岩手県の砕石業への道
砂利から山砕へ(プロローグ)
古来より歴史に石はつきものである。人類の最初の道具は石であった。世界でも建造物はじめ遺跡でも文明発するところみな石だらけ、時の経過をこれにより知らされている。現代におけるニューヨーク、パリ、ロンドンの各地の都市美も石におうところが多いと思う。
その昔、都人によって道の奥と呼ばれた東北も実はしっかりとした自前の文化を持っていた。物理的距離として中央より離れそのことのみで我が身を託つことはない。単なる技術の伝播が送れたことを直に後進とは言えないのである。必要が実需となり生産手段として技術が出てくるのである。
わが岩手県の地形及び地質は誠に複雑であり、こうした急峻な地形も原因であるが、雨が降れば河川は暴れ多くの土砂を運び各地に扇状地、平野部を形成していった。従って骨材といえば河川内の砂利を採取し需要を賄っていたのである。
藩政期の骨材を見れば、多くは道普請と河岸護岸工事である。優雅な線形で知られる不来方城の石垣も裏込材としての雫石川の玉石が厚さ1mくらいで基礎部から上までびっしりと詰まっている。
明治、大正頃の工事は請負人(建設工事業者をこう言った)は、大抵は必要な骨材は自分で用意していた。それだけ当時の工事は小規模だったと言える。
大正、昭和の初め頃の生まれの人は砂利のことをよくバラスと言っていたが、これは空船を安定させるためそこに小石を積んだことに語源し、いわゆるバラスト材であったものが、広く言われたものである。鉄道バラストなどの例である。
いずれたまに大型工事で需要があっても県などは直営で手当てをしているが、現在の大型ダム工事など見れば、まだこの類である。明治23年盛岡停車場建設に大量の注文があり、駅周辺の建設、道床砂利で当時の砂利屋は大いに忙しかったと古老は伝えている。
大正12年からの山田線着工や県公会堂など次々と大工事もあり、戦前戦中を通して骨材業界としての体裁を少しずつ整えはじめたのが見える。生産販売を主とするようになったのは終戦後であり、日本の国土復興という熱く巨きな流れに当然骨材業界も深く関わることになる。
この、戦後の日本の復興は世界史的にも稀な例として知られることだが、その後も着実な伸びを見せる。昭和36年池田勇人内閣が成立し『もはや戦後ではない』を合言葉にし国民所得倍増計画を策定。その後東京オリンピック開催により世界先進国の仲間入りを目指す。いわゆる高度成長時代を迎えるのである。
国家的規模でのインフラ整備が行われる。急激な膨張は遅ればせながら東北にも少しずつ経済効果をもたらした。昭和30年代半ばから河川砂利は近代化の波にのり、可搬式砂利採取機が姿を現す。河川内を移動しながら砂利を採取、選別するのである。
これにより生産量は一ケタ飛躍するのである。ショベルドーザー、ダンプカーなど近代化が一挙に始まるのである。これはもちろん、国道4号線の改良、県内の公共建設工事が盛んになり道路整備、学校、病院等次々と建設されることによる。
昭和40年代は、列島改造論華やかで、建設業が一際スポットライトを受けた時代であるが、経験のない様な大型工事−高速道路、新幹線工事、北上川五大ダム、大型空港等々規模においても、そのレベルにしても、官民共に新技術習得と同時に施工という状況だった。この時期岩手国体を目指して通称、道路国体と名づけ、あまりにも未整備な県内の道路をこの際一新しようとしたわけである。未曾有の実需供給不足気味の砂利に代わり大量時代の幕をきったのが砕石業であった。
開催までに間に合わせたいと昼夜兼行で納入したアスコンは既に砕石になっていたが、盛岡近辺では路盤材として砂利を使用したこれが最後であり、これ以後は道路用材は全て砕石仕様となっている。関東、関西の大消費地ではコンクリート材も砕石仕様となっており、東北新幹線、東北縦断道等大型工事は全て砕石を使うことになった。
エピローグ
ここに、岩手においては名実共に砕石時代に入ったわけである。30年代後半、県内においても骨材を山砕に求めるものがボツボツ出始めたが、河川砂利の資源枯渇を景気に安定賦存量の山砕へと移行する者が増えたのは時代の流れといえよう。
しかし、河から山に登った者は勿論、最初から山砕を始めた者までが、この山砕の業というものの奥の深さを知らされることになるのには、もう少し時間が必要だったのである。
砕石業の今後
(環境問題)
採石業は、その事業の実態からして、どうしても採石山の緑を残地森林以外は一時的にせよ取り去らねばならない。しかし国民的にも環境保護の意識が高まっている現在、緑の保護確保は地球的な規模で重要課題であり、緑地復元は採石業に課せられた最重要事項である。即ち、何年か後確実に費用負担が義務づけられている。
更に、住環境への意識の高まりから視覚に訴える景観条例など、従来の環境保全即ち緑化、粉塵、汚濁水、騒音、振動等々だけでは考えられない範囲まで及び、また、リゾート法誘導の大規模開発の反動から森林法の強化へと思いもよらない変化を見せている。
これらのことが、私たちにとって重要な意味を持つことを自覚し、組合が中心となり組合員と一体となって対応することである。安易な妥協は業界の存続を危うくすることであり、衆智を集めて取り組み、解決にあたらねばならない。
業界としてのエネルギーを生み出す組合員と、産業としての砕石業の方向性、時代性に適正指導力を発揮する組合は、車の両輪ともいえる。これが機能して今日の工業組合を形づくっている。とまれ、過剰は人に怠惰とおごりを生む。私たちは使命に向かって常に弛まざる努力を続けたいものである。