宗教には2種類の宗教がある
3つの宗教がインドで生れ、3つの宗教がインドの外で生れた
インドの外で生れた宗教--ユダヤ教、イスラム教、キリスト教--は、少し粗い

これらは余り高い所に到達できなかった、これには幾つかの理由がある
一つは、それらの宗教には非常な高みに到達するだけの時間がなかったことだ
一定の高みに到達するには、一定のタイムスパンが必要だ

インドの宗教は少なくとも1万年を経過している
キリスト教はわずか2千年、ユダヤ教はわずか3千年、
イスラム教はたったの4百年しか経っていない

これらの宗教は、非常な高みに到達するための時間をもらえなかった
これらが到達した最高の地点が、天国と地獄の考えだ

西洋の3つの宗教には、天国と地獄を超えたものはなにもない
善行をなしたものは天国にいたり、罪を犯したものは地獄に行く
こういう解釈がこの3つの宗教を、道徳的で、疑う事のないものにしたが、
それらを宗教的にすることには失敗した

だからこそ貴方達は珍しいものを観られるのだ
つまり西洋人はより道徳的--貴方達より道徳的だという事だ
いったん約束したら西洋人はその約束を守る

彼は自分がした約束には忠実だ--たとえ自分の命が危うくなっても
自分の言葉を守る事以上に大切な事はない

5時に来ると約束したら、貴方がたなら4時に来るかもしれないし、
6時に来るかもしれないし、あるいは8時になるかもしれない
翌日来る事さえあるだろう

貴方がたの5時は、全く5時を意味していない
あたかも、約束を破るのは真っ当な事ではないという感覚をまるで持っていないかの様だ
貴方達は何もかもごまかし続けている

西洋では、そういう問題は全く起こらない
西洋はより道徳的だが、その理由は、西洋の宗教が道徳と同義語だという事にある

インドは、そこで生れた3つの宗教--ヒンドゥ教、ジャイナ教、仏教
--が全てモクシャを、究極の開放を語るただひとつの国だ
それは天国と地獄のはるか彼方に在るものだ

天国と地獄の中には、まだ二元性が残っている、超越してはいない
美徳と罪の世界、行為の世界がまだ継続している
そこにはまだ観照者という考えが起っていない

「私は行為者である」--この幻想がまだ存在しており、それが超えられていない

美徳と偽りの世界がまだそこにある
罪人は自分が罪を犯したという幻想を持っている
悪人は自分が悪人だと思っており、善人は自分が善人だと思っている
--両者共に、自分が何者かであるという考えを持っている

ネティネティ--これでもなくあれでもない--がまだ生れていない
私は善でもなければ悪でもない、肉体でもなければマインドでもない
道徳でもなければ不道徳でもない、罪でもなければ、美徳でもない
天国でもなければ地獄でもない

わたしは単なる立会人、この全ての二元性を観ている見張りに過ぎない
鏡に鏡像が映るのと同じ様に--わたしは空っぽの鏡だ

西洋の宗教は、まだこの空っぽの鏡という状態まで昇らなければならない
東洋の宗教は、既にこの空っぽの鏡まで昇りつめた
東洋はその祝福を手にし、その呪いを手にした

ひとつの事を覚えておく必要がある
それは、この世では恩恵をもたらすものは全て、害ももたらすということだ
恩恵だけを選んで害の方を選ばないことは、私達に任されている

こちらでは、知性のある人々が毒さえも薬に変えているかと思えば、
こちらでは馬鹿者が薬まで毒にしてしまっている

西洋では、宗教が道徳性を超えて飛翔することはなかった
だが西洋の人々は物事の長所を学ぶ方法は心得ており、彼らは
宗教の道徳性からあたう限り最大の利益を引き出した

東洋は大いなる飛翔を成し遂げた--
私達は道徳性の宗教より遥かな高みまで昇った
月並みないわゆる天国と地獄の宗教を、私達は遥か後方に置き去りにしてきた
私達はモクシャの高みまで飛翔した、私達は目撃者を体験した

だがそれから恩恵を受ける変わりに、私達はそれを誤用した
それは何故か?--そうすることで、自分の基本的な不正直が弁解できたからだ

モクシャとは、罪も実在しなければ、
美徳も実在しないということだ、両方が幻だ

両方が幻だというなら、と私達は考えた、
では好きなだけ罪を犯して何がいけないのか、と
結局のところ罪は存在しない、それは幻にすぎないというなら、
何を怖がる事がある?

私達は天国と地獄が両方ともマインドの状態である事、
自分達がその両方を超えた存在であることを知っている
私達がその両方を超えているのなら、何を恐れる事がある?
それなら自分が望む事を、自分のハートが満たされる事をしたらいい

それは全て夢のようなものだ
盗んだとしてもそれは夢だし、喜捨をしたとしてもそれは夢だ

そして両方が夢だというのなら、それなら
「ただ盗むだけで何がいけないのか」と私達は考えた
「どうして喜捨などという面倒な事をするのか?」と、そしてこれが間違っていた

私達は高く飛翔した、私達のマハヴィーラ達、私達の仏陀達、
私達のクリシュナ達はその翼を広げ、内なる空の絶頂に向って飛翔したが
私達自身は非常に低くしか飛ばなかった

このふたつが同時に起ったのだ
私達は最高の個人を生み出し、また最低の社会を生み出した
そしてその理由は、私達のずる賢さだった・・・

モクシャとはあらゆる行為と活動の彼方、
意識そのものが、体験される状態を意味する

活動が存在する限りその隷属はある
罪を犯せば苦しむ事になり、善行を行えば幸せになる
それはあたかもニームの様な苦い樹の種を播けば苦いニームの実が実り、
マンゴーの様な甘い樹の種を播けば甘いマンゴーの果樹が実るようなものだ

これとまさに同じで、その算術は明確かつ直接的だ

だが私達の中には、在る者が居る
その者は苦さや甘さを体験していない
彼はその両方を超えている、彼はその両方を目撃している

舌の上に苦さや甘さという体験は存在するが、
「 わたし 」は、それとは別なものだということを
観ている者が居る、「 わたし 」は目撃者にすぎない

この目撃の中に落ち着くことがサマーディ、光明を得ることだ

そしてこの目撃するという完全な体験を達成することがモクシャ、解放だ

和尚

Kahe hoat adheer #3より抜粋

(わたしは聴く)