落ち鮎

寺院の裏には小川が流れていて、屋敷のかどでL字型に折れ曲がり、村落の真ん中を横切り、田園地帯へ続いていた。この川は、揖斐川の支流のそのまた支流から引かれていて、引き込み口の下手にある水門を調節することにより、水量を増減できる仕掛けになっていた。近在の水田はほとんどこの形式の小川を用水路として水を引いていた。
2メール幅のこんな小川にもおどろくほど多種の魚がいた。ハエ、オイカワ、モロコ、センパラ(タナゴ)、ドンコ、マブナ、ゲンゴロウブナ(ヘラブナ)、アブラハヤ、ヒガイ、ウナギ、ヤツメウナギ、ドジョウ、ムギワラドジョウ(シマドジョウ)などであり、雨が降って増水すると、コイやナマズが下ってきた。
学校から帰ると、ランドセルを放り投げ、裏庭から魚掬いの道具を持ち出した。タモと追い棒とバケツである。
タモは直径20センチほどで、絹糸でできていた。枠は細い銅線で、根元でひねってある。これを2メートルほどの細い竹に差し込んである。動きが敏捷なハエやオイカワを取るにはこの小さくて華奢なタモがかえって最適であった。
小川に沿って忍び足で歩いていくと、2、3匹のハエが泳いでいる。人気を察して魚はさっと対岸の乱杭や藻の蔭に身を潜める。
それからが勝負である。魚の潜んでいる場所の下流3、40センチにタモをそっと入れる。その時、魚はすでに危険を感じて警戒しているはずである。そこで、もう一方の手にした追い棒をこんどは魚の上流に入れる。この時、あわてて近くに入れると、魚は驚いて棒のわきをさっとすり抜けて上流に消え失せる。
だから追い棒は魚よりかなり上流、これも4、50センチの所にそっと入れるのである。それから、川底をトントンこずきながら魚に向かっていくのだ。この時魚は上流に向かって物蔭で息をひそめ、近づいてくる竹の追い棒に全神経をを集中しているはずである。
このころになると、自分の後方にあるタモのことはすっかり忘れている。棒が目前に迫ると、たまらなくなりさっと反転して一直線に下流に向かって、すなわち、タモの中心に向かって突っ込んでくるのである。
秋になると、どこでどうまちがえるのか、こんな小さな川にまでアユが下ってきた。いわゆる「落ち鮎」であり、揖斐川のアユが産卵のために伊勢湾に下って行く途中、紛れ込んでくるのであった。
アユが下ってきたというニュースが広がると、村人のなかで投網(とあみ)を持っている、何人かが、畑仕事を放り出し、アユを追っかけ回した。が、ほとんど徒労に終った。敏捷なアユは投網の鉛がザッと水面を打った時にはとっくに網の外に逃れているのである。
落ち鮎がうろうろしているのはせいぜい三日ほどで、いつの間にか下流に消えてしまう。
この落ち鮎を取ることができたのはたぶん村中で私だけだったと思う。ただし、1、2匹である。方法はしごく単純で、いつも他の淡水魚を取る小さな絹タモと追い棒だけである。
アユは他の淡水魚と全く違った泳ぎかたをする。常にからだをくねくねとくねらせ泳ぎ回る。危険を察しても物蔭に身を潜めたり、一直線に下流に突進したりしない。
アユは、大川では数十匹が群れて泳いでいた。寺院の前の小川ではこれが数匹の単位になる。私はそのうちの一匹だけに狙いをさだめて追いかけまわす方法を取った。たえず動きまわる目当てのアユの後方に、うまく網を入れることができても、網の近くでさっと身をくねらせて、下流に逃げる。私は大急ぎで走り、下手をふさいで上流に追い上げ、また網を入れる。こんなことを半時間も繰り返しているうちにやがてチャンスが訪れる。徹底的に追いまわされたアユが目算を誤って、ついには下手に入れた小さなタモに突進してくるのである。その時の喜びは、大型のオイカワを何十匹掬ったときより優る。興奮で脚がガクガク震えて、しばらくは震えが止まらない。
初めて女性と唇を合せたときの甘い期待に満ちた喜びの興奮、あるいは、就職の面接官と向き合った時の不安の入り交じった興奮。そうしたものとは全く違う感情である。
男が太古の時代から狩猟、漁労の経験を積み重ね、その経験が頭脳にインプットされていて、思いがけない獲物を手にした時、その感情が一挙に噴出すのにちがいない。

2002年03月22日 19時18分43秒

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