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物心ついてから中学校を卒業するまでの十余年間、冬を除けば、私の毎日は魚釣りと魚獲りで明け暮れた。 木曽、長良、揖斐の三大河川を擁する濃尾平野にはその他、大小さまざまな川や池があり、私が住んでいた西濃地方も例外ではなかった。 幼年時代を過ごした実家と、少年時代の大半を過ごした四キロ先の叔父の家を中心とした十キロ平方の川や農業用水路の魚については誰よりも良く知っているという自信を持っていた。 叔父は浄土真宗大谷派(東本願寺)の末寺の住職であった。叔父夫婦には子供がなく、私たち兄弟の中から誰かを選んで養子縁組みをした上、寺を継がせようということになっていたらしい。 兄弟の内でも特に次男の私が叔母によくなついていたので、これはあっさり私に決まってしまったようであった。 サラリーマン家庭の気ままな生活から封建的で格式を重んじる寺院での堅苦しい生活への切り替えは、小学生の私にとってかなりの精神的負担になった。 戦後の一時期には兄と私は叔父のところに疎開をしていたこともあるし、その後も冠婚葬祭などで祖父母と共によく寺院に出入りしていた。しかし、客として滞在するのと、家族の一員として暮らすのでは根本的に違いがある。最初の半年ほどは毎日が驚きの連続であった。 叔父は昼間は村役場に勤めていて、夕方もしくは夕食後に壇家回りをした。夕食前に叔父が出かけるときは、育ち盛りの私にとって遅くまで夕食を待つのは実につらいことであった。 食事は叔父と私が上座に座り、叔母が向き合って下座に座った。叔父は高足膳で、叔母と私は箱膳であった。 高足膳を使えるのは住職である叔父と特別な客だけであった。 法恩講などの催しごとがある際には説教者と呼ばれる他寺の僧がやってきた。 離れの座敷に泊り込み、叔父と叔母が庫裏から入れ替わり立ち代わり酒肴を運んだ。叔父が客のためお茶を点てるときには私も同席させられるのが常であった。 客は床の間を背にして、厚い座蒲団に座り、脇息に肘をかけていた。時代劇の映画などで殿様が脇息にもたれてふんぞり返っているのは知っていたが、まさか昭和の御世にもそんなものが使われているとは思いもしなかった。 私の日課は夕方に集中していた。裏庭で飼っていた鶏に餌をやり、日没時に梵鐘を突き、大門を閉じてかんぬきを掛け、本堂の観音開きの木戸を閉めてまわることであった。二、三日に一度の割りで境内の周りの村道を掃き清めるのも私の仕事であった。手押しの重い圧縮ポンプで風呂水を屋根の上のタンクにくみ上げるのも私の仕事で、これは大人でも結構骨の折れる仕事であった。 私が境内のまわりの道を掃除しているような時は野良帰りの村人はかならず立ち止まって丁寧に挨拶していった。 私が何より閉口したのは、彼らが私のことを「若」とか「お新発意(おしんぼち)」と呼ぶことであった。老女たちからは「若様」とか「若さん」と呼ばれた! 農繁期になると小学3、4年以上の子供は放課後はすべて田畑に出て仕事を手伝った。私は遊び友達がなく、一人で釣竿を担いで近くの川へ釣りに出かけた。 子供心にも村人たちや、その子供が汗を流して働いているのを横目で見ながら遊んでいるのは気がひけて、できるだけひと気のすくない場所を選んで釣り歩いていた。それに、寺の子供が来る日も来る日も魚を追っかけているというのはやはり格好悪い。 しかし、いくら人目を避けてこそこそやっていてもかならず誰かと出会う。バケツを覗き込んだ村人はたいてい「ほおっ!」と驚きの声を揚げる。 大型のハエやオイカワが釣れているからである。 釣りの世界では釣果がまったくないとき、「ボウズ」と言う。 坊主の周りには魚っけが全くない、ということからきているらしい。 私は将来、僧侶になるよう期待されていて、結局その期待を裏切ったわけだが、私のまわりにはいつも生臭さがつきまとっていた。 2002年03月21日 18時33分44秒 |