思わる。百年ばかりの昔なれども今は知る人もなし。云々。
正徳五年(一七一五)の京都お役所向大概覚書所収には、八瀬村竈風呂数、一六軒とある。八瀬村某氏の語ったところでは、明治四,五年以後ほとんど中絶の姿となり、明治二八年頃再興して明治四十二,三年頃まで続いたが、今日では全く廃止されたとのことである。
この風呂については医学博士藤浪剛一氏が『日本医事週報』(第一五〇二号)に報告された記事を引用し、大略次のように述べているのである。
今残れる竈風呂を見るに、南向の母屋の東南隅に連なれる小屋なり。間口四間、奥行一間半の陋き瓦葺小屋に過ぎず。小屋の東西に入口あり、その広さ二尺五寸、板戸を開きて内に入れば土間あり、割石を敷きたるタタキなり。土間の左側に便所と五衛門風呂を並べしところ田舎の一般と変わらず。この風呂に隣りて狭き板間あり、母屋への廊下に通ず、五衛門風呂の燃口は土間にあるも、風呂には母屋より廊下伝いにて沐す。
土間の右側に蒸風呂あり、土間より天井まで高く塗りたる荒壁の下方にあな口ありて燃口と出入口とを兼ぬ。口の外側に閾ありて杉戸を引く、窖口は二尺平方なり。上側は入山形となる。匍匐して出入りす。この穴口は壁龕の如く前方に一尺程出づ。穴内を窺うに真の闇なり、燭を点じて裡に入れば饅頭形の窖にして、すす付きて黒し。壁の下方は二三段(二尺程)に手頃の石をたたみ、その他は全く赤土を塗り、高さ六尺五寸、広さ畳三帖を敷き得る程にして、土牀には石を平くならべて土間と水平になす。窖内には一つの気孔なし、丸味を帯ぶ窖の厚さ二尺程と聞く。
窖の外形は蒙古地方に見る土庫の如し、(中略) この竈を燃かんと浴せば、青松葉青木の如き常磐木の葉にて、決して枯葉を燃かず、その他黄楊、菜叟、柊等を用ゆ、燃え尽さる後、長柄の灰掻きにてその灰を燃口よりとり除き、塩俵(三枚位)を敷きて牀とす。塩俵なき折は荒莚を用い、塩水を打つ、(一手桶に塩五合を和し、二桶ばかり)湿りたる俵より蒸気立ち上がり窖内に残れる煙を燃口より駆除す。而して後竈内に入る。
竈内焼塩の香ありてむせばず、浴者は裸体となり木枕に横たわりて伏臥す。燃え了りし頃は、五分間程裡にあるも発汗し、胸苦しき頃になるに、一二時間を経たる後なれば温熱の加減最もよく、二、三十分間も横れば自ら一睡す。竈内には二、三人を容るるも、暗きため互の顔を見ず、言を交はして知己を結ぶという。竈に入る際青木の枝を携え、もし竈内の温熱下りしと覚れば、窖の天井を枝葉にて払う程に再び温熱が出て程よき快感を覚ゆという。(中略)竈より出れば五右衛門風呂に浴して家に帰る。云々。
この八瀬の竈風呂と同じ系統に属すと見るべきものに石風呂というものがある。石で造った浴槽、すなわち石船を時として石風呂と呼ぶこともあるが、これとはまったく異なるもの、ところによっては穴風呂とも空風呂(からぶろ)とも唱えられ、主として瀬戸内海沿岸の各地に分布しているものである。−−と述べられている。
(中野栄三「入浴・銭湯の歴史」雄山閣 平成6年 p.30〜33)
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