ある人がマハヴィーラに、「神はいますか?」とたずねた
すると、マハヴィーラは言った、「イエス・ノー、イエスとノーの両方だ」
その人は訳が分らなくなってこう言った
「ついていけません、イエスなのかノーなのか、どちらかにしてください、
とにかく、全てをひっくるめて言わないでください」
マハヴィーラは言った、「これは3つの見地にすぎない、
貴方が全てを聴きたければ、私にはあらゆる事に7つの見地がある」
事実、彼にはあった、まず彼は「イエス」と言う
1つの見地であって、真実ではない、1つの側面にすぎない
次に彼は「ノー」と言う
これも真実ではなくもう1つの側面だ
更に彼は「イエスとノーの両方だ」と言う、3番目の側面
それから彼は「イエスとノーの両方ではない」と言う、4番目の側面
更に彼は「イエス、プラス、イエスとノーの両方だ」と言う、5番目の側面
「ノー、プラス、イエスとノーの両方」--6番目の側面
「ノーとイエス、プラス、両方ではない」--7番目の側面だ
彼は、側面は7つあり、そうあって初めて物事は全体になると言っている
そして、彼はただしい、が、マインドはめまいがしてくる
だがそれは貴方の問題であって彼の問題ではない
彼は正しい
貴方が「イエス」と言う時、それはいつも半分だ--彼はそう言っているからだ
ある意味では、1つの物があるにはあるが、
ある意味では、それは既に非存在になる途上にある
貴方がたは「この子供は生きているのか、それとも死んでいるのか?」と言う
その子は生きている、その通りだ
だがマハヴィーラは、その子は既に死に至る途上にあると言う
彼は死ぬだろうし、死は確実なのだから、
そのことを声明に含めなければ、その声明は半分だけで、真実ではないことになる
だからマハヴィーラは子供は生きているという意味で「イエス」と言い、
子供はいずれは死ぬ事になる----いずれは死ぬ事になるだけでなく実際には、
その子は生きているのだから、すでに死んでいるという意味で、「ノー」と言う
死がそこに隠されているのだ、それはその子の一部だ
マハヴィーラが3番目の、「その子は両方だ」と言った方がいいと言うのは、その為だ
だが、どうして子供が、死んでいてなおかつ生きているという、その両方であり得るかね?
と言うのも、死は生を否定し、生は死を否定するからだ
その為に、4番目の見地もあるのだとマハヴィーラは言う--その子は両方ではないと
それが彼の進み方だ、そして彼が最後まで行く頃には、7つからなる声明となり、
貴方は彼に訊ねる前より、もっと訳が分からなくなっている
だが、それは貴方の問題だ
彼が言っているのは、マインドを落としなさいということだ
マインドには全体を観ることができないからだ
側面しか見ることができないからだ
和尚
Neither this nor that
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