愛する和尚、この国では瞑想はエヴェレストの高みを極めました
シヴァ、パタンジャリ、マハヴィーラ、仏陀、そしてゴラクといった、
比肩するものもない天才達がここで生れました、それでもなお、私達を瞑想へ
引き付ける力が衰退し続けてきたのは、何が理由なのでしょうか?



この国では1度も瞑想が死んだことはない
ときには地上に現われ、ときには地下に潜ったが、
その河は絶えず永遠に流れ続けてきた

それは今日も流れており、明日も流れるだろう
--そしてそれこそが人類の唯一の希望だ

なぜなら瞑想が死ぬ日、人間も死ぬことになるからだ
人間の生の源泉は瞑想の中にある

貴方達がそれに気付いていようといまいと、
あなた達がそのことを知っていようといまいと、
瞑想はあなた達の最奥の核だ

あなたの呼吸の中に隠れているもの、
あなたの鼓動の中に隠れているもの、あなたがそれで在るもの、
それは瞑想以外のなにものでもない

だがこの質問は重要だ
もしこの国が世界に何かを与えたとしたら、
何らかの貢献があったとしたら、それは瞑想だ

だとしたら、それがパタンジャリの姿であれ、
マハヴィーラの姿であれ、仏陀の姿であれ、カヴィールの姿であれ、
あるいはナーナクの姿であろうとゥOは変化してきたかも知れないが、
貢献そのものは同じだった

異なる人々を通じて、異なる声で、
私達が世界に与えてきたのはたったひとつのメッセージ、
すなわち瞑想のメッセージしかない

エヴェレストの高みに触れた後で、ゴータマ・ブッだの高みを知った後で、
なぜ瞑想に対するこのような嫌悪感がインド人の心に成長したのか、
という疑問が浮かぶのももっともなことだ

それは一見逆説的だが、人間の心理とはその様なものだ
何であれ既に達成されたものは、人間のマインドには最も魅力のない挑戦課題となる
エゴは未達成のものに、非常に達成し難いものに挑戦を見出す
理解しようとしてごらん--それは微妙なものだ

私達はマハヴィーラを知った、仏陀を知った、
パルシャバナータを知った、カビールとナーナクとファリードを知った
その他何千人という神秘家達を知って、ひとつのことが集団無意識の中に深く入り込んだ

それは瞑想とは誰もが達成できるものだということ、
それを達成するのは、大層なことではないということだ

ファリードがそれを達成した、機織りのカビールがそれを達成した、
靴屋のライダスがそれを達成した--エゴに対する挑戦は沈静した
富は達成困難に見えても、瞑想は容易なものに見え始めた

人々は富を追い求め始め、名声を追い求め始めた
難しいことにはそれなりの挑戦があり、貴方達のエゴを満たす能力がある
当り前で簡単なことには、エゴに対する何の魅力もない

だから沢山の輝かしい瞑想者達が、大衆の心から瞑想への魅力を取り去ったのだ
そして今日でなければ明日達成するだろう、明日でなければ来生で
達成するだろうと人が感じたら、もう急ぐ必要はなくなる

誰に分かる、この人生の束の間の快楽は明日にはもう手に入らないかも知れないのだ
今日は自分に若さがあるが、それが明日も自分にあるとは限らない
そうでなくなる可能性の方が大きい

瞑想なら明日でもまだ大丈夫だろうが青春はゥbr> この高まりくる青春のうしおは今日満足させるべきだ
それに、瞑想は何一つ持っていない者にも達成可能なのだから

貴方達はマハヴィーラの中に瞑想の燃える炎を観た
靴屋のライダスの中に瞑想の輝きを観た
だから瞑想への魅力は枯渇したのだ

人はそれが、いつでも自分が望む時に何とでもできるものだと感じている
だが富、地位、名声、この世の野心の数限りない源泉はそれ程容易ではない
--そこにはそれを求めて、生き馬の目を抜くような競争がある
あらゆる点で闘わなければならない

それでも何百万もの人間の中からどこかの誰かが1人、その国の大統領になるだけだ
エゴの喜びの全ては「私がトップになる」という事だ

ところが瞑想というものの困難は、他人より高く登る歓びがないことだ
瞑想の中には競争はない、誰もあなたを脇に退けたり、
前に押しやったりすることはできない

なぜなら瞑想とは外界のものではなく内面のものだからだ
そこには競争も無ければ闘いもなく、押したり引いたりもない

そこにはエゴの楽しみはない、
エゴはそこでは死の恐怖を味わう
瞑想が花開いたら、エゴは死ぬ

瞑想の炎が灯ったら、エゴのランプはかき消される
この二つのものは同時には存在できない、それらは共存できない
エゴか瞑想かのどちらかだ

しかもエゴが自分の内なるものであるのに対して、
エゴの拡大は全世界を覆っているのだ、エゴの魅力は有り余っている--
瞑想にどんな魅力があり得るというのかね?

貴方は訊ねている
インドは瞑想の高みに触れたのに、
いったいその後で何が起こったのか、何がいけなかったのか、と
なぜ瞑想に対する反感がインド人の心の中に発達したのか?

正確に言えば、まさにその頂上に触れたためだ
これ程沢山の人が頂上に触れたとなると、インドの集団エゴは
もはやその方向に行く事を望まない

だからこそ、地上の他のどの国も、今日のインドほど物質主義的ではないのだ

私達は果てもなく精神性について語るかもしれないが、私達の精神性は全てたわ言だ
現実には、私達は完全に物質主義的だ、5年間西洋の国々を旅してきた後、
私は今この事を自分自身の経験に基付いて言う事ができる--
他のどの社会も私達の社会ほど物質的ではない

他の国の誰も、貴方達が金に執着するほど強烈に金に執着してはいない
人々は金を使う、その上に座りはしない、人々は金を使う

貴方達はそれを自分の金庫に入れて錠をかける
その金庫が金で一杯であろうと空っぽであろうと、何も違わない
何しろ絶対それを使わないのだから

インドは瞑想の絶頂に触れた--そしてこのこと自身が呪いとなった
ときには祝福が呪いに転ずることがあるゥbr>
インドの心の中で--即ち、インド人の膨大な数の人々のマインドの中で
--何か違う物が瞑想の場を乗っ取った、それは金に関心があり、
地位に関心があり、名声に関心がある

一方、今日の西洋には、瞑想に対するこの上もない関心が湧き起こってきているゥbr>
西洋にはかつてない瞑想への関心がある
それは西洋がかつて、瞑想の絶頂に触れたことがなかったからだ
ゴータマ・ブッダもいなければカビールもライダスもいなかった
西洋の魂は空っぽだ、その両手は一杯だが、魂は空っぽだ

この状況が西洋では富に対する嫌悪感を、
そして東洋では瞑想に対する嫌悪感を生み出した

生のサイクルとは驚くべきものだ
東洋が西洋になり、西洋が東洋になる可能性は大いにある
人は両方の旅を同時にすることができる

なぜなら、このふたつの旅は互いに敵対するものではないからだ
瞑想は貴方を内側に連れて行き、より深く進めば進むほどあなたの天賦の才は光り輝く

そしてあなたの天賦の才が輝けば輝くほど、
あなたは外側の世界でも成功に向って旅することができる
私は外界と内面が違いに敵対するものだとは思わない
それは同じコインのふたつの面だゥbr>
рフ叱海録靴靴い發里br> それを古い実験と結び付ける必要はない

私はあらゆる人が全面的に満たされ、
内面と外界の両方を天国が統治することを望む


和尚

Konpalen fir fuut ayin #12より抜粋( は聴く)